2005年4月27日<counter-comment>
「『意見広告の会』ニュース271」に思う
「意見広告の会」ニュース271(Sun, 17 Apr 2005 22:11:09 +0900)に 4月2日に行われた<〜「都民の会」再発足に向けて〜集会&総会>について に関する注釈が掲載されていた。(1ー4には,「だまらん」の上記リンクの内容が引用されている)。 以下、引用。
1−3 簡単な注釈 「意見広告の会」事務局 当日の集会での議論の模様について、特に1−2、1−4の「一定の緊張感を含んだ 議論」、「A路線の立場の人からのコメント」について。 まず、会場が「かなり騒然となった」ということはなく、南雲前都立大人学部長の報 告についての批判的コメントも、極めて丁重な形のものであった。 南雲前人文学部長の「講演」は30分程度のもので、ご本人も「意を尽くせない」思 いが残ったであろう。 ポイントは2点有り、一つは東京都による一連の都立大解体の攻撃の中で、教職員の 意識・行動をまとめることがいかに困難であったかということ。これは「人文学部長」 としての偽らぬ実感と思われる。 第2点。都立大解体・首大の発足の経過は、東京都による都立大つぶしの攻撃に対す る反対派教職員の敗退の過程と見る向きもあるが、必ずしも敗退とも言い切れない側面 がある。具体的には首大立ち上げの過程の中で、東京都は自らの手で「新大学」を作り 上げると豪語していたにもかかわらず、東京都・大学管理本部には、大量流出者の後任 人事、新大学のカリキュラムの具体化、とりわけ新大学入試実施などの実際的な学務を こなす能力が無い。学務の実行はもっぱら都立4大学の教職員によって仕切られねばな らず、その中で教職員の主導力が相当に存続している。首大の大学運営の今後も、この 力をある程度貫くことが可能なのではないか。以上のようなものであった。 対して法学部「首大非就任者」の「法制史」を専攻としている方から、次のような批 判的コメントがあった。 南雲前人文学部長の考えには、違和感を抱かざるをえない。法制史を研究していると 、日本の支配のシステムというのは何もかも権力が取り仕切るという体制を取っている わけではない、ということが見えてくる。江戸時代の都市や村落の支配に典型的に見ら れるように、大枠を支配者が決定し後は一種の自治組織を存続させる。その大枠の中で あたかも自発的に、被支配者が支配者に従属・協力してゆくのである。南雲氏の述べら れた方向性は、結局そのような支配のシステムに組み入れられてしまうものではないか 。 時間の関係からもその場での徹底した討論は難しく、やりとりはいわばペンディング のまま終了した。「一定の緊張感を含んだ議論」の核心は、おおむねこのあたりの事柄 に認められるかと思われる。 以上は、当日傍聴の記憶による不正確な「まとめ」に過ぎない。 しかし、この集会でなされた議論は、都立大・首大のみならず日本の大学ないし社会 の今後を考える上でも重要・有益であろう。集会での発言のテープなどがあるなら、南 雲氏の講演内容や「非就任者」からのコメントなどが公開されることが望まれるし、当 日発言された「非就任者」の見解なども、改めて整理・公開されることが期待される。 04年2月、日比谷公会堂での「都民の会」主催の集会には3000名近い人々の参 加があった。05年4月のこの集会には150名である。集会の性格は異なるにせよ、 この現実を関係者は直視すべきである。と同時に、我々もまた04年2月集会で飛びか った「言葉」の重みを、改めて噛みしめる必要があろう。
コメント(1):[2005/04/27][2005/05/01]加筆修正
「それに対して,会場からはA路線の立場の人からのコメントがあり,かなり騒然
となったと聞いている。」と私が言ったのは,あくまでも人づての情報であった
から,「騒然となったことはなかった」と言われれば,そうだったのか,と改め
て思うしかない。しかし,
[2005/05/01挿入]また,[2005/05/01挿入終り]
shig氏の4月2日の以下のコメントを読むとんで,
「時間の関係からもその場での徹底した討論は難しく、やりとりはいわばペンディング
のまま終了した。」という説明以上のものを感じてしまうのだが
[2005/05/01挿入]った(伝聞に基づく私の一方的
な思い込み)。その後,shig氏は,
改めて「騒然としてはいなかった」旨のコメントをつけている。[2005/05/01挿入終り]
時間が無かったことは,ゆうに想像できるが,発言を途中で遮ったのは事実のよ
うで残念なことだ。
4月2日 ・都民の会集会総会 「都立の大学を考える都民の会」の集会・総会開催。集会は南雲智前東京都立 大学人文学部長の講演。「最後まで戦った人」というイメージが強いためか、 現状を意外に楽観的に捉えていることに驚いてしまった。それに対して質疑応 答のときに首大(首都大学東京)非就任者の会 -のメンバーが反対意見を述べ ていたのも当然に思えた。ここで議論が始まれば参加者の大学の現状に対する 理解が深まったはずなのに、議事進行を理由にそれを遮ってしまった司会者の 行為には納得できなかった(その司会者を怒鳴りつけていた男性もいたがそれ はそれでどうかと思う)。会の今後の活動について話し合う総会の部は途中で 所用のため退出しなければならず、どういう決定がなされたか分からない。印 象としては活発な活動は期待できるような態勢になっていないように感じられ た(あくまで印象)。たとえば上記のような意見の対立があるなかで会の活動 を具体化していくのは大変だと思う。(追記:できたら後ほど補足します)
「江戸時代の都市や村落の支配に典型的に見られるように、 大枠を支配者が決定し後は一種の自治組織を存続させる。その大枠の中で あたかも自発的に、被支配者が支配者に従属・協力してゆくのである。南雲氏の述べら れた方向性は、結局そのような支配のシステムに組み入れられてしまうものではないか。」 と,ある非就任者の方の意見を「意見広告の会事務局」がまとめているが, 内容的に極めて当を得ていると感じた。「法制史」に関して,私は無知だが, 日頃感じている「日本人的発想」に,<原理原則を大切にしない姿勢>を 私は感じているからだ。
簡単に言ってしまえば,原理原則がどうであれ,長いものには一応巻かれてお いて,現実面ではこちらが思ったようにやればよい,という姿勢である。原理や 原則は,しょせん建前であり,現実は違うのだという認識があるように思える。 したたかな現実主義とも言われて,日本ではこのような立場が暗黙の内に力を持 つようなところがあるが,私は,原理原則を建前ではなく正面きって主張できる ようにならないと,日本,いや日本人は世界から孤立することになるのではない かと恐れている。
日本国憲法第9条の解釈しかり。書かれていることをすなおに読めば,自衛隊の 存在と自衛隊の海外派遣が違憲であることは容易に想像がつく。自衛隊は,英語では Japanese Army であり、日本がいくら「自衛隊(The Self-Defense Forces)は軍隊で はない」と言っても,それは,the Forces(=軍隊)なのである。The Self-Defense Forces は,「自衛軍」と訳されるべきものなのだ。従って海外では,当然、 「自衛隊」を軍隊として見る。でも,日本の政治家達は,軍隊ではないと言ってきた (もっとも,正式に軍隊として認めるような改憲をしようという動きが活発化し ているので要注意であるが)。
中国の近頃の反日運動の中でも話題になったが,日本では第二次世界大戦の「連 合国」と「国際連合」は全く別のものだと考えているようなところがある。 どちらも The United Nations なのだから,同じ組織(の発展形)と考えるのが 普通である。ちなみに中国語では,同じ言い方であり,日本のように訳し分ける ことはない。ここでは,同じ表現を都合良く解釈して, 言い換えてしまう日本人と,その背景を知らないでいる無知な日本人の姿が見えてくる。
「君が代」の歌詞が,天皇とは無関係だ,というのも信じられない説明だ。 ドイツにある日本の大使館のホームページに,君が代のドイツ語訳が掲載され, すなおに「君=天皇」の解釈をしたドイツ語訳を掲載したら,誤解されるから やめろ,という声があがった。これは明らかに変。「君= You」という解釈が できると言ってのけた総理大臣が過去にいたが,この歌詞の成立過程を無視した 誤訳としか言いようがない。
明確に言葉で表現したことを,「実は違うんだ」といって逃げるのは 間違っている。いや,間違っているというよりは,誤解を生み,将来,信用を失 うということを意味する。逆に,ごまかして言い逃れをするために「ことば」を 変えたり,無理やりこじつけの解釈を与えては,本当の意味での問題解 決から遠ざかってしまう。
話を元に戻そう。1つの地方自治体が,自分達の利益になるように大学を変える ことは,大学の理念から言って間違っている。学問というのは,1つの 地方自治体の利益と比べられるべきものではない。敢えて言えば,人類全体ため になるような,はるかに普遍的な存在なのだ。これからの時代, 利益を無視するような形で大学運営をすべきでない,と主張する人達がいる。 そうだろうか? 利潤追求の会社と同じ発想で,人類の智慧を継承し発展させよ うと研究を続ける人達を,切り捨てるのは愚かなことである。
貧しくとも次世代の人々を育てる教育から予算を削ってはならない。当面の社会 の利益,大学卒業後の就職に有利なことだけを大学教育にしてはならない。 「学問を通しての人間教育」がなされなければ,大学生は,卒業後, より良い次世代の社会,新たな求められるべき価値観を創造していくことができな いだろう。社会はますます悪くなる。
私の考える原理原則は,こうだ。 学びたいという意欲を持つ学生に対して,大学は自由に学ぶ機会を与えるべきだ。 大学教員(=研究者)は,それらの学生にアドバイスをし,水先案内人となる。 <すぐに社会で役立つような知識や技能を身につけさせること> は,二の次でよい。 そして,学びたいという欲求を持たない者は,大学に来る必要はない。 社会に出てすぐに役立つ知識や技能を身につけたいのなら,専門学校に 行けばよい。
原理原則は,はっきりと言葉で表現して実践することで意味を持つ。 「現実は違うんだから,まあいいじゃあないか」という態度では,言葉は意味を 失い,その言葉を話す人は信用されなくなる。
最後に,小さな訂正を1つ。「意見広告の会」の「04年2月、 日比谷公会堂での「都民の会」主催の集会には3000名近い人々の参加があった。」 となっているのは,2000人の誤り。会場では,1800人という説もあった。
コメント(2):[2005/04/27]
元人文学部長の南雲氏の語ったとされること, つまり「教職員の意識・行動をまとめることがいかに困難であった」かは確かに本当だろう。 その努力には敬意を表する。また,心身共に疲労困憊していたこともよく知っている。 ただ,その努力とは別に,今となっては様々な局面で, もう少し頑張れたのではないかという感慨が残る。そして,「首大は,当初 の構想よりだいぶよくなった」という認識には共感できない。それは,現実的に 教員の努力が一部認められた,という所に焦点を当てることに疑問を感じるから だ。現実的には,<東京都のほぼ思ったような組織と規則が作られてしまった> という部分が大問題である,と考えるからだ。
余談だが,南雲元人文学部長は,メールによるコミュニケーションを嫌い, ご自分ではインターネットのサイト情報を見ることはめったになかったと聞いて いる(「やさしいFAQ」の内容は,時々,管理本部の人から聞いていたとか)。 総長は,頻繁にメールを使い,ネット情報を日々参照していたようだ。
コメント(3):[2005/04/27][2005/05/01]加筆修正
「第2点。都立大解体・首大の発足の経過は、
東京都による都立大つぶしの攻撃に対する反対派教職員の敗退の過程と見る向きもあるが、
必ずしも敗退とも言い切れない」という「意見広告の会事務局」の注釈に
よる南雲氏の意見のまとめに
対して。
「必ずしも敗退とも言いきれない」かもしれないが,私は,基本的に,
教員側の主張の根本的なところが受け入れられずに「首大」が成立したのだから,
敗退だと考えている。この点に関しては,いずれ総括をしたい。