大学生の学力低下:科学技術立国を目指す日本の宿命? [2005/12/12]
There will be no art, no literature, no science. When we are omnipotent
we shall have no more need of science.
George Orwell "Nineteen Eighty-Four."
P.215
1. イントロダクション
2.1 科学技術とは何か?
2.2 科学技術の原動力
2.3 科学技術の発展:その結果もたらされる社会
3. 科学技術社会は,かくして教育を否定する
4 結論
2005年11月14日に, 「大学生の学力低下 教員の6割問題視」という記事がasahi.com (および朝日新聞)載った.その初めの部分を以下に引用する.
「大学生の学習意欲と学力低下」のテーマで、柳井晴夫・大学入試センター 教授らの研究グループが全国調査した結果、大学教員のうち10人中6人が学 生の学力低下を問題視していることがわかった。工学部や経済学部の教員が多 いのに比べ、医学部では少ないなど学部間でかなり開きがある。公私立でも国 公立に比べて私立が深刻な実態が浮き彫りになった。
まず,ここで紹介されている数字を整理することから始めたい.念のために付け加えて おくが,この調査の一次資料を直接入手したわけではなく,記事に書かれている 範囲の数字を整理しただけであるので,不正確な所があるかもしれない.
調査対象:約400校、600学部の教授、助教授
回答を得た数:合計11,400人(国立5,000人、私立5,300人、公立1,100人)
調査時期:2003年から2004年
質問:「所属学部で学力低下がどれだけ問題になっているか」
◎ 全体での数
「授業が成り立たないなど深刻な問題になっている」 | --- | 8% |
「やや問題になっている」 | --- | 53% |
◎ 「深刻な問題」と「やや問題」を合わせた場合の国公私別分布
全体 | --- | 61% | |
国立 | --- | 56% | |
公立 | --- | 44% | |
私立 | --- | 69% |
◎ 「深刻な問題」と「やや問題」を合わせた場合の学部系統別分布
理,工 | --- | 75% | |
情報 | --- | 71% | |
経済・商 | --- | 67% | |
外国語 | --- | 64% | |
社会 | --- | 64% | |
教育 | --- | 50% | |
体育 | --- | 49% | |
保健・看護 | --- | 46% | |
医学 | --- | 38% |
◎ 学力低下の内容
(1) 自主的に課題に取り組む意欲が低い | |
(2) 論理的に考え表現する力が弱い | |
(3) 日本語力、基礎科目の理解が不十分 |
◎ 傾向と教員からの要望
・全体で見ると、年齢が高く、教員歴も長いほど、
また専門より教養教育に携わる教員ほど学力低下を強く感じる.
・大学の専門の勉強に備えて高校で学習する必要が高い教科として、
外国語と並んで国語が突出している.
大学生の学力低下が指摘されたのは,もちろん今回が初めてではない. かなり以前から,その傾向は存在していた. いったいなぜ学力低下が起きているのか, という問いに関しては,大学入学以前の段階での学力低下が原因である, という話で終わってしまうことが多い.
大きな視点から見て,ではなぜ子供達の学力低下が起きているのだろうか? 小,中・高の学校の責任なのか? 教育システムの責任なのか? 私は,教心ネット (学校心理学のページ)の中で主張されているように, 「学力低下ではなく『意欲低下』が国を滅ぼす」という考えに同調する. 同時に,(1) 「意欲低下」が学力低下の1つの大きな原因であり, (2) 「意欲低下」は,科学技術偏重社会が誘発している,と考える. この原因と結果の連鎖は,必ずしも一義的に成立しているわけではない. しかし,無視できない十分な関係があると思う.もし,この考えが正しいなら, そして,日本政府が国をあげて「科学技術立国」へと邁進すればするだけ, 日本の教育は荒廃していくことになる.
「科学技術」とは,科学に裏付けされた「技術」を表わすと考えられるが, 国語辞典には,意外に項目として載っていない.その理由は,「技術」の項目に, すでにその意味が下位区分されて記述されているからに他ならない. 『明鏡国語辞典』の<ぎじゅつ(技術)>の項目は,次のようになっている.
ぎ-じゅつ【技術】[名]
(1) 物を作るわざ。また、物事を扱い、処理するわざ。「運転を身につける」
「表現を磨く」
(2) 科学理論・知識を実地に応用し、人間生活に役立たせる方法・手段。
科学技術。「先端」「革命」
確かに,「物を作るわざ」こそ「技術」の本質的特徴であるように思えるが, それでは,「わざ(=技)」とはなんだろう. 『明鏡国語辞典』の<わざ(技)>の定義は,残念ながら同語反復でしかない. もっとも,何冊かの国語辞典を見ても,状況は同じで,「わざ」=「技術」 となっている.
わざ【技】[名]
(1) ある物事を行なうために必要な技術・技能。「をみがく」
(2) 柔道・相撲などの格闘技で、勝敗を決めるために仕掛ける攻撃の型。
「が決まる」▼「業」と同語源。
わざ【業】[名]
(1) ある意図をもって何かを行なうこと。所業。「神のなせる」「至難の」「人
間」
(2) 仕事。職業。「漁をとする人」▼表現 個々の技術をい
う「技」に対し、「業」は何らかの意図に基づく行為の全体をいう。
…(以下,用例省略)…
そこで,たまたま手元にあったOxford Advanced Learner's Dictionary. (6th edition)のtechnique の項目を参照してみた.当然ながら,「技術」や「わざ」とは違った意味がある 可能性もあるが,テクノロジー(=技術,technology) と考えると,それと共通語源の語からヒントが得られると考えた.
tech-nique/tek'ni:k/ noun
1[C] a particular way of doing sth, especially one in which you
have to learn special skills: The artist combines different
techniques in the same painting. ¤management/marketing
techniques
2[U, sing.] the skill with which sb is able to do sth practical:
Her technique has improved a lot over the past season.
1 の意味の説明は,「何かをやる特定の方法, 特に特別な技能(=skills) を学びとらねばならないようなもの」となっている. 2 は,1の意味の限定的な意味であり「誰かがそれを使って, 何か実用的なものをすることができるような技能 (=skill)」となっている. 「技術」の中に含まれるような「科学技術の意味」は, techniqueに欠けているが, 日本語の「物を作るわざ」,「ある物事を行なうために必要な技術・技能」 と,英語のa way of doing something, especially one in which you have to learn special skills. という基本的部分は共通している.
ここで浮かび上がってきた「技術」の2つの側面とは, 何かをする(典型的には,何かを作る)方法と, それをする人間の能力であると言えるだろう. そして,科学技術とは,「科学で得られた知識を応用し、 人間生活に役立たせる方法・手段」であるり, 技術開発にたずさわる人たちは,科学から得られた知識を (典型的には)あるものを作り出す方法 として利用している,と言えるだろう.
人は,なぜ「何かを作り出す方法」を模索するのだろうか?(Q-1) おおざっぱに言ってしまえば,「モノを作り出す」ことが人間の1つの特徴であり, その過程で「工夫をする」ことが技術である,という考え方ができる.
では, 「なぜ人間はモノを作り出す時に工夫をするのか?」(Q-2). 答えは,「より良いモノを作りたいという欲求があるから」だろう. ここで問題になるのは,「(現代の)人間にとって,より良いモノ」とは何か, という点だ.例えば,現代人にとって「より良いモノ」は, おそらく以下の要望(欲求)を満たす必要がある.
(a) もっと簡単に
(b) もっと快適に
(c) もっと便利に
(d) もっと早く・速く
(e) もっとかっこよく
(f) もっと安全に
面倒な税金の計算を簡単にやりたい,部屋の温度・湿度を常に一定に保ちたい, 自宅にいながら株取引をしたい,食事の準備を短時間で済ませたい, 携帯電話の待ち受け画面をかっこよくしたい, 車で衝突しても人の安全が守られるようにしたい, このような要望は,ちまたにあふれている. そのような欲求を満たすために, 技術開発に取り組む人たちは,日夜,知恵を絞っているはずだ. 人間の欲求は,果てしもないものなので, これ以外にもまだまだ多くの要望が世の中にはあふれている. 科学技術の原動力は,これらの欲求を「科学的知識を使って」 満たすところから始まっている.
考えてみると,上であげた要望は,多くの場合 現代では個人が知恵を絞って「工夫」するものではなくなってきていることが分かる. 個人レベルで快適さを求めることは,もちろん可能だが, そのために自分で創意工夫して新たなモノを作り出す人は, 現在どれくらいいるだろうか?
つまり,ここには,モノを作る側の人間が知恵を出し,努力して何かを作り上げ, 使う側の人間は,そのモノの効用を信じて利用するだけ,という構図がある. 大部分の消費者は, 「もっと簡単に,もっと快適に,もっと便利に,もっと早く・速く, もっとかっこよく,もっと安全に」なることを信じて,お金を出してモノを手に入れる.
「もっと簡単に,もっと快適に,もっと便利に,もっと早く・速く, もっとかっこよく,もっと安全に」なることが科学技術の発展によって, 次々と可能になってきている. 一瞬の内に,1円で61万株を発注できるシステムもあるし, 建物の構造計算を最低限の入力データから自動的に処理してくれるソフトウエアもある. しかし,近年の事件で明らかになったように,一瞬の行為が膨大な損失を生み, 社会的に甚大な影響を与えることも確かだ. 特定のシステムに100%の信頼はおけない, というのも現代の皮肉な常識である.
作られたモノを利用するだけに転じた大部分の消費者にとって, 「もっと簡単に,もっと快適に,もっと便利に,もっと早く・速く, もっとかっこよく,もっと安全に」なることは当たり前のことであり, 常に次の「もっと」を求める. 作られたモノを利用する側にとっては,自分の要求に対して自らすべきことはま すます少なくなる. 言い換えると,自分での努力はますます不要になっていくように思えるのだ.
ある政治家の発言を取材する新聞記者の仕事を思い浮かべてみよう. かつては,手帳と筆記具で発言をメモする必要があった. 次に,テープレコーダーができ,マイクをつなぐことで声を直接録音すること ができるようになった.テープレコーダーはどんどん小さくポータブルになり, マイクを内蔵するようになった.やがてマイク内蔵の ICレコーダーが普及するようになり,録音データはパソコンで取り込み, 再生できるだけでなく,別の日本語認識ソフトを使って,不完全ながら文字情報に 変換できるようになった.
このように,仕事現場の光景は大きく変わった. しかし,目下のところ,最終的に記者が原稿を書くところは変わっていない. 書く作業は,多くの情報の中から必要と思える物を自らの視点から取捨選択し,論理に従って並 べ直さねばならない.
ただし,「文書要約システム」というのも現在作られつつあり, このシステムが十分に実用化されれば,ICレコーダをパソコンにつなぎ, マウスでクリックして,特定の最大文字数を入れれば, 要約文が完成するようになるだろう.このシステムでは, 人間は,いくつかの単純な作業をするだけでよい.頭を使って考える必要はほとんどない.
ここから見えてくる社会像は,次のようなものだ.
作られたモノを利用する消費者は,
● 思考を求められない
● 努力を求められない
● より簡単なモノを求める.
モノを作る技術者は,
● ますます「もっと〜」を求める
● あらゆるニーズに答えられるように努力する.
科学技術を産業の中心とする社会を科学技術社会と呼ぶことにすると, そこには,作る側と利用する側で決定的な違いがあることを見てきた.
2005年冬.今,子供たちは,どんな環境におかれ, どのような教育を受けているのだろうか? 子供たちは,モノを作る側でも,モノを利用する側でもある存在として教育を受 けているはずだ. モノを作ることを求める授業も,さまざまな形で授業の中に組み込まれている. 文字通りモノを作ることを促される理科や技術・家庭の授業もあれば, 抽象的創作活動と言える作文や作曲,絵画などもその中にある.
しかし,物を作る創作活動は,多くの場合キット化されており,材料を指示通り組 み合わせれば完成する形態になっているのも事実である.
このようなモノを作る側とモノを利用する側に分離している科学技術社会におい ては,教育現場でも,常に「もっと簡単に,もっと快適に,もっと便利に,もっと早く・速く, もっとかっこよく,もっと安全に」が求められている.
教師は,生徒に「もっと簡単に」できる方法を教え, 「もっと快適に」(=もっと楽に)学べる方法を教える. 勉強の際に「もっと便利な」道具の使い方を教え, 時間内に「もっと早く」問題を解くことを求める. スピードをあげて「もっと速く」課題ができれば, それで余った時間で,もっと多くの勉強ができる. みっともなく皆の前で恥をかかないように 「もっとかっこよく」する方法が紹介され, 不審者が学校に侵入しないように「もっと安全」を確保できる設備を導入する.
「そんな考え方のどこが悪い?」と思った人は, すでに科学技術社会に半分<魂>を抜かれている.
思い出してみよ.社会には,困難な問題が山積している.困難な問題に自力で立 ち向かうことを教えるのが教育ではなかったのか? 楽にたのしく学べることば かりを教育で強調してしまうと,楽にたのしく学べないと思った瞬間に 子供たちはやる気を失ってしまうのではないか? 快適な学習環境が常に保障され ているようなところでしか勉強をさせない,というのは根本的に間違っていない か? 便利な道具がなければ,勉強ができないと言うのは,道具に支配された状 況でしかないのではないか?数学の課題を解くのに,早く・速くやることにどれだけの意味が あるというのか? 速さを競うなら,人間はすでにコンピュータに負けているで はないか!
このような教育環境において,教育は子供たちから学習意欲を奪っている. あらゆるところまでキット化されて提供される教育環境では,すべてのモノが あらかじめ与えられている.やり方は,懇切丁寧に説明されている. 教師が説明しなくても,カラフルな教科書には,細かい手順が書いてあるはずだ.
しかし,往々にして,そこには「なぜ?」という疑問に答えるような説明はほと んどない. 「速さを求める」あまりに,「なぜ?」と問うことを抑制しているように思える. 「理由は知らなくてもいいから」 という指示を,子供たちは聞かされているのではないだろうか.
自分で納得して理解できる理由がない状態が続けば,子供たちの知的好奇心は薄れ, 学習意欲は当然ながら落ちていく. これが多くの学校で学ぶ子供たちの現状ではないだろうか. そんな状況を,現在の科学技術社会が作り出している,と思うのである.
「なぜ」を説明するのは難しく,際限がない.そんなことをいちいち説明してい たら,教科書はどんどん分厚くなってしまうじゃないか,と言われたことがある が,他の国々の教科書を見よ.分厚い教科書を借与しているケースもよく見られ るではないか.教師は,子供たちの好奇心をつなぎとめるためにも,素朴な疑問 を取り上げ,時間をかけて授業で議論すべきである.そして,子供たちに, タイミングよく,考える時間を与えるべきである.
すべてが商品になってしまった時代,そして,商品の改良が果てしもなく続いて いく時代,商品の利用者である人間は,お金を出して「便利さ」を買う. 便利なモノが溢れる社会では,人々は無意識のうちに「苦労するのは損だ」 と考えている.「もっと便利なモノ」の登場を待ち,当座の自分の道具を使うこ とで日々の生活をこなしていく.この風潮が教育現場でも猛威を奮っている.
われわれは,経験から「自分でやらないと忘れていく」ことを知っている. 手書きの文書を書かないでいれば,漢字が書けなくなる. パスワードをソフトウエアに覚えさせてしまうと,いつしかパスワードを忘れて しまう.コンビニで肉じゃがを買って済ませていると, 肉じゃがの作り方を忘れてしまう.そんなものなのだ. マウスでクリックしてすべてが完了してしまう社会では, マウスをクリックする側は,「マウスでクリックすることしか知らない」状況に 置かれている.せいぜい,何をクリックするか,といった知識を求められるだけだ.
科学技術を全面否定するつもりは毛頭ない. しかし,たまには, 「テレビを消そう.音楽をとめよう.携帯電話のスイッチを切ろう. そして,自分で時間をかけて<なぜ?>と考えよう.」 と呼びかけることは教育者の責務ではないだろうか? そして,そのような時間を与えることが今の学校にも求められているのではないか?
大学生の学力低下は,大学以前の教育システムの問題というよりは, 社会全体が技術中心に回転し,価値観を大きく変えてしまったところに根源的な 問題がある.科学技術立国を目指すと宣言されている日本で, 理由を問わずに技術だけを追い求め,技術の利用ばかりに焦点をあてていては, 教育は崩壊する.それは,技術中心の価値観が,ものごとの本質を問うことを 求めていないからだ.自分で考え,自分で努力し, 自分で危険や困難なことに立ち向かう姿勢を教育の中で育てなければならない. 実は,このような姿勢に立つことで,初めて学ぶことが「面白くなる」のだ. 動機づけ(motivation)は,ここから生まれてくる.
子供たちの学習意欲を復活させるために,まず,「なぜ?」と問い, 時間をかけてディスカッションすることを教育現場に求めたい. 小学校低学年から大学まで,「なぜ?」と問うて, 自分で考える機会を与えて欲しい. 科学技術という名の「ますます大きくなっていく仮想ロボット」 を乗り回しているうちに, 気がついたら教育という人間の財産が飲み込こまれてしまうことがないように.