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top [2005/10/26]  日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか?

2005年10月26日

日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか? [2005/10/26]

1. イントロダクション
2. 「外国語学習は開始年齢が早ければ早いほどよい」という迷信
2.1 「言語学習の仕組み」は、まだ分かっていない
2.2 「小学校での英語教育」を考える:2つのポイント
3. 経験談:小学校で1〜2年海外で過ごした子供たち
4. 「英語が使える日本人」を養成するにはどうしたらよいか?
4.1 自分で積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢を養う
4.2 英語を聞いて、聞いた内容に関する質問に答えられるようにする
4.3 英語を聞いて、その内容を自分の言葉で要約し説明できるようにする
5 結論

1. イントロダクション

 2003年3月31日、中央教育審議会(以下、中教審)は<「英語が使える日本人」 の育成のための行動計画>を発表した。その概要は、 「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3月31日)(抜粋) で読むことができる。 今回、問題にしたいのは、 小学校における英語教育導入の動きが活発化しているという、 ほぼ10日前のNHKニュースを見たのがきっかけとなった。 そこには、言語獲得の研究で知られた O 氏が登場し、 手短に反対論を展開していた。後で調べて分かったことは、 小学校での英語教科化に反対する要望書(PDF)が、 2005年7月15日付けで、慶應義塾大学言語文化研究所から中山 成彬 文部科学大臣に宛てて提出されていたことだ。

 「日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか?」と問われたら、 私は言語研究者の一人として、NO!と答える。 以下では、その論拠の骨子を述べる。

2. 「外国語学習は開始年齢が早ければ早いほどよい」という迷信

2.1 「言語学習の仕組み」は、まだ分かっていない

 上記の慶應義塾大学言語文化研究所の要望書にもあるように、 「日本における英語学習のような外国語環境における学習に関する確固たる理論やデータは存在しない」 のが現状である。いわゆる「言語学習の臨界期」に関する研究は存在するが、 それとて一般的に通用するような定説とはなっていない。

 なぜ、例えば、「16歳が一般に言語の学習の臨界期である」 というような学説が通用しないのか、というと、 「言語の学習」そのもののメカニズムの全容がまだ明らかになっていないからである。

 人間は、言語を学びとる能力を備えて生まれてくる。言い換えれば、 特定の遺伝子情報によって、脳が「言語を獲得する仕組み」 を持っていると考えられている( FOXP2 のような言語獲得に関係する遺伝子が発見されているが、 まだ全体像を捉えられたわけではない)。 この考え方に従えば、ある言語が話されている環境があり、 そこから何らかの情報が「引き金」になって、 特定の言語を人間は獲得することになる。しかし、 どのような情報が、個人の獲得する言語を形成するのに必要なのか、 どれだけの量の情報が与えられれば、特定の言語を獲得できるのか、 そういった疑問は解けていない。

 分かっていることの中には、喃語期(なんごき)の存在がある。 生後およそ3ヶ月頃から赤ちゃんの発する音声は、喃語と呼ばれ、 その後、およそ一歳ごろ母語をしゃべり出す少し前まで続く。 喃語期の初期には、特定言語に縛られない音声を出しているが、 次第に幼児の周囲で話されている言語の音声へと変貌する。 そして実は、幼児は、みずから母語の音声を発する前から、 周囲で話されている言語を理解できるようになっているらしい。

2.2 「小学校での英語教育」を考える:2つのポイント

 さて、小学校での英語教育に話を戻そう。 中学校で英語を学び始めるより、小学校で始めた方が、 確かに早い時期に英語という言語に触れるので、 獲得が容易であるに違いない、という推測がある。 しかし、それは、
小学生が
(1)「どのような環境で英語学習をするか」
(2) 「英語の何を学ぶか」
という2つのポイントを抜きにしては語れないことを忘れてはならない。

(1) の点に関しては、いろいろな状況が考えられる。 例えば、以下の2つの状況を比べてもらいたい。

シナリオ-1
(a) 英語のネイティブスピーカーの先生が担当
(b) 小学生は、5〜8人のグループで学習
(c) 毎日、2時間の授業

シナリオ-2
(a) 外国語指導助手(ALT)が担当
(b) 小学生は、30〜40人のグループで学習
(c) 「総合的な学習の時間」で月1回の授業

 2つのシナリオは極端な対比だが、 シナリオ-2が、実際多くの小学校で導入されている形である。 中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会(第18回(第3期第4回))議事録・配付資料 資料4−2 を読めば、その目標に 「総合的な学習の時間などにおいて英会話活動を行っている小学校について、 その実施回数の3分の1程度は, 外国人教員,英語に堪能な者又は中学 等の英語教員による指導を行う」 となっていて、残りの3分の2に関しての言及がない。 また、外国語指導助手(ALT)の資格が明確に定まっていないのも気がかりである。

 シナリオ-1の環境で英語を小学校で学ぶというのなら、 それなりに言語教育としての意味を持つだろうが、月に1回とか、 週に1回の授業でいったい何が教えられるのか? (週に1回という頻度で、大学で外国語を教えることも、 同様に語学力をつける学習には結びつかない)。 小学生の立場からすると、その程度の時間で、 英語の何が学べるというのだろうか? 「歌やゲームなど英語に親しむ活動」や「簡単な英会話の練習」 に時間を費やしても、「英語が使える日本人」の育成に直結するとは思えない。

 「英語の何を学ぶか」という問題は、 どうやら誰も真剣に考えていないように思える。 小学校学習指導要領には、以下の一節がある:

「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは,学校の実態 等に応じ,児童が外国語に触れたり,外国の生活や文化などに慣れ親しんだりす るなど小学校段階にふさわしい体験的な学習が行われるようにすること。 」

「外国語に触れる」とか、「外国の生活や文化などに慣れ親しむ」ことが目標で あると言った場合、その教育内容が見えてこない。 「英語で挨拶ができる」とか、「自己紹介ができる」というだけでは、 本当の意味での英語教育ではない (そのようなことなら誰でも、2〜3時間の練習でできるようになる)。 また、 「外国の生活や文化に慣れ親しむ」ような英語教育とはどのようなものなのか、 理解に苦しむ。英語圏の文化と一口に言っても、それは多様であり、 「文化が違う」とか、「習慣が違う」ということをどう位置づけるのかが分からない。

「外国語学習は開始年齢が早ければ早いほどよい」という常套句は、 どのように学ぶか、何を学ぶか という本質的な議論を抜きにして語られることが多い。 そして、それでは決して意味のある教育には結びつかない。

3. 経験談:小学校で1〜2年海外で過ごした子供たち

 ここからは、経験談である。一般に、小学校の時期に海外で 1〜2年過ごして、外国語が堪能になって日本に戻ってきた子供たちは、 大学生になった時に、 それほどその外国語の能力を活かせる状態になっていないことが多いように感じる。 回りくどい言い方をしたが、簡単に言い直せば、 例えば小学校の時にアメリカに2年いて、 英語がペラペラになって日本に戻って来ても、その後、 その英語力を維持し、かなりの努力して英語力に磨きをかける努力をしなければ、 ほとんどその英語力は消えてしまう、ということだ。「ほとんど消えてしまう」 と言ったのは、「発音やイントネーション」が保持されるという傾向があるよう に思うからだ。

 もし、この観察がある程度正しいとしたら、次のように言えるかもしれない。

[仮の目標] 「もし、小学校時代に外国語教育をしたいなら、 発音やイントネーションを習得する教育をすべきだ。」

ただし、前提として、そこには、
(i) 「英語のネイティブスピーカー」がいて、しかも、
(ii) きちんと英語教育の訓練を受けた人が教育に携わらなければならない。

 ただ、大学時代に英文科だった、とか、ただアメリカ人、イギリス人だ、 という理由では、きちんとした英語を教えることはできない。 語学を教えるには、それなりの訓練が必要なのである。
 いわんや、 英語圏でないところからたまたま日本に留学してきている学生をつかまえて、 外国語指導助手にしてしまうようなことでは、 まともな発音やイントネーションの習得は困難であろう(実際に、このようなケースを目撃したことがある)。

 もう1つのケースは、中学校や高校の時期に1〜2年海外で過ごした場合だ。 筆者の観察した限りでは、小学校時代に海外に居住し、外国語をマスター(?) した場合よりも、彼女ら・彼らの大学生になってからの語学力はしっかりしている。 それは、発音やイントネーションだけでなく、文法構造が確立しているという 印象を与える。あくまでも憶測に過ぎないが、第二言語として学習する外国語は、 母語の文法獲得が確立された後でも十分に学べるものであり、 むしろ意識的コントロールができる年齢に達している場合の方が、 優秀な結果を生みやすいように思える。

 もちろん、これは小学生時代を海外で過ごし、 海外で学んだ言語が母語になった子供たちのことを問題にしているのではない。 日本語が第二 言語(=外国語)となった子供たちが、 日本に戻ってきてどのように日本語の獲得をするかというのは、 あまり論じられてきていないが、これも実は大きな問題である。

 以上のような経験から、上記の[仮の目標]を立てて(i), (ii) の条件を満たせば、 小学校での英語教育にそれなりの意味を見いだすことができる、と私は推測している。 しかし、現実の日本の小学校では、このような目標を立て、 上記の条件を満たすような教育は困難であると考える。従って、日本の小学校で、今、 正規の授業として英語教育を導入すべきではない。

4. 「英語が使える日本人」を養成するにはどうしたらよいか?

 小学校で、今、正規の授業の一環として英語を教えるには、 根本的な2つのポイント (どのように学ぶか、何を学ぶか)を議論する必要があり、 さらに英語教育の専門家としてのネイティブスピーカーが、 時間をかけて教育する環境が必要である、との見解を上で示した。 これらの点がクリアされない限り、小学校での英語教育導入は無意味である。 では、本当に、「英語が使える日本人」を養成するにはどうしたらよいのだろうか? 以下に、3つの重要な視点を述べたい。

4.1 自分で積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢を養う

まず、現在の日本の教育体制に問題がある。

[授業のイメージ-1]
教師が教壇に立ち、一方的に話しながら、時々生徒に質問をし、授業を進める。 教師が話している間、生徒は黙ってじっと先生の話に耳をかたむける。 「質問はありませんか?」ときかれて、はじめて生徒から質問が出る。

この[授業のイメージ-1]が、全面的に悪いと言うのではない。 しかし、日本の多くの学校で見られる光景でもあろう。 このような形態の授業では、生徒は常に背景に押しやられ、 積極的に授業に参加し、発言するようにしむけられていない。 [授業のイメージ-2]を見てもらいたい。

[授業のイメージ-2]
教師が教壇に立ち、今回の授業の要点を説明する。要点にそって、 教師が説明をするが、生徒は先生の話をききながら、分からないことがあったら、 その場で手を上げて質問をする。生徒は納得のいくまで、質問をやめない。 教師は生徒を説得しようと、さまざまな形で説明をし直す。

この[授業のイメージ-2]で重要な点は、 「生徒が教師の説明の途中で、(自主的に)質問をする」ところにある。 「他の人が話している間は、黙って話をきく」ことは、悪いことではないし、 むしろ話のマナーとして大切なことだが、授業では、子供たちの 「分からないこと」が、教師の説明に優先すべきである。 「分からないことは、その場で尋ねる」という行為を十二分に尊重しないと、 質問という行為を促進することはできない。これは、言語の使用(言語の運用) 能力を高めるという意味で、極めて重要な側面である。

 私は、すべての授業を[授業のイメージ-2]のようにすべきた、 と主張しているのではない。しかし、言語の運用能力を高める、ということが、 「英語の使える日本人」を養成する場合に、まず第一に必要なことだと思う。 つまり、「母語である日本語を使って、積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢を養う」 ことができなかったら、外国語である英語の使える日本人はできない、 ということだ。日本語を使って、 ちゃんと積極的にコミュニケーションしようという言語運用能力が養われている人は、 外国語の運用能力も高い、というのがこれまで大学生を見ていて感じることである。 この積極的姿勢が欠如している学生に、いくら特定の外国語の仕組みを教えても、 うまい運用は期待できない。日本語の運用能力を高めることが、 外国語での運用能力を高めることにつながるのだ。

 従って、授業そのもののやり方を、大幅に改善する必要があると思う。 1つ2つの授業ではなく、 授業全体で生徒の積極性を評価するシステムを小学校で作り上げねばならないだろう。 教師が一方的にしゃべりすぎてはならない。 「みんなでまとまって黙っている」という日本人の姿を改めるには、 相当の改革が必要である。

4.2 英語を聞いて、聞いた内容に関する質問に答えられるようにする

 聞き取りの力の養成は重要である。「英語が話せない日本人」 という非難をよく耳にするが、話すのは、「覚えたものをリプロデュースすればよい」 から、ある意味で簡単なのだ。「自分で思ったように文を作ろう」というのは、 ずっと先に求められることである。まず第一に、聞いたことが理解できなければ、 コミュニケーションは成立しない。

 外国語の音声に慣れる、ということは、「雑音」にしか聞こえなかったものが、 「意味のある音声」として自然に理解できるような状態になる、ということである。 この状態に達するためには、その外国語の文法構造を(無意識的に)理解し、 一定以上の語彙や熟語を知っていて、 それが音声と結びつけられて理解できる能力が必要である。 集中して聴き、その内容に関する質問に、 ちゃんと外国語で答えることができる訓練が欠かせない。
 ここで強調しておきたいのは、例えば英語の聞き取りをする際には、 (1) 現実の音声の特徴を知ることの前に、 (2) 英語の文法構造を理解していること、(3) 一定以上の語彙や熟語を知ってい ること
が必要だということだ。これができないと、 音声がきちんと意味のある単位に分節して理解できる状態にはならない。

 また、言語は、語られる内容があって初めて意味を持つ。 その意味で、(4) 語られている内容に関する知識がなければ解読できない。 その際には、文化的知識や社会的知識というものも必要になる。

4.3 英語を聞いて、その内容を自分の言葉で要約し説明できるようにする

 ほかの人の話を聞いて、自分の言葉で説明しなおす、という行為は、 「要約」と呼ばれ、あまり楽しい作業ではない、と考えられがちである。 しかし、まさに自分の言葉で説明するということが、極めて重要である。 ちょっと考えてみれば分かることだが、自分で使っている表現は、 かなり限定されているものだ。たとえ、特定の表現を知っていても、 自分では積極的に使わない表現というものがある。聞いて理解したことを、 自分なりにまとめなおすというのは、骨の折れる作業だが、この「語り直し」 によって、理解したことが定着し、話を組み立てる訓練になるのだ。

 人は、自分で話している言葉を同時にモニターしている。自分で「語り直した」 言葉は再び自分に戻ってくる。これによって、言葉はますます定着する。

5 結論

 ここまで「日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきではない」 という結論に至る道筋を説明してきた。 「英語が使える日本人」の育成というと、 多くの人たちが「今の英語教育は間違っている」 という結論に飛びつく。これは、短絡であり、問題の本質を捉えていない。 上で述べたように、「英語が使えない日本人」の本質は、 言葉の運用の仕方にある。即ち,母語である日本語で、 「自分で積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢を養う」 ことができなければ、どんな外国語を勉強しても使えないのだ。 この事実をまず謙虚に受け止め、 日本語の運用訓練ができる環境作りを小学校から始めなければならない。

 それができて、初めて外国語学習のスタートラインに立つ。 「英語を聞いて、聞いた内容に関する質問に答えられるようにする」、 「英語を聞いて、その内容を自分の言葉で要約し説明できるようにする」 というような勉強が意味を持つ。

 そして、日本語教育が十分に確保されるという前提の元に、 きちんとした資格を持った英語教師が十分な時間をかけて小学校で英語を教えるのなら、 それなりの効果が上がるかもしれない。その際、どのように学ぶか、何を学ぶか を明確にして、カリキュラムを組まねばならない。

 これらの条件が整わないままに、 ただ「早い時期から英語を教えれば効果が上がる」と考えるのは、迷信にすぎない。 英語の歌を歌ったり、英語のゲームをすることが、 本当に「英語が使える日本人」の育成に役立つ、 と言うなら、その実証的なデータを示して欲しいものだ。 そして、「英語が使える」というのは、いったいどの程度のことを言っているのか、 明らかにして欲しい。ただ「英語で挨拶ができる」とか、「自己紹介ができる」 という部分を「英語が使える」という言葉の意味としているなら、 それはほとんど無意味である。「言葉を使える」という表現の意味は、 もっと深い。その言葉で、「自分が考えていることを表現できる」 ということが基本であり、他の人とは違って自分が存在し、自分はこう考える、 と表現できることが、「言葉を使える」という表現の最低条件だと私は考える。

 「英語が使える日本人」の育成という掛け声に踊らされ、 やみくもに英語教育を小学校に導入しても、 母語としての日本語の勉強がおろそかにされてしまえば、 ますます「日本語の使えない、英語も使えない日本人」 を作り出す結果になる。根本的なことを考えず、 小手先だけで教育を変えると、 後で子供たちが被害者になることを忘れてはならない。


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