本当にこれでいいのか? 人文科学の根が絶えつつある日本 [2005/11/23,24]
1. イントロダクション10月中旬,かつての教え子A氏から,突然一通のメールをもらった.
今、私が担当している○○大学の非常勤講師の仕事が、今年度いっぱいで終了することになりました。
△△学部が来年度から□□制になるので、それに伴いカリキュラムが見直されました。
(中略)
いまどき珍しい話ではありませんが、こんなに早く、自分のところにこういう事態がやってくるとは思いませんでした。
どこか勤められるところを探すことになります。...
水曜日に◇◇を担当している先生は今年度でおしまい、というような説明を受けました。...
A氏は,人文科学系の優秀な若き研究者である.将来的には,研究者として活躍できる素養を備えており, 大学での教歴を積む一環として, またわずかばかりの経済的支えを得るために2年前から○○大学の非常勤講師を始めた. そして突然の解雇通告.こんな時どうしたらよいのか, 他に非常勤講師の口はないものか,という相談だった. このような話は,A氏自らが述べているように,近年,決して「珍しい話ではない」. しかし,大学の非常勤講師をクビになり,その後,働き場所がないというケース を耳にすることが,近年,本当に多くなった.簡単にクビにできる非常勤講師という弱い立場も 問題だが,このような状況が続けば,人文科学系の後継者不足という 深刻な事態に拍車がかかるのではないか.
折しも,2005年11月18日の朝日新聞(私の視点)に1つの投稿記事が掲載された. この記事は,吉田量彦氏(倫理学)によって書かれたもので,吉田氏は, 現在,ある大学の非常勤講師という身分にある.以下では,まず彼の論点を要約し, このままでは日本の人文科学研究が,本当に根絶するのではないか, という危惧を,現在多くの大学で見られる「改革」と関連づけて考えてみたい.
吉田氏の投稿文のタイトルは,「◆研究者支援 人文科学のすそ野広げて」 というもので,2005年11月18日,朝日新聞朝刊の<私の視点>に掲載された. 以下,簡単にその内容を追ってみる.
1
人文科学分野の博士号取得者の多くは,
大学の研究者として就職することを望んでいるが,
近年全国の大学で行なわれている人文系専任教員の大幅削減が原因で,
それが困難になっている.
2
その結果,彼ら(=人文科学分野の博士号取得者の多く)は,
非常勤講師(=いつクビになるかわからない不安定な身分のパートタイマー)
として働くことを余儀なくされている.
3
かつては,非常勤講師のかけもちで生計を立てることもできたが,
最近の比較的若い世代では,本業と関係のないアルバイト(予備校や学習塾)
に従事しないと生活ができない状況.しかも,そのアルバイトすら減少している.
4
今現在,人文科学研究者が博士号取得後に支援される制度がほとんどないので,
支援制度を充実すべきで,それがなければ次代の研究・教育活動を担う人材が途
絶えてしまう.
5
日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点(I):
科学研究費補助金の使途が厳密に規定されているので,事実上,十分な収入を保
証された専任教員しか活用できない.
6
問題点 (II):
奨学金に年齢制限が設けられている(34歳未満)が,これは
人文科学分野では以下の理由から博士号取得に時間がかかることを考慮すると,
好ましくない.
理由:
(1) 博士号取得のためのカリキュラムや教育システムの立ち遅れている,
(2) 論文執筆に時間がかかる.
7
問題点 (III):
博士号取得者の海外研究支援制度にも,同様の年齢制限がかけられている.
8
提案:
奨学制度の応募資格を専門分野ごとに設定し直す(年齢制限を含めて).
同一分野内でも,博士課程修了者,在籍者,学位取得者,学位未取得者を分ける
必要がある.
9
人文科学研究者の生活を安定させ,
研究に従事する時間を確保することが必要だが,
それは比較的少額の支援で足りるはずだ.
結論部分の最後の文を引用
「人文科学のさまざまな領域の研究者にこの支援が行き渡れば,時間はかかるが,
日本の人文科学研究全体が大きく活性化されると私は考えている.」
1〜4が現状分析,5〜7 が,日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点,8 が提案で,9が結論となっている. 9の結論の中で, 「(人文科学研究者へは)比較的少額の支援で足りる」となっているのは, 「高価な研究機材や実験材料」を必要とする理系分野と比べた場合, 相対的に少額であることを述べただけであろう.
吉田氏は,日本学術振興会の奨学・研究助成制度の問題点を指摘し, 改善を求めている.ポイントは,人文科学研究者支援において, きめ細かい分野別の対応を求め,奨学金や海外研究助成制度における年齢制限の見直しを迫っている. この点においては,私も賛成する.しかし, 現状分析の中で述べられた「人文科学系専任教員の削減」 が未解決な限り,「日本の人文科学研究全体が大きく活性化される」 どころか,日本の人文科学研究全体が一層縮小される のではないか.また,「非常勤講師市場の縮小」は, 経済的に不安定な非常勤講師という身分上の問題点はあるにせよ, 大学に就職する前に一定の教育経験を積む貴重な機会である. その貴重な機会が,人文科学分野では, さらに減少しているようなのだ.
人文科学系の専任教員が現在,全国でどの程度削減されているのか, 残念ながら具体的な数字はつかんでいない.ただ,その最も際立って削減が行なわれたのが, 「東京都立大学」をつぶして強引に「首都大学東京」を作った例であろう.
『東京新聞』(2003年12月24日)には, 人文学部専任教員が半分以下に削減される予定が語られているが, この削減は結果として, 文字通り実行され,2005年4月1日には,「首都大学東京」が成立している (もっとも,この間,30名以上の教員が自主的に脱出したのだが). 削減理由は,教員一人当たりのめんどうをみている学生数が少なすぎる, というものだが,これは一般教養の授業をはずして計算した情報操作であり, 少人数教育よりも経営効率を優先させたいという東京都の意向であった.
■人文学部教員 半分以下に・・・
同学部長の南雲智教授は「新構想は人文学部つぶしだ」と憤慨する。事実、
新構想では都立大全体で3割の教員が削減されるが、
人文学部の教員は139人から64人と半分以下になる。
都大学管理本部は「教員一人当たり15人程度の学生が妥当な数字だが、
人文学部は4・5人しか教えていない。
同大平均の10人に比べても突出している。
人文学部の削減幅が大きくなるのは当然だ」と説明する。
石原知事は「民間のコスト感覚で運営して赤字を減らし、
学生が満足する理想の大学にする」という。
茂木総長も「国公立大で赤字でないところはない」
と経営事情の厳しさは認める。だが、同大の入試最難関学部で、
競争倍率12、3倍の人気を誇る同学部をつぶすような構想でその目標達成にも疑問の声が上がる。
前出の文系教授は「人文学部がなくなる影響は計り知れない。
少子化で経営環境がより厳しくなるのに、金看板を外す信じ難い構想」と批判する。
『東京新聞』(2003年12月24日)
「人文科学系専任教員の削減」の理由の1つがここに見て取れる. すなわち,「経営の効率化」という名のもとに, 教員一人当たりの学生数を盾に人文科学系専任教員を削減するのだ. 理系,特に実験系では,学生数を増やしたら教育はできない. 設備上,実験資料上の困難に加え,助手の増員が必要になってしまう. それに対して人文系では,純粋に教員数だけを削減しても, 負担は教員にかかるだけである,との認識があるようなのだ. 簡単に言ってしまえば,「人文系教員は切りやすい」. そして,独立行政法人化した元国公立大学は, 学長権限が強いので,大学全体でのリストラの矛先として人文科学を選ぶ可能性が高い,と言える.
もう1つの理由は,現代日本社会が限りなく「実用学問」を求めているからで, <人文科学系学問は「虚学」である>,との認識があるからだ. 社会に出て即戦力として働ける人材を作ることこそ,これからの大学教育におい て重要な視点だと主張する人たちがいる. そのような人たちにとって, 哲学,倫理学,美学,宗教学,社会学,史学,文学,言語学は, 大学で学んだからといって特定の資格に結びつくわけではないから, 不要だ,ということになる (心理学は,人文科学に収まりきれず,多分に理系的な色彩があるので, 大学によっては理学部に含まれることもあり,さらに近年は, 臨床心理学という実利に結びついた分野も包括するので, ここでは除外して考える).
「実学」が求められるという風潮は,明治時代から日本にあった. 法学と工学が重点的に優遇されてきた事が,日本の大学政策の歴史に刻まれている. 現在,その「実学中心主義」は,加速する世の中で, ますます過大に評価される傾向がある.しかし, 大学を出てすぐに「実用になる知識」など, 本当はたいして存在していないことに,大学改革論者は気がついていないようなのだ.
人文科学系教員が削減対象になる3番目の理由は, 彼らの中には社会に対して常に批判的な目を持つ者が存在するからだ. これは,大学経営者,あるいは, 大学改革を引っ張っていこうとする学長にとって, 好ましい存在ではない.また,政治家にとっても, 目の上のたんこぶとなる(もっとも,最近はそのような学者は減っている). 一般論としては,この批判精神こそ,科学者が共通して持っているもので, 学問の種類と関係なく,大学の研究者は社会のさまざまな問題に対して, 大いに発言すべきである.しかし,多くの研究者は,自分の研究で忙しい. 自分の研究以外の時間は,ほとんど残されていない. 比較的自由な立場にいる人文系の研究者は,この意味で, しばしば邪魔な存在となる.
かくして,日本の人文科学系専任教員は,おそらく今後も一層削減されていく可 能性が高い.この点で,上で述べた国公立大学の法人化とともに強力な権力を手に した学長が,今後,人文科学系学問をどのように扱うか,注意して見守らなけれ ばならない.当初,2009年に訪れるとされた「大学全入時代」は,2007年に前倒 しとなっているという予想もあるので,「経営効率」という理由は, これまで以上に私学でも重視されるに違いない.そこで,実利を持つ学問を優先 するという傾向が強まれば,当然ながら逆に, 実利的でないと見なされる学問(=人文系学問)は冷遇される可能性が高い.
その手段として使われるのは,大綱化,つまり, 従来の学問分野の垣根を超えた複数分野を1つの名前の元に統合してしまう, というやり方だ.これは,経営的視点からすると, 容易に新しい学問分野を取り込むことができるのと同時に, 不要(!)と思える学問分野を容易に切り捨てることができる 「スピードを伴った改革」をたやすくする手段だ.
非常勤講師の数は,おそらく全国的に見れば決して減少してはいないだろう. なぜなら,専任教員より安く済むからであり,近年広がりを見ている3〜5年任 期の嘱託講師ですら,大学側から見れば「経済的にお得」である. 安い講師料で,社会保障を受けられない弱者としての非常勤講師は, 例えば,文部科学省や学術振興会などが積極的に支援する体制を作るべきだろう.
では,なぜ私の近辺で非常勤講師の契約を打ち切られる人が増加しているのだろうか? 答えは簡単だ.該当分野が,大学から削減の対象になっているからだ. 「需要のある分野に教員を振り分けることで,学生を集めたい」と考えるのは, 大学経営的視点から見れば当然である.また,新しい分野を開拓し, その分野に人を付けることも大学経営的視点からは高く評価される.
博士課程まで進み,博士号を取っても非常勤講師すらできない若手研究者がいる. 塾の講師や家庭教師をやっている場合も多い.いや,今では,オーバードクター でも,飲食店でアルバイトをしながら研究を続ける者すらいるのだ. それは,多くの場合,文系研究者で多く見られ, 大学から削減の対象になっているような伝統的な分野の場合だ.
このような状況になると,結果として伝統のある人文系学問であっても,後継者が就職できないのだから, その分野の研究者はだんだんと減っていく. たとえ博士号を取得しても,就職口が無い,という状況が長期間持続するとは思 えない.つまり,そのような分野から,若い研究者は消えていくのである.
日本の人文科学研究全体が現在縮小されつつある,というのは, おそらく本当のことだ. そして,このまま進めば,近い将来, 特定の人文系学問では後継者が消え, 「日本には○○分野の研究者がいない」という状況になるのではないか.
人文系学問が遠からず徐々に死滅していく,これが日本の将来の姿だと思う. 特定分野の研究者が日本から消えていく,これを黙って見ていていいはずがない. 人文科学は,「人間」を研究する分野であり,「人間とは何か?」, 「人間とはいかにあるべきか?」,「人間社会はどうあるべきか?」 というような根本的な問題を扱う. 「社会に出てすぐに役立つ知識ではないから」というレッテルを人文科学に貼り, 人文科学を冷遇しつづければ,やがて「手軽に手に入るものしか関心のない学生」, 「社会なんてどうでもよい自己中心的な学生」, 「簡単に扇動されてしまう学生」,「なんの理由も問わない学生」 がますます多く大学から巣立っていくことになるだろう. その前に, 日本政府は(あるいは,文部科学省は),「科学技術創造立国」 を目指して基礎学問を捨てるのではなく, 人文科学を救う手だてを考えるべきだと思う(今回は触れなかったが, 一部の理学系の基礎学問も深刻な状況になりつつある).
いったん,根こそぎに引き抜かれた植物は,二度と元の姿に戻ることはない. もう一度,種子から育てるのは多大な時間と労力を必要とする. 特定分野の研究者が日本から消える,というのは,まさにこのような状態になる, ということだ.
最後に,2005年10月に発表された,日本科学者会議・ 科学者の権利問題委員会による「研究者の権利・地位宣言」の最後の部分を引用しておきたい.
8 研究後継者の育成のために、科学的思考を育て、
科学の調和ある発展をめざすゆきとどいた教育を保障しなければなりません。
研究の継承は日本の将来を左右する重大問題です。若手研究者の生活保障や研
究条件の保障に、国はもっと力を注ぐべきです。また、現在の教育は政治に左右
され、経済界の利益が優先されて、少数エリートの育成に力を注いでいますが、
しかし国民全体の教育水準の向上なしには優れた研究は生まれません。現在のよ
うな教育政策をつづけているかぎり、日本の学術研究の未来は危ういといわなけ
ればなりません。また現在の日本の科学技術政策では特定の分野に対する重点奨
励政策がとられ、そのため長期的な視野にたって日本や世界のあり方を探求した
り、基礎的な研究を積み重ねる必要のある分野などが軽視される傾向があります。
この偏りを是正するために、産業界のみでなく、学界、教育界をはじめ、広く国
民の意見を聞かなければなりません。
全文は,
「研究者の権利・地位宣言」(PDF)あるいは,
「研究者の権利・地位宣言」(html版,全国国公立私立大学の事件情報)
を参照.