2005年9月29日<review>
最後の総長による総括:その摩訶不思議な結論を解く[2005/09/29]
1. イントロダクション
東京都立大学の最後の総長(以下、単に「総長」と呼ぶ),茂木 俊彦氏の
都立大学に何が起きたのか--総長の2年間---
が9月6日に岩波ブックレットNo.660 として発売された。
このブックレットには、確かに総長として、
激動の2年間を過ごした茂木氏の苦渋の経験が語られているが、
あまりにも多くのことが起こりすぎた2年間であり、
ブックレットには収まりきれていない。読者の一人、そして、
元都立大教員の一人として、このタイトルを見て期待したのは、
これまでに公になってこなかった種々の決断の真相と、
総長の本音がどこまで語られているのか、という一点だった。
残念ながら、この期待は裏切られた。このブックレットに載った内容は、
一部の例外を除き、ほとんどが既知の事柄であり、目新しい情報は無いと言ってよい。
一部の例外の中に分類されるのは、今回取り挙げる総長自身の総括である。
しかし、この総括はどこか変である。1つ1つのテーマに判断を下し、
最後に総括をまとめる段階で、なぜか結論がひっくり返るように見える。
そのあたりの事情と、その背後にある摩訶不思議な思考過程を考察した。
2. 総長の総括
以下の議論では、『都立大学に何が起きたのか--総長の2年間---』のP.50〜53
から適宜、原文を引用しながら検討する。「首都大学東京構想」
(以下、首大構想と略)がどの程度実現されたかにに関わる総長の判断
(に関する私の解釈)を分かりやすくするため、5段階の印を付すことにする。
首大構想が完全に実現されている | <◎> |
首大構想がほぼ実現されている | <●> |
首大構想がやや不十分な形ではあるが実現されている | <▲> |
首大構想がほとんど実現されていない | <▼> |
首大構想がまったく実現の見通しがない | <×> |
なお、引用する箇所のタイトルは「都立大学は破壊されたか」 (P.50)という疑問文であり、それに対する総長の答えは、 「…現段階では、都立大学はそこまでは至っていない」(P.52)、 つまり、NO.であるように読めることを最初に記しておく。
新大学の目玉商品であった「単位バンク制」は、実際には全面実施できない状況に追い込まれ、当面はこれを推進した科学技術大学学長の石島氏が学部長になった「システムデザイン学部」においてのみ実施することとなった。これは全学的に実施するのでなければその意義をほとんど喪失するのであり、いずれ機能停止状態となる可能性が高い。(P.51)
総長判断:<▼>
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単位バンク制の根本的問題に関しては、 都立大の危機 --- やさしいFAQ(K-1以下)からのリンクを参照してもらいたいが、 現実の内情に関しては、 事務屋のひとり言 - そりゃないよ首都大学(単位バンク) をお読みいただきたい。本年度(2005年、平成17年度)の後期になって、 「システムデザイン学部」で2つ、単位バンクが稼働したとの噂を聞いたが、 知事をはじめマスコミでも大騒ぎして伝えた「首都大学東京」の目玉商品は、 実は、ほとんど存在しないといってもよい状況のようだ。 「首都大学東京」の学生も、不満の声を上げているらしい。 そりゃあそうだろう。あれだけ宣伝されたものが、 実際にほとんど実施されていないのだから、それを楽しみに入学してきた学生にとっては、 騙されたという感想を抱いても当然である。この現状は、 「首都大学東京」のホームページでも伝えていないし、 なぜかマスコミの話題にもなっていない。 <東京都の新大学>と宣伝する場面では片棒を担いでおきながら、 その宣伝文句とはまったく違う現状があるにもかかわらず、その実態を伝えないのは、マスコミの怠慢である。 単位バンク制に対する総長判断は、 「これは全学的に実施するのでなければその意義をほとんど喪失するのであり、 いずれ機能停止状態となる可能性が高い。」と明確に否定的である。
また、都市教養を学ばせると標榜した「都市文明講座」も年度はじめの短期間だけ開設することで収拾した。ほかにも大学管理本部が推進しようとした教育の内容は、きわめて不十分にしか実現できないか破綻するきざしを見せている。(P.51)
総長判断:<▼>
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「都市教養」という内容の分からない概念をかぶせて、 1つの学部を作ってしまった首都大学東京だが、それなら「都市教養」はどうやって教えるのか、疑問だった。 どうやら「都市文明講座」なるものを開設して、 それを受講させることで形を作ったらしいが、 総長の説明にあるように「年度はじめの短期間だけ」の開設となったようだ。 「大都市における人間社会の理想像の追求」という理念をかかげた大学が 全学生に対して提供するのが「都市文明講座」なのなら、 「年度はじめの短期間だけ」ではあまりにもお粗末である。 「都市文明講座」というのは、 名称としても内容としても今後充実させていくことができるものであろうが、 「都市教養」などという幻想と結びつける必要はない。ただし、 知事をはじめ、東京都大学管理本部の目指した「(大)都市」に特化した大学とはなっていない、象徴的な部分である。
教員身分の側面について見ると、任期制について現段階でもあいまいな部分を残している上、年俸制に関しても年俸査定のための評価基準が定められていないままに新大学に突入する結果となった。二〇〇五年度の一年間をかけて詳細を決定することとされたが、これも明確な結論はでないのではないかと推測される。(P.51)
総長判断:<▼>
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2005年当初、教員に「雇用契約書」を提出するように迫った東京都ではあるが、 任期制・年俸制に絡んだ不利益変更であるとの抗議が組合からなされた。 実際に、東京都側が望んだ新たな「雇用契約書」を提出した教員の数は、 それほど多くはなかったようだ(ただし、首大発足時に昇任した教員は、自動的に、 あらたな雇用契約を結ばされた)。実際に、 地方独立行政法人法の公立大学法人に関する規定に基づき、 従前の雇用関係(勤務関係)が法人に引き継がれ、 4月1日以降、すでに新法人と教職員の間には労働契約関係が存在しているという 解釈がある以上、任期制・年俸制を強要することはできない。 しかし、他方、東京都側は、 「旧制度」と呼ばれる「昇進なし,給与据え置き」を用意し、 任期制・年俸制を選択しなかった教員を差別しようとした。 その実態がどうなっているのか、外から見ても分からないが、 雇用条件に関しては、未だに未定の部分が残されているようだ。 任期制・年俸制の強要という構想は、当初の計画のように進まなかったことは確 かで、「年俸査定のための評価基準」もなければ、「任期制教員の審査」手続き も不明なままである。
加えて指摘しておくと、法人と大学の主要ポストに関してもおおいに問題がある。首都大学東京には副学長が二つあるが、いずれも空席である。図書館情報センターや学部等とは別に設置されたオープンユニバーシティ(生涯学習や都区市町村の研修に対応するとされている)の長も選任されず、学長の兼務である。教務課、学生課、就職課とそれに対応する教員組織を統轄する「学生サポートセンター」の長も空席で、理事長が兼務している。大学院博士過程までもつ四年制大学で、このような状態にあるところは日本のどこかにはたして存在するのかどうか。私は寡聞にして知らない。
(P.51〜52)
総長判断:<▼>
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首都大学東京の主要ポストの多くが、理事長と学長の兼任という形になっているようだ。 当初の予定では、大学の教員の希望(大学教員の中から選挙で選ぶという従来の方式)を無視して、 外部有識者という名前の元に、有名人やタレントの中から東京都の誰かが選ぶと いうことになっていた。そして、実際に、何人かの候補者に声をかけたにもかか わらず、ことごとく断られ、現在に至っている。 大学の主要ポストを外部有識者にすることだけで、 これまでとは違った大学の活性化ができるという発想は、あまりにもお粗末である。 大学の事情を知った人でなければ、 さまざまな組織を動かすことはできないし、設備や人材を有効活用できない。 この点も、総長判断は明解であり、当初の首大構想が失敗していることを遠回しに指摘している。
しかし、大学の枠組み、教育と研究の組織構成は、都政のシンクタンク機能、産業界への奉仕をもっぱらの任務とする大学に変貌してしまったといっても完全な誤りだとはいえない。目玉商品の単位バンクはいずれ立ち消えになるとしても、それとからんで同時にねらわれた教育課程編成や単位認定の権限を教授会から奪う企てが、形式においてだけでなく実質においても現実化する危険は今なお残っている。任期制・年俸制の実施も、そこに合理性があろうとなかろうと、有無を言わせず断行する可能性も消えていない。その意味で「公立大学法人首都大学東京」とそれが設置する数大学が、今後どうなるかは予断を許さない。教職員の状況変化に応じた機敏な反応と粘り強い取り組みがなされなければ、都立大学は破壊されつくすであろうと言われなければならない。その意味で事態はまことに深刻である。
(P.52)
総長判断: <▲>
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大学の枠組みとしての「教育と研究の組織構成」は、結論から言えば、 ほとんど東京都の思うがままに作られてしまった。度重なる総長、 評議会、教員、学生・院生からの抗議や、意見提出も、 東京都大学管理本部と、そこでの会議において、 ほとんどことごとく無視されたり、否定されてきた (例えば、 学則案や法人の定款に関する教員側からの意見がどれだけ取り入れられたかを見れば、一目瞭然である)。
総長は、その状況を指して、 「大学の枠組み、教育と研究の組織構成は、 都政のシンクタンク機能、 産業界への奉仕をもっぱらの任務とする大学に変貌してしまったといっても完全な誤りだとはいえない。」 と説明している。「完全な誤りだとは言えない」というのは、 言い換えれば、(多かれ少なかれ)「正しいところがある」 という意味に解釈できる<程度差が曖昧な表現>である。*1しかし、その一方で、総長は、 「教職員の状況変化に応じた機敏な反応と粘り強い取り組みがなされなければ、 都立大学は破壊されつくすであろうと言われなければならない。 その意味で事態はまことに深刻である。」と述べている。 前半部分(=「教職員の状況変化に応じた機敏な反応と粘り強い取り組みがなされなければ」)は、条件であり、 その条件が満たされなければ、「都立大学は破壊されつくす」 と述べていることから、この条件がなくても、 かなりの程度都立大学は破壊された」という認識に立っていることが分かる。
ここでの総長判断は、(事の良し悪しに関係なく) 「首大構想がやや不十分な形ではあるが実現されている」(従って、 <▲>)という認識であると 解釈できる。それは同時に、「かなりの程度、都立大学は破壊された」 という認識にもつながる。
「大学の枠組み」(教育と研究の組織構成)に関しては、私は、むしろ、 極めて残念なことに「首大構想がほぼ実現されている」 ( <●>)と見なしている。
3 総長総括のまとめ
以上の5つの観点の総括を、総長は以下の2つのパラグラフで締めくくっている。
だが現段階では、都立大学はそこまでは至っていないと見るのが正しいと私は考える。新大学の開設までの準備は不十分ながらも事実上は進んだ。教員と事務職員がもっぱら学生のことを考えて日夜を分かたぬ奮闘をした結果である。大学管理本部はもともと大学行政の素人集団であり、先にも言ったとおり威勢はいいが実力がなかったのであるが、私の見るところ認可がおりて以降は急速に意欲も低下し、実務の圧倒的部分を大学に頼らざるを得ない状況になったこともこれに重なっている。
言うまでもなく実際に大学における教育と研究を担うのは教員と学生であり、ともに働く事務職の人々である。「首都大学東京」において実践に移されている教育の内容や方法も、現場の教職員などが忍耐強く努力を重ねて編成し工夫して何とか形をととのえて開学に間に合わせたというのが事実である。そしてまさにこの事実こそ、これまでの都立大学とまったく同じものが復活するということではないが、都立大学をはじめ都立の四大学が長年にわたって蓄積してきたものを生かして、あらたな大学づくりに向かう条件があることを示しているのである。
(P.52〜53)前のパラグラフへ
この引用部分は、前段落につながるのだが、そこでは、
「教職員の状況変化に応じた機敏な反応と粘り強い取り組みがなされなければ、 都立大学は破壊されつくすであろうと言われなければならない。 その意味で事態はまことに深刻である。」
という条件文で終わっていた。そして、そのすぐ前では、
「その意味で「公立大学法人首都大学東京」とそれが設置する数大学が、 今後どうなるかは予断を許さない。」
と述べている。「予断を許さぬ」状況であると言い、条件文を挟み、 「事態はまことに深刻」と述べた後に、 「現段階では、都立大学はそこまでは至っていないと見るのが正しい」 と話の流れをひっくり返している。これは、不可解である。 「事態はまことに深刻」ではないというのだろうか?
この疑問を解く前に、総長のこれまでの総括をまとめておこう。 2.1〜2.4までは、 実現されていたら大変なことになっていた悪しき制度であり、 それが期待通りに動いていないのは幸である。しかし、 これらは皮肉なことに首大構想の中心であるだけに、 それを首大の特徴と見なして入学してきた学生の期待には答えられていない部分である。 逆にある程度(あるいは、かなりの部分)が実現した2.5は、 大学の骨格をなす制度であり、教員の声をほとんど無視して、残念ながら実現されてしまった部分である。
2.1 | 単位バンク制 | <▼> | 首大構想がほとんど実現されていない |
2.2 | 都市文明講座 | <▼> | 首大構想がほとんど実現されていない |
2.3 | 教員身分問題:任期制・年俸制 | <▼ > | 首大構想がほとんど実現されていない |
2.4 | 法人と大学の主要ポスト | <▼ > | 首大構想がほとんど実現されていない |
2.5 | 大学の枠組み:教育と研究の組織構成 | <▲> | 首大構想がやや不十分な形ではあるが実現されている |
3 なぜ「都立大学はそこまでは至っていないと見るのが正しい」のか?
「その意味で事態はまことに深刻である」という言明は、明白であり、その部分 を否定しているのではない、という解釈が可能である。総長が「そこまで至る」と いう表現で指しているのは、「都立大学は破壊されつくす」という部分ではない だろうか。そうすると、上でも述べたように、「都立大学は、かなりの程度破壊された」 ことを認めていることになる。
なぜ、このようにまどろっこしい表現になるのか? 答えは簡単である。最後の2つのパラグラフを読めば、それが、 「新大学」(=首大)成立のために一生懸命に働いた教職員の努力を、 大学のトップとして高く評価しないわけにはいかない、という総長の配慮である ことが分かる。 かくして、首大構想に反対しながら、首都大学東京を実質的に作り上げたのは、 都立4大学の教員であると賞賛する結果になる。 反対をしながら、反対している構想を実現化するのに働いた人たちの苦労をねぎ らう、という構図ができあがっているのだ。
4 私の認識
2.1〜2.5の5つに関しては、2.5に対する認識だけが私の認識と異なっている。 それは、2.5の最初の文から、 「〜と言っても完全な誤りだとはいえない」を取り去ったものだ。
しかし、大学の枠組み、教育と研究の組織構成は、都政のシンクタンク機能、産 業界への奉仕をもっぱらの任務とする大学に変貌してしまった。
そして、最後の2つのパラグラフで、議論の筋をひっくり返すのではなく、
首大構想と都立大の崩壊をきちっと分けて論じる必要がある。
都立大は、その程度の認識に人それぞれの差があるにせよ、崩壊したことは確かだ
(総長も評議会も、教授会の人事権も奪われた現都立大学が、
崩壊せずに以前と変わらぬ姿で残されていると考えるのは、妄想である)。
総長が問題にしているのは、「首都大学東京」であり、
それが今後どのように再生していくことができるか、という点である。
設立されたばかりとはいえ、間違った制度や組織を導入してしまった以上、
その制度を改革するしか将来的に再生できる可能性はない、と私は考える。
現場では教員、学生が主導権を握っているから、制度は変えなくてもよい、
という認識では、いずれ破綻するだろう。
最後に、私なら、このように締めくくる。
「都立大学をはじめ都立の四大学が長年にわたって蓄積してきたものを生かして、 首都大学東京ではなくあらたな大学づくりに向かうべきである。」
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注 *1
「完全な誤りだとはいえない」という言明は、「誤りでない部分が存在する」ことを
含意するが、その程度に関しては、話題となる知識や文脈によって異なった解釈
を受ける(「完全な」という全体に言及する言葉を、否定と一緒に用いることに
よって生ずる現象)。そこから派生して、「完全な誤りだとはいえない」という
表現は、しばしば発話行為として「間違っているとは立証できない」という観点
から、「判断保留行為」に結びつけられる。
以下の(i)における「腐ったリンゴと腐っていないリンゴ」の割合、
(ii)における「狂った状態と正常な状態」の割合、(iii) における「計算結果の
正しさと誤り」の割合のどちらが大きいかを考えて欲しい
(一人で考え込むのではなく、何人かで議論することで、
その割合が絶対的な尺度を持つわけではないことが分かるはず)。
(i) このリンゴは完全に腐っているわけではない。
(ii) このコンピュータは完全に狂っているわけではない。
(iii) この計算結果は、完全な誤りだとはいえない。
さらに、(iv)と(v)の例を考えてみよう。
これらの場合は、「間違っていると言い切れない」状態が想起されないと、
直接話法の引用文をうまく構成できない。従って、「この判断は間違いだと思うが、
否定できない」(=「間違っていること立証できない」)という帰結に結びつく。
(iv) 「日本人は英語が下手だ」と言っても完全な誤りだとは言えない。
(v) 「太陽は黄色く見える」と言っても完全な誤りだとは言えない。
上の総長判断は、「この判断は間違いだと思うが、否定できない」
や、「判断を保留したい」という意図での発言かもしれない。