雑多情報

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あ、NCISTom Lehrer の曲が!  [08/07/2017]

今頃になって、NCIS ( = Naval Criminal Investigative Service) なんかを時々見ている。 『NCIS ネイビー犯罪捜査班』と日本語では訳されているが、とにかく話の展開が速い。徹底したコンピュータを使った捜査をし、終わりは大抵の場合あっけない。 「あっ、終わっちゃった」という感じ。日本の犯罪捜査もののテレビドラマを見ていると、だらだらと事件後の話が続くこともあるが、それがほとんどない。 ちょっとおおげざだが、文化の違いを感じてしまう。 あの後、どうなるのだろう、とついつい想像してしまうが、話は時々つながって別の回の話にかかわることもある。 監視カメラ、あらゆるデータベースからの情報取得、機密情報の不正アクセス、「えっ、そんなことできるの?」とか、「そんなこと、していいの?」というようなシーンが次々と登場する。 いやあ、恐ろしい世界だ。銃が使われるのとあいまって、日本ではありえない世界だろう。

NCIS は、CBS で 2003年から始まったそうだが、 たまたま見たのは、NCIS Season 5 Episode 3: Ex-File(シーズン5第3話 ギブスをめぐる三角関係)だ。 ファイル交換ソフトの話をアビー(Abby) がしている場面で、 マクギー (McGee) が次のようにある曲を説明していた。

No, no, no, it recites all the elements. It's a comic ditty written by a Harvard math professor in the late 50s. It's really catchy.

ここで it が指すのは、 "The elements" song. (「元素」の歌)だ。 「ハーバードの教授によって1950年代後半に書かれたこっけいな短い歌だ」というのは本当の話で、 声を聞いた瞬間に Tom Lehrer だということが分かった。 Tom Lehrer というと、昔、 Pollution | YouTube を授業で歌った記憶がある。 Tom という名前と Lehrer (これは、ドイツ語で「先生」という名詞)という苗字、 不思議な名前だと思っていたら、なんと本当にハーバード大学の数学の先生(!)だった(参照:Tom Lehrer | Wikipedia)。 もっとも、シンガーソングライターとしても広く知られ、その歌詞に含まれるパンチの効いた風刺は有名だ。

Ein Spargel wächst immer noch.

「元素」の歌(The Elements) は、手元にあるカセットテープにも入っていた。 それはカセットテープ 2本入りの The Best of Tom Lehrer. (1994) Polygram. ISBN 1 85849 858 9 の 3 番目にも入っており、 カセットテープのジャケットには NOTES ABOUT THE (AHEM...) SONGS の部分に次のような解説がついている。

The Elements is simply a setting of the names of 102 chemical elements to a well known tune by Sir Arthur Sullivan; the words of the last line were true as of the date of the recording.
From the jacket of The Best of Tom Lehrer. (1994)

この曲の収録の際は、元素周期表の最後は、原子番号102番のノーベリウム (Nobelium; No) だったそうで (2017年8月現在で、元素周期表の最後は、原子番号118番のオガネソン(Oganesson; Og) である)、この「元素」 の歌の 6番の最後のラインは、確かに原子番号 97番から、 バークリウム(Berkelium; Bk)、 カリホルニウム(Californium; Cf)、 アインスタイニウム(Einsteinium; Es)、 フェルミウム(Fermium; Fm)、 メンデレビウム(Mendelevium; Md)、 ノーベリウム(Nobelium; No) となって終わっている(実際にはリピートの入っているアレンジがあるので、このラインが最後になっていないこともある)。 ちなみに、それ以前の 96の元素がこの歌の中でどのように配列されているのかは謎である。 原子番号順になっているのは最後のラインだけで、 族で並べられているわけでもない。 もちろんアルファベット順でもない。 考えられるのは、音節の数ですべての元素を分類し、 曲に合わせて適当に配置した、という方法。

さて、この曲は、ギルバート & サリヴァンによるイギリスのコミックオペラ『ペンザンスの海賊』(The Pirates of Penzance, 1880) の中にある有名な早口歌(patter) で、 俗名 Major-General's Song (正式名は、I am the very Model of a modern Major-General)と呼ばれるものだ。 サー・アーサー・シーモア・サリヴァン (Sir Arthur Seymour Sullivan) が作曲者で、 ウィリアム・S・ギルバート (William S. Gilbert) 作詞である。 これも、ななかな面白い曲で、2項定理(binomial theorem) や、直角三角形の斜辺の2乗(the square of the hypotenuse) とかが出てくる理系の心をくすぐる歌だ。I Am the Very Model of a Modern Major-General | YouTube で聞くことができる。傘を持って登場する Major-General に注目。

そもそもなんで早口言葉や、早口の歌に魅力を感じるのだろう? Tom Lehrer の「元素」の歌も、圧倒的な速さで元素名をまくし立てるだけ、 と言ってもいいのだが、(私を含めた)一部の人たちにとっては魅力的なのだ。 あのハリー・ポッター役を演じたダニエル・ラドクリフ(Daniel Radcliffe) も、この「元素」の歌を歌えることを告白して、実際に歌っている映像も YouTube にある。 早口言葉や早口の歌というのは、一種のスポーツなのかもしれない、 というのが私のとりあえずの結論だ。

ところで、元素名を見ていると、日本語名と英語名で著しく異なるものがあることに気がつく。 1つは、日本語ですでに定着した言葉がある場合。 水素が Hydrogen で、 炭素が Carbon、 窒素が Nitrogen のような例だ。 もう1つは、 カリウムが英語では Potassium、 クロムが英語では Chromium、 マンガンが英語では Manganese のような例だ。 これらのカタカナ日本語は、実はドイツ語から来ている。 つまり、 カリウムがドイツ語では Kalium、 クロムがドイツ語では Chrom、 マンガンがドイツ語ではMangan なのだ。 こんな視点で元素を見てみると、それはそれで面白かったりする。 ちなみに、元素名はすべて中性名詞ということになっている。

The Elements Song by Tom Lehrer (Lyrics)| ibm.com に歌詞と若干の説明の付いた歌詞が PDF になっている。 調べてみると、本当に 102 の元素が繰り返しなしにすべて含まれていることがわかる。 あらためて Tom Lehrer はすごい、と感じる。 ただ、ピアノの弾き語りで楽しそうに風刺の効いた歌を歌っても、 それを受け止められる聴衆がいないとダメ。 残念ながら、そういう聴衆はだんだん少なくなってきたような気がする。 反知性主義の時代なのかもしれない。

なお、元素の周期表(The Periodic Table of Elements) が、Tom Lehrer の歌でどのように埋められていくのかを分かるようにした Timwi Heizmann によるアニメ付きのものは、 Tom Lehrer's "The Elements" animated | YouTube にある。 ご参考までに。


とても遠く、とても近い。 [06/14/2017]

ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders) の映画に、昔 In weiter Ferne, so nah! というのがあったが、 とっても遠いのに実は近い、そんな逆説的な世界はけっこう多く存在する気がする。 少し比喩的に語れば、とても遠く離れていても、実は近くに感じるというのは、まったく似ていないものがよく見ると極めて似ている、という関係に近い。 比較的最近では、Subway to Sally の曲にも So fern, so nah というのがある。 人間関係の遠近というのも、遠いような近いような、なんとも不明なところがある。

そもそも相容れない 2 つの概念が並列されると(連言で結ばれると)、 それは矛盾になるのだが、レトリックの世界では撞着(どうちゃく)話法とか矛盾語法と和訳される oxymoron という表現法がある。 an open secret (公然の秘密)のように、 「公然な」という概念は「秘密」という概念と逆の関係にあるので、 これは本来矛盾でしかないが、考えてみると結構使われている(無意識に使われるものが多々ある)。 Renaissance Man の中では、 oxymoron の説明の例として、 military intelligence が挙げられていたのが印象に残っている。 日本ではおそらくこのような意識はほとんどないだろうが、 military は、 intelligence の対極にある、という考え方だ。

さてさて、今回は、実は非常に単純な対比をする。 オーストリアのザルツブルク(Salzburg) には、 CAFE-KONDITOREI FÜRST というケーキ屋さん兼カフェがある。 1884年に作られたお店だが、1890年、お菓子職人のパウル・フュルスト (Paul Fürst) が、 モーツァルト・クーゲル(Mozartkugel) というチョコレート菓子を作ったとされる。

で、この「モーツァルト球」、あるいは、「モーツァルト・ボール」かなり有名なチョコレート菓子で、ドイツ語圏に旅行するとあちこちで売っている有名な商品だ。 それこそ、街中のスーパーマーケットにも売っている。 「ボール」の中には、マジパン(ドイツ語では、Marzipan なので発音的には「マルチパーン」) と、ヌガー(Nugat が入っているのが特徴で、 包みの外には、もちろんモーツァルトの姿が描かれている。 そして、いろいろなメーカーが作っているので、それぞれ味も形状も微妙に 違う。 もちろん、このような状況なので、法廷でもそのパテントをめぐって争われたこともあるようだ。

日本では、2017年2月6日から「モーツァルトチロル」が市場に出現した。 ★チロルチョコ株式会社★ で確認できるが、「モーツァルト チロル」は税込みで42円で購入できる。 チロルチョコ株式会社は、「業界初!マジパン入りチョコ」、「オーストリアのお菓子モーツァルトクーゲルを再現。」といったキャッチコピーを使っている。 チロルチョコ株式会社は、ご存知のように激安商品で、かつ、さまざまな味の商品を世に出している非常にユニークな会社だ。

ここまでくると本日のお題は見え見えだ。 ザルツブルクと東京、とっても遠いところで、 モーツァルト・クーゲルを合言葉に作られた 2つの商品。 もちろん、チロルチョコ株式会社は、商品名として「モーツァルトチロル」 を選択している。クーゲル(=球)ではない! この2つの商品を並べてみた。 一番左は、ただお隣に並べたもの。真ん中は、包みをはいだところ。右側は、ナイフで半分に切ったもの。

Mozartkugel aus Salzburg vs Mozart-Tirol Schokolade   Mozartkugel aus Salzburg vs Mozart-Tirol Schokolade   Mozartkugel aus Salzburg vs Mozart-Tirol Schokolade  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この2つの商品は、こんなに近くに並べられることを誕生時には想像もしていなかったはずだ。 まず包みを外してみると、以外な姿があった。 モーツァルトクーゲルは、単純な球体かと思いきや、こんもりとした「おへそ」のような出っ張りがある。 ひょっとすると、球体を作った後で穴をあけで中身を注入して、外側と同様なチョコレートで蓋をしたのかもしれない。 モーツァルト・チロルは、その独特な四角柱(立体化した台形?)の表面に線画がかかれている。 ここでは解像度を下げてあるので見えないが、これは変形したト音記号のような印象を与えるものだ。 飾り文字のエル(L)のような、あるいはエフ(F) のようにも見える。くるくる巻いているツタのイメージに近いかもしれない。

そして、ナイフで真っ二つに切ってみると、中身に MarzipanNugat の入っている Mozartkugel と、 マジパンが入っている「モーツァルト チロル」の違いが見える。

さて、オリジナルの Mozartkugel の味だが、 チョコレートの味が「濃く」(<濃度の表現>)て、「深い」(<空間表現>)。 ガツンとくる(<打撃表現>)確かな味わいで、しばらく口の中がチョコレートに占領される(<戦争表現>)。 中身の MarzipanNugat は、このチョコレートの味の後では、それほど存在感を発揮しない。 しばらくたってから、チョコレートの味の隠し味のように登場する。 おや、このチョコレート以外の不思議な味はなんだろう、と食べた者を不思議の世界へ連れて行く。

これと比べると「モーツァルト チロル」は、さくっとした歯ざわり(<接触表現>)で軽い(<重さの表現>)。 チョコレートの存在感はほとんどない、と言ってもよい。 口の中では、すぐにマジパンのザラザラとした(<接触感覚>)舌触りとともに、 独特の甘さと香りが広がり、あっという間に口の中は「チロル・ワンダーランド」となってしまう。 このワンダーランドに飲み込まれて(<飲食表現>)しまうと、 さきほどまでの現実世界を忘れ、甘い香りの穴に落ちてしまう。 やがてマジパンの香りが口の中から徐々に消えていくのだが、 余韻がかすかに残るので下手をすると次の1つに手が伸びてしまう。

似て非なるもの、という言い方があるが、おそらくそんな2つのチョコレートだった。


いったい誰が何をコントロールしているのか?  [01/16/2017]

2016年は、イギリスが国民投票の結果、EU離脱を決定したこと、 11月のアメリカ大統領選挙で Donald Trump 氏が次期大統領に選ばれたことは、 大手メディアの予想と異なった結果となり注目を浴びた。 一方、日本では、大手メデイアの世論調査では、 相変わらず安倍内閣の支持率が高止まりしている。 例えば、 「報道ステーション(テレビ朝日)調査」2016年12月では安倍内閣の「支持する」は 51.6% だった。 しかし、Facebook の2016年12月集計の安倍内閣の支持率では、「支持する」がわずか 6.4% であった。 この差は何を意味するのだろうか。

2016年12月18日の安倍内閣支持率(「報道ステーション(テレビ朝日)調査」2016年12月)
「支持する」 --- 51.6
「支持しない」 --- 31.0
「わからない、答えない」--- 17.4
【調査日】2016年12月17・18日(土・日曜日)【調査方法】電話調査(RDD方式)
【対象】全国18歳以上の男女1728人【有効回答率】63.7%
出典: 2016年12月調査|世論調査|報道ステーション|テレビ朝日

 

2016年12月の安倍内閣支持率(FacebookPoll
「支持する」 --- 6.4(731 votes)
「支持しない」 --- 91.3(10,490 votes)
「どちらでもない」--- 2.3(268 votes)
11,489 answers
出典:FacebookのPoll

ここにきてクローズアップされているのは、新聞やテレビのような大きなメディアが日常的に伝えている情報が、 実はそれほど信用できないのではないか、いや、かなり信頼性が乏しいのではないか、という疑念である。 とりわけ、世論調査はクセモノである。 いまさらながら、現代社会では情報は操作されているものである、 と考えるのが妥当かもしれない。 以下、いくつかの論点に関して考えていることをまとめておく。

(1)   情報源が偏向している(バイアスがかかっているデータを用いている)。
今、仮に日本に住む18歳以上の有権者を対象に、RDD (Random Digit Dialing) 方式の調査で現内閣支持率を調べることにする。 この方式は、その名の通り、コンピュータを使って電話番号を無作為に発生させ調査をするもの で、現在マスメディアでは広く用いられている手法だ。 5000件電話をして、2000件応答があり、その内、適格者(電話番号が会社組織ではない個人で、18歳以上の有権者)が1200人いたとしよう。 これで、内閣支持について尋ねて、「支持する」、「支持しない」、「どちらでもない」の3つの答えから選択してもらう。果たしてこれで、日本人全体の内閣支持率が分かるだろうか?

RDD 方式の問題点は、すでにあちこちで指摘されている。 少し考えただけでも、以下の 4つの問題点が頭に浮かぶ。

  1. 固定電話を持っている人しか対象とならない。
  2. 突然かかってきたRDD調査の電話に、冷静に判断して調査に応じてくれる人は多くない。
  3. 固定電話でも、見知らぬ人からの電話を受けない人が一定数いる。
  4. サラリーマン等で、普段自宅にいる時間が少ない人は、対象にならない可能性が高い。

近年の若者は、次第に固定電話を持たない方向になっているという。 これは、両親と同居している若者を指しているのではなく、親元を離れて独立している若者たちの場合である。そもそも、働いていて日中自宅にいることがないのならば、固定電話は不要なのだ。 便利なスマホですべてを済ましてしまうというやり方は、極めて理にかなっている。 自宅に固定電話があって、固定電話でさまざまな人たちとコンタクトをとったり、友人と話をしたりする時代は、終わりつつあるのではないだろうか?

現在、基本的に固定電話にかかってくる電話で重要なものはほとんどない、 というのが私の実感だ。固定電話にかかってくる電話の 80% は、 SPAM だ。 メールなら、SPAM フィルターでかなり自動的に削除できるが、 固定電話ではそれが困難である(「電話番号非通知」の電話にはでない、という選択肢はあるが、それだと厳しすぎることがある)。

ちなみに、私は自宅で仕事をしている時に、RDD方式の調査が来たことがあるが、少し聞いてすぐに電話を切った。 そんな時間がない時に電話がかかってくるのだ。仕事の邪魔をされてまで、RDD方式の調査に協力はできない。 RDD方式の調査に快く時間をさいて回答する人たちというのは、果たしてどのような人たちなのだろうか? その人たちの意見は、日本を代表する意見だろうか? 私の個人的意見だが、現時点で RDD方式の調査に快く時間をさいて回答する人たちの意見が、日本の国民の持つ意見を代表するとは思えない。 それを、大々的に発表してあたかも世論が特定の方向を向いているかのように報道する大手メディアは、大きな間違いを犯しているのではないだろうか。 佐藤卓己 (2006)『メディア社会』は、第5章 24 「劣化する世論調査」で、以下のように述べている。

 世論調査の品質が劣化した原因は、まず面接調査の回収率の著しい低落である。 一九八〇年代後半までは八〇%を超えていた面接調査の回収率も、現在では六〇%にようやく届く程度である。 調査対象者の不在も多いが、もっと深刻なのは回答拒否の増大である。 個人のプライバシー意識が高まり、理屈ぬきの非協力が急速に広まっている。 多忙な都会人にとって、直接自分の利益にならない調査に貴重な時間を奪われることは気持ちのよいものではない。
 それは電話によるRDD(ランダム・ディジット・ダイヤリング)でも同じことだろう。 携帯電話の普及によって、従来の家庭用電話対応だけでは若い世代のサンプルが採りにくいことも問題である。 だが、それ以上に本質的なことは、私生活の空間に突然侵入する電話に快く回答してくれる人が、「民意」の平均像からは逸脱していることである。 しかも、電話調査での回答者は多くの場合、ただ質問に瞬間的、機械的に「反応」しているだけであり、質問の内容を十分考えて答えているとは限らない。
出典:佐藤卓己 (2006)『メディア社会 ― 現代を読み解く視点』岩波新書 1022, 岩波書店、p. 113.

(2)   前提が間違っている。
どんな調査でも、前提が間違っていては話しにならない。 世論調査の前提と言えば、調査に用いられる表現(説明文と選択肢の文)の妥当性が当然問題となる。 谷岡一郎 (2000:165-166) 『「社会調査」のウソ』第4章 「さまざまな『バイアス(偏向)』」「あくどい誘導的質問」は、 「二重質問」の例として、1996年の沖縄県民投票の投票用紙の例をあげている。 以下、ルビを省略して改行を入れた形で引用する。

**********************************************
日米地位協定の見直しと
県内の米軍基地の整理縮小について
賛成の人は賛成欄に○を
反対の人は反対欄に○を
記入してください。

賛成 |    
反対 |    

<注意> ○のほかは何も書かないでください。

日米地位協定の見直し及び基地の
整理縮小に関する県民投票

***********************************************
出典:谷岡一郎 (2000)『「社会調査」のウソ:リサーチ・リテラシーのすすめ』 文春新書 110、文藝春秋、p.166 より一部改変(ルビ削除、改行追加)

日本経済新聞(夕刊)1996年9月3日に掲載されたこの県民投票用紙の質問は、谷岡一郎 (2000: 165)が指摘するように、「肉や魚をスーパーで買いますか?」と尋ねるのと同じ二重質問である。 言うまでもないが、肉をスーパーで買っても、魚は魚屋で買う人にとっては、「はい」、「いいえ」で一律に答えられない。 これほど自明なことを利用して、県民投票の用紙に書かれる言葉を決めるというのは、意図的にこのような質問をする側の悪意を感じざるをえない。 1つの質問にだけ「はい」と答える人を初めから除外するという前提は、公平性を著しく欠くものであり、間違っている。

(3)   情報が操作されている(誰かが積極的に介入している)。

素早い決断と実行力、そして結果を評価することに重点をおいた社会では、 じっくり時間をかけて議論して民主的に決定を下すという方法、 そしてその背後にある理念が軽視される傾向がある。 そんな中で、集中的に情報を管理する権限を持つ人が意図的に情報を操作する(情報をねじ曲げる)ことが起きる。 宣伝活動、広報活動の中では、おそらく日常的に行われており、 そういう活動に従事する人たちは、おそらくもう麻痺しているのではないだろうか。

例えば、ウソの内容の広告をするのは禁止されているはずである。 でも、現在のテレビコマーシャルは、ウソに満ちているといっても過言ではない。 「これはイメージです」という但し書きが入っているのはまだかわいい方だ。 「一ヶ月、198円から」のようなパターンの広告では、「から」が入っているのでウソではないといえるようになっている。 「から」を「〜」にすれば、もっと目立たなくなる。 <えっつ、そんなにお得なの?>と思わせるような広告は、 数ミリ秒の読めないような文字サイズの但し書きが一瞬表示される。 それが書いてあるから、ウソではない、と主張できるようになっている。 <あれ、この人こんな会社に勤めていたっけ?>と思わせるような、タレントを使ったコマーシャル。 <ありゃあ、ウソだろう>と思わせるが、「いや、俳優の演技ですから。」と言えば、ウソつきとは言われない。 健康食品、ダイエット食品、特定の病気に関する薬など、本当に効力があるような意見を登場人物に言わせておいて「あくまでも個人の感想です」とやる。 こういうコマーシャルを作る人たちには、良心の呵責はないのだろうか?
さらに、政治活動でもほとんど同様なことが行われている。

(4)   ネットに関与する人々が特定の情報だけを増幅している。

これは、近年 SNS を通じた情報発信の問題点としてかなり意識されるようになった。 Facebook にせよ、 Line にせよ、 Twitter にせよ、 情報の拡散には実に大きな力を発揮する。 瞬間的に多くの人に情報発信できる、という意味では非常に有効な手段なのだが、 情報の真偽は問わずに発信されるので、そのインパクトは大変な状況になっている。 その増幅された情報を、さらにテレビや新聞が後追いすることもある。 そうすると、それがまたネットに流れて、増幅される。

(5)   ネット上の{人工知能,ウィルス,ロボット,ボット,スパイウェアなど}が特定の情報を拡散・増幅させている。

ネット上で情報を拡散させる実働部隊は、{人工知能,ウィルス,ロボット,ボット,スパイウェアなど}である。 近年、この数はおびただしいほど増え、いわゆるビッグデータの蓄積をしている企業の情報収集に貢献している。 特定のサイトで、どの地域の人が、どのような商品を購入したか、購入しようとしたか、どれくらいの時間、特定の商品を見たか、 というような商品購入に関する情報だけでなく、 従来からあるどのサイトから来て、どのサイトへ行くか、どんな検索をしているか、などの情報と組み合わせデータを蓄積する。 膨大なデータをためこみ、消費者のデータとして活用するのは、もはや多くの企業にとって常識となっている。
そして、このビッグデータの活用法は、政治の世界でも利用されつつある。

daemons are working for controling seron.

かくして、特定の情報だけが増幅されるのをうまくプロパガンダに利用している人たちがいる。

ここで「報道ステーション|テレビ朝日」と「Facebook の Poll」による内閣支持率の話に戻ってみよう。 片方の結果が「「支持する」 --- 51.6% 」で、もう片方の結果が「6.4%」だったら、 普通、どちらかが間違っているのではないか、と考える。 どちらかが、実態にあっていない結果を出したのではないか、と。 しかし、可能性としては、 そもそも両方の調査ともに情報源が偏向していたのかもしれず、 調査方法の前提が間違っていたのかもしれず、 誰かが積極的に介入して、裏で情報を操作していたのかもしれず、 特定の情報だけが増幅されてしまった結果なのかもしれない。

さらに、ブルデュー (1991/2014) 第18章「世論なんてない」が問題にしているように、 世論調査は暗黙の内に次の3つの公準に関わっていると思われる。

第一の公準は、どんな世論調査でも、誰もが何らかの意見をもちうるということを前提にしている、 つまり言い方を換えれば、誰でもそうしようと思えば簡単に意見を作ることができるということ前提にしていることです。 私は素朴な民主主義的感情を逆なでするのを覚悟の上で、まずこの公準に異議を申し立てようと思います。 第二の公準は、すべての意見はどれも優劣がない等価なものだと考えられていることです。 そんなことはないのであって、同じような、現実的な力をまったくもたない意見をいくら積み重ねても意味を欠いた人工物を作り出すだけだ、 ということは証明できると思います。 第三の公準は、暗黙のうちに認められているものです。 それは、誰に対しても同じ質問をするという単純な事柄のなかには、 それらの問題に関して何らかの合意が存在する、別の言い方を換えれば、 それらの問題は質問されて当然だとする同意があるという仮説が含まれていることです。 これら三つの公準があるために、 方法論的厳密さの一切の条件がデータの収集と分析のなかで満たされているときでさえ、 いつのまにかさまざまな歪みが次々に生じてしまうのです。私にはそう思えてなりません。
出典:ピエール・ブルデュー著、田原音和(監訳)(1991/2014) 『社会学の社会学』藤原書店、287-288.

ブルデューは、世論調査がこの3つの公準に関わっているために、そもそも歪んだものに しかなり得ないと考えている。そして、次のように主張している。

世論調査が呈示している問題構制は政治的利害に従属しており、このことが回答そのものの意味と調査結果を公表することの意味とを、 どちらもきわめて強力に操作しています。 世論調査というのは、現状では政治行動の道具になっているのです。 というのも、世論調査の最も重要な機能は、おそらく、個人の意見の純粋に加算的な総計として一つの世論だけがあるのだという幻想を押しつけることにあるのであり、 またさまざまな意見の平均を取ることができるとか、あるいは平均的意見というものがある、という考え方を押し付けることにあるからなのです。
出典:ピエール・ブルデュー著、田原音和(監訳)(1991/2014) 『社会学の社会学』藤原書店、289-290.

そして、最初の問題に戻ることになる。 いったい誰が何をコントロールしているのか? いろいろな人が、いろいろな団体が大量のデータをせっせと蓄えていることは事実である。 マイナンバーの導入で、政府も個人情報を税金絡みで、より正確に収集できるようになった。 鉄道系カードもさまざまなところで使えるようになり、膨大な消費者の行動を記録できるようになった。 カーナビに内蔵される GPS は、車の位置を刻一刻とメーカーのコンピュータに送信しているはずだ。 デジタル・テレビは、コンピュータになったので、 データ放送を通じて、ポイントを貯めると何かがもらえるといって、 個人情報を収集する道具となった。 そして、消費者は、ほんのわずかな値引きにささえられたポイントカードで、少し得をした気持ちになって個人情報をさまざまなお店で提供している。 しかも、喜んで。 かくして、膨大な個人情報がコンピュータに蓄積され、 ビッグデータの活用とか言われて企業や各種団体に「消費者行動の調査」に利用されるのだ(そして、さまざまな理由でときどき流出する)。 ネットでは、呆れるほど多くのクッキーをしかけてくるし、そのデータをいろいろな専門会社にまわして解析してもらっている。

いったい誰が何をコントロールしているのかは、よくわからない。 よくわかるのは、消費者はあらゆるところでせっせと個人情報を提供している(漏らしている)、ということだ。

そんなにデータをとってどうするの、なんてね。思うわけです。 ビッグデータですべてが分かると思ったら大間違いです。


Windows 10 で撃沈、ThinkPad 240 は真っ暗に!  [10/30 - 10/31/2016]

10月の予定が大きく狂ってしまったのは、9月17日に突然起きた Windows 10 のクラッシュからだ。 思い起こしてみると、8月の Windows update あたりからかなり不安定になっていた。 ハイバネーションができない、フリーズするという状況が週に数回起こる状況になり、 ThinkPad 240 のハードウェア・チェック・プログラムを走らせて見たものの、 特に悪いところはないように見えた。

Windows 10 の許せない挙動の 1つに、 Windows update の後に、いきなり再起動してしまうディフォールトの設定だ。 私の場合は、 Windows 10 の上に、 Virtualbox をのせ、 その上で Vine Linux 6.3 を動かして仕事をしていることが普通なのだが、 いきなり「再起動します」とかいうメッセージが出て、何の選択肢もなく再起動されてしまったことが過去に数回あった。 こういうことをされてしまうと、作業中のデータを失うばかりか、 Linux もクリーンにシャットダウンできないので、後で chkdisk をせざるを得なくなる。 どうしてこういうユーザーの使用状況を無視したディフォールトの設定を Windows/Microsoft はするのだろうか? 「いきなり電源を落としてはいけない」のは常識ではなかったのか?

もっとも、 Windows 10 (あるいは Windows 8/8.1)の方で、 ユーザーが動かしているすべてのプログラムを、シャットダウン時に、 きちんと状態を保持して(処理中のデータを保存して)終了する仕組みを導入しているのなら、 私も何も文句を言わない。でも、そんな風にはなっていないですよね?

「Windows 10」と「いきなり再起動」をキーワードに検索すると、同じような「いきなり再起動」で困っている人たちの声があふれている。 このような設定は、実は Windows 8 から始まって おり、このディフォールトの設定を変えるためには、「システムの詳細設定の表示」→「起動と回復」の項の「設定」をクリック。 「システムのプロパティ」の窓の中の「自動的に再起動する」のチェックを外して、「OK」をクリックすればよい。 もっと丁寧な図解入りの説明は、ネット中にいろいろあるのでそちらを参照して欲しい。

さて、そもそもなんでこんな「乱暴なディフォールトの設定」がまかり通ってしまうのだろうか? そのひとつの答えは、ASCII.jp の「調査依頼:Windows Updateで勝手に再起動されたくない!」にあった。

調査依頼 Windows Updateで勝手に再起動されたくない!
Windows 10ではWindows Updateが強制的に適用されるようになった。 従来、デジタルに詳しくないのに、面倒だからと無効にしてしまい、ウイルスの被害に遭ったりする人が多かった。 強制適用により、一般ユーザーも安全にWindowsを使えるようになったのは、頼もしいところ。
出典:ASCII.jp:Windows Updateで勝手に再起動されたくない!|ズバッと解決! Windows 10探偵団

「従来、デジタルに詳しくないのに、面倒だからと無効にしてしまい、ウイルスの被害に遭ったりする人が多かった」 から、「Windows 10ではWindows Updateが強制的に適用され」て、強制的に再起動がかかる、というのだ。 私は、そういう人達と一緒にされたくない。 この Windows 8 から始まった「強制的にアップデートして再起動」する、 というディフォールトの仕様は、決して「一般ユーザーも安全にWindowsを使えるようになった」 なんていうことはなく、 「頼もし」くもなんともない(何をおっしゃる ASCII.jpさん、気を確かに!)。

このような状況を見ると、 Windows は、ますます一般人(コンピュータをあまり知らない人)をターゲットにしている仕様 に傾き、 このような方針を全面に押し出すようになると、今後コンピュータを仕事に使っている人たちからますます Windows は敬遠される ようになっていくだろう。

さて、9月17日に何が起きたのかという話に戻る。 そもそも起きたことは、Windows update を適用して再起動したら、 シャットダウン後に、lenovo のブラックスクリーンになって 「ディスクのエラーを確認しています。完了するまで 1 時間以上かかる場合があります。」 というメッセージが出たことに始まる。 結局、朝このようなメッセージが出た後、このメッセージが消えてシャットダウンされるまでおよそ 2時間半かかった。

thinkpad 240, trying to recover a hdd, am 17.09.2016

2時間半の時間がかかったのだから、このメッセージは間違ってはいなかった。 しかし、この状態から電源を入れると Windows 10 は立ち上がらなくなっていた。 Windows 回復環境が立ち上がるのだが、そこから「トラブルシューティング」をクリックし、「詳細オプション」→「コマンドプロンプト」へ進み、 sfc /scannow や、 dism.exe /online /cleanup-image /restorehealth や、 CHKDSK c: /f でも、結局復活せず、工場出荷の状態に戻す という 選択肢を選ぶしかなかった(涙)。

VirtualBox 上の Vine Linux 6.3 は、 10日前のバックアップが残されていたので(たまたま来客があった関係でいつものバックアップが行われていなかった時期だった)、 Windows 10 領域のデータは USB Memory Stick に入っているもの以外はすべて失ってしまった。

Windows 8.0 の再インストールから始めて、 MS Office の再インストール、 VirtualBox の再インストール、 Vine Linux 6.3 の再インストールとバックアップファイルのリストアを済ませるのに、およそ2日かかった。 この間、200を超える Windows updates を終え、 Windows 8.1 が自動的に再起動しない設定にしたのは言うまでもない。

こんな状況で、10月第2週にはエッセンでの学会発表をするはめになった。 残されているファイルと、記憶を頼りになんとか発表内容を復活させたのもつかの間。 今度は、10月13日に次の試練が訪れた。いつものように、 電車の中で仕事の続きをしようと思って、 ThinkPad 240 のフタを開けたら、真っ暗だった。電源のボタンは点灯しているのに、である。 フタを閉じると、外のインジケーターは、点滅して消える。 これは、ハイバネーションの際の正常な動作に見える。 その日の夜、帰宅した後、外部ディスプレイに接続した結果、 問題なく表示されたので、ディスプレイ・パネルの故障を疑うことになった。

10月14日のお昼に ThinkFactory に電話して相談すると、可能性は3つあるという。 (1) LCD パネルに接続されているケーブルの断線、(2) LCD パネルの不良、 (3) マザーボードの不良。いずれにせよ、見てみないと分からないとのこと。 BIOS を立ち上げると、かすかに画面表示が見えるので、 その状況を伝えると、ひょっとしてマザーボードの不良の可能性があるという。 また、その時、ThinkFactory では、普段は在庫しているパネルの在庫がないので、 もしパネル交換となる場合には、1週間程度待つことになる、とのことだった。 ああ、これで来週の学会発表は絶望的だ、と思いつつ、 その日の夕方に ThinkFactory へ出かけて見てもらった。

幸運なことに、ケーブル不良が原因だということが判明し、ケーブル交換で復活した。 薄い ThinkPad は、LCD Panel とマザーボードを結ぶケーブルにストレスがかかる構造になっており、 交換したケーブルは、途中の部分が 1 cm 強、つぶれていた。 「いりますか? こちらで処分しましょうか?」と尋ねられ、 「はい、お願いします。」と答えてしまったが、 今考えると、ちゃんともらっておいて写真を撮っておけばよかった。 ケーブル交換としては、 けっこう高い額を支払うことになったが、 翌週の学会発表が可能になったのは確かで、ありがたい復活だった。

ThinkPad 240 上の Windows 8 は、その後、 Windows 10 だった頃よりも安定して動作している。 やはり Windows 10 にして不安定になっている人が 世の中にはかなりいるようだ(「Windows 10」と「不安定」で検索すると出るわ出るわ!)。 これだけあると、やはり Windows 10 aniversary version を出すのではなく、 Windows 10.1 とかを正式にリリースすべきではないかとも思う。身近には、MicrosoftSurface で、 Windows 10 がうまく動かないという事例もあった。 無料の Windows 10 へのアップデートとは、 今考えると大規模なベータテストだったような気がしないでもない。

しかし、私の場合、そもそも仕事の大部分をノートパソコンに依存してしまっている現状、 しかもその基盤が Windows であるというのは間違っているような気がする。 かつて使っていたような、ネットワーク構成の分散環境に戻すことを再検討する時期がきたのかもしれない。 Windows 用のバックアップ・ディスクを作るのも1つの選択肢ではあるが、 特定の有償ソフトに依存したくないという側面もある。 いやはや頭が痛い問題だ。 やっぱり、 Linux だけで平和に暮らせるのが一番いいのだが…。


自己免疫疾患とその原因? --- 内なる細菌が失われつつある!  [06/11/2016]

仕事でもプライベートでも、休みなしの状況が続いたと思ったら、 かれこれ 2ヶ月前から多発性の alopecia areata になってしまった (Alopecia areata: Immunstörung verantwortlich für den Haarausfall?: Medical Tribune | Medizin und Gesundheit)。 気がついたら、頭がヘムレンさん状態になっていた(ヘムレンさん、ごめんなさい)。 公式サイトによると「ヘムレンさんは、イライラしやすく、人を怖がらせてしまうことがあります」そうだ (ヘムレンさん | ムーミン公式サイト)。 そういえば、この頃、自分でもイライラしているような気がする…。 お医者さんによると、「原因はわからないんですよ。でも、なぜか花粉症の薬が効くんです。」とのこと。 自分がかかっている病気の原因が分からない、と専門家に言われるのは、気持ち良いものではない。 私の場合は、さらに、 「ストレスが原因という人もいますが、本当にストレスが原因なのかどうかは分からないんです。 まあ、気にしない方がいいですよ。自己免疫疾患だと言われていますがね」 ときた(Autoimmunerkrankung | DocCheck Flexikon)。 信頼しているお医者さんの言葉なので、そんなものか、と思ったのだが、そこはかとない不安は残った。

5月31日の東京新聞の「筆洗」を読んでいたら、 マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 (2015) 『失われてゆく、我々の内なる細菌』みすず書房、 の紹介がされていた。 私が入手したのは 2016年2月19日の第 7刷(3200円+税)。 後日、 Blaser, Martin J. (2014) Missing microbes: How the overuse of antibiotics is fueling our modern plagues. New York: Henry Holt and Company. も入手して読んでみた(Martin J. Blaser, MD | Blaser Lab | NYU School of Medicine, Department of Medicine)。

おおざっぱに言うと、人間の体は、実は非常に多くの微生物の宿主となっていて、それが抗生物質の乱用などで急激に減少し、 これが原因となってさまざまな現代の疾病(肥満、若年性糖尿病、喘息、花粉症、食物アレルギー、 胃食道逆流症、がん、セリアック病、クローン病、潰瘍性大腸炎、自閉症、湿疹など)の原因となっているのではないか、という話である。

アレルギーというと、かつてはそんなに多くはなかったが、 今ではあらゆる種類のアレルギーがちまたにあふれているのは周知の事実だ。 種々の花粉は言うに及ばずだが、 ナッツアレルギー、ミルクアレルギー、卵アレルギー、大豆アレルギー、魚アレルギー、果物アレルギー、グルテンアレルギー、猫の毛やハウスダストに対するアレルギー、などなど。 知らないで子供に食べさせたら救急車騒ぎになったという話も耳にする。 現代人の暮らす環境が、かなりおかしくなっているのではないか、という直感は誰しも抱いているのではないだろうか。

かく言う私も、初めのうちは、ちょっと足がかゆい、とか、頭がかゆい、という程度だった。 それがいつしか、腕に赤い発疹のようなものができて、 かゆみを感じるようになった。 皮膚科に行くと、これはアトピー性皮膚炎(atopic dermatitis)だ、という。 アトピーと聞くと子供がかかる湿疹のようなものだと思っていたら、 皮膚科のお医者さん曰く、最近はお年寄りでも増えているようです、とのこと。 そのお医者さんはさらに続けて、「原因は分からないんですけどね」。 振り返ってみると、私は40歳台でスギ花粉症になり、50歳台でアトピー性皮膚炎になったことになる。

そんな状況だったので、このブレイザーの本はとても私にとってタイムリーであり、面白かった。 そいういえば、そうか、と思い当たる話がいろいろと出てきた。 まずは、上記の微生物の話から少し引用しておく。

むしろヒトの身体内外に生きている微生物にもっと注目する必要がある。 それは競争と協調を通して働く「群がり」であって、それを私たちは「マイクロバイオーム」と呼ぶ。 生態学では「バイオーム」とは、植物や動物の「群系」を示す。 ジャングルや森林、サンゴ礁といった集団中に住み、大きな多様性を有し、大小の生物が、相互に作用する複雑な系を形成する。 そこで鍵となるキーストーン種(中核種)の絶滅は、生態系に混乱や崩壊をもたらすこともある。
出典:マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 (2015) 『失われてゆく、我々の内なる細菌』, P. 6.

Rather we need to look closely at the microorganisms that make a living in and on our bodies, massive assemblages of competing and cooperating microbes known collectively as the microbiome. In ecology, biome refers to the sets of plants and animals in a community such as a jungle, forest, or coral reef. An enormous diversity of species, large and small, interact to form complex webs of mutual support. When a keystone species disappears or goes extinct the ecology suffers. It can even collapse.
Source: Blaser, M, J. (2014) Missing microbes. P.5.

この前のパラグラフでは「衛生仮説」 (the hygiene hypothesis) が話題になっており、それを否定する形でこのパラグラフが始まっている。 ちなみに、「衛生仮説」とは、<世界が清潔になりすぎたのが現代のさまざまな疫病の原因である>、というものだ。 ここでのキーワードは、「マイクロバイオーム」(microbiome) だ。 「身体内外に生きている微生物」に注目し、「マイクロバイオーム」と呼んでいる。 カタカナで書くと不思議に思えるが、microbiome と書くと、microbiome であり、かなり理解しやすい造語であることがわかる。

私たち人間も、何千年にもわたって多様な微生物の宿主となってきた。 そうした微生物はヒトという種とともに進化してきた。 口腔や腸管、鼻腔、耳腔、あるいは皮膚で繁殖してきた。 女性では膣にも棲む。 個人のマイクロバイオームを構成する微生物は三歳までの幼児期に決定され、 成人してからも幼児期の構成をよく保つ(4)。こうしたマイクロバイオームは、ヒトの免疫系や病気への抵抗性に重要な役割を演じる。 簡単に言えば、私たちの健康を保っているのは、私たち自身のマイクロバイオームであると言うことができるかもしれない。 その一部が今、失われようとしている。
出典:マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 (2015) 『失われてゆく、我々の内なる細菌』, P. 6.

Each of us hosts a similarly diverse ecology of microbes that has coevolved with our species over millennia. They thrive in the mouth, gut, nasal passages, ear canal, and on the skin. In women, they coat the vagina. The microbes that constitute your microbiome are generally acquired early in life; surprisingly, by the age of three, the populations within children resemble those of adults. Together, they play a critical role in your immunity as well as your ability to combat disease. In short, it is your microbiome that keeps you healthy. And parts of it are disappearing.
Source: Blaser, M, J. (2014) Missing microbes. P.5-6.

ということで、最後の2つの文がパラグラフのトピック文だ。 人間の体内外にいる微生物(=マイクロバイオーム)が私たちを健康に保ってくれているのだけれども、今、その一部が失われつつある、ということだ。 こうして日本語と英語を比較してみると、英語ではできるだけ平易に書こうとする努力が随所に見られるが、 和訳の方は、やや専門用語にこだわっており、原文に込められた明確な言い切り口調がないのが気になる (翻訳という作業はいろいろな事情の中で成立するので、一概に部分をとって責めることはできない)。

さて、人間の体の中にいる微生物、と言うと、まず思い出すのは「ピロリ菌」だ。 私自身、つい 2〜3年前にピロリ菌について同僚から聞いて、この菌がいるかどうかの検査を受けたのが昨年だった。 結果的にはいなかったので、ほっとしたのを覚えている。 「ピロリ菌がいると、胃潰瘍や胃がんの原因になる」と聞かされていたからだ。

この本の著者、ブレイザーは、長年に渡ってピロリ菌の研究をしてきた研究者でもある。 その人物が、本書の中では「ピロリ菌は、必ずしも悪ではない」と言っているのだ。 第9章から第13章までで、ピロリ菌に関するさまざまな実験とその結果が紹介されている。 以下、ピロリ菌 (Helicobacter pylori) に関する記載で、目についたポイントを箇条書きしておく。

  1. ヘリコバクター・ピロリ (Helicobacter pylori) はヒトの胃にだけ見つかる常在菌である (ブタには、ヘリコバクター・スイス、チーターには、ヘリコバクター・アチノニクス、イルカにはヘリコバクター・セトラムが常在する)。
  2. 遺伝子研究によるとヒトは、ヘリコバクター・ピロリを少なくとも10万年以上保有している。
  3. 遺伝子解析の結果、現代のヘリコバクター・ピロリは 5つの祖先グループから生じたことがわかっている(アフリカ由来のもの 2種、ユーラシア由来のもの 2種、東アジア由来のもの 1種)。
  4. 1982年4月、ウォレンとマーシャルは、ヘリコバクター・ピロリの培養に成功。
  5. 1984年〜 ウォレンとマーシャルは、胃炎や潰瘍とヘリコバクター・ピロリの関連性を発見。
  6. 1991年に発表された4つの論文は、ヘリコバクター・ピロリと胃がんの因果関係を強く示唆。
  7. 1994年(?) ブレイザーらは、CagA(+)ピロリ菌が胃がんの発ガン率を2倍にすることを確認。
  8. 1994年、WHO は、ヘリコバクター・ピロリの発がん性を認定。
  9. 2005年 ウォレンとマーシャルは、ヘリコバクター・ピロリに関する研究の功績でノーベル生理学・医学賞を受賞。
  10. ピロリ菌の保有者でも、潰瘍、胃炎、胃がんなどにならない人もいる。
  11. ピロリ菌の保有者は、地域によって違いがある。
  12. ピロリ菌の保有者は、いわゆる先進国では数が減少してきている。(抗生物質の普及)
  13. ピロリ菌と胃食道逆流症の間に負の相関関係が見つかる。
  14. ピロリ菌と喘息の間に負の相関関係が見つかる。
  15. ピロリ菌の存在はアレルギー反応に抑制的、あるいは予防的に働くことが分かる。

「ピロリ菌=悪い菌」というイメージを私も持っていたのだが、実は、胃食道逆流症、喘息に関しては負の相関関係がある、ということは、ピロリ菌がいる人の方が、胃食道逆流症、喘息にかかりにくい、ということである。 また、ピロリ菌がアレルギー反応に抑制的、あるいは予防的に働くということは、ピロリ菌には明らかに良い面がある、ということにもなる。 「ピロリ菌=良い菌」という側面も持つことになる。このような2面的状態 を持つ2つの生命体の関係を、筆者ブレイザーは、セオドア・ローズベリー(Theodore Rosebury) の言葉を借りて「アンフィバイオーシス」(amphibiosis) と呼んでいる。 「アンフィバイオーシス」とは、「...2つの生命体が、状況に応じて共生的にも寄生的にもなる関係を築くこと...」(P.116)だ (..., the condition in which two liefe-forms create relationships that are either symbiotic or parasitic, depending on context.) (P.105) 。 ピロリ菌に関するまとめとして、以下の箇所を引用しておく。

私たちは、病原菌として発見されたピロリ菌が両刃の剣であるということを発見した。 年をとれば、ピロリ菌は胃がんや胃潰瘍のリスクを上昇させる。 一方で、それは胃食道逆流症を抑制し、結果として食道がんの発症を予防する。 ピロリ菌保有率が低下すれば、胃がんの割合は低下するだろう。 一方、食道線がんの割合は上昇する。古典的な意味でのアンフィバイオーシスである。
出典:マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 (2015) 『失われてゆく、我々の内なる細菌』, P. 142.

We were finding that H. pylori, discovered as a pathogen, is really a double-edged sword: as you age, it increases your risk for ulcers und then later for stomach cancer, but it is good for the esophagus, protecting you against GERD and its consequences, including a different cancer. As H. pylori is disappearing, stomach cancer is falling, but esophageal adenocarcinoma is rising. It is a classic case of amphibiosis. The facts are consistent.
Source: Blaser, M, J. (2014) Missing microbes. P.129.

さて、話を少し前に戻す。ピロリ菌を含めて、人体の中の微生物を追い払っている大きな要因は、 ブレイザーによれば抗生物質なのだが、抗生物質と言えば、薬として処方されるもの、という意識が一般的だ。 しかし、抗生物質を食肉用の牛やブタや鶏に与えると、太ることが知られていて、大量の抗生物質は実は畜産業界で使われていたそうだ。 その部分は、第7章「現代の農夫たち」にある。 以下に、私が気になった点を列挙するが、要するに薬として直接投与される抗生物質だけでなく、 日常的に食べている食品の中にも抗生物質や抗生物質耐性菌が含まれている可能性があるのだ。 そして、その可能性はかなり大きいようだ。

  1. 現在アメリカで販売されている抗生物質の70から80パーセントが、ウシ、ニワトリ、七面鳥、ブタ、ヒツジ、カモ、ヤギなどの家畜に対して使用されている。
  2. 抗生物質をこれらの動物に与えるのは、屠畜する前に太らせるためである(5%、 10%、15%の体重増を低コストで達成できる)。
  3. ただし、正確な数字は厳しい企業秘密のため分からない。
  4. 家畜に投与される抗生物質の量は、家畜を病気から守れる量ではない。
  5. 1986年、スウェーデンは成長促進目的での抗生物質の使用を禁止した。
  6. 1999年、EUは成長促進目的での抗生物質の使用を禁止した。
  7. 食品の中には、抗生物質耐性菌が含まれていることがある。
  8. 食品の中には(特に肉、牛乳、卵など)、抗生物質が残されていることがある。

ペニシリンに代表される驚異の薬、抗生物質が、実は食物に残留していて、 抗生物質の多用により抗生物質耐性菌が生まれ、 抗生物質が人間の体内に常在している微生物を激減させているらしい。 これが、多くの自己免疫疾患とつながっている可能性があるのだ。 そうか、あのお医者さんが「原因は分からないんですけれどね」の背後には、 この人間の体内外にいる微生物(=マイクロバイオーム)激減があるのかもしれない。

2016年の G7伊勢志摩サミットでは、薬剤耐性菌(AMR; Antimicrobial resistance)対策についても話し合われたそうだ。 これは、 G7伊勢志摩サミットに向けた我が国の主な貢献策 (PDF) | 2016年5月 外務省 に、「3. 薬剤耐性菌(AMR)対策」として議題に上っているが、これは、2015年のドイツでの G7 でも議題に入っていた。 薬剤耐性菌対策:抗生物質使用3分の2へ 20年度目標 - 毎日新聞 という毎日新聞の記事(2016年4月1日20時05分)によれば、「抗菌薬が効かなくなる薬剤耐性菌の拡大を防ぐため、政府は1日、初の行動計画を公表した。 抗菌薬の使用量を2020年度に現在の3分の2へと減らす数値目標を盛り込んだ。」とされている。 しかし、いったいどうやって抗生物質の使用量を3分の2へ減らすのだろうか? また、日本で家畜を太らせるために抗生物質が使われていないのか、 家畜に関する抗生物質の使用制限が行われているのか、 肉、牛乳、卵に抗生物質や抗生物質耐性菌が含まれていないのかが気になる。

ネットには、2003年11月14日に作成された農林水産省の説明文書(PDF)があった。 抗生物質の使用と薬剤耐性菌の発生について ー 家畜用の抗生物質の見直し ― 農林水産省消費・安全局 だ。 このプレゼン資料によると、この時点では「日本で家畜を太らせるために抗生物質が使われていない」とは言い切れない。 「成長促進(予防的)」は許可されている、というように読める。 そもそも、予防的な成長促進とは何なのか、どこか疑わしい響きがある表現だ。

最後に、ブレイザーの本の第15章「抗生物質の冬」から気になる一節を引用しておく。

短期間の抗生物質治療でさえ、長期間の影響を常在細菌に与える。 本来の姿へ回帰することが可能か否かは分からない。 長い間、私たちはそうした状態はやがて回復すると信じていた。 しかし本当にそうだろうか。 心配はそれだけではない。 稀少な常在細菌が消える可能性はないのだろうか。 私は今、それを恐れている。
出典:マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 (2015) 『失われてゆく、我々の内なる細菌』, P. 215.

It should be clear by now that even short-term antibiotic treatments can lead to long-term shifts in the microbes colonizing our bodies. A full recovery or bounce-back of healthy bacteria is in no way guaranteed, despite the long-held belief that such was the case. But that is not my only worry. I also fear that some of our residential organisms — what I think of as contingency species — may disapper altogether.
Source: Blaser, M, J. (2014) Missing microbes. P.194.


なぜ「マイナンバー」は駄目なのか?  [02/07/2016]

むかし、中学生だった頃、「マイカー」というのは和製英語で使ってはいけない、という説明を英語の先生から聞いた。 「これは私の車です。」と英語で言う時、This is my car. と言ってはいけないのか、と不思議に思った記憶がある。 もちろん、「自家用車」というのなら、 This is my own car. とか、 This is my private car. ということになるのだろうが、 問題はそこにあるのではなかった。別に、This is my car. と言うことがいけないのではない。

「自家用車」= 「マイカー (my car)」だと信じている日本人 A と B による会話場面を2つ考えてみよう。

SCENE 1
A: Is this my car? (日本人 A によって意図された意味:A-1:「これは、マイカーですか?」、実際の意味:A-2:「これは、私の自動車ですか?」)
B: No, it's my car. (日本人 B によって意図された意味:B-1:「いいえ、それはマイカーです。」、実際の意味:B-2:「いいえ、これは私の自動車です。」)

SCENE 1 では、A-1 と B-1 の解釈をすると、B-1 の「いいえ」は奇妙だ。その他の点では質問に対しての同意として解釈される。 しかし、実際の英語では、A-2 と B-2 は意見の不一致として成立する会話である。それは、お互いに「これは私の車だ!」と主張しているからだ。

SCENE 2
A: Is this my car? (日本人 A によって意図された意味:A-3:「これは、マイカーですか?」、実際の意味:A-4「これは、私の自動車ですか?」)
B: ? Yes, it's my car.(日本人 B によって意図された意味:B-3:「はい、それはマイカーです。」、実際の意味:B-4:「?はい、これは私の自動車です。」)

SCENE 2 では、A-3 と B-3 の会話は質問に対する肯定の同意として普通に解釈される。 しかし、実際の英語では、A-4 に対する B-4 は Yes と言っておきながら It's my car. ということによって矛盾になってしまう。つまり、Yes と言ったら it's your car.とならなければおかしい。

何が問題なのかと言うと、「マイカー」という名詞を作ってしまった時、その中に「所有代名詞の my が入っている」からまずいのだ。 my は、所有を表し、日本語にすれば「私の」に対応するが、 限定詞 (Determiner) なので、その前に別の限定詞をつけることはできない。 日本語にすれば「彼のマイカー」も、「そのマイカー」も、「一台のマイカー」も OK だが、 英語ではすべてアウトである。

そもそも誰が「マイカー」のような言葉を作ったのか不明である。 しかし、「マイナンバー」は、おそらく誰が発案したのか、 今だったらまだ突き止められるかもしれない。 「マイナンバー」という言葉も、「マイカー」と同じ形態素構造を持っているので、上の例と同じような問題点を抱えている。 「国民総背番号制」では受け入れられないが、 「マイナンバー」なら受け入れられると考えた人がいて、 この発想の背後には、英語の基本的能力の欠如、あるいは、 言語表現なんてどうでもよい、という鈍感さ、 イメージさえ植え付ければよい、という傲慢さが隠れている。 このような用語を定着させた政治家、官僚、きちんと批判せずに受け入れてしまったマスコミには、大きな責任がある。

まず、「マイナンバー」は正式名称ではないそうだ。 正式名称は「社会保障・税番号制度」、そして英語では The Social Security and Tax Number System と言うそうだ。 詳細は、 マイナンバー社会保障・税番号制度 | 内閣官房 と、 The Social Security and Tax_Number System | Cabinet Secretariat, Japan を参照。

間違っても、「彼のマイナンバー」なんて言うつもりで * his my number なんて言わないように。 his Social Security and Tax Number と言うこと になる。普通、このようになる場合には、略語を作るのだが、 Flyer in English | Cabinet Secretariat, Japan (PDF) でも略語はなく、ただ Individual Number と呼んでいる。

Eine Gottesanbeterin legte Eier. am 25.10.2015

ちょっと脱線。
そもそも、これらの「内閣官房」というところのサイトなのに、「内閣官房」という文字列が使われていない(グラッフィックイメージの中に入っているだけ)。 そして、英語のページにも、英語のチラシにも、Cabinet Secretariat の文字はない(グラッフィックイメージの中に入っているだけで、Japan とは書かれていない)。 残念ながら、日本政府の多くのウエブサイトでも同じような現実がある。 ウエブサイトを見た人にわかればよい、という問題ではなく、 ウエブサイトを検索して回る検索エンジンのことを考えたら、 政府機関のサイトなのにもかかわらず、責任主体の名前と連絡先が文字列で書かれていないのはどうしたことか。

そうすると、ついつい「一時が万事」という言い方を当てはめたくなる。 そもそもあらゆるものに対してきちんと責任を取る、という姿勢が欠如しているのではないか? マイナちゃん などというキャラクターを作る手間暇があるのなら、 セキュリティを徹底して議論して、どのような暗号化を施すべきかを専門家委員会で長時間かけて検討し、その概略を発表し、 情報が漏れるさまざまなケースを想定して、その場合にはどこが責任をとってどのような対処をするのかを公開すべきであろう。 アメリカやフランスの事例を詳細に検討したのだろうか? どのような暗号システムを使ったにもかかわらず、 どのような事件が起きたのか、その後の対策はどのようにしたのか、などなど。 公開されている情報は、それなりに見つけられる。

「まず責任主体ありき」という発想が欠如している日本。 そんな国で、「社会保障・税番号制度」(ニックネーム:マイナンバー)がどのように運用されていくのか、限りなく不安 である。 集中した情報管理は非常に有効だが、非常に危険なシステムでもある。 これは常識。 そんな危険なシステムを運用するためには、何重にもセキュリティ対策を施す必要があり、 本来ならそれぞれの段階で責任主体を明確にしておく必要がある。

これから、いろいろな事件が起きるだろうが、 こんなはずではなかった、とか、未曾有の事件とか言わないで欲しい。 どうやら、自分さえ無事ならいい、将来のことなんて責任を持てない、 そんな人達でこの社会の中心部が動かされているらしいが、 抜本的な改革を望むのは言うまでもない。

それにしても、「ニックネーム」として「マイナンバー」というのは、あまりにもお粗末だし、 英語教育にも悪影響を与える言葉であることは間違いない。 きっと日本にも「粗悪語認定協会」とか、「粗悪語認定委員会 2015」のような組織が必要とされているのだろう。


「手書き」は消滅するのか?  [12/31/2015]

気がつくともう大晦日になっている。 この頃、ここに文章を書く時間が取れないのは、仕事がたてこんでいるからにすぎない。 どんな仕事か、というと、ひたすら「文章を書くこと」に関係する。メール、論文、論文に関する問い合わせ、論文の審査、 その他さまざまな問い合わせ、これらはすべてコンピュータ上で文章を書くことで成り立っている。 こんな状態が当たり前といえば当たり前の毎日で、最近めっきり量が増えている。 しかも、締め切りがみんな迫っているものばかりだ。 なんで、こんなにみんな急ぐのだろう、と思いつつ、早く仕事を終わらせたい一心でひたすらキーボードを打っている。

かれこれ一ヶ月ほど前、隣の席に座っていたドイツ人同僚が、 Bastian Sick の新しい本が出たのを知っているか、 と訊いてきた。もちろん、知らなかった。 それは、あの一世風靡した本の第 6巻だった。

Sick, Bastian (2015)Der Dativ ist dem Genitiv sein Tod Folge 6Köln: Kiepenheuer & Witsch

おそらく、もうそんなに売れていないだろいうと思ったので、 さっそく購入した(相変わらずのあまのじゃく)。 本のまえがきに当たる部分に、Zwiebelfisch を 12年前に始めたいきさつが書いてあった。そうか、もうそんなに前なんだ、と自分が年をとったことも実感した。 もうこの巻が最後になるらしい。 暇はまったくないのだが、仕事に飽きた時にパラパラとめくって読んでしまう。 いくつか気になるテーマがあったのだが、 その中の1つが Schreibschrift ade? だ。(S. 38-41) おそらく、www.bastiansick.de で検索すれば(ほぼ)同じ記事が見つかるはずだ。

同記事によれば、2016年秋から、フィンランドでは「文字の手書き」は義務 ではなくなるそうだ(つまり、オプションということ)。 その代わりに小学生たちは、キーボードを使って文字は文章を書くことを学ぶとか。 あの PISA 報告でも常に高い評価を受けている国の教育が、大きく舵を切るように見える。

何と無謀な!
手書きができなくてどうする!
考えられない暴挙だ!
と最初は思ったのだが、考えてみると私は今もキーボードで文字を書いている。 筆記用具で今日、文字を書いた時間はどれくらいあるだろうか、 と自問自答。ほぼゼロだった。ふーむ。

仕事柄、授業をしている時にはホワイトボードに文字を書くが、 普段、手書きをする時間が少ないので、漢字がすぐに出てこないことも多い。 レポートの採点なども、最近ではネット経由で集積して、コメントをつけるのも手書き文字は使わなくなった。 だったら、早くからキーボードに慣れて、 ブラインドタッチでどんどん文章をかける人を要請するというのが、 時代の要請にあっているというものだ。 まあ、確かにそういう一面がある。

言語学的には、文字という媒体は後から発明されたものだし、 文字を持たない言語も実は数多い。 ただ、文字を持った言語文化は、明らかにそれを生かして発展する。 「読み書きをする」というのは言語教育の根幹となっている。

気がつくと、本を読まなくなった若者が増えている。 メールは読むし、SNS での情報交換にも、文字を書いて読んではいるようだ。 しかし、読書という形態からはどんどん離れていく若者が多いように思う。

さらに、手書きでどれだけ文字を書いているだろうか? 授業中にノートをとる、ということはまだかろうじて行われている。 近年、授業はパワポで行い、学生にはノートをとらさずに、 スマホで写メするように促す授業もあるという。 恐ろしや現代、である。

日本では、まだ書道があるし、文字を書くことに執着する教育がある。 Bastian Sick の記事によれば、 アメリカの 45州では、2014年からすでにキーボードで文字を書く方を優先的に教えているそうだ。 ドイツでもそのような主張をする教育者や政治家がいるそうだ。

ドイツでは、もう1つ気になる動きがあった。 それは、ちょっと極端な言い方をすれば「もう筆記体なんてやめちゃえ」、という動きである。 なんでも、筆記体の文字をマスターするのは時間がかかって大変だから、 Grundschrift なるものを開発したそうで、 これを中心に教えている小学校がハンブルク、ヘッセン、ノルトライン・ヴェストファーレンにはあるそうな。 Google の画像検索で Grundschrift を検索窓に入れてみるとだいたいどんなものか、想像がつく。 ようするに、印刷文字と同じような文字を書かせるのである。 それで何が悪いの、と尋ねられると答えに窮するが、 文字を書くのは文化であるし、文字を書きながら人間は考えることができるので、 その時間は無駄ではないのだ。 脳の活性化、あるいは、子供の脳の発達にとって、手書きで文字を書くことには大きな意味があるように思う。

eine deutsche Wespe in Englischer Garten 2015

とか主張すると、おまえは、キーボードを叩いて論文を書いているではないか、と言われてしまう。 キーボードを叩いていても、同時に考えているんだろう? 文章を書く時に、筆記具を使うか、キーボードを使うかなんて、 些細な違いだよ、という悪魔の声(?)が聞こえてくる。

私は、キーボードはほとんど意識しないレベルにあって、 書く時に思考を妨げない道具というのは、 今もこうして使っている Emacs というエディタである。 近年、MS Word を使わされる状況が増えていて(それまでは、頑強に Libre Office を使っていた)、改めてこの違いに気がついた。

MS Word は、2〜3時間も画面を見ていると目が極端に疲れる。 こんなに明るい画面を長時間見ていることはとても苦痛だ(もちろんもっと暗く設定することはできるのだが)。 そして、WYSIWYG という掛け声の元に画面の細部を見させられ、 印刷と同じような原稿ですと嘘をつかれるため、とても神経を使う (ようするに、画面とプリンタの解像度の極端な違いから、 未だに WYSIWYG になっているという幻想を押しつけられている)。 印刷してみて初めて気がつくフォントのズレなどは、まだ軽症の方だ。 私がこれまで愛用してきた、 EmacsLaTeX という環境は、 もっとずっと書くという知的作業に集中させてくれる。

せいぜい 2、3 枚の原稿なら MS Word で書いてもよいのだが、 何十枚も書いて、さらにわけの分からぬ挙動に悩まされるのは、時間の無駄だと思う。 それでも、みなさんに合わせざるを得ない状況。 これでは、私も病気になってしまう。

なぜ、こんなにみんなで同じソフトウエアを使わねばならないんだろう。 こんな状況を作りだした原因はどこにあるんだ、と考えてしまう。 こんな不便な世の中に誰がしたのだ?!

コンピュータの発達がいけないんだ、という人もいるが、 それは違うと私は思う。 道具をどう使うかを決めるのは人間だし、人間が社会の仕組みを作って支えているのだから。 といっても、この頃の世界は、本当にいろいろなところで狂っているようで、 どこからどう修正すべきなのか皆目見当がつかなくなってしまっている。

病人がどんどん増える世の中。病人でない人が少なくなっていく世の中。 考えることができなくなった人々があふれる世界。 歴史は忘れられると思っている人たち(歴史は心に刻みつけて忘れないでとっておくもの)。 大切なものが失われていくのを黙って見ているのは辛い。


日本語で論理的な文章を書くには  [08/29/2015]

8月24日、日本への帰国便に乗る際に、読売新聞(国際版)が置いてあるのが目に留まった。 普通、日本に帰ったら読めるような新聞をわざわざ貰う気にはならないのだが、 トップのニュースがあまりにもショックだったので、一瞬にして手に取ってしまった。 以下は、見出しの2行と、リードの部分の引用である。

国立26大学 文系改廃へ
        定員減や新学部転換
    文系学部のある全国の国立大60校のうち、 半数近い26校が2016年度以降、文系学部の改廃を計画していることが、 各国立大学長を対象にした読売新聞のアンケート調査でわかった。 教員養成系学部を中心に計1300人以上の募集が停止され、 定員の一部を新設学部に振り分けるなどの改革が行われる。 国立大の文系に再編の波が押し寄せている実態が浮かび上がった。<解説☜・関連記事2面>
出典:読売新聞(国際版)2015年(平成27年)8月24日(月曜日)13版、1面

新聞は見出しから読む。人によっては、見出ししか読まない人もいる。 そこで、この見出し「国立26大学 文系改廃へ」を読んだらどう思うだろうか。 ポイントは、名詞の羅列で、最後に方向を示す助詞が付いているだけ、 という表現法にある。 書き言葉に多い表現法、さらに言えば、見出しに多用される表現法だ。

私は、 「国立26大学 文系学部を改廃することを決定した」 と赤の部分を補って読んでしまう。 実際に、そう思ったから私はこの新聞を手に取った。

しかし、リードの部分を読むと、実は読売新聞が「各国立大学長を対象にしたアンケート調査」 を行った結果を伝えるもので、しかも、 「文系学部のある全国の国立大60校のうち、...26校が2016年以降、文系学部の改廃を計画している」という話だ。 「...」の部分には、「半数近い」という修飾語 が付いているが、26÷60=0.43 なので、43%である。

ここまで読んで、「いちゃもんをつけている」と思う人もいるかもしれない。 しかし、これは、世界一の販売部数(2014年11月の朝刊部数で、934万5155部 (出典:数字で見る読売新聞:読売新聞)) の第1面のトップ記事のタイトルなのだ。

このタイトルを見て、
「国立26大学 の学長が 文系学部を改廃することを検討しているとアンケートに回答した」 というように補って読める人はどれだけいるだろうか?
リードを読まなければ、ゼロだろう。このタイトルをつけた側からすれば、 「へ」があるから大丈夫だ、「方向性」、あるいは 「未来への流れ」を暗示しただけだ、と弁明するかもしれない。

誰かさんの心の声(架空の話):ここから
国立26大学 文系改廃へ」と名詞を並べたほうがインパクトがある。 世の中、インパクトがあってなんぼ、の世界じゃないか。 新聞の見出しなんてやつは、その典型だろう。 読者の目を惹きつけることが重要なんだ。手にとってもらえれば、 それでもう勝ちなんだ。
誰かさんの心の声(架空の話):ここまで

じっくりと時間をかけて記事を読めば、詳細に記事の内容は理解できるはずである。
そうでない人たちは、見出しだけをさささーっと読んで、世の中の流れを理解する。 それで本当にいいのか? 良いわけがない。
それでは、誤解するタネをばらまいているだけだからだ。

本文を読んでみた。 アンケートの結果のまとめがあり、さらに個別の大学の例が紹介された後、 5段目には、以下の記述が登場する。

 少子化や国際的な大学間競争の激化で、各大学は組織の抜本的な見直しを迫られている。 特に文系は理系に比べて産業創出や技術革新などの成果が見えにくく、 産業界からも「社会に出て即戦力になる人材を育てていない」との批判があった。
 文科省の通知にはこうした背景があるが、アンケートでは、 「人文社会科学系は大学教育に重要だが、教育の質の保証という観点では見直しが必要」 (新潟大)と理解を示す意見がある一方、 「人文社会系の『知』を排斥すれば、民主主義は成り立たない」(滋賀大)などと反発する声もあった。
出典:読売新聞(国際版)2015年(平成27年)8月24日(月曜日)13版、1面

上の文章の「少子化や...」で始まるパラグラフを見てほしい。 最初の文は、 「少子化や国際的な大学間競争の激化で」と、 「各大学は組織の抜本的な見直しを迫られている」 の部分で構成されている。前半部分が理由で、 後半部分が言明部分だ。 この1つの文は全体としても1つの言明なので、 この言明をするなら、それを裏づける必要がある。 しかし、その裏づけがない。 「少子化や国際的な大学間競争の激化」したからといって、 「あらゆる大学が組織の抜本的な見直しを迫られ」 るという論理的帰結には結びつかない。 そもそも、「見直しを迫られる」という場合には、見直しを迫っている主体が存在するはずだ。

「特に文系は...」で始まる第二の文は、最悪である。
「特に文系は理系に比べて産業創出や技術革新などの成果が見えにくく」 の部分は、「文系」の特性を強調しているようだが、 「文系」が「産業創出や技術革新などの成果」で判断できるというように読めてしまう(まさか筆者がそのような判断をしているとは考えたくないが)。 さらに付け加えれば、理系でもすべてが「「産業創出や技術革新」と直結する研究をしているわけではない。 いわゆる純粋数学や理論物理など、何十年、何百年たって応用される可能性が出てくる分野もある。

「技術革新」(technological inovation)はよく知られた概念だが、 そもそも「産業創出」というのな何なのか? Google で、「産業創出 英語」と入れると、Industry Creation だそうだ(!?)。文科省のページには、 「大学発新産業創出プログラム」 というのがあり、 START (Program for Creating STart-ups from Advanced Research and Technology) という英語が示されている。 この英語には、どこにも直接的に「産業創出」とは表現されていない。 まあ、「新しい産業を創る」という意味で作った新語なのだろう。

「特に文系は...」で始まる第二の文の後半は、 「産業界からも『社会に出て即戦力になる人材を育てていない』との批判があった。」 となっている。 この後半の文の主語は、やはり「文系」だが、 マスコミに登場する典型的なダメ文である。 この文のダメなところは、ニュース・ソースが明示されていない部分だ。 しかも、 出典不明なのにもかかわらず、あたかも誰かが言っているかのような印象を与える直接話法を入れる、という手法を使っている。 産業界 というのは誰なのか? 誰が 「(大学の文系学部は)社会に出て即戦力になる人材を育てていない」 と発言しているのだろうか?
<いや、一般論だよ、そういう発言ってよく聞くだろ>、と言いたいのなら、 その裏をとるアンケートをするべきだろう。

この文の後の次のパラグラフは、「文科省の通知にはこうした背景があるが、...」で始まっている。 そう、さっきの2つの文は、「文科省の通知の背景」を説明している部分だったのだ。

読者をきちんと納得させるように、この部分を(文章の長さという制約を無視して)書き換えるとするなら、 例えば、以下のように書くことができる(決して美しい文ではないが、論理の展開をきちんと追える文にしている)。 そして、 で書きたした部分を入れることで、 論理のつながりを確保した。なお、すぐに成果があがるような研究だけを大学に求めるようになったら、 日本の大学教育はもう終わりだ、と私は思う。教育とは、百年の計なのだ。

勝手に書き換えた仮想記事:ここから
 現在、日本では明らかな少子化傾向があり、国際的には大学間の研究競争が激化している。 文科省は、このような状況を考慮し大学組織の抜本的見直しを各大学に迫っている。 この通知(平成27年6月8日)の背景には、次のような実態がある。 理系の一部は産業創出や技術革新に結びつくため成果を評価しやすいが、 実利的成果に直ちに結びつかない文系の多くの分野では、成果を評価することは難しい。 そこで、文系にもすぐに成果が出る研究に特化するか、あるいはそもそも文系を廃止することを暗に求めている。 ○×社代表取締役の▲○氏は、この点に同意した上で 「文系は、社会に出て即戦力になる人材を育てていない。」 (2015年8月1日、▲▲○○会館)と発言している。
勝手に書き換えた仮想記事:ここまで

ここでの書き換えをするにあたって、注意した点は以下の通り。

  1. 名詞中心の文体にせず、主語と述語動詞の関係を明示する。
  2. 主語のない文は書かない。
  3. 責任主体が分からなくなるような受動文は使わない。
  4. 直接引用は、誰がいつどこで言ったかを明示して使う。
  5. 断言をする場合には、根拠(とする点)が分かるように書く。
  6. 「どこどこには、なになにがあった」という理由不明の存在文は使わない。
  7. 文と文の論理関係を意識する。

これは私の昔からの持論だが、日本語で論理的な文章を書くには、そのように気を配って書く練習をしなければならない。 決して日本語が非論理的なのではない。 英語で文章を書く場合も同じだ。きちんと論理を積み上げて書く訓練が必要となる。 英語ができるようになれば、自然に論理的な文章が書けるということにはならない。

最後に、近年は日本の新聞でもごく普通になりつつあるが、 責任主体を明確にするために、この記事も署名記事にして欲しかった。 チームでアンケート調査を行なってまとめたのなら、 そのチームの長が署名をするのは当然なのではないかと思う。

なお、2面の解説記事は署名記事になっていた(資料 1)。 また、文科省の通達そのものがどのようなものだったのかを裏づけるために、資料の一部を以下に引用する(資料 2)。 この通達に関する質疑応答を含む文部科学大臣記者会見録(平成27年7月24日)も一部引用する(資料 3)。

資料 1:引用
なぜ改革 説明必要
 国立大の学長アンケートでは、大きく変わろうとする大学の姿が鮮明になった。 教員養成系を中心に改組が進み、地域貢献や国際化、情報分野など現代的なニーズに対応する新学部の設置を目指すところもあった。
 文部科学省は2012年度に大学改革プランを発表しており、「文系学部の廃止や転換」を求めた今年6月の通知もこの延長線上にある。 背景には少子化や国際的な大学競争があり、改革の加速を促した文科省の要請自体は理解できる。
 しかし、この通知は大学側には「文系の切り捨て」に映った。 「運営費交付金をにぎる文科省には逆らえない」と、事実上の命令だと受け止めた大学は多い。
 質の高い大学教育のためには、文系が果たすべき役割は大きい。 今回の通知では、文科省と大学の対立ばかりが目立ち、学生や受験生、地域住民不在のまま議論が進んだ。 大学改革の方向性と意義を、文科省も大学も丁寧に説明する必要がある。 (教育部 伊藤史彦)
出典:読売新聞 2015年8月24日(月曜日)第13版総合2

資料 2:部分引用
1 組織の見直し (1)「ミッションの再定義」を踏まえた組織の見直し
「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。 特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、 18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、 組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。
出典:国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて
27文科高第269号、平成27年6月8日、文部科学大臣 下村博文、P.3

資料 3:部分引用
記者)
昨日、日本学術会議が、文部科学省の国立大学の人文社会科学系廃止検討を求める、そういう前提で、長期的な視野に立って人材育成することとか、人文科学系軽視というのは、 大学教育全体の底を浅いものにするという批判をする声明を出したわけですけれども、これに限らず結構この通知に対しては、いろいろな疑問の声とか、批判的な声が出ていますけれども、 大臣としては、これは正しく伝わっているとお感じなのか、廃止、転換ということを今後こういう形で求めていくのか、お考えをお聞きします。
大臣)
 御指摘の今回発表された日本学術会議の声明は、6月8日に発出した国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しに関する通知に対する意見も含め、大学の在り方、特に教員養成、 人文社会科学系の在り方について、日本学術会議としての意見を述べたものであると理解をしております。
 文部科学省は、人文社会科学を軽んじているということでなく、またすぐに役立つ実学のみを重視しているわけでもないわけでありまして、実際に6月8日の通知において取り上げたのは、 特に教員養成系と人文社会科学系を取り上げているその理由というのは、一つは教員養成系は、既に教員養成を目的としない新課程を廃止する方針としており、 教員養成の質の向上が課題となっていること。今教員養成系では約4分の1ぐらいがこの新課程の廃止の方向転換となっているわけであります。
 それから、人文社会科学系は養成する人材像の明確化とそれを踏まえた教育課程に基づく組織となっているかが課題となっており、いまだ答えのない課題に向き合う力、 先の予想が困難な時代を生きる力を学生に身に付けさせるため、大学教育の質の転換が求められる中で、特に改善の余地が大きいと考えているためであります。
 この点については、声明でも人文社会科学系学部の人材養成や人文社会科学分野の学問の役割について、社会に対する十分な説明がなされてこなかったという課題が挙げられており、 声明の考えと文部科学省の考えは、相通ずる部分があるものと受け止めております。
 文部科学省としては、各国立大学において、真の学ぶ力を育むために、どういう教育を行い、学生をどう鍛えるか、そのための組織は今のままでよいのか、 全ての組織を対象に見直しを行っていただきたいと考えております。
 既に国立大学の中でも10大学程度は新たな融合型の新学部なり学科なり、決めて進めている部分がございます。 前回もお話ししたかもしれませんが、特に文科系の場合には非常にたこつぼ型で、経済学部とか法学部とか文学部など、それだけで本当にいいのかどうか、もっと先の見えない時代の中で、 新たな能力を育むためには、これからもっと幅広いリベラルアーツを含め、学生たちを逆にもっと鍛えるということが必要ではないか。
 約10年前の調査によると、アメリカの大学生に比べて、日本の大学生は学修時間が明らかに短く、週合計5時間以下しか学修してないというのが半分以上と、 アメリカの学生に比べても勉強していない上に、日本の調査当時の学生たちに比べても、今の学生は勉強していないという中で、 改めて今のようなたこつぼ型の専門的なことだけ勉強することが学生にとって社会に出て、本当にそれが身につく能力と言えるのかどうかということについて、 大学側は時代の変化に対応した新たな社会に必要な学問、それからもっと学生を鍛える、そういう意味での新学部、学科について、特に文科系は十二分に検討してほしいということであります。
記者)
 たこつぼ型になってはいけないというのはよく分かるのですけれども、そうならないためにも、豊かな人文社会学系がちゃんと育っているということは、 非常に重要だと思います。今一般に文部科学省から出ているメッセージを簡単に言うと、明日使えない人材は要らないから、人文系は廃止したらどうだというような、 乱暴に言えばそんな感じで伝わっているところがあると思うんですが、今回の通知の意図というのが現場に齟齬(そご)なく伝わっているとお感じでしょうか。
大臣)
 そういうふうには書いては全くないので、国立大学側の一部の人がそういうふうに意図的にとっているのではないかと私は思います。
 このことについては、これから精力的に私自身も、文部科学省も、多くの国民の皆さんに、今の国立大学の在り方でいいのですかと、特に文科系について、 こういう問題点があるのではないですかということについて、先ほど申し上げたように、既に10大学はそういうことも着手しております。
 社会の激しい変化の中で、大学側もそれに合った対応をしていくということが必要だと思いますから、旧態依然の象牙の塔的な感覚でいいのかどうかということについては、 改めて問題提起をしていきたいと思います。
 ただ、具体的に何をやるかどうかは、それぞれの大学の判断ということであります。
出典:下村博文文部科学大臣記者会見録(平成27年7月24日) :文部科学省
テキスト版一部抜粋


あの時何が起きていたのか?  [05/09/2015]

過去を振り返って、あの時いったい何が起きていたのだろう、と考えることがある。 人間の経験は、場所と時間に制約されているので、自分で経験できる範囲は極めて限定的だ。 それでも、経験していないのと経験しているのとでは全然違う。 例えば、私は戦争の経験がない。 どんな形にせよ、第二次世界大戦を経験していないのは間違いない。

他方、2011年3月11日の「東日本大震災」と、その時の福島第一原発事故は自分なりに経験している。 経験したといっても、家が崩壊して故郷を捨てた訳ではない。 家の中のさまざまな物が落ちて壊れ、停電が起き、 ガソリンスタンドが閉まり、スーパーマーケットからは物がなくなり、 毎日、ドキドキしながら福島第一原発の様子をテレビで見て、いやというほど ACジャパンの広告を見させられた。 近所の家の石塀は、部分的に崩れ落ち、屋根瓦はあちこちに落ちて散乱していた。

2011年3月11日以降、特に3月中はテレビは繰り返し「今回の事故ではメルトダウンが起きていない」と伝えていた。 しかし、現在では、福島第一原子力発電所の第1号機、第2号機、第3号機ともかなり早い段階でメルトダウンしていたのではないかと考えられている。 2011年3月は、特にテレビを通じていろいろなことを頭に叩きこまれたが、 今考えてみると、メルトダウンの話にしても、原発事故のレベルの話にしても、 実況中継のように登場した「原子力村の方々」のコメントにしても、 「今、もう一度、同じ事をテレビを通じて言えますか?」と訊いてみたくなる。

先ごろ読んだ、3冊の原発事故関連の本は、なかなかの出来だった。 こちらが、ぼーっと眺めていた福島第一原発の中で、いったい何がおきていたのかを語ってくれる本が 2冊、 そして、そもそも原発裁判がどうあるべきかを解説してくれる本が 1冊だ。

(A)    NHKスペシャル『メルトダウン』取材班 (2015)『福島第一原発事故 7つの謎』講談社現代新書 2295
(B)    共同通信社原発事故取材班,高橋 秀樹(編著) (2015) 『全電源喪失の記憶 証言・福島第1原発 1000日の真実』 祥伝社
(C)    古川元晴・船山泰範 (2015) 『福島原発、裁かれないでいいのか』朝日新書 500

(A) は NHK スペシャル『メルトダウン』取材班によるもので、前作が (2013)『メルトダウン連鎖の真相』講談社。 この(2013)は、ほぼB5サイズの大きな本で、写真や番組の中で使われたCGや図がふんだんに使われている。 この出版で、NHK スペシャル『メルトダウン』取材班は終わってしまったのかと思ったら、その後も精力的に取材を続け、 今回の『福島第一原発事故 7つの謎』の出版につながっている。 「7つの謎」というのは、本のネーミングとして成功しているだろう。 しかし、現実には、謎は 7つどころではない。 最近も、ロボットによる撮影との関連で、デブリがどこにあるのかという謎が新聞を賑わしていた。 コンクリートの中にめり込んでいるかもしれないし、 ひょっとしたら、もうコンクリートを突き抜けているかもしれない。

上で話題にしたメルトダウンの時期に関しては、(A) の129頁に表がある。 福島第一原子力発電所の第 1号機は3月12日、第 3号機は3月13日、第 2号機は3月14日にメルトダウンしていたとしている。 そして、一番最後にメルトダウンしたと考えられている第 2号機からは、 2011年3月15日午前 8時45分、「原子炉建屋から白い湯気がでていることが確認され」、 「放射線量は、正門付近で 1時間あたり 1万1930マイクロシーベルトと、今回の事故で最大の放射線量が原発敷地内で計測されたのだった」(P.157)。 「この時、東京・渋谷でも通常の2倍の放射線量を記録していることが、現場の福島第一原発と東京の東京電力本店とを結んだテレビ会議でも発言されている。」(P.157)、 と書かれている。

この時、いったい何がおきていたのだろうか? (この時、みなさんはどこで何をしていましたか?)

私は、自分で放射線測定器を持っていたわけでもないし、その時測定していたわけでもないが、 自分ではそれなりの量の放射線を当日浴びた可能性があると思っている。

2011年3月11日から最初の5日間に絞って詳細に状況を伝えているのが、(B)だ。 (B)の「はじめに」(P.3)には以下のような説明がある。

長期連載「全電源喪失の記憶 証言・福島第一原発」は、事故が最も過酷な経過をたどった発生からの5日間に焦点を当て、 関係者が「何を見て」「何を思ったのか」を、実名証言によりできる限り事実に沿って再現した「実話」である。 それを一冊の本にした。
出典:共同通信社原発事故取材班,高橋 秀樹(編著) (2015) 『全電源喪失の記憶 証言・福島第1原発 1000日の真実』 祥伝社, P. 3

同書の最後の頁には、「本書は2014(平成26)年3月10日から78回にわたって全国加盟紙に配信され、 31紙に掲載された長期連載「全電源喪失の記憶 証言・福島第1原発」に加筆、修正を施して単行本化したものです。」 と書かれているが、この文章を書いている時点でも、東京新聞には、この連載が継続中である。

通信社が膨大な取材に基づき、「実話」を語るというスタンス、通して読んでみるまでは半信半疑だったが、 「事故原因の究明」を目的とせずに、十分に当時起きていたことを語れること示している。 さまざまな関係者が、この5日間に何をしていたのか、何を考えていたのか、 あの水素爆発の時、誰が何を感じていたのか、あのヘリコプターからの放水を現場の人たち、専門家はどう考えていたのか、 そんなことが明らかにされている。 もちろん、事実そのものを事実として切り出すことは不可能に近い。 証言から得られるのは、所詮、個人の体験にすぎない。 しかし、多くの人々の証言を組み合わせると、その背後に事実が浮かび上がってくる気がする。 不思議なものだ。

最後に、(C)は、タイトルそのものがテーマの本だ。 『福島原発、裁かれないでいいのか』というのは、 「福島第一原子力発電所の事故が、裁かれないでいいのか?」 という修辞疑問文で、 「福島第一原子力発電所の事故が、裁かれないでいいわけがない」 というメッセージを主に法律的、社会学的観点から主張している。 同書の帯には、「『人災』が『無罪』で、終わっていいはずがない。」という明確なメッセージが書かれている。 さらに、帯の裏ページには、以下のメッセージが書かれている。

 福島原発告訴団は、国と東京電力を、業務上過失致死傷罪などで告訴しました。 しかし東京地検は二度にわたり「想定外なので責任はない」として不起訴処分にしたのです。 これが法治国家の姿なのでしょうか。被害者の方々からは悲痛な声が聞かれます。
 原発事故の刑事責任は確実に問うことができます。 なぜか? 本書ではそのことを、福知山線脱線事故や森永ドライミルク中毒事件など、 過去におきた6つの大事故を例にして考えていきます。(著者より)
出典:古川元晴・船山泰範 (2015) 『福島原発、裁かれないでいいのか』朝日新書 500、 本の帯、ウラ面

法律の本、といっても非常に平易な言葉で書かれており、論点も絞られているので、(C)の古川元晴・船山泰範 (2015) から得られるものは多い。 まず、チェルノブイリ原発事故を転機に、「許された危険」から「許されざる危険」の社会に変化したのだ、という論点に納得。 公害、薬害、自然破壊は、近代化の裏の側面として厳然と存在していて、 被害者であっても表の顔である科学技術の進歩を受け入れるのと引換なのだと考えていた面がある。 しかし、チェルノブイリ原発事故は「許されざる危険」であり、 現代はそのような「許されざる危険」を前提にリスク管理をしなければならない時代になっている、という。 「危険社会」に関して筆者が紹介しているのは、戸部真澄 (2009)、 ウルリヒ・ベック (1998) と、失敗学の提唱者畑村洋太郎の、畑村洋太郎 (2006)だ。 ウルリヒ・ベックは、ドイツの社会学者ということで、さっそくオリジナルのドイツ語版を入手して読み始めた。

戸部真澄 (2009)『不確実性の法的制御 ― ドイツ環境行政法からの示唆 ―』信山社。
ウルリヒ・ベック (1998) 『危険社会 新しい近代への道』東康・伊藤美登里訳、法政大学出版局。
畑村洋太郎 (2006) 『危険学のすすめ』講談社。
Beck, Ulrich (222015/1986) Risikogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne. (es 1365, Neue Folge
    Band 365) Frankfurt a.M.: Suhrkamp.

Eine Katze schätzt ein.

さて、本題。これまでさまざまな大事故でも、責任者が責任をとらないでよい、という判決が出ている背景には、「具体的予見可能性説」がある、 とし、危険社会では、この考え方に沿って判断をするべきではなく、 「危惧感説」(合理的危険説)に沿って考えるべきである、というのが著者らの主張。 この「危惧感説」は、1960年代に藤木英雄教授が提唱したものだそうだ(古川元晴・船山泰範 (2015)の特に第三章を参照)。 この2つの説を「刑法学界に存在する二つの学説」として、筆者らは次のように説明している。

刑法学界に存在する二つの学説
今まで我が国の大事故は、二つの考え方によって裁かれてきました。
 一つは、「すでに起きたことがあり、具体的、確実に予測することができる危険(「既知の危険」)についてのみ、責任を問える」とする具体的予見可能性説によってです(註 1)。
 そしてもう一つが、 「今までに起きたことがなく、どのようなメカニズムで発生するのかが確実には分かっていないような『未知の危険』であっても、 起きる可能性が合理的に予測される危険については、業務の性質によっては責任を問える」とする危惧感説によってです(第二章・第三章で詳述)。
出典:古川元晴・船山泰範 (2015) 『福島原発、裁かれないでいいのか』朝日新書 500、P.17-18.

古川元晴・船山泰範 (2015) は、第九章 Iで、「法は何のために、誰のためにあるのか」 という原理的な問いを発し、その際、ドイツの法哲学者イェーリングの『権利のための闘争』を引用している(P.173)。

世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、 まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、 あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。
出典:イェーリング (462014/1982) 『権利のための闘争』 (村上淳一訳)岩波文庫 白 13-1 岩波書店、P.29.

Alles Recht in der Welt ist erstritten worden, jeder wichtige Rechtssatz hat erst denen, die sich ihm widersetzten, abgerungen werden müssen, und jedes Recht, sowohl das Recht eines Volkes wie das eines einzelnen, setzt die stetige Bereitschaft zu seiner Behauptung voraus.
Quelle:Rudolf von Jhering (1992) Ermacora (Hrg.) Der Kampf um's Recht. Propyläen Verlag, S.61.

ドイツ語に関してちょっと説明をしておく。 岩波の村上淳一訳では、Recht を「権利=法」としているが、これは、同書の「解説」 P.143にもあるように、 ドイツ語の Recht に「権利」の意味も、「法」の意味もあるからで、 このこと自体にイェーリング自身も言及している(上掲書ドイツ語、S. 63 Der Ausdruck Recht wird bekanntlich in deppeltem Sinn gebraucht, in objektivem und subjektivem. ...、上掲書和書 P.32 「周知のように、 権利=法という表現は、客観的と主観的の二重の意味で用いられる」とある。 なお和訳中、「権利=法」の部分に「レヒト」というルビがあり、「客観的」と「主観的」には傍点がふられている)。

もう1つは、「あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意がある」 という部分。この和訳を読んだ時、「貫く」というのは何なのだろう、 と不思議に思った。durchsetzen なのか、 durchführen なのか。それとも...。 原文を見たら、 die stetige Bereitschaft zu seiner Behauptung voraussetzen なので、「権利=法を主張することに対して常に準備しておくことを前提とする」 であり、「貫く」という和訳は seine Behauptung であった。「権利を主張する」、「法を主張する」と言ってよいと思うのだが、 「権利を貫く」、「法を貫く」としたのは、すぐ後の比喩につなげるためである。

権利=法は、単なる思想ではなく、いきいきした力なのである。 だからこそ、片手に権利=法を量るための秤(はかり)をもつ正義の女神は、 もう一方の手で権利=法を貫くための剣(つるぎ)を握っているのだ。 秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。 二つの要素は表裏一体をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、 秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる。
出典:イェーリング (462014/1982) 『権利のための闘争』 (村上淳一訳)岩波文庫 白 13-1 岩波書店、P.29-30.

Das Recht ist nicht bloßer Gedanke, sondern lebendige Kraft. Darum führt die Gerechtigkeit, die in der einen Hand die Wagschale hält, mit welcher sie das Recht abwägt, in der andern das Schwert, mit dem sie es behauptet. Das Schwert ohne die Wage ist die nackte Gewalt, die Wage ohne das Schwert die Ohnmacht des Rechts. Beide gehören zusammen, und ein vollkommener Rechtszustand herrscht nur da, wo die Kraft, mit welcher die Gerechtigkeit das Schwert führt, der Geschicklichkeit gleichkommt, mit der sie die Wage handhabt.
Quelle:Rudolf von Jhering (1992) Ermacora (Hrg.) Der Kampf um's Recht. Propyläen Verlag, S.61-62.

「正義の女神」とはドイツ語で何と言っているのだろうと思ったが、これは村上淳一氏が創りだした女神だったようだ。 なお、蛇足ながら、ここでの Wage は、現代ドイツ語の Waage のことだ (そもそもイェーリングの文章は、1872年のウィーンでの講演原稿が元となっているので、正書法が異なっている)。

それにしても、この力強い言葉には圧倒される。


無視する人々  [04/07/2015]

Peter Bichsel という人の書いた Ein Tisch ist ein Tisch. というショートストーリーがある。 (Winfried Ulrich (ed.) (1973) Deutsche Kurzgeschichten Stuttgart: Reclam Verlag, .5-9. )
退屈な日常に飽き飽きして、自分の回りにあるものの名前を変えていく男の話だ。 最初は、Bett(ベッド)をBild(絵)と呼ぶところから始め、 自分の身の回りにあるあらゆるものの名前を自分で好き勝手に入れ替えていく。名詞だけでなく、動詞も入れ替える。 そんな自分の世界を構築していくと、そのうち、自分の話す言葉の意味を外の世界の人々が理解できないことが分かる。 さらに、気がつくと、自分が外の世界の人々の言葉が理解できなくなっていることに気がつく。

特定の音が、世界の特定の物と結びつく必然性はない。ソシュールの言う、言語記号の「恣意性」だ。 「椅子」は、日本語では、[isɯ] だが、「椅子」というものを指して [ʧeɚ] と言ってもよいし、 [ʃtu:l] と言ってもよい。 ただ、これは、「言語音」と「モノ」が言語記号によって結びつけられているところに、 必然的な関係が最初からあったわけではない、という話であって、 ある言語社会で決まった「言語音」と「モノ」の関係を個人が勝手に変えてよい/変えられる、という話ではない。

当たり前でしょ、そんなこと。でも、そんな当たり前な「言葉の決まり」を無視する人々がいる。 「自分が、そういう意味で使っているんだからいいでしょ」という話ではない。 「自分が、そういう意味で使っている」と勝手に思っていても、 世の中の他の人たちはそのように解釈してくれない。 Peter Bichsel の話の主人公と同じだ。 初めのうちは、自分の言いたいことを他の人が理解できないことが面白くもあるのだろうが、 そのうち、それに慣れてくると自分も外の世界が理解できなくなるのだ。

「遺憾」という言葉を見てみよう。まず、『デジタル大辞泉』、その後には、 『明鏡国語辞典』の定義をとりあげる。

い-かん【遺憾】ヰ―
((名・形動)) 期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。 また、そのさま。「ー の意を表する」「万 ー なきを期する」
→遺憾(いかん)ながら
→遺憾(いかん)にたえ・ない
→ー なく【遺憾無く】
出典:『デジタル大辞泉』

い-かん【遺憾】ヰ―
((名・形動))
(1) 思い通りにならなくて、心残りなこと、残念。
「万々 ー のないように心して進め」
(2) 事柄が不首尾で、到底容認できるものではないさま。よくない。まずい。
「住民側が市政に ー の意を表明した」「当社は今回の脱線事故を誠に ー に思っている」
[表現](2)は、取り返しのつかない行為に言って、相手側には非難の、自分側には釈明の言い方となる。謝罪ではない。→「おわび」のコラム
出典:『明鏡国語辞典』

「遺憾」という言葉には、ここでも明らかなように「謝罪」の行為は含まれていない。 だから、「誠に遺憾に思います。」と言っても謝罪行為にはならない。 これは、常識だが、この常識を知ってか知らずか、ほぼ無視するような人たちがいるのは残念なことである。 このような人たちは、言語学を学ぶべきだろう。 この部分に関しては、特に「発話行為論」(Speech Act Theory) の基礎を学んで欲しい。

何かまずいことをしてしまって、相手に謝りたい時に、 「私はあなたに謝罪します。」といっても謝った行為にはならないのだ。 これに対して、「ごめんなさい。」と言えば、ちゃんと謝ったことになる。 このあたりの説明は、『明鏡国語辞典』の「おわび」のコラムにも説明があるように、 「「陳謝/深謝/万謝/謝罪」致します」という表現は、 「謝罪すると宣言して、謝意に代えるもの。」でしかなく、 「一般にはこのあとに、頭を下げる動作や、「すみません(でした)」という発話行為を伴う」。 確かにそうだ。

『明鏡国語辞典』の「おわび」のコラムは、非常に充実した説明がのっているので、感心してしまう。 お詫びをしたい場合には、是非、参考にして欲しい。 面白いのは、「おわびのしようもございません」とか、 「おわびの言葉もありません」という表現は、 外見的には否定が入っているが、もちろん 「謝罪のことばもないほどに反省していると言ってわびるもの」で、 立派に謝罪行為になっている点だ。

『サンデー毎日』には、劇作者 松崎菊也の「今週の Booing」というページがあり、 (2015.3.15)号の P.33では、「権力者3大慣用句」という話題が繰り広げられ、 「遺憾」では謝罪にならない話が載っていた。
ちなみに、「遺憾」と並んであげられた残りの2つは何だったかというと、 「忸怩(じくじ)たる思い」と「慚愧(ざんき)に耐えない」だ。 普通の言葉で、きちんと謝るのが本来の姿だろうに...。

もう1つ。「粛々と」(しゅくしゅくと)という言葉が好きな人たちがいるようだ。 様態を表現する言葉だが、以下のような記述がされている。

しゅく-しゅく【粛粛】
((ト・タル))[文]((形動タリ))
(1) ひっそりと静まっているさま。「鞭声 ー 夜河を過(わた)る」
「わが血潮は、ー と動くにも拘らず音なくして」(漱石・虞美人草)
(2) おごそかなさま。厳粛なさま。
「数十頭の乗馬隊が ー と進んで行くのは絵のごとく」(→火野・麦と兵隊)
(3) つつしみうやまうさま。
「上帝英傑を下して国人を救うと信じ…日夜 ー として之を候(ま)てりき」(雪嶺・真善美日本人)
出典:『デジタル大辞泉』

しゅく-しゅく【粛粛】
((形動(トタル)))
静かでおごそかなさま。
「葬列が ー と進む」「ー と実務に励む」
出典:『明鏡国語辞典』

『大辞泉』と『明鏡』の記述量の違いは予想外だったが、この言葉そのものには、「上から目線」はないようだ。 ただ、『明鏡国語辞典』の例文にあるように、「粛々と実務に励む」と表現すると、「静かにおごそかに仕事に励む」ということになり、 背景的には、「何も言わずに、黙って仕事をする」、つまり言外には「文句を言わずに仕事をする」姿が思い浮かび、あまり気持ちのよい光景ではないように思える。
(2015.04.09. 「志戸子」(しとご)を「仕事」(しごと)に訂正)

言葉は、時代と共に変化していく。しかし、常に一定数の共有する人たちがいて初めて意味の共有ができる。 一人で勝手に言葉を変えたり、 別の解釈を他の人に押しつけるようなことは無意味である。 「言葉をないがしろにする人は、最終的に言葉に泣かされる」のであり、 言葉使いにはくれぐれも気をつけなければならない。 私自信も、気がつくと変な漢字変換をしたメールを送っていて、反省しきりの毎日である。


びっくり!「学長」の定義  [12/03/2014]

《今回は、「学長」の定義にびっくりさせられた話。》
《みなさん、「学校教育法」に載っている「学長」の定義、ご存知ですか?》
《お恥ずかしながら、私は最近まで知りませんでした。》

昭和二十二年三月三十一日法律第二十六号で制定され、 平成二六年六月二七日法律第八八号で改正された 学校教育法 の第九十二条 第3項には、大学の学長を定義した以下の文がある(この部分は、実は改定前も変わっていない)。

学校教育法(最終改正:平成二六年六月二七日法律第八八号)
第九十二条
○3
学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する。

「校務をつかさどる」のは当然だが、「統督」という語が問題である。 多くの人にとって、「統」も「督」もよく知っている漢字なので、 きっと「統一」の「統」と「監督」の「督」だから、そんな意味だろうと考えることが多いに違いない。 しかし、「統督」の意味は、「統一」の「統」と「監督」の「督」の合成でできるものではない。 以下に『広辞苑』と『デジタル大辞泉』の説明をみてみよう。

とう・とく【統督】まとめて取り締まること。総督。
新村出 (編) (1983) 『広辞苑』第三版一刷、岩波書店、P.1704

とう・とく【統督】まとめて取り締まること。
「イバミノンダスの ー せる一軍は」(→竜渓→経国美談)
松村明、小学館『大辞泉』編集部『デジタル大辞泉』(2012)、小学館。

ここでの記述に従えば、「統督」とは、「まとめて取り締まること」なので、 学長の仕事は、「不正や不法が行われないように監視する」(=「取り締まる」『デジタル大辞泉』)ことである。

「取り締まり」をする主体は、現代の日本では主に「警察」であるから(『デジタル大辞泉』の用例にあるように、かつては「軍隊」もその任を担っていた)、 現代日本語の語感からすれば、 学長とは「社会における警察的な仕事もする」と言える。 「学長は、校務を行うだけでなく、不正や不法が行われないように監視する」 というのが文部省・文科省の昭和22年以来の定義なのだ。 この学長の定義を初めて聞かされた時、私はにわかに信じられなかった。 とにかくびっくりした。

Heidelbeere im Dezember (ブルーベリーって紅葉するんです!)

そこで、手元にあった以下の国語辞典(デジタル版を含む)6冊、漢和辞典 5冊、 類語辞典 1冊を調べてみた。 国語辞典で「統督」(とうとく)が載っていたのは、『広辞苑』と『デジタル大辞泉』のみ、 漢和辞典では、『広漢和辞典』、『新漢語林』、『角川 必携 漢和辞典』 の 3冊だったが、『角川 必携 漢和辞典』では、 【統轄】の項目に「等しい意味のもの」として挙げられていたにすぎない。 総じて 12冊中 4冊にしかこの「統督」という語は項目として掲載されていないことが分かった。 つまり、「統督」という語は<あまり使われることないので辞書に記載する必要はない>と判断されている可能性がある

国語辞典(順不同):6冊
林巨樹 (編) (1985)『現代国語例解辞典』第一版第一刷、小学館。
見坊豪紀、金田一春彦、柴田武、山田忠雄、金田一京助 (編) (1981)『新明解国語辞典』第三版第四刷 三省堂。
林四郎、野本菊雄、南不二男 (編) (1984)『例解新国語辞典』第一刷 三省堂。
北原保雄 (編) (2003)『明鏡国語辞典』第二版 大修館書店。
金田一春彦、池田弥三郎(編)(1979) 『学研国語大辞典』第8刷、学習研究社。
松村明、小学館『大辞泉』編集部『デジタル大辞泉』(2012)、小学館。
漢和辞典(順不同):5冊
貝塚茂樹、藤野岩友、小野忍 (編) (1985) 『角川漢和中辞典』二二一版、角川書店。
藤堂明保(編)(1979) 『学研漢和大字典』第7刷、学習研究社。
諸橋轍次、鎌田正、米山寅太郎 (2005)『広漢和辞典』下巻 初版第13刷、大修館書店。
小川環樹、尾崎雄二郎、都留春雄(編)(1996)『角川 必携 漢和辞典』初版、角川書店。
鎌田正、米山寅太郎 (2012) 『新漢語林』第二版、(電子辞書版)、大修館書店。
その他: 1冊
大野晋、浜西正人 (1991) 『類語国語辞典』五刷、角川書店。

さて、漢和辞典 3冊の記述を見ておこう。

【統督】(とうとく)
すべつかさどる。すべただす。統轄。
鎌田正、米山寅太郎 (2012) 『新漢語林』第二版、(電子辞書版)、大修館書店。

統督 トウトク
全体をすべてあわせて監督する。統轄。
諸橋轍次、鎌田正、米山寅太郎 (2005)『広漢和辞典』下巻 初版第13刷、大修館書店。
[漢文の例が1つ掲載されているが、ここでは省略]

【統轄】とうかつ=【統監とうかん・統摂<攝>・統督とうとく】
ひとまとめにして監督する。政事・軍事についていう。総轄。総監。
小川環樹、尾崎雄二郎、都留春雄(編)(1996)『角川 必携 漢和辞典』初版、角川書店。 P. 849.

『広辞苑』と『デジタル大辞泉』が酷似した記述をしているのに対して、 ここで挙げる漢和辞典の意味の説明は、漢字の意味を合成の原理 (principle of compositon) に従って合成して示しているだけのように見える。 つまり、「統」は、「す・べ(る)」(=一つにまとめる)、「全体をまとめる」、「ひとまとめにする」という意味、 「督」は「つかさどる」、「ただす」、「監督する」の意味、 この2つを合成したものが「統督」の意味だとするのだ。

「学校教育法」(昭和22年制定)は、同年に施行された「教育基本法」 と並んで第二次世界大戦後の日本の教育改革を決定づけた法律だった。 しかし、この「統督」という語の選択から見えるのは、 この草稿を書いたのは漢文を巧みに操る方(たち)だったという可能性だここからは、たんなる憶測)。 そしてその人(たち)にとって、 日本語の中に「統督」という言葉がどのように用いられているかには、 おそらく関心がなかったに違いない。 『角川 必携 漢和辞典』が指摘するように、「統督」は 「政事・軍事についていう」のが主な用法であり、教育行政には不釣り合いな語であるからだ。

実際の教育現場では「不正や不法が行われないように監視する」必要もある。 確かにその通り。 しかし、大学という社会で、 学長が「不正や不法が行われないように監視する」というのが正しい姿だろうか? 日本で「不正や不法が行われないように監視する」のが総理大臣の仕事だったらどうなるだろう? アメリカで「不正や不法が行われないように監視する」のが大統領の仕事だったらどうなるだろう? ある社会のトップが「監視する仕事」をやり始めたら、これは強権独裁的になる、と推測するのが妥当だろう。 窒息するような息苦しい社会ができあがってしまう。 みんなが、その社会のトップによって統督されている世界だ。

非常に多くの決定権を学長に集中させることで、学長のリーダーシップを強め、 社会に素速く対応する大学を作るというのが昨今の考え方のようだ。 しかし、 学問をする場を「時代の要請」という名の元に「学長の意向」で簡単に変えられるようにすることは、 民主主義的発想と逆行する。 典型的な場合を想像すると、「一人の意思決定が何百人、何千人の教育現場を変えてしまう」のだから。 誰にでも分かることだ。 それを敢えてやるべきだと考える人たち、それを決めた人たち、いったいどんな人達なのだろう?


なにこれ:朝日新聞の「リナックス」記事  [09/29/2014]

2014年9月28日、朝日新聞朝刊に「OS『リナックス』プログラムに欠陥:公官庁も利用」 という2段抜きの記事が載っていた。Linux ユーザとしては、 「えっ?」と思って読んでみて唖然とした。 これって、JPCERT コーディネーションセンターGNU bash の脆弱性に関する注意喚起 のことらしい。 私が唖然とした理由は、 (1) この新聞記事の最初の文が、そもそも内容的に理解不能であること、 (2) 情報源がほとんど分からない書き方をしていること、 (3) そもそも、この記事が誰に何を伝えようとしているのか分からないこと、 の3点だ。

(1) この新聞記事の最初の文が、そもそも内容的に理解不能である。
この記事の最初の2つの文をまず以下に引用する。

企業や官公庁がインターネットでホームページを表示するのに使うプログラムに重大な欠陥があり、外部からの攻撃によってサーバーを乗っ取られ、サイトを改ざんされる恐れがあることが、わかった。 情報セキュリティー各社は注意を呼びかけている。
出典:2014年9月28日、朝日新聞朝刊「OS『リナックス』プログラムに欠陥:公官庁も利用」

ここで「企業や官公庁がインターネットでホームページを表示するのに使うプログラム」 と読んでいるのは、bash のことらしい(次のパラグラフに書いてある)。 bash は、「インターネットでホームページを表示するのに使うプログラム」ではない。 例えば、bashとは 【 Bourne Again shell 】 - 意味/解説/説明/定義 : IT用語辞典 にも書いてあるように、シェル(shell)の一種でしかない。 「bash を使ってホームページを表示する」というのは、 ひょっとして Lynx を使うということなのだろうか? 一般的な言い方をすれば、「ホームページを表示するのに使うプログラム」はブラウザ(Browser) と言うプログラムだ。

第3、第4の文も以下に引用しておく。

 米政府などによれば、無償の基本ソフト(OS)「リナックス」などで使われる「bash」と呼ばれるプログラムに重大な欠陥が見つかった。 日本でも企業や官公庁の多くがリナックスを利用しており、 サイトの動作に使うサーバーを乗っ取られれば、サイトを閲覧するパソコンにウイルスが送り込まれたり、サイトに入力されるIDやパスワードなどが盗まれたりする可能性がある。
出典:2014年9月28日、朝日新聞朝刊「OS『リナックス』プログラムに欠陥:公官庁も利用」

第3の文で、タイトルにある「プログラム」が bash であることが分かる。 第4の文は、 bash の話ではなく、日本でも「リナックス」が利用されていることと、 「サーバーが乗っ取られた」時の一般論を説明しているだけである。

(2) 情報源がほとんど分からない書き方をしている。
この記事の最も問題なのは、ニュースソースがほとんど分からないことだ。 情報源と思える部分に言及した箇所を以下に挙げる。

[1] 「...、わかった。」(第1文には、そもそも情報源が明示されていない。)
[2] 「情報セキュリティー各社は注意を呼びかけている。」(「情報セキュリティー各社」とは、いったいどこなのか?)
[3] 「米政府などによれば、...」(第3文の冒頭。「米政府」とは、アメリカ政府のどこなのか?「など」とはいったいどこなのか?)
[4] 「セキュリティー会社『ラック』の...」(ここで、初めて具体的な情報源が出てきた。 ただし、ここで登場する最高技術責任者の言葉は、「放っておくと深刻な被害を被りかねない」というつきなみなもの。 専門家の意見としての価値が台無しだ。その後の、修正プログラムの導入を呼びかけている、という部分こそ一番重要な点だろう。)
[5] 「米アップルによると、...」 (ここでは、「マックOSX」の話が出てくる。「...OSの設定を変えるなど特殊な使い方をしない限りは遠隔操作される恐れはない...」 というのは、まともなコメント)

このような記事でいちいち突っかからないで、と言われそうだが、 新聞記事というのは、さまざまなところで引用され、<きちんと書かれていることが前提となり>、 しばしば<見本となる>のだ。そのような観点から言うと、この記事は失格である。

(A) コンピュータのセキュリティー情報なら、まず、上でも挙げた JPCERT コーディネーションセンター をきちんと確認して欲しい。
(B) そこに記されている参照サイトを確認して欲しい。多くの場合、CVE (= Common Vulnerabilities and Exposures) が出ているはずだ。

今回の場合は、 CVE-ID CVE-2014-6271CVE-ID CVE-2014-7169 がある。 そこにある Description を読むと概略が分かる。 この程度の情報収集は、コンピュータ技術関係のニュースを書く人に実践して欲しい。

(3) そもそも、この記事が誰に何を伝えようとしているのか分からない。
コンピュータのセキュリティー・アラートというのは、現在、日常的なことである。 重要なのは、セキュリティー・アラートが出ているのを知ったら、 その修正プログラムが提供されたらすぐに該当プログラムをアップデートする、 ということにつきる。 発表されたセキュリティー・アラートに対して、 たいへんな時間と労力をかけてその対策をしている専門家がいることを忘れてはならない。
このような観点から今回の記事を見ると、 そもそも何でこういう見出し(「OS『リナックス』プログラムに欠陥:公官庁も利用」)になるのか理解に苦しむ。 見出しだけを拾い読みする人には、「OS」、「リナックス」、「欠陥」の3語が記憶に残るように書かれている ようにも見える。 見出しだけを拾い読みする人には、「OS」、「リナックス」、「安全」の3語が書かれていたら 別のイメージが記憶に残ったろう。

この記事は、署名入りだ。 誰が書いたのかを明示することで、責任を明確にするのはよい。 しかし、情報源が不明確で、最初の文が大きな誤解を招く内容とあっては黙っていられない。 見出しの文にも問題がある。ここで問題となっているのは、GNU bash であり、「リナックス」そのものではない(記事の中では、 「『リナックス』などで使われる『bash』」と一応言っているが見出しではそう読めない)。「マックOSX」は、「リナックス」 ではないが、GNU bash も含まれている。 GNU bashWindows でもインストールできるのだ。 この見出しは、見れば見るほど変だ。

「官公庁も利用」という言葉が見出しに含まれていることを考慮すると、 ひょっとして「官公庁」、「リナックスの利用」、「プログラムに欠陥」という連想を狙った記事だったのかもしれない。 この記事を書いた方は、よほど Windows が好きな方で、「官公庁」での「ウインドウズ」利用を推進したいのかもしれない、 という穿った見方も可能だ。

日常化しているコンピュータのセキュリティー・アラートのことを考えると、 新聞にもそのような常設のコーナーを作っても良い。 2014年9月29日、 JPCERT コーディネーションセンター を見ると、以下のような情報が載っていた。 例えば、Adobe Reader の脆弱性は、広範囲に影響を及ぼす。 最近、アップデートをさせられた記憶のある方も多いだろう。 Adobe Flash Player のアップデートもあった。

注意喚起
深刻で影響範囲の広い、情報セキュリティ上の脅威など最新のセキュリティ情報を配信しています。
2014-09-26 [更新]
GNU bash の脆弱性に関する注意喚起
2014-09-17 [公開]
Adobe Reader および Acrobat の脆弱性 (APSB14-20) に関する注意喚起
2014-09-10 [公開]
Adobe Flash Player の脆弱性 (APSB14-21) に関する注意喚起
2014-09-10 [公開]
2014年9月 Microsoft セキュリティ情報 (緊急 1件含) に関する注意喚起
2014-08-13 [公開]
Adobe Reader および Acrobat の脆弱性 (APSB14-19) に関する注意喚起
出典:JPCERT コーディネーションセンター https://www.jpcert.or.jp (参照日:2014年9月29日)

この記事を書いた記者は、おそらくリナックス・ユーザではないのだろう。 リナックス・ユーザは、通常、そのディストリビューションを管理する団体から、 日常的にアップデートのお知らせをもらっているのだ。 私もリナックス・ユーザなので、この新聞記事を見る前に、 すでにアップデートのお知らせをもらって bash のアップデートは終えていた。 この記事を読んで、修正プログラムをインストールするリナックス・ユーザはいったい何人いるのだろうか。 「一般的な読者に分かるように」、「専門用語を使わずに」書くのがコンピュータ技術系の記事を書く時の方針なのだとしたら、 それは間違った方針だ。コンピュータ技術系の記事、特に、 セキュリティー・アラート系の記事では、正確に迅速に伝える ことが第一に求められる。 「曖昧な書き方」(今回の記事には6個の「など」がある)は、「不安」をあおるだけだ。 間違った情報はすぐに訂正・謝罪する姿勢が必要なのは言うまでもない。


節約した時間はどこへいったのか?  [09/27/2014]

ローカルにもグローバルにも信じられない出来事が日常的に起きる日々。 いったい世界はどうなっていくのか、日本の政治、経済はどうなっていくのか。 未来のビジョンの無いままに突っ走る人々。 そんな中、私も気がつくと走りたくないのに十分に走らされている。

なかなか自分の時間が作れないのだが、 先日、それでも多少の時間を見つけた。 地元の本屋に立ち寄り、小川和也(2014)『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書 2283)を他の何冊かの本と一緒に購入した。 ネット書店で購入する本を決めて注文するのと違って、本屋で本を手にとってあれこれ立ち読みして購入するのは楽しい瞬間だ。

この本、講談社現代新書50周年と書かれた、 本の縦の 3/4を覆う(あまりにも大きすぎる)帯に次のように書かれている(もちろん、実際のレイアウトは違います。黄色の文字は、 「電極の差し込まれたメタリックの脳」の周辺に配置されています。 実際のイメージは、講談社現代新書 - 講談社 の2014年9月の新刊をご覧ください)。

デジタルテクノロジーはわれわれをどこに連れて行くのか
人工知能が
ヒトの脳を超える日
   デジタル認知症
        オンライン空間の仮想国家
   脳とコンピュータの接続
          デジタル化するコンタクトレンズ
   健常者の記録を破る義足アスリート
            ロボットによる代理戦争
   永遠に止まらない心臓
小川和也(2014)『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書 2283)の帯より

確かに、ここまで書かれていると、本のタイトルと相まって思わず手にとってしまう。 日頃からコンピュータと共に暮らしていて、しかも、このコンピュータの普及が人間から人間らしさを奪ってしまっている、 そんなことを感じているからだ。 一方では、これまでできなかったことがコンピュータ技術の進歩で可能になったことを喜んでいる自分がいる。 他方では、これだけ普及してしまったコンピュータが、 <人々の暮らしを加速し>、 <人々の時間を奪い>、 <多くの人間から考える能力を奪い>、 <多くの人間から仕事を奪っている>。 この由々しき事態を何とかしなければならない。 そんな問題意識を、この本の著者も持っている。 そういう意味で共感できる本である。

ただし、読み終わってみると2014年9月20日第1刷発行の本として、最新 IT 情報満載だが、一つひとつの情報にそれほど深い突っ込みはない(2014年に発表された3D プリンタで電極を印刷したペースメーカーとか 【3D heart sock could replace pacemaker | Medicalxpress 参照】、 EU の 2020年までに人間の脳機能のシュミレーションをすると言っている The Human Brain Project- Human Brain ProjectTuring Test 2014 で初めて Turing Test に合格したプログラム/ユージーン・グーツマン君 【BBC News - Computer AI passes Turing test in 'world first' 参照】などなど)。 また、どちらかというと、デジタル技術の進歩の方に比重が傾き、負の側面の方が少ない。 筆者がそもそもデジタル技術の中で活躍されている方なので当然と言えば当然。 従って、本書のタイトルとなっている疑問文「デジタルは人間を奪うのか」 に対する答えは、結論として否定する方向に(楽観的な方向に)引っ張っている(P.202)。

科学技術の進歩、そして特にコンピュータを中心としたデジタル技術の進歩は、 これまでさまざまな仕事・労働から人間を「開放して」きた。その結果、人間はより多くの時間を手に入れたはずなのだが、 「その時間はいったいどこに消えたのだろう」という疑問がある。

小川和也氏は、序章「デジタルの船からは、もやは降りられない」の中で(P.18-20)、 ある有名大学の図書館のプロジェクトの話をしている。当時はまだ2000年代の中頃、 彼はケイタイから図書館の蔵書検索を可能にするシステムを構築したそうだ。 そこで、昔の卒業論文を書いた時のことをこんな風に語っている。

とりわけ卒業論文を書く時には、大量に必要な参考文献を探すのにとても骨が折れた。 大学の図書館の蔵書だけでは事足りず、国会図書館や大使館(海外の情報が必要だったこともあり)にもしばしば足を運んでは、 とにかく必要な情報を探し回った。
 いま振り返れば、卒業論文を書くための全工程のうち、 実はこの作業にかなり多くの時間と労力を割いていたのではないかと思う。 参考文献、情報探しで力尽きるなんて本末転倒だが、迫り来る論文提出期限を前に、 自分が納得できるだけの十分な思考とそれを論文にする時間を確保できたかといえば正直微妙だ。
出典:小川和也(2014)『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書 2283), P.19.

懐かしき昔の風景だ。私も、ほぼ同じような経験をしたと思う。 図書館で自分の研究に必要な本や論文を探し出すのも大変だが、その後それをコピーをするのも大変だったし時間がかかった。 さらにファイリングして、丁寧に読み、メモをとる。そこでも多くの時間が必要だった。

現在では、ネット経由で図書館の蔵書が検索でき、電子図書館として機能している図書館においては、専門書の論文を PDF でダウンロードでき、 テキスト検索もできるので自分の知りたかった情報にかなり早く到達できる。 かくして PDF でダウンロードした論文がコンピュータ内に蓄積されていき、 昔よりもはるかに多くの論文を入手できる。 しかし、自省してみると、私は昔のように入手した論文をしっかり時間をかけて読んでいない。 簡単に入手できるものは、それだけの価値のものに成り下がってしまう ようだ。

小川和也(2014)の中の話で言えば、「デジタル写真を撮影するほど記憶が薄れる」話(P.54)は、 心理学者リンダ・ヘンケル(Linda Henkel)氏の研究を引き合いに出し、 ヘンケル氏の「写真撮影減殺効果」(photo-taking-impairment effect)を紹介している。

 同大学[フェアフィールド大学]内にある博物館のツアーに学生を参加させ、写真を撮影するか、見学だけをするかの2通りに分けた。 そして、いくつかの展示品を覚えておくよう指示を与えた。 翌日、指定した展示品に関する記憶を調査すると、見学だけしていた学生と比べ、 写真を撮影していた学生の方の対象物に関する認識が正確さを欠いていた。
 同氏[リンダ・ヘンケル]はこれを「写真撮影減殺効果」と称し、 「物事を覚えておくために技術の力に頼り、その出来事をカメラに記録することで、 自分自身で積極的に参加しようとする必要がなくなってしまい、 経験したことをしっかり覚えておこうとしてもマイナス効果を与えかねない」と説明している。
出典:小川和也(2014)『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書 2283), P.54-55.
論文のアブストラクトはこちら: Linda A. Henkel/Point-and-Shoot Memories: The Influence of Taking Photos on Memory for a Museum Tour | Psychological Science [02-07-2014]

castanea crenata

写メ(=写真を取ってそれをメモにする)という行為は、現在かなり広まっているが、 写メしたものは(一般的に)覚えていない、という経験則がある。 ケイタイが覚えている、スマホが覚えていると言うのはたやすいが、 要するに自分では覚えていないのだ。 カーナビが覚えている、というのも同じ。 「自分で覚える」という行動を取らないと、結局、どんどん記憶ができなくなっていく。

小川和也(2014)には、「デジタル認知症」の話も紹介されている(P.156-158)。 中国の武漢大学中南医院神経内科の肖勁松(シャオ・ジンソン)准教授が2013年7月に発表した研究だ。 肖氏は「...デジタル製品に過度依存することで注意力が低下し、 特に記憶力が退化する若年の『デジタル認知症』の患者が急増中であることに警鐘を鳴らした。」 と紹介されている(小川和也 2014:157)。 さらに、記憶力が鍛えられないと、集中力の欠如を引き起こす可能性があるそうだ。
(詳細は、スマホ認知症、記憶力低下に注意―中国メディア:レコードチャイナ を参照)

そこから先は、もう想像できてしまう(たんなる憶測だが)。 つまり、集中力の欠如は、その当然の帰結として思考する能力の減退につながる。 「考える」という行為の本質が認知科学的に解明されているわけではないが、 「特定の事を考えるためには、意識の集中が必要である」。 ぼーっとしていて、なんとなくあることを考えている、というのは「思考のアイドリング状態」。 「アイドリング」ばかりしていると、結局意識的に考えることができなくなる。 いつもアイドリング中の人、見かけませんか?

科学技術の発展におぶさって、ますます多くの時間を手に入れた人間はいったいどこへいくのだろう? 面倒なことはすべて機械に任せ、クリエイティブな仕事や、人間らしい思考をするはずだったのではなかったのか?

私は、この頃、意識的に「ときどき時代と逆行して面倒なことをする」ように心がけている(「もともとへそ曲がりだったじゃないか」 という外野からの野次が聞こえる)。 些細なことだ。 例えば、スマホでニュースを読むのではなく、 朝、その時の気分で適当な朝刊を買って読む。 時間を作って、テーブルの上に新聞を広げて全体を見渡して読む。 実際には、週に2、3回なのだが、パソコンやスマホでニュースを読むのとは違った充実感が得られる。 小川和也(2014: 163-165)にも同じような話が書いてあったが、 <時にはネットとつながらない>(Sometimes offline) ことが、 独特の安心感を生む(TIME の表紙の言葉で、 比較的最近 Never offline というのがあったのを思い出して作ってみた)。 これは一種の「デジタルデトックス」だ。「ネット断食」と言うと、なんか仰々しい。 「デトックス」=「毒抜き」という方がぴったりくる。

ここでのポイントは、ゆっくりと時間をかけて取り組む ということだ。 以前は当たり前だったことが、 今では機械・コンピュータの発達で瞬間的にできる、ということがいくらでも周りにはある。 それを、時々やめてみる。 結構、大変な仕事になることもある。 でも、それが新たな発見につながったり、 人間性を取り戻すきっかけになったりする。 ツイートばかりしていないで、たまには長い文章を書くことも良いですねぇ。


ジャーマンポテトは日本の味!  [08/12/2014]

2014年8月3日に、オープンキャンパスの模擬講義で「『ジャーマンポテト』は、なぜドイツに無いのか?」という話をした。 いつ頃にこういう話を決めるかというと、今年の場合は5月8日が「要約」の締め切りだった。 私は、5月6日に書いて提出したので、およそ3ヶ月前だ。 実は、話のネタとしては、昨年度の Brezel の話を考えた時の対立候補だったので、 一年前から温めてきた(?)ものでもある。

模擬講義の表題から分かるように、結論は示されていないものの、 この疑問文には前提(presupposition)として、 「『ジャーマンポテト』はドイツに無い」という命題が含まれている。 しかし、世の中にはそう考えていない人も多く、 日本語のウィキペディアでは、この文章を書いている時にも、相変わらず以下のような説明が載っている。

ジャーマンポテト(和製英語:German potato)とは、 その名の通りジャガイモを主要な食材として作られる料理の1つである。 なお、タマネギを含むので、イヌなどが起こすタマネギ中毒の原因となる料理の1つとしても知られている。 ドイツでは「ベーコン+ジャガイモ」という意味のシュペックカルトッフェル(Speckkartoffeln)という名で知られる[1]。
概要:
ジャーマンポテトは、日本では居酒屋などのメニューの1つになっていることがしばしばある [2] 。 またドイツでは、ボリュームがあってお腹も膨れるので、夕食の献立となることもよくある [3] 。
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャーマンポテト
最終更新 2013年9月27日 (金) 00:14
[1] Sheraton, Mimi. The German Cookbook. Random House, New York. 1966. p314
[2] 勝身 利子 『野菜の食卓 じゃがいも じゃがいも』 p.60 光人社 2002年5月31日発行 ISBN 4-7698-1053-9
[3] 勝身 利子 『野菜の食卓 じゃがいも じゃがいも』 p.65 光人社 2002年5月31日発行 ISBN 4-7698-1053-9

この説明文を書いた人にけちをつけるわけではないが、「ジャーマンポテト」 (German potato)が和製英語であることを認めながら、 「ドイツでは...シュペックカルトッフェル(Speckkartoffeln)という名で知られる。」 という説明をし、その根拠となる出典が英語の料理本 Sheraton (1966) であるというのはどうしたら可能なのだろうか?

原典に当たることができないので、想像すると、 この本 Sheraton (1966)の 314 ページを見ると、 Speckkartoffeln の作り方が出ているだけではないだろうか?
つまり、 Sheraton (1966)の 314 ページを見ても、 <この料理こそ、日本で言うところの German potato に対応するものである。>とは書いてないのではないか、 ということだ。
つまり、「ジャーマンポテト」=「シュペックカルトッフェル」というのは、 筆者の想像であり、[1]の文献には書いてないのではないですか、という話だ。

さらに、 勝身 利子 (2002)の 65ページを参照した記述として 「またドイツでは、ボリュームがあってお腹も膨れるので、夕食の献立となることもよくある」と書いてあるのだが、「おや?」っと思う。 夕食の献立に「お腹も膨れる」という理由でシュペックカルトッフェルを食べるという話は、私は聞いたことがない。 一般的には、夕食で重いものを食べるのはドイツで敬遠される傾向があるので、 夜は kaltes Essen(冷たい食事)で済ますというケースが多いと思う (そのように聞いてきたし、実際にパーティーなどの特別な場合を除き、夕食でお腹に負担にならないものを食べる人々を多く目撃してきた)。 もちろん、近年の若者の食生活が変わった、ということもあるかもしれないが、 2002年で日本で出版された本が根拠になっているので、そんなこともないだろう。

まあ、日本では無理だが、テレビの街頭インタビューよろしく、 「100人に聞いて見ました」、なんて言う企画をして、たとえば次の(A) か (B)の質問をしてみれば分かるだろう。

FRAGE (A): Essen Sie gern Speckkartoffeln zu Abend?

FRAGE (B): Essen Sie am Abend gern Speckkartoffeln?

ネットをさまよって検索結果を見ていたら、 サッポロビールのサイトにある、ジャーマンポテトの説明には以下のように書いてあった。

ビールのつまみの王道。こんがり、ホクホク! ジャーマンポテト
その名の通り、ドイツの代表的な家庭料理。ドイツでは、ブラートカトフェルンと呼ばれています。 ベーコンのうまみを生かし、じゃがいもをこんがりさせるのがポイント。ご紹介するレシピでは、ディルを加えて香りもさわやかに仕上げました。
出典:ジャーマンポテト | お酒にピッタリ!おすすめレシピ | サッポロビール
(http://www.sapporobeer.jp/recipe/0000000241/)
参照日: 2014年8月11日

ジャーマンポテトが「ドイツの代表的な家庭料理」だそうで、「ブラートカトフェルンと呼ばれています。」 と説明されている。まあ、Bratkartoffeln なら、 braten したジャガイモなので、 確かにいろいろなジャガイモ料理が出てくるだろう。 (braten   1. etwas in heißem Fett in der Pfanne oder im Backofen braun und gar werden lassen. Aus: Langenscheidt Großwörterbuch Deutsch als Fremdsprache.) 中には「ジャーマンポテト」に似たものも見つかるだろう。 しかし、ポイントは、「X と似ている料理がどこどこにも存在する」というのではなく、 「X という名前の料理が Xという名前に含まれる地域に存在する」 のかどうかである。 そもそも「代表的な家庭料理」と言われてしまうと、何なのだろうと考えてしまう。 地方分権が基本のドイツにおいて、そもそも「ドイツの代表的な家庭料理」なんてないんじゃない、と思ってしまう。

例えば、http://www.chefkoch.de/Bratkartoffeln を調べてみると Bratkartoffeln Rezepte | Chefkoch.de があり、355 種類のレシピが紹介されているので、中にはジャーマンポテトに似ているものもあるかもしれない。

さて、なんでそもそも日本では、ドイツ=「ジャガイモを食べる国」というイメージが定着したのだろうか? あちこち探してみたが決定打と言えるような証拠は見つからなかった。 フリードリヒ大王の「ジャガイモ令」が、日本で知れ渡っているとも思えないし、 ジャガイモの生産量や消費量でドイツが突出しているわけでもない。 それにもかかわらず、「ドイツ人はジャガイモを主食にしている」と勘違いしている日本人が未だにいるのには驚かされる。 ジャガイモの消費量なら、例えばイギリスの方がドイツよりも多いのに、 「ドイツ人はジャガイモをたくさん食べている」とかたくなに信じている日本人が多い。 まあ、ジャガイモ料理の種類はたくさんある国かもしれない。

今回の模擬授業では、ジャガイモの基本的情報と共に、 1つの語源に関する説から遡って話を進めた。この説は、『デジタル大辞泉』から取ったものだ。
「ジャーマンポテト《German potato saladから》 ゆでたジャガイモを適当な大きさに切り、バター・オリーブオイルなどで炒め、かりっと炒めたベーコンとタマネギを加えて、塩・こしょうで味付けしたもの。」 (『デジタル大辞泉』)

そこで、電子辞書に入っている料理辞典 『世界の料理・メニュー辞典 6ヵ国編』(学研, 2001)で German potato salad を調べて見ると、
「米 German potato salad[ジャーマン・ポテト・サラド]  ジャガイモ、ベーコン、炒めたタマネギ、ピクルスを酢で和えた温かいサラダ。」と書いてあった。

ここまで来ると、その元は、ドイツ語の Kartoffelsalat(ジャガイモサラダ)に違いないと思ってしまう。 シンプルなドイツ語の「ジャガイモサラダ」は、実は日本で食べられている「ポテトサラダ」とは大違いなので、 その話をしなながら、 日本の「ジャーマンポテト」とアメリカの German potato salad と、 ドイツの Kartoffelsalat の違いをレシピと写真から比べることになった。

「『ジャーマンポテト』は、なぜドイツに無いのか?」と問われると、 実は答えは簡単で、日本で作られたからだ。今回の話のタイトルにつけたように ジャーマンポテトは日本の味 なのだ。 簡単にできるこの日本料理、ヴァリエーションが簡単に作れて、 居酒屋の定番メニューになっているだけではなく、 多くの家庭でも「お手軽に」作られているようだ。 キッコーマンの うちのごはん | キッコーマンシリーズにも入っている。 また、エスビー食品は、S&B シーズニング ジャーマンポテト という商品を出している。

German potato (mix) in Japan vs. fuer Badischen Kartoffelsalat mit Kraeutern

そもそも英語で German potatos と表現すれば、「ドイツのジャガイモ」という意味だから、 ドイツに行ってジャガイモを見たら、「それはドイツのジャガイモ」なのだ。 同じような例としては、イギリスパン、スパゲッティ・ナポリタン、アメリカンコーヒー、ウインナコーヒーなどがあるが、 それぞれの場所に行ってこのような単語を発したら、かなりおかしい。

そもそも、なんでこんな名前を日本人はつけるのだろう、 と疑問に思う人もいるだろうが、別に日本人だけがやるわけではない。 実は、世界中の人たちが大昔からやっていることなのだ。 21世紀研究会 (編) (2004) 『食の世界地図』文春新書 378,の p. 27-28 によれば、 英語の potato は、もともと「サツマイモ」を指す言葉だったそうだ。 今では、potato が「ジャガイモ(ジャガタラ芋)」に、sweet potato が「サツマイモ(薩摩芋)」になってしまった。

現在でも特に変なのは、「フライドポテト」だ。 これも、おそらく和製英語。 アメリカでは、French fries、 イギリスでは、(potato) chips と言う。 じゃあイギリスで「ポテトチップス」はなんて言うかというと、crisps、 ドイツでは、なぜかフランス語で、 pomme frites、 フランス語では、ジャガイモを pomme de terre「土のリンゴ」 と言うが、 pomme だけでも「リンゴ」だけでなく、 いつの頃からか「ジャガイモ」を指せるようになった。 ドイツでは、口語で pomme frites の代わりに pommes(ポメス)と発音する人もいる。 かくして、多くの地域でばらばらに勝手に外国語表現を借用して変えているのだ。

ハハハッ、と笑って済ませればそれでよいのだが、実際には意思の疎通ができないと困る。 みんな勝手だよな、と思う。歴史的背景はいろいろあるに違いないのだが、 このような命名の背後には、おそらく 新しい製品・料理などに「新しいイメージ」を付けたい という欲求があり、それは、自国のものではなく、海外のモノ(名前) の方が都合が良いのだろう。

日本のメーカーの自動車の名前を見てみれば、日本語由来の名前がほとんどないことがわかるが、 これも異国情緒、あるいは外国語の「新しいイメージ」を求めるからなのだろう。 日本の伝統をアピールするような商品なら別だが、 そうでなければ外国語の表現を使って新しいイメージを作っているものは多いと思う。

おそらく「胡菜(こさい)」と言ってもイメージがわかないだろうが、 「コエンドロ」と言えばポルトガル語の coentro から、 「香菜(シャンツァイ)」と言えば中国語から、 「パクチー」と言えばタイ語(phakchi)から来た表現だ。 「コリアンダー」と言えば英語の coriander や、 ドイツ語の Koriander だが、これはギリシャ語起源のようだ。 Coriandrum sativum はセリ科の一年草で、 あの強い香りの香辛料で有名だが、 実体が同じでも呼び名が違うと随分イメージが違うと思う。 私は、当初、この強烈な香りが耐えられなかったが、 そのうちに好きになり、今では大好物になり自宅でも時々栽培している。

私は、実はあまりジャーマンポテトが好きではない。日本のポテトサラダは嫌いだ。 他方、 Kartoffelsalat は好きだし、 スイスの Rösti も好きだ。 Rösti は、日本語で何と言うんだろうと思って『独和大辞典』(小学館)で Röstkartoffeln を調べたら、 「〚料理〛フライド=ポテト」と書いてあった。 思わず目を疑って、「『独和大辞典』よ、おまえもか!」と心の中で叫んでしまった。


医学的根拠とは何なのか?  [06/20/2014]

裁判には(金と)時間がかかる、と言われている。 さらに、公害裁判のように、病気の因果関係がからんでくると、もっと(金と)時間がかかると言われている。 それは、特定の病気の原因の認定は難しいからだ、と私はずっと盲目的に信じていた。 今回、まず (1) の本の広告を見て購入して読み始めたら、この本は、 実は2004年に単行本として出版されていたものを文庫本化したものであることが分かった。 その後、(2), (3)を購入した後、結果的には (3), (2), (1) の順で読んだ。

(1) 津田敏秀 (2014)『医学者は公害事件で何をしてきたのか』岩波現代文庫/学術311, 岩波書店。
(2) 津田敏秀 (2011)『医学と仮説:原因と結果の科学を考える』岩波科学ライブラリー 184, 岩波書店。
(3) 津田敏秀 (2013)『医学的根拠とは何か』岩波新書 1458, 岩波書店。

Toshihide Tsuda, 3 books on medical reasoning

簡単に言ってしまうと、これまでの公害裁判での医学者の判定の仕方は実はあまりにもお粗末であり、 その医学的根拠とやらを法律専門家や官僚が盲信してしまう実態があった、ということだ。 (3)のまえがきには、「...冗談交じりとはいえ『おまえ殺されるぞ』と忠告された。」と書いてあるが、 実際の裁判で医学的根拠を述べた医学者が実名で登場する。すごい。

公害裁判としては、水俣病事件が最も詳しく述べられているが、 その他にも(3)では O-157, 赤ちゃんの突然死、PM2.5、放射線被ばく、 (2) では森永ヒ素ミルク中毒事件、和歌山市ヒ素カレー事件などの話も語られている。 読みやすさという観点から、私は (3) をすすめる。それは、 「医学的根拠とは何か」という話題をわかりやすく扱っているからだ。 また、現実の状況に当てはめて考えると、医学者は、直感派、メカニズム派、数量化派の3つの流派に分類でき、 現代では最も重視されねばならない数量化派のアプローチが日本に根づいていない、 という論旨がストレートに表現されているからでもある。 (3)の序章に以下の説明がある。

...医学的根拠に関して、欧米では19世紀前半から論争が繰り返されてきた。 歴史的には、医学的根拠は三つ存在するのである。 本書では、それらを仮に直感派、メカニズム派、数量化派と呼ぶ。 直感派は医師としての個人的な経験を重んじ、 メカニズム派は動物実験や(現代では)遺伝子実験など、生物学的研究の結果を重視する。 そして数量化派は、統計学の方法論を用いて、人間のデータを定量的に分析した結果を重視する。 一般にはあまり知られていない分野ではあるが、今日では、 病気などの原因を科学的に証明するためには、 疫学あるいは医療統計学と呼ばれる方法論が用いられる。 生物学的メカニズムの解明こそが病気の原因を明らかにするという考えは、実は誤りである。

出典:津田敏秀 (2013)『医学的根拠とは何か』岩波書店、p.11.

水俣病のケースが一番わかり易い。 水俣病裁判においては、関連した医学者たちは直感派とメカニズム派が大多数だったのだそうだ。 その結果、 「1956年5月1日に『公式発見』された水俣病事件では、1968年まで、チッソ水俣工場の排水規制も汚染された魚の摂食規制もなされなかった」 (津田 2013:113)とのことだ。 実際には、「公式発見」のおよそ半年後には、水俣湾産の魚介類が原因食品であることが判明していたそうで、 この時点で食中毒事件として(食品衛生法に基づいて)扱われていれば被害者の拡大を防げたはずだ、というのが筆者、津田敏秀氏の主張だ。

直感派は、この場合、神経内科医たちで、水俣病が神経症状を主に発するところから自分たちこそ専門家だと主張したそうだ。 メカニズム派の代表格は、病理診断医で、彼らは病理解剖を通じて診断を行い、水俣病の確認や認定を行ったそうだ。 彼らは、目視確認をして認定をするという意味では直感派でもあり、死後の解剖でしか認定できないという批判を浴びた。

極めて重要なのは、特定の症状がでたからXYZ病だ、 と結論づけることは一般になかなかできない、ということだ。 また、複数の症状がある場合、どちらが原因でどちらが結果なのかを決定するには、 それを裏付けるデータが必要になる、という点も見逃してはならない。

症状 A: 患者の脳に水銀の沈着がある。
症状 B: 患者の神経細胞には異常がある。

上記のように、症状 A と症状 B が観察された時、 どちらがどちらを引き起こしたのかを決めるには、症状 A と症状 B に関係したあらゆる可能性の症例を集めねばならない。 そこで数量化して統計的に処理することで初めて因果関係に関して言及できるようになる。 で、ここらへんの認識を持つ医学者が、驚くべきことに非常に少ないのだそうだ。

そして、これまで公害裁判に関わってきた医学者の判断を鵜呑みにして、 裁判官や検事、弁護士などが法廷で議論するそうで、 そうなるともういつまでたっても結論がでないことは目に見えている。 まったく困ったものだ。 津田敏秀氏の指摘を受けるまでもなく、 きちんと疫学、あるいは医療統計学を学んだ医学者だけが、裁判で医学的根拠を述べるられるようになって欲しい。

なお、「疫学とは何か」に関しては (1)、医学における因果関係を科学的に捉えるとはどういうことか(ヒュームの哲学を含む)は (2)、 医学界、政策作成現場としての官僚組織、法曹界の問題等を扱っているのは (1) だ。 知れば知るほど不条理な世界、どうしようもない現状が見えてくる。 たとえば、(2) の冒頭に出てくるヘリコバクター・ピロリ(以下、ピロリ菌)に関するプロジェクト「Helicobacter pylori感染の早期発見とその除菌による胃がんの予防に関する研究」 には唖然としてしまった。 1994年9月にはピロリ菌が発がん物質として分類されていたにも関わらず、 10年間をかけて約5000人を対象としたプロジェクトが発足したという『メディカル朝日』(1996年7月号)に紹介されたこの研究プロジェクトは、 いったいどうなったのだろう(津田敏秀 2011:3)。

発がん性物質に関する情報は、国際がん研究機関(IARC: International Agency for Research on Cancer) で公開されているので、日本でどんな議論が行われていてもここでのデータをまず確認することが必要なようだ。 この例でも分かるように、 不条理な世界で自衛するには「自分で調べること」、「黙っていないこと」、「一人の専門家だけの意見を鵜呑みにしないこと」が必要不可欠だ。


ThinkPad X240 のキーボードにまいった!  [05/05/2014]

私にとってのキーボードは、昔で言えば、筆記具そのものだ。鉛筆にたとえれば、 鉛筆のにぎり心地、鉛筆の芯のかたさ、鉛筆の芯の滑り具合など、 すべてに関係する。だから、使い心地はとても重要で、キーボードの使い心地が悪いと仕事もできなければ論文も書けない。

ThinkPad X240 に乗り換えて一番まいっているのは、 「つるつるキーボード」だ。「パコパコ・パッド」と並んで、ダブルパンチ。 キーボードの表面がつるつるなので、打っているうちに滑っていく。 この滑りを(たぶん)無意識の内に調整しながらキーを打つので、とにかく疲れる。 ノートパソコンとして薄いものを目指したために、キーボードのキーの沈み込み(キーストローク)を少なくしたのが原因かもしれない。 キーの鍵打感(けんだかん)そのものは悪くないのだが、押下(おうか)した時の違和感が残る。

私にとっての最悪の状況は、右上のキーの配置変更にあった。 無意識にブラインドタッチでキーを打っていて、 右上に「ページ・アップ(PgUp)」と「ページ・ダウン(PgDn)」があるとずーっと思っていたので、 右手薬指でポンと「ページ・ダウン」をしたつもりが、 そこには「削除(Delete)」キーが待っていたのだ。ギャー!

ThinkPad T60, keys on the right side of the keyboard ThinkPad X220 Tablet, keys on the right side of the keyboard ThinkPad X240, keys on the right side of the keyboard

なんでこんな風に変わってしまったのか? よく見ると ThinkPad X-240 ではファンクション・キーの F9, F10, F11, F12 の部分が1列になっている。 ファンクション・キーが完全に1列になってしまった理由は、 おそらくキーボード手前のパームレストを広く大きくするためだったのではないか。

この「ページ・アップ(PgUp)」と「ページ・ダウン(PgDn)」を打つつもりで 「削除(Delete)」を打ちまくる状態は、その後で Undo をしまくるという事態を引き起こした。

私は、Homeキーも End キーも通常まったく使わないので、 右上キーボード配列としては、X220 Tablet が良かった。 「削除(Delete)」キーが大きく左側にあり、 右の上に「ページ・アップ(PgUp)」、その下に「ページ・ダウン(PgDn)」というのはわかりやすく覚えやすかった。

では、「ページ・アップ(PgUp)」と「ページ・ダウン(PgDn)」がどこへ行ったかというと、 右下の「カーソル上(↑)」の左右に移動した。 なぜ、「カーソル上(↑)」の左に「ページ・アップ(PgUp)」が来るのか、 なぜ、「カーソル上(↑)」の右に「ページ・ダウン(PgDn)」が来るのか、 まったく意味を見いだせない。 「左右」を「上下」にマッピングするのは、 たとえカーソル移動という共通点があるキーであっても無理がある。

ThinkPad X240, PgUp and PgDn keys on the right down side of the keyboard

キーボード周りで良くなったのは、 トラックポイントがキーボードの中にややめり込むようになったこと。 これでトラックポイントがLCDディスプレーにぶつかって跡がつくことがなくなった。 今までは、気がつくとLCDの表面に、トラックポイントのぶつかる「アザ」がついていた。 これは、長い間にはかなり気になる状態になる。

「つるつるキーボード」と「パコパコパッド」は、 どうも IBM 的ではなく、 Lenovo 的な気がする。もちろん、ThinkPad は、 今や間違いなく Lenovo の製品だが、 「大和研」的ではない気もする。 そんなことを考えながら、ThinkPad のロゴを見てみたら、 ひっくり返っているのに気がついた。 ThinkPad のロゴは、もはやユーザーの方を向いているのではなく、 ノートパソコンのふたを開いている時に反対側に座っている人に向かって「私はThinkPad よ!」 と自己主張するように変わっていた。 しかも、ご丁寧にThinkPad の「i」の上の点が赤く輝くのだ。 この自己主張の仕方は林檎的である。

ThinkPad T60, Logo ThinkPad X220 Tablet, Logo ThinkPad X240, Logo

なお、購入時に 「ThinkPad のファンクションキー切り替えに関して *トラックポイントキーボードも含む/新しいX1Carbonは仕様が異なります」 という注意書きをもらった。 その紙によると「Windows 8 からファンクションキーが音量調節等のマルチメディアキー優先になっています。.... アルファベット言語圏ではあまり影響ありませんが日本語入力メインの方には不便であったりします。」
「ThinkPadは、日本にて開発・研究を行なっており、 当初からキーボードに「こだわり」を持つ為に、Windows起動中でもファンクションキーの優先設定を変更可能です。」
「(1)第四世代のインテルCPU搭載 ThinkPad/Helix/トラックポイントキーボードに関して(5ボタンタッチパッドタイプはすべて)
⇒方法:「Fn」キーを押しながら「FnLock」とも記載ある(sic!)「ESC」キーを押すと簡単に切り替わります。(以下省略)」
という説明があった。

たしかに、ThinkPad X240でも、日本語で入力中に「F7」を押してでカタカナ変換をしようとすると、 「プロジェクター出力の切り替え」になってしまう。 「Fn」キーを押しながら「F7」でカタカナ変換ができるようだが、2つのキーを押すのは面倒だ。 ThinkPad X240 では、(1)に該当するので、 <「Fn」キーを押しながら「FnLock」とも記載のある「ESC」キーを押す>と、「Fn」 キーがロックされて従来のファンクションキーの設定になる(「Fn」キーの上のうす緑の微灯が点灯する)。 一度やってしまえばそれで終わりだが、それにしても Windows 8/8.1 がファンクションキーの設定まで変更してくるとは予想していなかった。

「パコパコ・パッド」は、どうやら「5ボタンタッチパッド」というようだ。 「ThinkPad X240s」ロードテスト:第4回 大きく変わった「5ボタントラックパッド」を快適に使えるようにする、2つのこつ (鈴木雅暢) | ITmedia PC USER には、好意的な評価が掲載されている。 まあ、ダブルクリックはしない設定にすれば使えるかも、と思った。 「つるつるキーボード」も「パコパコ・パッド」も、使い続けているうちに慣れてくるとは思うのだが、 しばらく時間がかかりそうだ。 ユーザーインターフェイスの変更は、それがよほど明確に優れていると実証されていない限りにおいて、 安易に変えないで欲しい、というのはユーザー側から見た正直な感想だと思う。 違いますか?


ブレーツェルを焼く[再チャレンジ]  [03/22/2014]

2013年のオープン・キャンパスで、Brezel(ブレーツェル)の話をしたことは、 ブレーツェルの話  [08/26/2013] に書いた。 「ふっくらとした食感が出せず、ヘビーなものになってしま」ったという反省から、 いつかは再びチャレンジしようと思っていた。

Weizenmehl Type 550

すると、2013年のオープン・キャンパスで話を聞いていた学生が、12月になんとドイツの小麦粉 (Weizenmehl Type 550) を持参してくれた。感謝感激だ。 これがあれば、前回より本物に近いブレーツェルが作れそうだ。 簡単に復習しておくと、このType 550 の小麦粉は、 「灰分(かいぶん)量(ミネラル量)が0.55%」という意味だ。

そこで、前回の反省に基づき、以下のものを用意して、時間が取れるまで辛抱強く待つことにした。

今回、小麦粉以外に特別に用意したもの
1. 苛性ソーダ(NaOH) --- 前回は、重曹(NaHCO3) を使ったので、今回は、ちゃんと水酸化ナトリウム(=苛性ソーダ)を利用。 劇薬なので、 印鑑が必要で、さらに住所氏名と利用の用途を書いて購入。 利用の用途に「プレッツェルを焼くため。」と書いたら、 薬局のおじさんにプレッツェルとは何なのかを尋ねられてしまった。 日本のプリッツ、アメリカのプレッツェル、そしてドイツのブレーツェルの 流れを簡単に説明するはめになった。
購入したのは、協同組合 東薬の「化学工業用 苛性ソーダ(水酸化ナトリウム 99%)」 450g。税込で、367円(税込)。

2. のし板 --- 木製の正方形のやつ(サイズ:540x540)。 ホームセンターに「そば打ち道具コーナー」があったので、そこで購入。 しっかりした単板ではなく、結構安っぽいもので、税込1,980円。 あとで、生地を伸ばしたところの写真の背後に登場。

3. 岩塩 --- これは、塩の大きなつぶがブレーツェルには付いているので、 それを再現するために捜索。 海水から作る塩には、その作り方からして大つぶのものにはならないので、 岩塩の中から探す。 購入したのは、 S&B ミル付き岩塩(40g)で、税込 540円。ミル付きである必要は全くなかったのだが、 ビンの中を覗いたら、結構白っぽくておおきなツブが見えたので、これにした(写真はビンのキャップをはずして上から見たところ)。 ちなみに、「アメリカ・ユタ州産の岩塩」で「約1億5千万年前の海水が乾燥し結晶化したもの」 と書いてあった。そう言われればグレートソルト湖 (Great Salt Lake) があったのはユタ州だ。ここから来たのかもしれない。

4. まな板 --- やや大きめの、木製ではないまな板を使用することにした。 それは、ラウゲン液(2%から4%程度の苛性ソーダ溶液)に浸した(焼く前の) ブレーツェルを木製のまな板の上に置くと、苛性ソーダが染みこんでしまい、 後でまな板が使えなくなる可能性があるからだ。 少し大きめのポリプロピレン製の(自称)「抗菌まな板」 (サイズ:440x250)を税込 775円で購入した。 ホモポリマーなら「耐薬品性」も期待できそうだ(白の不透明なまな板は、後の写真の背景で登場)。

NaOH rock salt/Steinsalz/岩塩 S&B ミル付き岩塩 Hefe Margarine fuer Kuchen

5. ドライイースト --- 意外にイーストが難しかったりするので、 パン焼きをする時には、その都度、新しいものを購入するようにしている。 古くなったイーストは、しばしばお仕事をしてくれないことがある。 今回は、「日清 スーパーカメリヤ ドライイースト」(ホームベーカリー用) 「予備発酵が不要な顆粒タイプなので、粉に直接混ぜて使えます」という 言葉につられて購入。3g×10袋というのは、7g使用予定なので、 ちょっと微妙に使いにくい量だ。税込260円。

6. ケーキ用マーガリン --- もちろんバターで良いのだが、 いわゆるケーキ用マーガリンは、食用植物油脂なので健康にもよいかな、 と勝手に思うのと、5g ごとに線が引いてあるので使う前に計量しなくてもよいのが楽ちん。 ただ、一般論として「マーガリンにはトランス脂肪酸が含まれている」 という指摘があり、ちょっと気が引けるところもある。 「すべてのトランス脂肪酸が悪ではない」という主張を信じることにする。 今回は、「明治ケーキマーガリン」(200g)を使用。 「ねりこみやすい」とか、「ふっくらした焼き上がり」とか言われてしまうと、 ついついつられてしまう。

前回同様に、 本格的!ブレッツェル【ドイツ料理】by Engel に書かれている手順でやってみて、 実際に問題となる点などを考えることにした。 いろいろなレシピを試してみること自体はいいことだが、 作りつけないものを作る時には、最初の内は同じレシピにこだわる方が問題点を把握しやすい。 慣れてきたら少しづつ作り方をカスタマイズする、という方策だ。 ブレーツェル作りは、「普通のパン」を焼くよりも短時間でできるし単純だ。

こつ
(a) きちんとぬるま湯を作ること、
(b) 時間をかけて「だま」ができないように生地をねること、
(c) 生地を一定時間寝かすこと。

注意
今回のように、苛性ソーダを使う場合には、劇薬なので細心の注意が必要(重曹で代用が可能)

材料(6個分)
(A) 小麦粉Type550 500g (上で見たように、今回は Diamant Weizenmehl Type 550 を使う) (参照 Diamant-Mehl
(B) 塩 小さじ1(これは、生地に混ぜるもの)
(C) 砂糖 小さじ1
(D) ケーキ用マーガリン 20g
(E) ドライイースト 7g
(F) ぬるま湯 250ml(生地を作るためのもの)
(G) 岩塩 適量
(H)【ラウゲン液(3%)】ぬるま湯 1ℓに対して、NaOH(苛性ソーダ) 30g を入れて作る。

手順
1. 【粉を混ぜる】(A)、(B)、(C) をボールに入れてよく混ぜる。

Weizenmehl in der Schuessel

2. 【生地を10分程度こねる】(F)のぬるま湯を別のボールに入れ、そこにドライイーストとケーキ用マーガリンを入れて1、2分放置する。 (A)、(B)、(C) を入れたボールに、このぬるま湯+ドライイースト+マーガリンを少しずつ入れてこねる。 およそ10分程度こねると、しっかりした堅めの生地になる。

ein grosses Stueck Teig

3. 【生地を6等分】のし板の上で、1つの生地を6等分して丸める。

6 Stueck Teig

4. 【生地を細長く伸ばす】その内の 1つの生地を細長く引き伸ばす。真ん中を太めにして、 左右の端は、細めにする。のし板の対角線に近いところまで伸ばしたので、 およそ70cm 程度の長さになった。

ein langgestrecktes Stueck Teig Brezel geformt

5. 【ブレーツェルの形を作る】ぐるっとひねってブレーツェルの形にする。 実際にあるブレーツェルを見ながらやるか、ネットから適当な写真をダウンロードして見ながらやると確実。 接合部分がうまくくっつかない場合には、水をつけてもよい。 焼く前の段階として、まな板(ポリプロピレン製)の上に並べる。

Brezel geformt 6 Stueck Brezeln

6. 【ラウゲン液を作る】 苛性ソーダを30g計量し、1ℓのぬるま湯の入った鍋に入れて溶かす。 (劇薬を用いるので、薄手のゴム手袋をして作業し、換気扇を回してコンロの上で作業した。 アルミの鍋は溶けちゃうので駄目。水素が発生してしまいます。)

NaOH 30g

7. 【ラウゲン液に浸して軽くゆでる】 生地をラウゲン液に浸して15~30秒程度、軽くゆでる(ぐつぐつと煮ないこと)。 生地が少し黄色くなってきたら菜箸やトングで取り出し、まな板の上に並べ 15分程度、生地を休ませる。

ein Brezel in der Lauge 3 Stueck Brezeln aus der Lauge gefischt

8. 【オーブンの準備】 バターを塗った鉄板/あるいは、ベーキングシートを敷いたオーブンの熱に耐える容器を準備する。 200度で15分から20分程度焼くので、オーブンの余熱を開始する。

9. 【ブレーツェルの生地に岩塩をふる】 ブレーツェルの生地にナイフできずをつけ、そのきずの上に岩塩の塊を押し込んでいく。 数は、お好みで(作業中にぽろぽろ落ちてしまうので、少し多めにつけても大丈夫)。

Frisch gebackene Brezeln Frisch gebackene Brezelstangen

10. 【オーブンで焼く】 余熱が終わったところで、オーブンに入れて15分から20分焼いてできあがり。

感想
○ 初回のトライアルでは、カチカチの塩なしブレーツェルだったが、 今回はふんわりと焼けた。
○ 今回の大きな誤算は、ラウゲン液から取り出した時に、 まな板の上に菜箸で移動したが、まな板の上に打粉をひいておかなかったため、 くっついてしまい、オーブンに入れる際に手間取ってしまった。 ただ手間取っただけではなく、持ち上げた時にブレーツェルの形が崩れてしまい、 もう駄目かと思った(落ち着いてなんとか70%程度、形を回復させた)。
○ 複数の学生や同僚に試食してもらったが、かなり評判はよかった。 しかし、ドイツで普通に食べるブレーツェルの味にはなっていない気がする。
○ 苛性ソーダを水で希釈するのは、やはり気をつかう。しかも「ぬるま湯」 を作るというのは、言葉で言うのは簡単だが工夫が必要だ。 私は、計量カップで 800ml のやや熱い湯を用意し、 計量した水で薄めながら温度を徐々に下げた。 微調整は、「湯」から一定の分量を取り出し、同量の「冷水」 を加える方法で行った。
○ 岩塩は、美味だった。岩塩が付いている部分を食べると、 味が引き立つのを実感できる。

次回のチャレンジへ向けて
Type 550 の小麦粉がまだ 500g 残っているので、 時間が許せば、さらにチャレンジをしたいと思っている。 考えてみると、この小麦粉、ドイツではごく普通にパンを焼く時に使えるものだ。 「普通のパン」というのも不明確な言い方だが、今回の作り方だと「普通のパン」とブレーツェルの違いはラウゲン液と岩塩しかない。 いろいろなドイツのレシピを読んでみる必要がありそうだ。


国語辞典の中の「日本」 [02/22/2014]

2013年12月20日に発売された多和田葉子氏の 『言葉と歩く日記』(岩波新書:新赤版 1465) を読んだ。私は多和田葉子氏の作品をこれまで読んだことがないのだが、 『言葉と歩く日記』はなかなかおもしろかった。多和田葉子氏は、 同書の後書きによれば、「22歳でドイツに移住」し、「31年」ドイツで暮らしてきたそうだ。 彼女はドイツ語と日本語を使って作品を書いている現代の作家だ。 さらに彼女は、「今も日本語とドイツ語の関係が自分の中で日々変化していくのを感じる...」 (同書の後書き P.231)そうで、同書の成立過程に関して以下のように説明している。

小学生の夏休みに「アサガオの観察日記」を書いた記憶があるが、それを参考に、 日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分を観察しながら一種の観察日記をつけてみることにした。
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出典:多和田葉子 (2013)『言葉と歩く日記』岩波書店, P.231.

多和田氏は日常的にドイツ語と日本語、時には英語やロシア語を使いこなしているようで、 そこから見えてくる世界が日記風に語られている部分が率直に面白い。 同感できるところも多々あるが、作家的感性と言語研究者の私とではずれを感じる部分もある。 今回は、同感できた1つの「違和感」について。

『言葉と歩く日記』の P.64~65 に『広辞苑』(第四版)で「日記」という単語を引いた時の話が書かれている。 「日記」という単語が載っている次のページに「日本」という単語が載っていて、 「わが国の国号」 と説明してあったそうだ。 「~辞典」というのは、「言葉の定義を与え、説明を加える本」だというのが私の認識だ。 そんな辞典の代名詞的存在の『広辞苑』が、「日本」の定義に、「わが国の国号」 という定義をしているのを知って、唖然とした(実は私は、言語学的視点から『広辞苑』をあまり評価していない)。

「わが~」というのは、指標的表現で、誰がどのような場所で、 いつ使ったものかが分からないと、指示物を決定できない。 つまり、「わが国」と言っただけでは、何も説明できたことにならない。 定義を与えるはずの「辞典」がこれでは困る。

さらに、多和田氏は、他社の辞典も調べてみたそうで、そこでも「わが国の国号」という定義を見つけたそうだ。 まさか、と思って手元にある幾つかの国語辞典を見てみた。

『デジタル大辞泉』
日本(にほん) わが国の国号。 アジア大陸の東方にあり、北海道・本州・四国・九州および周辺諸島からなる島国。首都、東京。 ⇒行政上、1都1道2府43県に分けられる。総面積37万7815キロメートル。 総人口、1億2806万 (2010)。
日本(にっぽん)1 わが国の呼び名。2 (名・形動) ((安永・天明(1772~1789)ごろの江戸での流行語)日本一であること。 すばらしいこと。また、そのさま。

『デジタル大辞泉』(小学館)では、「日本」(にっぽん)と「日本」(にほん)で違う定義をしている。 「日本」(にほん)における定義には、位置情報(「アジア大陸の東方」)、 構成部分に関する情報(「北海道・本州・四国・九州および周辺諸島からなる」)、 地勢情報(「島(国)」)、首都、行政区画、面積、人口の情報を示している。 この部分は、どちらかというと「事典」的な情報に属するが、「わが国の国号」以上の情報を与えており、評価できる。 (なお、「にほん」の項目には日本の歴史が、「にっぽん」の項目には「にほん」と「にっぽん」の読み方に関する歴史等が説明されている。)

『明鏡国語辞典』(第二版)
日本(にほん) わが国の国号。にっぽん。
►「にほん」と「にっぽん」は、ともに「日出づる処」を意味する「日本(ひのもと)」の音読から生じたもの。 特に法的な規制はなく、慣用的に使い分けられている。複合語を作る場合は「にほん」を用いることが多い。
日本(にっぽん) ⇒にほん

『明鏡国語辞典』(大修館)では、「にほん」の項目に説明を載せ、「にっぽん」の項目は空項目。 定義の部分は、「わが國の国号」のみ。

『現代国語例解辞典』(第二版)
日本(にほん) 我が国の国号。にっぽん。
► (1) 「ひのもと」に当てた漢字の音読から。 (2) 「にっぽん」か「にほん」かについては、 単独名称としては「にっぽん」とすることが多いが、慣用として両者がさまざまに併用されている。
日本(にっぽん) ⇒にほん(日本)

『現代国語例解辞典』(小学館)も、「にほん」の項目に説明を載せ「にっぽん」の項目は空項目。 定義の部分は、「我が国の国号」と「にっぽん」のみ。

たかだか3冊の辞書だが、一様に「わが国の国号」という説明を使っている。 空虚に響くのは、「わが」という言葉と「国」という言葉だ。

ドイツ語の辞典で、「ドイツ」(Deutschland)を調べると何と書いてあるだろうか? 外国語としてのドイツ語をほとんど意識していない Duden と、 外国語としてのドイツ語を意識した Langenscheidt の辞書記述を見てみよう。

DUDEN: Das große Wörterbuch der deutschen Sprache.
Deutschland -s: Staat in Mitteleuropa.

Langenscheidt Großwörterbuch Deutsch als Fremdsprache.(2008)
Deutschland (das); -s; nur Sg. 1  der Staat in Mitteleuropa, in dem die Deutschen leben.
2  die Vertreter der Bundesrepublik Deutschland bei internationalen Veranstaltungen, Konferenzen o. Ä

外国語としてのドイツ語をほとんど意識していない Duden でさえも、Staat in Mitteleuropa(中央ヨーロッパの中にある国)と地域的限定で定義している。 外国語としてのドイツ語を意識した Langenscheidt の辞書では、ほぼ同じ定義を 1 番目に載せ、2 番目には「国際的な催し物や会議などでのドイツ連邦共和国の代表者」としている。 Langenscheidt の辞書では、 die beiden Deutschland(s) という言い方の説明と Bundesrepublik Deutschland(ドイツ連邦共和国)に関する百科事典的な短い説明を載せている。

lexical entry of nippon in Koujien

話を元に戻す。

国語辞典をひいて「日本」を見た人が、「わが国」という説明を見た時に何を想像するだろうか。 もちろん、「日本に住んでいる日本国籍の日本人しか、国語辞典を使わない」 という前提があるならば、「わが国」が「日本という国」を指すことは直感的にわかるだろう。 が、ここで百歩譲って、「わが国」が「日本という国」を指すとしても、 「わが国」を「日本という国」に置き換えて「日本という国の国号」と言っても説明にならない。

多和田氏は、このような辞書の説明を「一人称で辞書を書いている」と形容している。 文学者らしい表現だが、本質は私の意味論的説明と同じである。

多和田氏は『言葉と歩く日記』の P.65 で「日本」の説明として、「アジアの東端に位置する島国」 を提案している。至極もっともで、あたりまえの定義である。 なぜ、このような定義を国語辞典が採用しなかったのかは謎である。 私は、『広辞苑』の「日本(にっぽん)」の説明がそもそも大きな影響を与えたのではないかと想像している。

もちろん、「国語辞典」という言い方も、実は気持ち悪い言い方だ。 「国語」というのは、ドイツ語にしたらおそらく Muttersprache (母語)が一番近いだろうが(ただし、ここには「国」という概念はない)、 これを使ってドイツ語に訳して Wörterbuch der Muttersprache(母語辞典)と言ったら、 かなり怖い。

「国語」を、「国家言語」と説明口調で直訳し Staatssprache とすると、「国語辞典」は、 Wörterbuch der Staatssprache とかになり、 「国家主義」が全面に出てもっと怖い。

「国語辞典」という言い方が定着した言い方として通用しているのは理解できる。 しかし、このグローバル化した時代に合わせて、そろそろ「日本語辞典」という名称にして、 この際「日本」の定義も、どの国の人が読んでも納得できる定義にしたらどうだろうか?

"Cool Japan" を合言葉に、 海外からの旅行客や留学生を日本にたくさん呼ぼうというのは結構である。 彼らが日本語を学んだ時に、辞書で「日本」を調べたら、 「わが国の国号」と書いてあったらどう思うだろう? アメリカから来た若者が、この説明を読んで「そうか、『日本』という言葉は、 『わが国』=『アメリカ』のことなんだ」と理解しても責めることはできない。 「わが国」は、どこの国でも指せる表現なのだから。


言い訳と「信念と事実」  [12/08/2013]

子供の頃、大人たちに怒られた時の思い出というのがある。 自分なりに理由があって、怒られるのが不当だと感じた時は、一生懸命に説明をしたものだ。 しかし、そんな時の大人たちの態度は、往々にして冷たかった。 「そんな言い訳は聞きたくありません!」 というのは、そんな時に聞かされる1つの決まり文句だった。

日本では、「言い訳」というのは、どうやら「好ましくないもの」、 「見苦しいもの」、「いさぎよくないもの」として扱われているように思う。 国語辞典を見てみよう。

いい-わけ【言(い)訳/言(い)分け】いひー
((名))(スル)
[1]筋道を立てて説明すること。
   (ア) 自己の事情を説明して、弁解をすること。 弁明。「いまさらーしてもおそい」
   (イ) 物事の筋道を説明すること。解説。
「上文の議論のごときは…十九世紀の小説家のーとしてはいと拙(つたな)し」 <⇒逍遥・⇒小説神髄>
[2](言い分け)言葉を別々の意味に分けて使うこと。
[3]過失・罪などをわびること。謝罪。
「第一伯母へ済まねえといふも尤(もっと)も…義理ある中のーと」 <人・⇒梅児誉美・三>
出典:『デジタル大辞泉』小学館.

いい-わけ【言い訳】イヒー
((名・自他サ変))
自分の過失・失敗や相手からの批判などに対して、 事情を説明して自分の正当性を主張すること。 また、そのことば。申し開き。言い開き。 弁解。弁明。
「ーが立たない」「ーめいた説明」
▶潔さを欠く好意としてじばしばマイナスに評価される。
[表記]まれに「言い分け」とも。
出典:『明鏡国語辞典』第2版 (2011,2012) 電子辞書版

意外なことに、『デジタル大辞泉』も『明鏡国語辞典』も、 意味の解説には「悪いコノテーション」が含まれていない。 『明鏡国語辞典』の注意書きには、「▶潔さを欠く好意としてじばしばマイナスに評価される」 と書いてあるが、『デジタル大辞泉』では、 「いまさらーしてもおそい」という用例と、逍遥の引用から、 多少ネガティブな要素を見てとれるだけである。 『デジタル大辞泉』では、「言い訳」という語に「[3]過失・罪などをわびること。謝罪。」 という意味を認めているが、これは「母へ済まねえといふ」 という発話行為を受けているために、 ここでの「言い訳」の実態が「謝罪行為」とつながったというだけで、 「言い訳」という語に「謝罪」の意味があると考えるのは間違っているだろう。

「意図して間違ったことを言った」ことと、 「意図していなかったけれども、結果的に間違ったことを言ってしまった」 という区別が一般にありうるように思えるが、 これは一般的に不透明である。

以下の 私が (A) を発言した時、(B) という事実を「知っていた」ら、 これは、「意図して間違ったことを言った」ことになる。 それに対して、私が (A) を発言した時、(B) という事実を「知らなかった」ら、 「意図していなかったけれども、結果的に間違ったことを言ってしまった」 ことになる。

発言 (A):  「このエビチリを作るのに、その料理人は芝海老を使いました。」
事実 (B):  「このエビチリを作るのに、その料理人はバナメイエビを使った。」

Darwin: Moral und Vernunft

2番目のケースで、 私がその料理人に対して監督責任を持つ場合は、「私は知らなかった」で済まないだろう。 この場合、「知らなかった」のかわりに、発言 (A) の内容を「信じていた」のだ、 と自己弁護(=「言い訳」)することもありえる。

私が (A) と発言する時、私は、一般的にその内容を信じている。 しかし、「信じている」ことは「事実を知っている」ことを含意しない。 自信満々に、私が「このエビチリを作るのに、その料理人は芝海老を使いました。」 と言った時、事実を知らないこともありうるし、 その自信に根拠がないことも十分ありうる。ようするに、 発言から事実は見えない のだ。

「あれは、そういうつもりではなかったんです」という言い訳は世の中にあふれている。 最近だと、食材の虚偽表示問題で、実は知りませんでした、だから、誤表示です、 のような発言があった。 また、「表現に足らざるところがあれば、おわびしなければならない」 という言い訳もあった。これなどは、条件部分が成立しない場合は、 おわびしなくてもよい、とも解釈できる。

「そんな言い訳は聞きたくありません!」という言語習慣は、 実は大変よくないことなのではないか。 何か悪いことをしてしまった子どもを呼びつけて、 頭ごなしに「謝りなさい!」と強制するのではなく、 「なんでそんなことをしたのか、きちんと筋道を立てて説明してごらんなさい」 と促すことから始めることが必要なのではないか。 そして、怒る側には、その説明を聞いて、 筋道が合っているかどうかをチェックして助言をする位の余裕が欲しい。 その理由を聞いて「理由は分かった。 しかし、X の時に Y をするのは間違っているから、やめなさい。」 こんなふうに諭したいものだ。

世の中には、トリックにあふれた表現が多く使われていて、 日常的にそのような論理の本質を見ぬかなければ罠にはまってしまう危険性がある。 そのような世の中で生きていくためには、 子どものころから、論理と正面から向きあわなければならない。 理由を聞かずに「謝れ!」と強制するのは、その意味でも避けたい悪習である。

「ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」 と発言した方がいたそうだ。
この論理の大きなトリックは、 「多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう」 という部分が、すでに「同意を得れるような命題になっている」点だ。 つまり、もうこの発言の前に何をつけてもいいのだ。

「柔道の練習をやって」をつけると:
「柔道の練習をやって、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。」 と言っても、理解できる。
「クラリネットの練習をやって」をつけると:
「クラリネットの練習をやって、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。」 と言っても、理解できる。
「街頭演説をやって」をつけると:
「街頭演説をやって、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。」 と言っても、十分理解できるのだ。

そして、極めつけは、「ただひたすら…」という強調表現だ。 強い調子で締めくくると反感を呼ぶので、最後は、「…でしょう。」と柔らかく終える。
かくして、<「ただひたすら...でしょう。」構文>が完成する。 いくつか、練習してみよう。

「ただひたすら己の利益を追求し、周囲の人々の迷惑を顧みない行為は決して許されることはないでしょう。」
「ただひたすら自分たちの法案の正当性を主張し、多くの人々の意見に耳を傾けない行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。」
「ただひたすらお願いをしても、出席率が3分の2以下ならば、決して単位をもらえることはないでしょう。」
「ただひたすら公聴会を開いて参加者に意見を言わせ、国民の意見を聞いたと主張することは決して世界で認められることはないでしょう。」

柔らかい言葉遣いであっても、かなり毒のある<「ただひたすら...でしょう。」構文>だということがお分かり頂けたのではないだろうか。
公の場で話す時には、ただ信念だけで話すのではなく、事実に裏打ちされ、 ちゃんとした理由をつけて話したいものである(もちろん、現実にはなかなか難しいのだが)。


now arriving の話  [10/31/2013]

久野暲・高見健一著 (2013)『謎解きの英文法:時の表現』(くろしお出版)を頂いた。 「時の表現」即ち、時制というのは、昔は非常に抽象的で近寄りがたいものだと勝手に思っていたが、 近年は ATM(Aspect - Tense - Modality) をセットに考える分析が面白くなり、この本も帯につられてついつい読みふけってしまった。 実際の書物の帯は、 『謎解きの英文法:時の表現』くろしお出版 を見ていただくとして、今回は、その帯の裏に書いてある「成田空港でのアナウンス」について、記憶をもとにちょっと書くことにした。

成田空港でのアナウンス
日本航空 402 便はただ今 64 番ゲートに到着しました。
Japan Airlines 402 is now arriving at Gate 64.
この 2 つの時の表現、はたして同じ意味? ⇒詳しくは P.79
久野暲・高見健一著 (2013)『謎解きの英文法:時の表現』(くろしお出版)の帯の裏側より引用

英語と日本語のある程度の能力があれば、 この 2 つの文を比較して意味が異なることはすぐ分かる。 が、別々に聞いていると、「ふーん、そうなのか」と聞き流してしまう可能性がある。 と言い訳がましく言ってしまうのは、私も長い間、 なんで日本語と英語で違うことをアナウンスするんだろうと不思議に思っていたからだ。 私の「音の記憶」では、

Japan Airlines Flight 402 is now arriving at Gate 64.

のように Flight が入っていると思う。 そして近年のアナウンスは特に、「ゆーっくり」と「ゆーっくり」と発音する。 昔は、こんなに「ゆーっくり」ではなかったと思う。

さて、もちろん英語の文の意味は、 「日本航空 402 便は、まもなく 64 番ゲートに到着します」という近未来を表しているので、 「進行形を用いた[この文]は、日本航空 402 便が、 (着陸態勢に入っているか、)滑走路に着地したか、 滑走路から 64 番ゲートに向かっているかを伝える文です。」 (同書P.81-82)

日本語と英語のアナウンスを交替交替に聞かされると、頭の中で矛盾が起こる。 「おやぁ、着いたはずなのに、まだ着いていなかったのかな」と思ったり、 「まだ着いていないと思ったのに、もう着いたのかな」と思ったり。 ゆっくり丁寧にアナウンスしているとみせて、実は、 聞いている人を 「日本社会の典型的思考へ導き入れるように」洗脳をしているのかもしれない: 《A か B か、どちらが正しいのかなんて最終的には分からないから、 YES も NO も気にすることはないんだよ》と。あるいはまた、 《航空機が到着したか、していないかなんて、どっちでもいいんだよ。 多分近くに来ているから、そのうちお客さんたちは降りてくるんだ》と。

さて、冗談はさておき、『謎解きの英文法:時の表現』では、 arrive, stop, die のような動詞に 2 つの用法があるとする。 1つは、「瞬間的に起きる動作、出来事を表わす用法」(瞬間動詞的)、もう1つは、 「その瞬間的に起きる到達点と、 その到達点に至るまでの過程(兆候)を表わす」(非瞬間動詞的)もので、 前者の例が (7a) で、後者の例が (7b) だとする。

(7) a. She arrived at the airport early this morning.
       b. The train slowly arrived at Platform 9 and Molly and Kate got on. (実例)
「電車はゆっくりと 9 番プラットフォームに到着し、モリーとケイトは乗り込んだ。」
久野暲・高見健一著 (2013)『謎解きの英文法:時の表現』(くろしお出版)P. 82.

(7b) では slowly が使われているので、 arrive という動詞が非瞬間動詞である、 という説明をしている。《この部分が、私にはしっくりこない。》 説明部分を引用しておこう。

(7b)でも,arrive が「ゆっくりと」(slowly)という副詞で修飾されていますから, この arrive は,電車が速度を落とし, 9番プラットフォームにゆっくりと到着する過程を表わす非瞬間動詞です。 したがって,stop や arrive が進行形になると, この止まろうとしたり,到着しようとする過程(兆候)がすでに始まっていて, 発話時点で継続中で,終了していないことを表わすことになります。」(同書 P.83)

この説明だと、arrive には「瞬間動詞」と「非瞬間動詞」の 2 つがあり、 「非瞬間動詞」の用法が進行形になるというのだが、 私の直感では、arrive は「瞬間動詞」1つで、 slowly が付くと、 瞬間的できごとがあたかもスローモーションで見るような解釈が生まれる。 ようするに「時間の速度が遅くなって、 瞬間的事象が引き伸ばされ、終了への道筋が長くなる」のだ。

同じ説明をしているように聞こえるかもしれないが、 そうではなく、立場の違いだ。 私の立場では、ここには普遍的なアスペクト計算がかかわっており、 瞬間動詞に<遅い速度を表現する副詞>をつけると、 瞬間的出来事が時間的に引き伸ばされ、 結果として「非瞬間的」に見えるだけなのだ。 瞬間動詞を進行形にすると、基本的に同じ効果が生まれ、 「時間の速度が遅くなって、瞬間的事象が引き伸ばされ、終了への道筋が長くなる」。 かくして Japan Airlines Flight 402 is now arriving ... は、「瞬間的事象を引き伸ばされてしまった」ために、まだ最終的に到着していない。

「時間の流れる速度」というのは、もちろんただの言語的比喩にすぎない。 ただ、時間は、(認知的)体感的に一定の速度を持っているわけではない。 その体感的速度を言語的に操る仕組みが、 アスペクト・テンス・モダリティに絡んでいろいろな言語に現れる、 これは実に面白いところだ。

久野暲・高見健一著 (2013)『謎解きの英文法:時の表現』(くろしお出版) の帯には、マクドナルドの I'm lovin' it. が議論されている。なかなか面白い解釈だが、 この解釈にも100%賛成できるわけではない。 これまでにいろいろな母語話者と、この文の意味について話してきたので、 さまざまな解釈の余地があることは分かっている。 同書の解釈もその中の1つである、とは言える。

言語表現の意味は、なんとなく直感的に分かってしまうのだが、 きちんと論証してその意味を説明できるか、と問われると、なかなか難しい。 「理解できているからそれでいいじゃん」という人は、 もちろんそれでよい。 ただ、本当に理解できているのかどうかは、 他の人達とつめて議論をしてみないと分からない。 実は、理解なんかできていないのかもしれない。 形式と意味の乖離はいつでも起こりうるし、 新たな結びつきも絶え間なく生じるのだから。


ブレーツェルの話  [08/26/2013]

2013年のオープン・キャンパスで、Brezel(ブレーツェル) の話をした(8月3日)。これまでは、「言語」の話、「ドイツ語」の話がテーマに関係するようにしてきたのだが、 英語や日本語の場合とは異なり、ドイツ語そのもののイントロダクションをしなければならず、 ある程度深い話、面白い話にまでもっていくのが難しい。 それならば、思い切って言語の話をメインにせずに周辺的なところからちらりと言語の話をして、 印象的に語ることも1つのやり方かもしれない、そう考えてテーマを探した。

Riesenbrezeln

ドイツの食材に関するネタを探している時に、 昨年、Herford に行く日の昼食に 2€Riesenbrezel mit Sonnenblumenkernen を買って電車の中で食べたことを思い出した。あれはおいしかった。

Brezel というのは、 考えてみると不思議なパンだ(唯一、小学館の『独和大辞典』には、 「8の字形の[塩味の]ビスケット」と説明されているが、 これは、Gebäck を 「(オーブンで焼いた)菓子類(ビスケット、クッキー、パイなど)」 という狭い意味にとってしまった結果だろう。 作る過程ではイーストも使うし、あのふんわりとした食感はパンに分類される方が自然だ)。 むかし最初に食べた時は、特においしいとも思わなかった。 食べ続けているうちに、 おいしさが少しずつ分かってきて、 今では日本にいても時々食べたくなる。 ある種の食べ物は、その味が分かるまでしばらく時間がかかるものだ。 私にとっての Brezel は、 RoggenbrotLakritze と同様に、そんな食べ物の1つだ。

さて、今回は、ネットで調べたら Brezelgeschichte というページに行き当たり、このページに書かれていることを中心に裏を取れば、 Brezel の歴史に関しては話せそうだ、という目処がついた。 Brezel の起源、あの形の由来、あの色を出す独特の製法など、なかなか面白い。

たまたま、昨年行ったペンシルベニアとのコネクションがあることも分かり、 アメリカの pretzel 事情、 日本の「プリッツ」の話を対比させて、話の筋は出来上がった。

ほとんど話の流れが出来上がった後、やはり何か足りないことに気がついた。 そう、実物がないのだ。 近年、ドイツの Brezel は、冷凍で輸入され、 いろいろな所で販売されている。たまたま Hans Hohlweck という守谷のお店でも良心的な値段で販売していることを知り、 当日30個持参することにした。 なぜか、この店では「プレッツェル」と呼ばれている。 これほどドイツ的なお店で、「ブレーツェル」と呼ばずに英語的な「プレッツェル」を使っているのは、ちょっと残念だ。

うーん、まだ何か足りない。 そう、はやり自分で焼いてみないと分からない。 経験しないと分からないことというのは世の中に多く存在するが、 やはりパンは焼いてみないと分からない。 そこで、

brezelrezept1 (http://www.brezel-baecker.de/)
Brezel(0537d) (http://www.marions-kochbuch.de/)
Laugenbrezeln (http://www.chefkoch.de/)
本格的!ブレッツェル【ドイツ料理】by Engel

を参考に作ってみることにした。しかし、 以下の Duden の定義にもある Natronlauge と、 小麦粉選びが問題となった。

Brezel, die; -n, österr. auch: das; -s, -
[mhd. brezel, ahd. brez[i]tella, brecedela, wohl Vkl. von lat. brachium = Uterarm
(die Form der Brezel erinnert an verschlungene Arme)]
salziges, in Natronlauge getauchtes od. süßes Gebäckstück von einer charakteristischen, geschlungenen Form.
Quelle: Duden - Das große Wörterbuch der deutschen Sprache. (2000) Duden-Verlag.

和訳:
塩味で苛性ソーダに浸して焼いた食べ物、あるいは甘い焼いた食べ物で、 特徴的で、かつ結び目のある形をしたもの。
(敢えて、Gebäck を「焼き菓子」ではなく、「焼いた食べ物」と訳してみた。)

1. NatronlaugeNatron

Natronlauge とは、「苛性(かせい)ソーダ溶液」 のこと。「苛性ソーダ」とは、もちろん「水酸化ナトリウム」(NaOH)だ。 腐食性の強いアルカリ性の物質として有名だ。 ここで、本当に水酸化ナトリウムを使うべきか否か、迷った。 実は、水酸化ナトリウムの代わりに、重曹を使うこともできる、 と言われていたからだ。重曹(じゅうそう)というのも不思議な存在だ。 「重曹」とは、「重炭酸ソーダ」の略で、「炭酸水素ナトリウム」(NaHCO3)だ。

これで、問題解決かと思いきや、 Natron を独和辞典で調べると 「ナトロン」,「ソーダ石」,「重炭酸ナトリウム」,「重炭酸ソーダ」,「重曹」といろいろであることに気づく。

日本語の「ナトロン」を調べてみると、天然の「炭酸ナトリウム」 (Na2CO3)、 別名「ソーダ石」、「炭酸ソーダ」、「ソーダ」だそうだ。 つまり、ドイツ語の Natron とは、むしろ「重曹」 で(「Natron」 と 「backen」 を検索語にして Google で画像検索すれば、 ドイツで市販されている Natron が出てくる)、 日本語の「ナトロン」は、ドイツ語の Soda だろう。 (ここらへんの独和辞典の記述は、かなりいい加減。ポイントは、ドイツ語と英語では、指示物が異なるという点だ。 Natron (deutsch)natron (English)

今回、理解した範囲をまとめると、以下のようになる。 ちょっとややこしいので、英語名も補って整理しておく。

ドイツ語 英語 日本語名 化学で使う名称 化学式
Natronlauge sodium hydroxide 苛性ソーダ 水酸化ナトリウム NaOH
Natron (= Natriumhydrogencarbonat) baking soda (sodium bicarbonate) 重曹(重炭酸ソーダ) 炭酸水素ナトリウム(重炭酸ナトリウム) NaHCO3
Soda (= Natriumcarbonat) natron (sodium carbonate) ナトロン、ソーダ石 (天然の)炭酸ナトリウム(炭酸ソーダ) Na2CO3

私は、当初、苛性ソーダを購入するつもりで薬局に行った。 劇薬なので、印鑑が必要で、さらに住所氏名を書いて、購入できるのは 500ml のビンだけだった。 2%から4%の溶液(日本では、この溶液を「ラウゲン液」と呼ぶ人もいるようだ)を使うので、 500ml もあっても使い切れない。 そこで、「重曹はありますか?」と尋ねたら、「何に使うのですか?」 と聞かれ、「料理です」と答えると、なんと「炭酸水素ナトリウム」を紹介されてしまった。

NaHCO3

私は、重曹と言ったら、白い箱に大きな文字で縦に「重曹」と書かれた愛想のない箱を想像していたので、 横書きで「炭酸水素ナトリウム」と書かれた箱を見てびっくり。第3類医薬品として販売され、 しかも「胃酸過多、胸やけなどに」効くとは知らなかった。 考えてみればアルカリ性なので、胃酸過多の人は胃酸を少し弱めるのに使えそうだ。 水色の文字で(重曹)とも書いてあるので、納得して189円で購入した。

2. Weizenmehl (Type 550)

日本でパンを焼くのに使うと言えば、強力粉、うどんを打つと言えば中力粉、 お料理には薄力粉という大まかな目安があるが、ドイツでは、 Type で分かれているそうだ (Type 405, Type 550, Type 630, Type 650 など。 この他に別の名前の付いているものもある)。 今回は、ドイツの小麦粉と日本の小麦粉★基礎知識 | エンテのドイツ徒然 で、勉強させてもらいました(感謝)。

Type 550 の小麦粉という場合、灰分(かいぶん)量(ミネラル量)が0.55%というところから来ているようで、 日清製粉の小麦粉で比較すると、 日清カメリア【強力粉】(灰分量 0.37%)、 日清 雪【中力粉】(灰分量 0.57%)、 日清バイオレット【薄力粉】(灰分量 0.33%)、 日清フラワー【薄力粉】(灰分量 0.39%)となっているので、中力粉が一番近いとか。

しかし、そもそも日本の小麦粉の一般小売商品には「灰分量」なんて表示されていない。 スーパーマーケットに行くと、強力粉、中力粉、薄力粉の区別はあるものの、 多くの場合、日清製粉と日本製粉の製品が積み上げてあるだけで種類は極めて少ない。 パン用、うどん用の区別で販売されているものもあるが、「灰分量」は不明。 上であげた「日清製粉 雪」を店頭で探したが、どこにもなかった。

ネットで「小麦粉 灰分量」をキーワードに検索すると、 業務用の小麦粉には「灰分 粗蛋白」の表示があることが分かる。たとえば パン作り、菓子作りに最適な厳選小麦粉・ミックス粉専門店 ぐるてん を見ると、日本にもこんなにいろいろな小麦粉があるのだ、と感心させられる。 でも、いきなり5キロ、25キロ単位で小麦粉を買うことはできない。 プロの味をご家庭で 粉やの息子 あたりを探せば、もっと適切な商品を見つけられたのかもしれないが、 結局、中力粉であるという理由だけで灰分量は不明だったが、 「ニップンうちの小麦粉」を158円で購入した。 家にあるベーギングパウダーは、すでに古くなっている可能性が高かったので、 ついでに「日清ベーギングパウダー」も148円で購入。

Meine Brezel Meine Brezel Meine Brezel Meine Brezel

ということで、一応完成したのだが、せっかく「切り込み」までつけたのに焼く前に粗塩をかけるのを忘れてしまった(トホホ)。 で、何と言ってもこの形を作るのが面白い。 http://www.brezel-baecker.de/ には、動画もあり、たくみに Brezeln の形を作るところの実演が見れるのだが、 あまりにも見事で速すぎる。 わたしは結局、生地で Brezeln を作る前にひもで少し練習しておいた。 慣れるとそれほど難しくないが、トライしたい人は、 広い「打ち台」の上で作ることをお勧めする。

えっ、味ですか? それなりに Brezeln の味にはなったけど、 ふっくらとした食感が出せず、ヘビーなものになってしまいました。 修行が足りませぬ...。


哲学者の目、言語学者の目  [08/02/2013]

6月のある日、西村義樹・野矢茂樹 (2013)『言語学の教室:哲学者と学ぶ認知言語学』中公新書2220 を頂いた。認知言語学の入門書としても使えるかと期待して読み始め、 楽しく読み終わった後、この哲学者の突っ込みはただものではない、 と思うようになり、さっそく以下の2冊を購入した。

野矢茂樹 (2011)『語りえぬものを語る』講談社.
野矢茂樹 (2012)『心と他者』中公文庫 857 中央公論社.

結論から言うと、どちらの本も非常に面白かった。 言語学者が見る「言語」と、哲学者が見る「言語」は違うんだ、という発見。 いや、それだけではない。 野矢流の事態の把握の仕方が独特なのだ。 また、「心身二元論」をどう克服するか、「心」をどう捉えるか、など、 大きな問題から逃げずに、 哲学者として正面から取り組む姿勢が限りなく魅力的である。 一回読んだだけでは消化不良のところもあり、 もう一度読みたくなる。

『語りえぬものを語る』というタイトルは、 もちろん、Ludwig WittgensteinTractatus Logico-Philosophicus にある有名な言葉

und wovon man nicht reden kann, darüber muß man schweigen. (語りえぬものに関しては、沈黙しなければならない。)

をひっくり返した挑戦状だ。 最初に、「ちょっと変な本かもしれないので、使用上の注意を述べておきたい。」(同書、P.3) で始まる本だが、「ちょっと」ではなく、「大変」変な本だが、実は非常にまともな本でもある。 こういうまともな本を書いてみたいと最近は思うのだが、 私の場合には、そこまでの自由を与えてくれる出版社は残念ながらない。

どこが変か、というと、全体で26編の哲学的読み物(もともとは、 講談社のPR誌『本』の連載)に、 74個の「コラム記事のような註」がついているところ。 そして註の方が本文より分量が多い。 註の方が長い(ような印象を与える)論文は時々あるし、 昔は、「おまえの論文は註の方が面白い」と言われたこともあったので、 これ自体を問題にするつもりはない。 が、確かに、註の方が面白いこともある。 それは、背後の「より深い話」、本文の流れの中では脱線にしかならない話が註にはあるからだ。

「猫は後悔するか」という第1章からいきなり予想外の方向からパンチをくらい、 相対主義が成り立たない話から、相対主義をどうやったら成り立たせられるかという話を経て、 最終的には「科学は世界を語り尽くせない」という章で締めくくられる。 まあ、読まないと分からないので、ここでは具体的な話はしない。

もう一冊の『心と他者』も非常にユニークな本だ。 なにしろ、この文庫版は、野矢茂樹の師である大森荘蔵のコメントがついている。 そして、そのコメントに対しての野矢茂樹の答え、あるいはコメントがついている箇所もある(哲学というメタな話に、さらにメタメタが加わる!)。 哲学者の議論が、こんなところにも透けて見えるところがすごい本だ。 個人的には、言語学的な重なりもあるので、「眺望論」から「相貌論」へ行くあたりが魅力的だ。 他者の心はいかにして理解可能か、というのは、言語学では疑問視されるというよりは、多くの場合、 言語活動を通して当然(ある程度)理解できると前提されて分析が進むが、 確かに自明なことではまったくない。

『心と他者』には、以下のような説明がある。

この時点では眺望論は未完成である。 それは『哲学・航海日誌』を経て、『心という難問』(中央公論新社、近刊)で完成する(はずである)。[...]
野矢茂樹 (2012)『心と他者』P.161、註59

そこで、急遽、中公文庫で出ている『哲学・航海日誌I』と『哲学・航海日誌II』を購入。 『心という難問』はまだこの時点では出版されていないようなので、 この2冊を読みながら待つことにした。『哲学・航海日誌I』は「他我問題」、 他人の痛みの話から始まり、フッサール批判、感覚と知覚の話を経て「規範の他者」へと流れていく。 『哲学・航海日誌II』の目次を見たら、そちらに「他者の言葉」という大き な章があり、「グライスのパラドックス」とか「デイヴィドソンの『墓碑銘』」 という章があり、ついついつられてこちらへジャンプしてしまった。

4冊目になると、さすがに多少の感が働くようになり、語り口にも随分なれてきた。 実際、突然、まったく想定外の仮定がなされたり、 そうかと思えば極めて日常的な風景が持ちだされたりして思考実験が始まるのは楽しい。 「すべての猫とすべての掃除機を集めた集合を一つの集合と考え、 それをクリーニャーという概念で捉えていたとする。」(『語りえぬものを語る』P.109)とか、 「[...]そんな未来のある日、一人の老人(<神>と呼ぼう)が現われ、 とくに一台のロボット(「ロビイ」と呼ぼう)を気に入り、ロビイに心を与えることにしたとする。」(『心と他者』P.94) 「例えば、私の妻がフライパンを手にして居間に立っているとする。」(『哲学・航海日誌II』P.161) そこから立ち上がってくる話がどのようなテーマと結びつくのか、 実際に考えだす方は大変なのだろうが、実は楽しんでいるかのようにもみえる。

最初に戻ると、やはり哲学者の目は違うな、と思う。 『言語学の教室:哲学者と学ぶ認知言語学』でもすでにその違いは明らかだったが、 言語学者は、どうしても言語形式の分析をせねばならず、 背後の仕組みを仮定して謎解きをするにはするが、 哲学者ほど原理にはコミットしない(のが普通だろう)。 今回、まとめ読みをしてしまった野矢茂樹氏の本、 「うーん、そうか。そこまで考えるのか」と、たびたび関心させられてしまった。 こういうことを言っていたら、言語学の論文は書けませんなぁ。>自分


『実践 日本人の英語』を読んで  [05/03/2013]

4月は、職場復帰で大わらわ。ようやく落ち着いてきたと思ったら、もう5月。 ふと見渡すと、まだ読んでいないいろいろな本が出版されている。 ハヤカワ文庫、ベスト&特選フェア「2011年最も売れた本」に入っていたマルコ・イアコボーニの 『ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』は、 読んでいなかった。確かになかなかおもしろく書けている。 ついでに、E. Hatfield, J. T. Cacioppo and R. L. Rapson (1994)Emotional Contagion. Cambridge: Cambridge Univ. Press も遅まきながら購入。やはり、感情は「うつっちゃう」のねぇ、と妙に納得しながらいろいろな引用に感嘆。 吉成真由美[インタビュー・編](2012)の『知の逆転』 NHK出版新書 395 も、そうそうたる顔ぶれの人達 (Jared Diamond, Noam Chomsky, Oliver Sacks, Marvin Minsky, Tom Leighton, James D. Watson) に惹かれて購入。いずれもなかなか面白いインタビューだ。 そうこうするうちに、2013年4月19日第1刷発行で出たばかりの マーク・ピーターセン著『実践 日本人の英語』(岩波新書(新赤版) 1420)を発見。 前著『日本人の英語』、『続・日本人の英語』も存分に楽しませてもらったので、今回も期待して購入した。

この本を読んで、改めて感心したのは、マーク・ピーターセン氏の日本語に対する理解の深さだ。 日本人が書く英語を添削しつつ、なぜこのような英文になるのかを考えている。 英語の特徴だけでなく、日本人の使う日本語の分析も背景にある。 冒頭に出てくる奇っ怪な日本語の例(ありがとう あなたの訪問を楽しんだことを私達が望む。)は、 外国人の書いた日本語の分析につながる。 『実践 日本人の英語』では、このように「書く」という点に焦点を当てて考察されている。 「はじめに」の P.iii で述べられているように:

日本語にせよ,英語にせよ,ネイティヴ・スピーカーではない人が, 外国語で何かを正確に,適切な文体で書こうとすることは, とても難しいことである.
マーク・ピーターセン著『実践 日本人の英語』, P.iii

まさにその通りだと思う。 現実に、毎日のように外国語で表現することを職業にしている自分としては、 日々その難しさと戦っているので痛切に同じことを感じる。 さらに、「あとがき」の最後にあるように、 マーク・ピーターセン氏が「最近の日本で,気になっていること」に対しても、 私は共感する。すなわち:

英語か日本語かにかかわらず,文章の意味をしっかりつかむ, よく考えて文章をつくる, といった基本的なことがちゃんとできているかどうか, 不安に感じることが増えてきたのである.それは学生に限らない. このことは単に英語で会話ができるかどうかといった, その場その場のコミュニケーション力の問題よりも, ずっと真剣に考えるべき課題だと思う. しっかりと考え,深く感じるためにこそ, 私たちは読んだり,書いたり,外国語を学んだりするはずだからだ.
マーク・ピーターセン著『実践 日本人の英語』, P.225

私は、日常的に他の人の書いた文章を添削している。日本語、英語、ドイツ語が対象だが、 逆に、自分の書いた文章も添削してもらっている。 たとえ、母語の日本語で書いた時ですらも、他人の目で見ると、 とてつもなく変な日本語だったり、思わぬ曖昧性を含んだ表現だったり、 さらに明らかに誤解されるような言い方だったりする。 誤字や脱字は日常茶飯事だが、自分で書いている時には なかなか見えてこない。「視れども見えず」の状態だ。

外国語教育の中で、会話が重視されるようになってから、すでにかなりの年月が経つ。 もちろん、話せないより話せる方がいい。 間違いを恐れずに積極的に話して、自分の考えていることを伝えるのは重要だ。 でも、人の話を聞いても理解できない、とか、 文章が読めない、読んでも本当の意味が分からない、 というのは致命的だ。さらに、文章が書けない、というのは、 非常になさけない。

人の話を聞いて理解する、書かれている文章を読んで理解する、 この2つは、受容的な能力のように感じられるが、 実は、自分の持っている知識や判断力を最大限に利用して、 積極的に理解しようという姿勢があって初めて可能になるものだ。 ぼーっと受け身的になっていたら、 人の話を聞いても理解できないし、文章を読んでも内容は頭に入ってこない。

書くという行為は、さらに読み手の立場を考えて思考することを要求する。 話す場合には、ほぼ同じ状況の中にいるために、 共通の認識が得られやすいが、文章を書く場合には、 その文章を誰がどのように読むのかに応じて、 書き方を考える必要がある。どのような順序で、どのような論理で話を構成して、 どのように情報を出していくか、どのような文体で、どのように訴えかけるか、 考えなければならないことはたくさんある。

外国語を学ぶ意義、と言うと、「外国人とコミュニケーションをすること」 という答えが当たり前のように繰り返される。 外国語を使って、外国人とコミュニケーションをすると、 異文化に触れることができ、異文化間のコミュニケーションから、 いろいろなことが学べる。もちろん、そういう面もある。 しかし、マーク・ピーターセン氏が言うように、 外国語を学ぶもう1つの意義は、「しっかりと考え,深く感じるため」 でもあると思う。 母語だけを使って考え、感じるのではなく、外国語を通して考え、感じることで、 もっと深く考えたり感じたりすることができるようになるのだと思う。 そんな機会を逃してしまうのは、実にもったいない


デジカメとオート・モード  [12/05/2012]

[デジカメを買い替えた]

これまで使っていたのは、 RICOHCaplio R5 だった。初めから欲しかった訳ではなく、 それまで使っていたデジカメがあまりにも故障続きで嫌気が差していたところ、 あるお店で店員さんに勧められて買ってしまった。 実に主体性のない購入の仕方だったが、Caplio R5 はおよそ6年使い続け、 結果的にはかなり気に入っていた。

たまたま、デジカメで撮影した画像を使った実験を行ったのだが、 拡大した写真をドイツ人被験者に、ことごとく Verschwommen! と言われてしまい、もっと解像度の高いカメラが必要だと感じるようになった。

ネットをさまよってみると、世の中は ミラーレス で大騒ぎ。 今までデジカメと言っていた商品は、いつの間にか コンデジ(=コンパクトデジカメ)と言われていて別扱いだ。 ならば、 ミラーレス一眼 のデジカメを買ってやろうじゃないか、 と久しぶりに購買欲が湧いてきた。 そのうち、ブラウザを立ち上げるたびにデジカメのCMがポップアップするようになり、 これはいかんとばかり、ブラウザの履歴をちょっと整理し、 flashcookies 対策に BetterPrivacy を導入した。

そもそも一眼レフというのは、single-lens reflex camera を短縮した日本語の言い方だ。 跳ね上げ式の反射鏡がついていてファインダーで覗いた時にレンズを通しての像が見え、 シャッターを切る時には反射(reflex)鏡が跳び上がり、 撮影レンズからの像がフィルムに投影される(「レフ」とは (reflex) のこと)。

ミラーレス は、この反射鏡の「鏡」がない、というところから来ている。 そんなこと言ったら、大部分のコンパクトデジカメには、もうファインダーがついていないから、 ミラーがないじゃない、ということになるが、「デジカメ一眼レフ」が存在するから、 「ミラーレス一眼」にも意味がある(間違って「ミラーレス一眼レフ」と言わないように)。 「だったら、ミラーレス一眼にはファインダーがないの?」と尋ねられると、 「ファインダーのあるものも少しある」らしい(ほとんどのミラーレス一眼にはファインダーがないようだ/2012.12/)。

「ミラーレス一眼」は、「一眼レフ」と同じようにさまざまなレンズを取り替えて使えるところが魅力的だ。 一種類の口径の狭いレンズですべてを賄おうとする「コンデジ」(=コンパクトデジカメ)とは異なる。 そこらへんにどれくらい魅力を感じるか、価格と製品の魅力を天秤にかけて考えることになる。

いろいろと検討した結果、私の場合には、「ミラーレス一眼」は高価過ぎるという結論になった。また、 レンズ交換をしながらじっくりと被写体を捉える余裕のある撮影はしない、 というのもミラーレス一眼を選択しなかった理由だ。 おそらく、 退職して毎日が日曜日になれば考え方、見方が変わるのだろうが、 今のところ、パッとカメラを出してパッと撮るという即時性の方が価値がある。 そう言えば、テレビCMで「ミラーレス一眼」を見ると、 やたらにレトロなデザインが目を引くが、これは、 そのようなお金と時間を持つ世代をターゲットにしている、ということなのかもしれない。

結局、何を買ったかというと、SONYDSC-HX30VCaplio R5 の有効画素数が約724万だったのに対して、 DSC-HX30V の有効画素数は約1820万だ。 Caplio R5 は、7.1倍光学ズーム、3.6倍デジタルズームで、光学デジタル併用時の最大ズームは25.6倍。 DSC-HX30V は、20倍光学ズーム、(静止画時18Mサイズ)約80倍デジタルズーム、 (静止画時2Mサイズ, 16:9 約204倍)など。全画素超解像ズーム(静止画時)では、40倍だそうだ。

Ente

解像度の高さもさることながら、いろいろなオートの撮影があり、頭がくらくらしてしまう。 と言いながら、いろいろなモードを試してみているが、そこそこ満足している。 何と言っても、従来のシャッターを軽く押し込んでデジカメにオートフォーカスをさせる時のタイムラグがほとんどないのには感心した。 シャッターをいきなり押し込んでパッと撮っても、 ほぼちゃんと焦点は合っている。また、フラッシュなしで、 かなりいい感じで撮れるのもうれしい(実は、フラッシュなしでの撮影時には、すごい技を使っている)。 逆にフラッシュ撮影時にフラッシュ部分が飛び出るのは、ちょっと減点。 左手で持っているところから突然フラッシュ部分が飛び出してくるのは、かなり怖い。

[オートとマニュアル]

「オート」とは、もちろん、automatic だ。 カメラの世界では、「オート」と「マニュアル」だが、 車の世界では、「オートマ(チック)」と「マニュアル」だ。 一眼レフで、オートフォーカスのついていないカメラを使っていたのは、 いったいどれくらい前だったか、もうほとんど記憶がない。 車で、マニュアルに乗っていたのは、まだ記憶があるし、 普段はオートマ車でも、時々今でもマニュアル車を運転する。

Elster(deutsch) (English: magpie, Japanese: Kasasagi)

DSC-HX30V では、マニュアルでの撮影も可能だ。 とことんこだわれば、すべてマニュアルで設定して写真を撮ることができる。 でも、多分、当分の間はマニュアル・モードは使わないだろう。 それは、私がこのカメラに、マニュアル・モードを求めていないからだが、 いざという時にマニュアル・モードに戻れるというシステムは、 安心感を提供してくれる(パワー・ウィンドウが故障した時に、 手動で窓を開けられるような安心感)。

オート・オートマチックは、もちろん現代ではデジタル化技術によって支えられている。 本当ならマニュアル(つまり、オートやオートマチックでないやつ)でできないといけない、 と思うが、ここまでオートが普及して日常化してくると、 無意識の内にオート・モードに依存して生活してしまうことになる。

Herbstszene in Japan (Nov.,2012)

こうして文章を書いている時も、いわばオート・モードに「乗っている」。 一文字一文字手で字を書くのではなく、キーボードでローマ字仮名変換を行っているが、 間には、コンピュータというハードウエアだけでなく、 Linux, Emacs, iBus, Mozc などのソフトウェアがある。 これらは、さまざまなレベルでユーザである私の知らない技術を含んでいる。そして、 オートで文字入力という作業をサポートしてくれている。 ここでは、一応、紙と鉛筆という一種のマニュアル・モードに戻ることは可能だ。

オート・モードは危険だ、と私は言い続けてきた。 オート・モードの背後には、利用者の知らない処理が介在しており、 その中には信用できないような処理(バグを含む)があるかもしれないからだ。 しかし、 私(だけでなく多くの現代人)は今や(危険があると知りつつも)オート・モードに依存して生きている。 オート・モードがこれほど自然になってしまうと、もう後戻りできない。 カメラしかり、自動車しかり、文章書きしかり。 こうなったらオート・モードに「乗り」つつも、 注意深く出力を監視するしかないが、 もうオート・モードに騙されていても見抜けないかもしれない。 現実の世界は、オート・モードの氾濫によってますます仮想化されていく。

視覚情報や音情報では、デジタルでの入出力が普通になった。 残された感覚系「触覚、嗅覚、味覚」の入出力もいずれデジタル化され、自動化されるだろう。 そうすると、オート・モードでの入出力が人間の感覚系と置き換わるところまで視野に入ってくる。 BCI (Brain Computer Interface) が一層注目される。

でも...、 デジカメの解像度は、もう人間の眼の解像度を大きく上回ってしまっている。 眼の代わりにデジカメを埋め込んだら、人間の脳はその情報量の多さに悲鳴を上げちゃう。 ここでも、新たなオート・モードを作って「情報の間引き」をする必要がある。

Vine Linux 6.1 での利用に関しては、 DSC-HX30VをUSB接続/Vine Linux 6.1 を参照。


ピダハン語は、再帰構造を持たない言語か?  [10/04/2012]

1. イントロ
2. タイトルの比較
2.1. 英語のタイトル
2.2. 日本語のタイトル
2.3. ドイツ語のタイトル
3. ピダハン語:あれも無ければこれも無い
4. 再帰構造が無い?
5. ピダハン語に対する親近感
6. おまけ: Mrs. Doubtfire

1. イントロ
あっという間に10月が来た。9月は、夏休み前にHさんから勧められていた Daniel Everettの『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(2012) を読んだ。せっかくなので英語のオリジナルでと思い、途中から英語で読み、 その後で日本語版に戻り、次にドイツ語でも読んでみたくなりドイツ語版を読んでしまった(英語の用例の多くがドイツ語に変更されていて、違和感があった)。 あるキリスト教宣教師が妻と子供を連れてアマゾンのある地域に入り、 そこで話されている1つの言語を学び、 やがて言語学も学び、ついには生成文法の枠組みでこの言語を分析して博士号まで取った。 著者は、そのうち文化の重要性に気づき生成文法に懐疑的になる、キリスト教も捨て無神論者になる。 どちらかというと、フィールドワークの報告をエッセイ風に書いて、 その言語の構造を一般人に分かりやすく説明したものが本書だ。 もっと学問的にピダハン語を知りたかったら、学術論文か Handbook of Amazonian Languages のピダハン語の部分を読むべきだろう (本書では、正確なグロスがついていないので、原語表記もどこまで信用できるか分からない)。

2. タイトルの比較
3冊を比べてみると、そのタイトルの付け方から、翻訳者(あるいは、出版社、あるいは編集者)の意図が透けて見える。 まずは、オリジナルの英語、その次に日本語版、その次にドイツ語版と並べてみる。 タイトルも違うし、表紙のイメージも全然違うのがおもしろい。

Everett, Daniel (2008) Don't Sleep, There Are Snakes: Life and Language in the Amazonian Jungle. Pantheon Books: New York.
Daniel Everett著、屋代通子訳 (2012) 『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房
Everett, Daniel (2010) Das glücklichste Volk: Sieben Jahre bei den Pirahã-Indianern am Amazonas. Pantheon: München.

Daniel L. Everett, 
    Don't sleep, there are snakes, Pidahan, Das glücklichste Volk

2.1. 英語のタイトル
英語のタイトルは、ピダハンの「おやすみなさい」にあたる言葉として xvii ページに紹介されている。 文字通り訳すと「眠るな、蛇がいるぞ」という意味だ。 プロローグでの説明によると、 このような言葉が定着している理由は2つある。 第一に、「より少なく寝ることで『頑強になれる』と彼らが信じており」、それは「彼らが共有している価値観である」こと。 (First, they believe that by sleeping less they can "harden themselves, " a value they all share.) 「第二に、危険はジャングルの中では彼らの周りのいたるところに存在し、 ぐっすり眠ることは、村のまわりにいる数えきれない肉食動物からの攻撃に無防備になることだということ彼らは知っている」こと。 (Second, they know that danger is all around them in the jungle and that sleeping soundly can leave one defenseless from attack by any of the numerous predators around the village.) それにしても、寝る前に「おやすみなさい」と言わずに「寝るなよ。蛇がいるからな。」 と声をかけるというのは、反語的でおもしろい。 副題は、「アマゾンのジャングルにおける生活と言語」で、生活の様子と言語の話が中心という理解ができる。


2.2. 日本語のタイトル
一方、日本語版は、『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』というタイトル。 原著の Preface には、 Pirahã (pee-da-HAN) とその発音が示されているところから、 これに最も近い発音をカタカナでまねたものが日本語版のタイトルとなったようだ。

日本語版の「訳者あとがき」(P.388)には、 「...あえてカタカナに直すとすれば『ピーダハーン(ハーンの部分に強勢がくる)のような音になるらしく、...』 という説明が書かれているが、これは英語での読み方の説明であって、「ピダハン語」自体とは直接関係はない。 ˜ は、鼻音化(nasalized) を示す補助記号だから、「ン」はここに含まれる。ちなみに、 http://archive.org/ には、 Daniel Everett - The Pirahã:People Who Define Happiness Without God (November 7, 2009) というヴィデオが残っており、 Daniel Everett による Pirahã の発音を聞くことができる (もちろん、「ピダハン語」や「ピダハン族」などの呼称は、本人たちが使うものではないし、「ピダハン語」とは直接関係はない)。

さて、脱線してしまったので、日本語のタイトルに戻る。 「『言語本能』を超える文化と世界観」という副題は、 おそらく「『言語本能』を超える文化」と「世界観」に別れるのだろう。言語本能とは、Steven PinkerLanguage Instinct という本(並びに、用語)を意識したもので、 生成文法の言語獲得説を指すと考えられる。 筆者の Daniel L. Everett は、生成文法の枠組みでピダハン語の分析をした博士論文を書いたそうだが、 この本を執筆している時点では、「文化的コンテクストを離れて言語を効果的に研究することはできない、 特に研究者の文化とは極端にことなった文化を持つ言語を対象とする場合は」 (..., we cannot study languages effectively apart from their cultural context, especially languages whose cultures differ radically from the culture of the researcher. P.259) と述べ、反生成文法的な発言が目立つ(特に、ピダハン語には再帰 (recursion)がない、と主張する部分では)。 そして、もうひとつの構成部分「世界観」は、かなり言語相対論の匂いのする表現だ。 すなわち、フンボルトに遡る Weltanschauung というドイツ語表現だ。 こうしてみると、日本語版のタイトルは、<アンチ生成文法で、言語相対論へ向かう> という方向性が明確に表現されている。

日本語書籍の得意な「おび」には、さらに過激なキャッチが並んでいた(ちょっとやり過ぎか)。

背表紙にあたる部分には、
驚きの連続!
表紙正面には、
スティーブン・ピンカーも驚愕。言語をつくるのはほんとうに本能か?
数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない……
あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶる、ピダハンの認知世界。

しかし、文化の重要性を確かに主張してはいるものの、本書は決して言語相対論に強く加担するものでもない。 <ピダハン語には数詞がない、だから「ピダハン族」は、数が数えられない> といった性急な結論に飛びつくことはない(英語の原書 P.217-223 参照)。

2.3. ドイツ語のタイトル
さて、ドイツ語版のタイトルに移ろう。 Das glücklichste Volk: Sieben Jahre bei den Pirahã-Indianern am Amazonas.
直訳すると「最も幸せな民族:アマゾンのビダハン・インディアンのもとでの7年」となる。

「最も幸せな民族」とは、「ピダハン族」のことを指す。 本書を読み進めてみると、ピダハンの人々は、とても幸せに見えるという記述がある。 「最も幸せな民族」というのも、筆者の視点から見たらそう見えた、ということだ。 「アマゾンのビダハン・インディアンのもとでの7年」というのは、 筆者の視点から書かれた<事実に即した報告>という印象を強く与える。 また、「最も幸せな民族」という言い方をすることで、 中に入って一緒に生活をした人間から見て外からの呼称「ピダハン」を避けた、と言えるかもしれない。

3. ピダハン語の特徴:あれも無ければこれも無い
日本語の帯(おび)に書いてあったひょうに、西欧語の常識からすると、 あれもない、これもない、というのがピダハン語のある種の特徴だ。 この手のエッセイにしては珍しく、索引がついているので、 英語の原典にある索引から、ないない尽くしをピックアップしてみると、次のようになった。

lack of color terms, lack of comparatives, lack of counting/numbers, lack of grammatical number, lack of phatic communication, lack of quantifiers, lack of stories about the past, lack of disjunction

色彩語がない、比較級がない、数詞や数を数えることがない、 文法上の数がない、交感的コミュニケーションがない、 数量詞がない、過去に関する話がない、選言(的表現)がない

ということになると、この言語には何もないのではないか、 非常に単純な言語なのではないか、と誤解されてしまうが、SOV型のこの言語では、 動詞に16種類の接尾辞が付くそうで、 接尾辞のある場合とない場合があるため、2^16 通り(65,536通り)の動詞の語形が存在しうるそうだ(原著 P.196)。 もちろん、これは理論的可能性の話であり、すべての動詞にこれだけの語尾の可能性が実際に存在するわけではない。

ただ、このような観点から動詞を見ると、日本語の動詞には、 未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形の6種類があり、 それぞれ接尾辞が付くとも言える。 それらの接尾辞が付かないこともある、 といった説明法をすると、 日本語の動詞もそれぞれ 2^6 通り(64通り)の語形の可能性があることになる。 この可能性を見て、日本語では、動詞を使う時に、 常に 1/64 の可能性から1つを選んでいるとは言えないだろう。 もちろんピダハン語でも動詞を使う時に、 常に 1/65,536 の可能性から1つを選んでいるとも言えない。 実際には、個々の動詞は前後関係から制限を受けるから、 そんなに多くの接尾辞の可能性が残されているわけではない。

「…がない」という指摘に戻って考えても、実は、たいしたことではないかもしれない。 例えば、日本語にも名詞の数の区別がない。名詞の文法上の性もない。西欧語から見れば、 奇妙だろう。しかし、全体として機能するのが言語であり、特定の文法要素がないからと言って、 人間の言語としての資格がなくなるわけではない。 むしろ、いろいろな言語を比べてみると、 特定の部分が細分化されていて、特定の部分が粗っぽいというのが一般的な観察結果だろう。 で、どうやらピダハン語では、証拠性(evidentiality) に対する感度が高いようだ。これは、ある意味で、日本語に似ている。 日本語も直接経験している事柄でなければ、伝聞形を使わなければならないからだ。 ピダハンは直接経験していることを、基本的に話題にする文化だ。 筆者 Everett は、これを「直接体験の原則」 (immediacy of experience principle:IEP) と呼び、 ピダハン語に埋め込み文がない理由(さらには、再帰が起こらない理由)と関係すると主張する。

4. 再帰構造が無い?
筆者 Everett の主張は簡単に言うと、こうだ。 The man who is tall is on the path. という文における埋め込まれた文 who is tall は、The man is on the path. という文が直接体験に基づく「断言」(assertion) と(いう発話行為)解釈できるのに対して、 埋め込まれた文 who is tall は直接体験に基づく「断言」とは成りえない(原著P.234)。 一般的に、埋め込み文(=従属文)は発話行為と結びつかない(ただし例外はある)。

ただ、再帰は関係文の埋め込みだけでなく、 さまざまな繰り返し構造の中に見られるので、直接体験の原理(IEP)が再帰が起こらないすべての原因だとは考えにくい。 The dog's tail's tip is broken. のような形式 (属格を2つ重ねる)ものは名詞句の埋め込みであり、再帰の一種と見なすことができるが、 このような形はピダハン語では作れないのだそうだ。しかし、この現象が IEP から導かれているとは考えにくい。

ピダハン語が統語的な再帰構造を持たないとしても、 別に人間の言語の特徴を持っていないと考える必然性はない。 ある種の繰り返し構造 (iteration) はいずれにしろ、 完全否定はできないだろうし、 文という単位がそれほど厳密なものでもないから (文の終わりを何で定義するかと言われると、音声的には大抵は下降イントネーションとか、ポーズになってしまう)、 再帰構造を使わなくても十分、同じような意味を表す繰り返し表現は可能だろう。

階乗(factorial) の定義をLISP で再帰的に書けば確かに美しいなあと思うが、同じ計算を非再帰的にも(手続き的にも) 計算ができることを忘れてはならないだろう(それのほうが、計算に要する時間が少なかったりする)。

再帰構造は、究極的に人間の言語を決定づける特徴じゃあないだろう。 自然界の形の多くのものに再帰構造が見られることはよく知られているし、 それらは独特の美しさをもっている。 再帰構造は、自然界のいたるところに見られるものだ。

5. ピダハン語に対する親近感
さらに、いろいろなピダハン語の特徴を見ていると、けっこう親近感がわいてくる。 ピダハン語では、音素としてカウントできる母音が3つで、 子音が8つ(男性の場合)と声門閉鎖音が1つというシンプルさ(女性は使う子音が1つ減って7つ)。 日本語も地域によっては母音の音素は4つなので結構似ているかも、と思ってしまう。高低のピッチアクセントが使われているというのも似ている点だ。

Everett は、声門閉鎖音に関して、 「英語を含むほとんどの西欧語の音素には欠けている音」(... a sound that is lacking from the phonemes of most European languages, including English. P.179) として「大騒ぎ」しているが、「英語を除く」ゲルマン系の言語では結構使われている。 セパレーターとしてなら、ドイツ語では高い頻度で用いられるし、 デンマーク語では、声門閉鎖音のあるなしで最小対立する語もある。

「ピダハン語は、再帰構造を持たない言語か?」というタイトルで書き始めたが、正確には、 「ピダハン語の統語論には、再帰構造が現れないか?」 というべきで、Daniel L. Everett によれば、そうらしい。 統語的に再帰構造がなくても、 そういう言語があってもいいのではないか、というのが私の感想だ。

Everett は、3つの可能性を考えている。(P.235-236)
(1) ピダハン語の文法が再帰構造を作り出すのを禁じている、
(2) ピダハン語の文法が再帰を進化させるのに失敗した、
(3) ピダハン語の文法が文における構造を提供していない(句は無く、語が並んでいるだけ)。

いずれの可能性も完全には否定できないが、(1)が一番おもしろいと私は思う。 Everett の直接体験の原理(IEP)もその1つだが、 別の原因があって、再帰構造を阻止しているという仮説は魅力的だ。

6. おまけ: Mrs. Doubtfire
1993年のアメリカ映画(コメディ) Mrs. Doubtfire を、 偶然、今年の夏にペンシルバニアから帰る時にUAの飛行機の中で見た(日本語のタイトルは、『ミセス・ダウト』)。 Everett の本を読んでいて、突然、 Mrs. Doubtfire の話が出てきたのにはびっくりした。

原書のP.202 に Robin Williams が、 "I ... am ... job?" と言う場面(実際の場面では、2回繰り返して言っている)が引用され、 文法的にはまったく正しくなくても正しい意味は伝わる (..., the grammar is almost all wrong and yet the correct meaning is still communicated.)、 と説明されている。 求人広告を見て電話をしてきた女性が、依頼主に対して言っているので、 ここでのこの文の意味は、"I want the job you have advertised." だ。

"I    am    job?" は、 確かに文法的には正しくないが、それほど悪くはないんじゃないかと実は思っている。 日本語版の本では、この部分を「わたしは……その……仕事?」(P. 282)と訳しているが、 本来は「わたしは……仕事……ですか?」 と率直に訳すべきだったろう(本書の中では、この文に疑問符がついているが、この文が本当に疑問文のイントネーションで発音されていたかどうか、 あまり定かな記憶がない)。 ではなぜ、そうしなかったかというと、日本語では、それほど悪くないからだ。

「わたし えーと 仕事 ですがぁ?」と言えば、パーフェクトかもしれない。


0655 と 2355 はすごい! [08/15/2012]

2012年7月31日(火)に札幌コンベンションセンターで開かれた日本認知科学会夏のシンポジウムに行った。 タイトルは、「身体を体感する芸術 — 理性と感性の融合 —」。 4人の講演者の内、最初に登場する予定だった佐藤雅彦氏(東京藝術大学大学院教授、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授)は、アクシデントがあり最後に登場。 佐藤雅彦氏は「情報が欠如した表現 — 見るに値すると判断された視覚情報」というタイトルで話しをした。 映像クリエイターとして著名だが、映像を交えたトークでは、 映像のデザインや製作に係わる具体的で背景的な話だけでなく、 抽象的で哲学的(?)、認知科学的(?)な話も非常に面白かった。

「人間は自分が想像する余地のある情報に関心を持つ」という佐藤雅彦氏の言葉の意味が、 当初はおぼろげにしか理解できなかったが、 「情報をすべて出すのではなく、場合によっては、情報を隠した方がよく見えることがある」 という説明が加わることで、より良く理解できるようになった。

例えば、NHKと、ユーフラテス の共同製作で、 「Eテレ」(=NHK教育テレビ)でやっている 2355 や、 0655 を見ると、この意味がよく分かる。 極端にシンプルな線で描かれた絵からも、十分に想像できる世界がある。 隠された情報の中に、06552355 という数字が見える。 彼らは、たった5分という時間の中で、いろいろな形で自己主張をしてくる。 見えないようで、見えている、そんな状況をうまく作り出すことで、 視聴者の想像をかきたて、注意をひく。

まだ知らないという方のために、ちょっと解説する。 地上デジタルでの第2チャンネル(全国的にそうなのかどうかは不明)、 朝は6時55分から7時までやっている番組が 0655 で、 23時55分から0時までやっている番組が 2355 だ。 この時間、うまく見れないという人は予約録画ですね。 テレビ番組欄では、4つの数字が並んでいるだけなので、知らない人には全く注目されない番組名でもある。

06552355 に出てくるアニメ付きの歌などは、「みんなの歌」を思い出させるところもある。 そう言えば『おかあさんといっしょ』の中で歌われた「だんご3兄弟」も、佐藤雅彦氏の作品だった。 単純なリフレインの中に視聴者を放り込むのが彼の1つのテクニックのように解説されることもあるが、 「モルツ」のCMの仕組み、 A-POC. Inside (ISSEY MIYAKE のプロモーション・ビデオ) をつくり上げる時の発想と製作の実際、 rotoscope を復活させて作られた 一連の ユーフラテスballet rotoscope の発想を聞くと、 それぞれが計算し尽くされた結果出来上がっている映像であることが分かり、改めて感心。

しばらくは、この2つの番組にはまりそうだ。『三日月ストレッチ』なんかも、<ゆるく>ていい。 それにしても、この時間帯でターゲットとなる視聴者は誰なんだ、 と考えてしまう(「癒しを求める大人たち」か、「数学嫌いの子供たち(を持つ親たち)」か?)。 まあ、今は予約録画で見れるから、LIVEを除けば放送時間なんて関係ない世界なのかもしれない。


ペンシルベニアから帰る  [07/24/2012]

短期間だが、ペンシルベニアに行っていた。 「無事に帰ってきたの?」と聞かれたので、本来の目的とは関係のない「セミ」と「ネコジャラシ」と「モンシロチョウ」 の話をメインに書くことにした(本論は、日本独文学会のコラム 「ペンシルベニアへドイツ語を求めて」(2012-08-10))。 場所が違っても、同じ(ような)生き物・植物を見つけると、けっこう嬉しかったりする。

そもそも、アメリカという国とは、これまであまり縁がなかった。 英語が母語の国での観光、というと、なぜかこれまではイギリスだった。 今回は、観光でもなく知人もいないペンシルベニアに一人で行くということで、 かなりの冒険ではあったが、言葉が通じる国という意味では安心感はあった。

ほとんど言葉がわからない国へ観光にでかけるなんていうことも昔はしたが、 これはかなりの勇気がいる。もっとも、何を言っても通じないと腹をくくってしまえば、 後は度胸だけなのだが。

ペンシルベニア州立大学ハリスバーグ校に行ったのだが、 すでに夏休みに入っていたので、キャンパスに人影はほとんどなし。 金曜日の夜8時頃についたのだが、まだ明るかった。 ふと気がつくとセミの声。ペンシルベニアの夏は結構暑いので、セミもいるのだ。 うっそうと繁った葉をつけた高い木を見上げても、残念ながらその姿は見えない。 こりゃあ絶対、このセミの姿は見れないな、と思っていたが、 後で Kutztown に行った時に、偶然にもある学生がセミの死骸を発見して、 昆虫好きの私の所に持ってきて「セミ知ってる?」なんて訊くので、 「そりゃあ知ってるさ。日本にもいっぱいいるからね。で、これはなんていう種類なんだい?」 と尋ねたら、「そんなの知らない」とのこと。 Kutztown でも同じセミの声を聞いているので、多分、同じセミ。 だとしたら、本当にラッキーだった。で、撮った写真がこれ。

a cicada in Kutztown, Pennsylvania (July 2012)

このセミ、人の気配を感じて鳴き方を変える。その変え方が結構わかりやすく、面白い。 もちろん、日本のセミも人の気配で鳴き方を変えるものは多いが、木の下まで行っても、逃げていく様子がない。 体が黒で、羽が透き通っていて、小ぶりでちょっと青緑がかっているところは、 ミンミンゼミにも似ている。羽の内側に白い紋のようなものが左右1対ある。

ネットの図鑑を探してみたら、Cicada Web Sites at the University of Michigan, Museum of Zoology を発見。 写真と鳴き声(calling song)が収録されているので、しばらくあっちこっちを見た結果、 ミシガンにいるセミの中で Tibicen tibicen (= Tibicen chloromerus) が近いと思った。

滞在中、基本的には車での移動が多かったので、あまり多くは歩かなかったが、 それでもいつの間にか、ドイツ化してしまった我が身は、歩くことを欲してしまう(変な日本語だ)。 気がつくと、何の特にもならないとわかっていても、 時々、街中をてくてくと歩いている。 すると、「ネコジャラシ」なんかが生えているのを見つけたりする。

「ネコジャラシ」は、イネ科の一年草で、正式には「エノコログサ」というようだが、これは、「犬の子草」から来ているとか(『ブリタニカ国際大百科事典』)。 子犬のことを「狗」(えのこ)と書いたら実感できる。 英語では、pigeon millet(「ハト」+「キビ」) と言うが、foxtail (grass) というと「キツネのしっぽ」だ。 日本では、子イヌやネコだが、英語では「ハト」や「キツネ」というのは面白い。

ドイツ語では、Borstenhirse(「剛毛」+「キビ」)と言う。 「硬い毛の生えた黍(キビ)」というのは、あまりファンタジーを感じない表現でちょっと残念だ。 もっとも、この種の語は、方言にはいろいろな面白いバリエーションがある可能性がある。

モンシロチョウも飛んでいた。 モンシロチョウ(紋白蝶)は、英語では、cabbage butterfly(「キャベツ」+「蝶」)。 幼虫がキャベツの葉を食い荒らすからついたのだろう。 『ブリタニカ国際大百科事典』によると、「ヨーロッパ、北アメリカに産するものが原亜種で、 日本に産するものは亜種 P. r. crucivora という」そうだ。 英語のbutterfly の語源は諸説ある。『ジーニアス英和大辞典』 では、「バターのようなものを排せつする飛ぶ虫」というのと、 「バターをなめに来る虫(魔女がチョウの姿をしてやって来るという迷信から)」 が紹介されている。

日本語では、「紋」が「白い」「蝶」という分析的な表現。 ドイツ語では、Kohlweißling(「キャベツ類」+「シロチョウ」)。 -ling という語尾は、その前に付く動詞・形容詞などの特徴を兼ね備えた「動植物の名」あるいは、「物の名」 を表すので、Weißling(「シロチョウ」)というのは、 「白いやつ」という意味。ドイツ語の Kohlweißlingは、 敢えて言えば、「キャベツ類+白いやつ」だ。もちろん、「キャベツの上に留まっている白いやつ」だったのだろう。

最後に、おまけ。ペンシルベニア州の州都は、ハリスバーグ(Harrisburg)。 「えっ、フィラデルフィアじゃあないの?」という人は、少しアメリカ通。 フィラデルフィアは、ペンシルベニア州の中で一番大きな都市だから。 で、ハリスバーグには、小さな(!)国際空港がある。空港の建物から滑走路を見たのが以下の写真。

Nukes on the Three-Mile Island (July 2012)

最初、飛行機から下にスリーマイル島原発が見えた時には、びっくりした。 「えっ、見たことあるぞ、この光景」と思った。4基の内、2基から煙が出ていた。 スリーマイル島というのは、ハリスバーグの近郊を流れるサスケハナ川 (Sasquehanna)に浮かぶ、長さが3マイルの島なのだ。 スリーマイル島原発事故は、1979年3月28日に起きた。 ある人に、あの時はどうだった、と尋ねたら、「まだ生まれてなかった」 と言われてしまった。そうか、もう30年以上前だった。

それにしても、サスケハナ川(Sasquehanna) という名前は、どうもネイティブ・アメリカンの言語から来たような音だ。 http://en.wikipedia.org/wiki/Susquehanna_River を見てみると、やはりそのようだ。 サスケハノック族(Susquehannock)、あるいは、サスケハナ族(Sasquehanna) がいたようで、部族の名前らしい。上記の Sasquehanna_River の語源の説明では、 意味は不明となっている(出典が示されない形で"mile wide, foot deep" という意味の説明が載っている)。 このページは、一部日本語にもなっており、そこでは、 「1マイルの幅、1フィートの深さ」と訳されているが、ネイティブ・アメリカンが「マイル」や「フィート」を使っていたはずはないので、 もう少し違った象徴的な意味だったのだろう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Susquehannock によれば、このイロコイ族に分類されているネイティブ・アメリカンは、 自分たちのことを何と呼んでいたのかは不明だそうだ。 そう、「サスケハノック」というのも、メリーランドやヴァージニアのイギリス人が使った呼称にすぎない。 この川沿い、この地域に暮らしていたネイティブ・アメリカンとその言語は、もう謎だ。


嗚呼、スマホ  [05/09/2012]

2012年2月27日に、長年利用してきたnifty から、以下のようなメールが来た。

[...]この度、@nifty(アット・ニフティ)で提供しておりますモバイル接続サービス「AIR-EDGE対応PHS端末接続サービス」提供につきまして、 サービス多様化に伴い見直しをおこなうこととなりました。

その結果、サービス開始後多くのお客様にご利用いただいて参りましたが、 本サービスについては残念ながら2012年6月30日をもってサービス提供を終了させていただくこととなりました。 お客様には大変なご迷惑をお掛けし誠に申し訳ございませんが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。[...]

AIR-EDGE の私の利用状況は、確かにこのところ急速に減少していたので、 この際、何か新しい解決法を考えねばならないと思っていた。 外出中にネットが使えるという意味では、スマートホン(以下、「スマホ」)に移行すればそれで済むだろう、と考えた。

そこで、さっそくAIR-EDGEの契約解除をして「スマホ」に移行してみたものの、何か不満感が残る。 それは、こちらで期待していたものとズレがあるからで、 現時点では、「スマホってたいしてスマート(=頭がいい)じゃない」という感想を持っている。 今日は、そんな話をちょろっと。

まず、前提として、スマホと言えば、(世の中の多数派は)iPhone の採用する iOSAndroid の2つのOS陣営に分かれる。 どちらの陣営に属しても、しっかりと囲みこまれるが、 囲い込みがきついのは、もちろん iPhone だろう。 自宅では、一人がすでに iPhone 陣営へと移行したのだが、 それ以降、家の中でもエンクロージャー運動が起きている。 「iPhone って、すごく使いやすいんだよ」 とささやかれればささやかれるほど、 Android に行くしかないな、 と思うに至った(あいかわらずの、へそ曲がり)。

Linux ユーザとしては、Android はお友達でもある。 それなりに面白い使い方もできそうだと思って、結局、 Arrowsなんたら、という機種を購入した。 Android は、2.3.5 で、 4 へのバージョンアップを期待している。

スマホに対して、私の期待したものは、<1. ネットアクセス(メール、web-sites閲覧など)、 2. GPS 利用、3. 電話>のできるコンピュータだ。 スマホに期待するものという点では、一般のユーザとは少し違うかもしれない。 写真や動画を取る必然性は低いし、音楽を聞くのに使う気にはならないし、便利なアプリ(ケーション)に対する期待も少ない。

まずは不満な点。
(1) スマホは電力消費が多すぎ。
ノートパソコンなら、10時間も使えれば御の字だが、スマホは、その利用形態から電源を切らずに持ち歩くので、結果的に毎日充電することを強いられる。 電気をこれほど使うのは、ちっともスマートではない。 明るさの調整では、ディフォルトでは15秒で暗くなるが、15秒は意外に短い。 ちょっと操作の手を休めると暗くなり、うかうかすると画面がロックされてしまう。 かといって、30秒で暗くなる設定では長すぎる。

(2) 不要なアプリがいっぱいインストールされている。
Android に限らないとは思うが、私は使うことのないと思えるアプリケーションがたくさんインストールされている。 不要なアプリは削除するのが正解だが、これが意外に難しい。他のアプリと連動していたりするからだ。 削除したはずでも、知らないうちに他のアプリのアップデートをすると、再びインストールされていたりする。

(3) 指で正確にタップできない。
「あんたの指が太すぎるんだよ」と言われてしまうと根も葉もないが、画面を正確に指でタップするのは難しい。 フリックで画面をスクロールさせる時にも、ちょっとしたタイミングでタップに解釈され、意図しないアプリが起動されて、 あわててバックキーを押すはめになる。 慣れが必要なのは当然だが、フリックしても思ったところで画面のスクロールを止めるのは至難の業に思える。 さらに、QWERTYキーボードになると、キートップの大きさが小さくなり、正確に特定のキーをタップするのは非常に困難だ。

(4) ファイルブラウザが標準で入っていない。
MicroSDカードにダウンロードしたファイルを削除しようとしたが、 標準でインストールされているアプリではできない。 PCUSB接続すればできるのだが、 標準でファイルの削除ができないというのは、なんだ、と思ってしまった。結局、「ESファイルエクスプローラー」をダウンロードしてインストールした。

面白いと思った点。
(1) 日本語入力が少し楽。
これは別にスマホだから、という訳ではないが、今までの携帯のテンキー入力は、カチカチと目的の文字が出てくるまでキーを押す操作が普通だったが、 「フリック入力」とか「ジェスチャー入力」とかが加わり、今までよりも楽に日本語入力ができるようになった。 これは、慣れれば「手書き入力」よりもはるかに便利。

(2) GPSを利用して地図を見れる。
これも別にスマホだから、という訳ではないが、カーナビではなく、このポケットサイズでGPSが利用できるというのは、 ありがたい。地図を見ながら「ピンチアウト」して拡大できるのは確かにちょっと便利。

結局、スマートなのは、「スマートにお金を取れるシステム」なのではないか、と勘ぐってしまうこともある。 例えば、インストールされているアプリをうっかり起動させてしまうと、有料だったなんていう恐れがあるし、 無料のアプリでも、特定の情報にアクセスすると、そこから先が有料だったりする。 だからアプリ起動直後の説明は、きちんと読まなければならない。

便利なアプリをたくさんインストールして使うという利用方法もあるが、 「便利さは、危険と隣り合わせ」であり、「より便利に使おうと思えば思うほど、個人情報の提供を求められる」 という現実も忘れてはならないだろう。

私は、「端末エミュレータ」が欲しくてインストールしたが、やはりQWERTYキーボードが使いづらい。 こうなったら、「リュウド」の外付けキーボード RBK-2100BTJ でも買うしかないか、と真剣に思ったりする。 しかし、そこまで使い込む必要性は今のところないので、多分、まだ購入はしないだろう。


直接操作感と身体の拡張  [04/05/2012]

Bamboo CTH-470 は Vine Linux 6.0で動かなかったが...  [04/04/2012] で書いたように、実は、ペン・タブレットという製品を初めて使ってみた。 手元のタブレットは、センサー付きの板のようなもので、そこに画面はない。 専用のペンでそこに絵や文字を描くと、ディスプレーに絵や文字が現れる。 もちろん、手元のタブレットには、絵や文字は残らないので、 ヴァーチュアルな黒板みたいな感じだ。 普通に文字を書く時は、手元を見て、 鉛筆なら鉛筆の先が紙の表面に作り出す軌跡を目で追いながら線を描いていくことになるが、 ペン・タブレットの場合は、 手元には何も残らないので、手元を見ずにディスプレーを見ることになる。

使ってみると、不思議な違和感を感じる。 それは、ペンを持ってタブレットに描いているのに、そのタブレットには何も残らないからで、 描いても描いても見えないあせりを感じる。 手元を見ずにディスプレーを見ると描いているものが見えるのだが、 その位置調整は、ディスプレーから遠く離れた(おおげさだが、そんな感覚がある)手元で行うからだ。

鉛筆を握って文字を書いたり、絵を描いたりする時、 鉛筆の先が紙面に接触し、その軌跡を後に残していくのをごく自然なことのように認識してしまっている自分がいる。 考えてみると、実は、鉛筆を使って、ある程度自分で思ったように文字を書いたり絵を描くことができるま でに、相当な年月がかかっている。でも、その年月を乗り越えると、 鉛筆は、すでに自分の身体の一部のようになっており、 直接操っている感覚(=直接操作感)が生じている。 鉛筆でも、ボールペンでも、筆記具を使っている時、 筆記具は道具としての存在を限りなく薄くしていて、 文字や絵を描くことに集中している自分がいる。 つまり、「筆記具を使っている」という意識が遠くなり、「文字を書いている」とか、「絵を描いている」 という意識が全面に出ているのだ。

ブラインドタッチと呼ばれる文字入力法も同様だ。 キーボードを叩いているという意識は限りなく希薄になり、 文字を書いているという錯覚を与えてくれる。 実際には、この文章も、キーボードを叩き、時々、 漢字かな混じり文に変換しているのだが、意識してキーボードを叩いてはいない。 キーボードとディスプレーの間は離れているし、変換した文字を画面で確かめてはいるものの、 今、どのキーを打ってどのような変換をしたか、という意識はない。

このような状況では、道具は身体の拡張となっている。 道具は、すでに普通は意識にはのぼらないのだ。 これは、身体性の一つの特徴で、身体の個々の部分は、普通は意識にのぼらない。

では、どこまでが身体なのか、と問われれば、ごく当たり前のことのように感じられ、頭のてっぺんから足の先まで、 と主張できるようだが、明らかに身体の一部であっても、 意識できないような部分もあるし(e.g.内臓)、感覚として捉えられない部分(e.g.髪の毛)もある。 身体と外界の境界は、道具を使う人間にとって、常に流動的なのだろう。

車の運転をし始めてしばらくすると、同じように車自体が身体の拡張となり、 ハンドルを切っている感覚やアクセルやブレーキをふんでいる感覚が薄れ、 「曲がる」、「速度を上げる」、「止まる」という行為を直接行っているような気分になる。 やがては、車の大きさが「感じられ」、狭い空間を通り過ぎる時には、 あたかも自分の体をひねるかのような感覚でハンドル/アクセル/ブレーキを無意識的にコントロールする自分を発見する。 「今、どうやったの?」と尋ねられても答えられない自分がいる。

ここまでは、誰でも意識すれば常識的に考えられることだ。 つまり、
(1) 道具は身体の拡張である。
(2) 直接操作感が得られた時、道具は透明になる。

(2) を逆に表現すれば、 「道具はうまく操れない時、身体から切り離されて、眼前に現れる」 ということだ。道具が<物>としての性質をあらわにする瞬間、とも言える。 冒頭の話に戻れば、私はペンタブレットのBambooを前にして、 今更ながら<物>としての道具と対峙してしまったわけだ。

「道具=目的を持って使われるもの」と定義してしまえば、 言語もまた、道具としての特徴を明確にする。 言語は、通常は身体から切り離すことはできないと考えることができるが、 「うまく操れない時、眼前に現れる」という性質は共通している。 「身体の拡張としての言語」という考え方が、ここでは明白になる。

外国語の学習も、そういう意味では、学び始めた時に<物>としての言語と対峙してしまうと言える。 <物>が「透明な身体の拡張」にならなければ、使えるようにはならない。

不思議なことに、身体の拡張としての道具が<物>に戻ることができるという特徴こそ、 実は非常に重要な側面でもある。<物>に戻れない道具は、本当の意味の道具ではないのかもしれない。

内省言語(=心の中でつぶやく言語、思考する時に使う言語)は、そういう意味では中途半端な存在である。 <物>としての言語は、音であり、音を作り出す肉体運動だが、 内省言語は、その両者に対しての結びつきが存在するものの、明らかに弱いからだ。

肉体を鍛えるがごとく、外国語を使いこなすためには身体を鍛える(調音器官を酷使する)必要がある。


ああ、2011年!  [12/28/2011]

2011年も年末になり、12月26日に政府の原発事故調査・検証委員会(委員長・畑村洋太郎)の中間報告が出たため、 テレビではあちこちのチャンネルで原発事故の特集を組んでいる。 時間的余裕が多少できたので、見てみたい気もするが、 見て失望することも予想できるので、ほとんど見ていない (12/27のNHKには、原発事故調査・検証委員会委員長が出ていたのでちらりと見た)。 というのも、今回の福島第一原発事故のテレビ報道があまりにひどかったからだ。 日本のテレビと新聞が、これほどまでに駄目なメディアだということを思い知らされたのが、 2011年だった。

3.11直後の原発事故の問題点として、 政府や東電の対応の問題点はすでに数多く指摘されている。 それと同時に、日本のテレビはどんな報道をしてきたのか…。 「原子力は安全です」、「CO2削減に原子力発電は有効です」、 「核燃料リサイクルが有効な資源の活用です」といったCMをそれまで延々と流し続け、 3.11直後は、政府や東電の「直ちに危険であるとは言えない」 という発表を鵜呑みにして原子力発電推進派の解説をそのまま信じて流し続けた。 「あの時の報道は間違っていました」という発表は、 テレビからも新聞からも聞こえてこないようだ(気のせい?)。

Bücher über Atomkraftwerke

原子力専門家ではない私でも(政府の原発事故調査・検証委員会にも原子力の専門家がいないらしいが)、矛盾した内容に気がつき、 インターネットで調べて、ようやくその実態がおぼろげながら見えてくる、 そんな体験をしたのも今年の収穫だったのかもしれない。 「少しでも早く情報を伝える」という即時性は、テレビというメディアが持つ1つの特徴だが、 「間違った報道をしない」というブレーキがかかるために、 「保守的な方向」に流れ、今回のように 「国民をパニックにおとし入れてはならない」という自己規制(どこからかの圧力?)が強く働くと、 「もっともらしい内容をリピート」する洗脳メディアへと堕落してしまう。

「テレビは、娯楽である」と割り切る必要がある。 これは、すでに了解していた。 新聞はもっと正確な情報を伝えてくれているはずだ、 というのも、実は、<テレビと比較して、相対的にしか成り立っていない思い込み> であることを思い知らされた。 ネットは、ご存知のようにゴミもいっぱいあるが、何と言っても国境がない。 いろいろな国のメディアや研究者の情報が直接比較できるし、 マスメディアに載らない情報も手に入る。 ノーカットのインタビューがストリーミング配信されているのもありがたい。 ネットには即時性があるのと同時に、過去の記録としての側面もある。 そして、ここが重要だ。

日本の某新聞社のサイトなど、今回の震災+原発事故に関する初期の「間違った報道」 をきれいに消し去って平気な顔をしているようだ。 「間違って報道してしまったものを消したい」という気持ちはよく理解できる。 しかし、それは、「間違いました」という訂正・お詫びと共に記録として残すべきろう。

結局、情報収集をした後の判断は、個人にまかされるのだが、 さまざまな「色つき情報」から妥当な結論を引き出すべく情報を選別するためには、それなりに知識を得て、 判断をしなければならない。 そんな時、やはりオールドメティアとしての書籍が威力を発揮する。 今年は、岩波書店が原発関係では非常に頑張っていたのが印象的だった。

一年前に、シラバスを書いた時、2011年前期のゼミで「環境問題:汚染」を、 後期のゼミでは、「環境問題:エネルギー問題」をテーマに決めた。 2011年4月、前期が始まってみると、 これらのテーマは、予想を越えた現実問題となっていた。 ドイツの脱原発と再生可能エネルギー重視の政策を見ながら、そして、ドイツの発送電分離の現状を見ながら、 なんで日本はこんなに遅れをとってしまったのか、考えされられた一年でもあった。

高橋洋 著 (2011) 『電力自由化:発送電分離から始まる日本の再生』日本経済新聞出版社、 (1600円+税)の第4章には、北欧とドイツの発送電分離政策のまとまった紹介と解説がある。 日本における電力市場の自由化、スマートグリッドの導入は必須だということを実感させられた本だった。

2011年3月11日、この日を忘れてはならない、そんな思いを持った1年だった。


IEとISO-2022-JPの関係  [12/11/2011]

1. 概要
2. 対策
3. IE9 でどうなったか

1. 概要
IE 9 から、日本語のエンコーディングで、 ISO-2022-JPが選べなくなっているという話を聞いたのは、 2ヵ月ほど前だった。でも、IE 8 や、 IE 7 でも同様な状態になることにようやく気がついた。 そう、Windows Update が書き換えてくれていたのだ。

IEISO-2022-JP をキーワードに検索すると、たくさんいろいろな情報が出てきた。 その中でも、決定打となったのは、 Internet Explorer ブログ (日本語版) (17 Dec 2010 3:23 AM)だ。Microsoft側のブログで、 「MS10-090 導入後の不具合につきまして」というタイトルのページだが、 ユーザーからのコメントが、2011年11月23日まで続いている。 皆さん、怒り爆発している様子。少し情報を整理すると:

  • 2010年12月15日公開MS10-090Internet Explorer用の累積的なセキュリティ更新プログラム(2416400)」が発端
  • 更新プログラム(2416400)導入後、特定のWebサイトを閲覧すると、一部のページで文字化けが発生する
  • 該当するIEのバージョンは、6, 7, 8
  • 「エンコーディング」のリストから、ISO-2022-JPが消える(新しい仕様!)
  • 更新プログラム(2416400)導入後、HTTPヘッダーではなく、 METAタグのみで文字エンコードを ISO-2022-JPに指定しているサイトを閲覧すると、文字化けが発生する
  • 文字化けの起きるWeb サイトでリロード(F5)をすると直ることがある
  • 文字化けはWebサイト閲覧だけではなく、Outlook expressでも発生する
  • IE 9でも、同じ現象が起きているという報告もある
  • ヘッダに <Content-Type: text/html;charset=iso-2022-jp> と指定しても、直らないケースもある
  • IE用の累積的なセキュリティ更新プログラム(2011年2月9日公開) MS11-003(KB2482017)でMicrosoftは対処
  • 更新プログラム(KB2482017)導入後も、文字化けが直らないサイトもある
  • 更新プログラム(2416400)導入後に、レジストリに手を入れて直していた人達で、 更新プログラム(KB2482017)導入後に問題が再発しているという報告あり

累積的なセキュリティ更新プログラムというのは、 たった1つのバグを修正するものではない。 たまりたまった(=累積的)複数のセキュリティ的に甘いところ(=脆弱性)を修正しようとするものだ。 きっかけとなった2010年12月15日公開のMS10-090 は、 上記のtechnet.microsoft.com では、最初に以下のような抽象的な説明をしている。

Internet Explorer 用の累積的なセキュリティ更新プログラム (2416400)
公開日: 2010年12月15日 | 最終更新日: 2011年1月5日
このセキュリティ更新プログラムは Internet Explorer に存在する 4 件の 非公開で報告された脆弱性と3 件の一般に公開された脆弱性を解決します。 これらの脆弱性の中で最も深刻な脆弱性が悪用された場合、ユーザーが Internet Explorer を使用して特別に細工された Web ページを表示すると、 リモートでコードが実行される可能性があります。システムで、アカウント のユーザー権限を低く設定している場合、管理者ユーザー権限で実行してい るユーザーよりもこの脆弱性の影響が少なくなると考えられます。

Internet Explorer 用の更新プログラムについて (2010 年 12 月 14 日) には、以下のような説明がある。

文書番号: 2467659 - 最終更新日: 2011年5月10日 - リビジョン: 4.0
Internet Explorer 用の更新プログラムについて (2010 年 12 月 14 日)
はじめに
この更新プログラムを適用すると、次のサポート技術情報に記載されている問題が解決されます。
2416400 [MS 10-090] Windows Internet Explorer 用の累積的なセキュリティ更新プログラム

KB2416400 には、JIS (Japanese Industrial Standard) エンコーディングの自 動検出を無効にする修正プログラムが含まれています。ただし、一部のソフトウェ アでは、Internet Explorer のコンポーネントを使用して、HTML 形式の日本語 の電子メール メッセージを解釈します。そのため、JIS エンコーディングは自 動検出されず、電子メール メッセージのコンテンツは読み取ることのできない コードで表示されます。

注: Microsoft ダウンロード センターで更新プログラム KB2416400 をインストー ルしたが、この更新プログラム (KB2467659) をインストールしていない場合は、 Windows Update によってセキュリティ更新プログラム KB2416400 が提供されま す。この問題を回避するには、Microsoft ダウンロード センターまたは Windows Update のいずれかで KB2467659 をインストールしてください。

注: これらの問題はセキュリティ更新プログラム 2482017 で解決されています。 関連情報を参照するには、以下のサポート技術情報番号をクリックしてください。
2482017 [MS11-003] Internet Explorer 用の累積的なセキュリティ更新プログラム

2010/12/15付けMicrosoft UpdateによりIE文字化けの可能性 (http://jacques.bloggers-network283.com)の説明によると、 「詳細な条件は『HTML文字コードがISO-2022-JPでかつ、ヘッダで文字コードを明示していない』サイトを閲覧した際に発生します。」 となっているが、 正確には、「METAタグのみで文字エンコードをしている」 サイトも該当する(私のサイトは、これに該当していた)。 上記のサイトでは、さらに、このセキュリティ更新プログラムでは、以下の 問題に対処したと説明されている。

この問題はユーザを騙して文字コードを切り替えることによりサニタイジング (e-words.jp)を回避しつつスクリプトを実行可能にするものに起因し、MS10-090 はその修正の延長線上にあります。大雑把に書くとWebアプリケーションがサイ タイジング時に想定したエンコードと、表示側の仮定したエンコードが異なる場 合に被害に遭う可能性があります。
出典: http://jacques.bloggers-network283.com/2010/12/ms10-090.html

正確には、「クロス ドメインの情報の漏えいの脆弱性」 (Cross-Domain Information Disclosure Vulnerability) - CVE-2010-3348 に対する対策で、クラッカーは、 「文字数を調整すれば、ISO-2022-JPで書かれたWebページで、クロス ドメインの情報の漏えいを発生させることが可能」だった。 で、だからと言って、ISO-2022-JP を禁止するという対策の取り方はどうなのか、と思う。 「クロス ドメインの情報の漏えい」は、ISO-2022-JP が悪いからではないからだ。 ではなんでこんな形で対策を取ったかと言えば、 「このやり方の方が簡単だし、おそらく ISO-2022-JP で書かれたWeb サイトは少ないはずだ」 という思い込みがあったのだろう。 「Windows では、ずっと Shift JIS を使ってきたので、Shift JIS がディフォルトだ」 という思い込みもあっただろう。 「これからは、 UTF-8 だから、 そして、 Windows でも途中から、内部コードに UTF-8 を使い始めたから、日本語のエンコーディングから ISO-2022-JP をはずしてもいいよね」、という読みもあったかもしれない。

でも、Shift JIS よりも、iso-2022-jp の方が安心して使える、という時代もあった。 今でも、メールでは、iso-2022-jp が広く使われている。 UTF-8 のメールが増加していることも確かだが、 未だにiso-2022-jp は、 依然として多くの場面で使われており、さらに、 古くから存在するWindowsに縛られないサイトは、iso-2022-jp なのだ。

2. 対策
Firefox や、Chrom などでは、 iso-2022-jp に今でもきちんと対応しているので、 IE の新しい仕様(?)のために、すべてのページのエンコードを変更するつもりはない。 そこで、ホーム(=トップページ)は、 UTF-8 にして、ヘッダー情報でもエンコード指定することにした。

このページの先頭には、一種のメタ・タグで

<?xml version="1.0" encoding="iso-2022-jp"?>

と書いてある。ここで、すでに文字コードのエンコーディングを宣言しているので、 W3 validator でも、 文字のエンコーディングは正しく認識されていた。 しかし、これでは、 MS10-090 以降のアップデートを受けた IE 6, 7, 8、それに IE 9 では読めない。そこで、

<meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=iso-2022-jp" />

もヘッダーに加えることにした。

3. IE9 でどうなったか
IE 9 は、このようにするとどう表示するのか、 気になっていたので、このページを表示させてみた。

Internet Explorer 9, showing a page containing ISO-2022-JP

無理やりSHIFT-JISで表示することもなく、 今回は無事に表示されている。
UTF-8 のページでは、 ヘッダーに加えた情報だけで、問題なく表示されたが、 iso-2022-jp のページでは、 まず、上の方の赤のA で示された「青の壊れた箱」のようなアイコンをクリックする必要がある。 そうすると、 ページがリロードされて、B のように、エンコーディングのところに、うっすらと「日本語(JIS)」と表示される。 赤のA で示された「青の壊れた箱」 にカーソルを置くと次のようなメッセージ(バルーン・ヘルプ)が表示される。


Internet Explorer 9の「青の壊れた箱」のようなアイコンにカーソルを置いた時に出現するメッセージ
「互換表示:従来のブラウザー向けに設計された Web サイトがよりきれいに表示され、メニュー、画像、またはテキストの位置づれなどの問題が訂正されます。」

「従来のブラウザー向けに設計された Web サイト」だそうだ。 思わず苦笑しながら、「こういうことをやっていると、 そのうち嫌われるよ」と思いながら、今回のIE 対策は終了することにした。 「訴訟」を考えている方々もいるようだが、今後の行方に注目したい。


なぜ、いまだにこんなに多くのIEユーザがいるのか?  [12/10/2011]

私は、 Microsoft Windows を使ってはいるが、 場所と用途は限定されているので、 IE(Internet Explorer) はめったに使わない。 しかし、今年、ある別のサイトで、日本語のエンコーディングを ISO-2022-JP にしておいたら、 文字化けして読めない、という知らせをうけた。結局、結論は、 「IE を使っていると、 ISO-2022-JP でエンコードされたサイトは、読めないことがある」ということだ。 しかも、その挙動はバージョンによってことなる。 いろいろ調べてみた結果、どうやら Shift-JIS でエンコードすると、この種の文字化けは起きないようだ。 UTF-8 でも多分それほど大きな問題は起きない。結局、 そのサイトにあるすべてのページをShift-JIS でエンコードし直すはめになった。

問題は、ページのヘッダーに <meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=iso-2022-jp" /> と書いておいても、IE(バージョンによって)は、ディフォルトでこの日本語エンコーディングを使わない、という点だ。 これは、たとえて言えば、

「この後は、ドイツ語で話すからね。」と言って、
Thomas war rot.(トーマスは赤くなっていた。)
と言った時、
聞き手が勝手に、英語で解釈し、
「トーマス、戦争、腐敗」
と解釈して平然としているようなものだ。

つまり、あらかじめ決めておいたことを守らない、ということ。 その意味では、「赤信号が点灯したら停止、ということにしましょう。」と決めておいても、 その後で、赤信号が点灯しているのを見て、止まらないようなものなのだ。

では、なんで「このような仕様」の IE が、 特に日本でこんなに多く使われ続けているか、 というと、それには2つの理由があるように思える。 1つは、 IEMicrosoft Windows に標準で付いてくるブラウザで、 それに慣れてしまっているから、もう1つは、「ホームページを見るソフトは、どれでも同じ情報を同じように表示してくれる」 という思い込みだ。 実は、見る時に使うブラウザによって、見えるものが異なるのだ。 見る時に使う道具(メガネ、カメラ、天体望遠鏡、顕微鏡など)の性能によって、 見えるものが異なるのと同じだ。

よく起こりえるケースを想像してみよう。 パソコンを買いたい、と思った。お店に行くと圧倒的に多くのパソコンが、 Microsoft Windows を搭載している。 店員に尋ねると、 「Windows が使える方が便利ですよ」 とか言われて購入する。「ネットを見るには、このアイコンをクリックすればいいんです」 と言われ、以降は、「ネットを見る」=「このアイコン(IEのアイコン)をクリック」 という風に刷り込まれてしまう。これが第1のステップ。

このような「刷り込み」(imprinting) は、 Microsoft Windows に標準添付されている、 という条件から起きる。そして、特定のページが見られなくても、 「きっと、このサイトがおかしいんだ」と思って気にしない。 実は、日本の多くのサイトのコーディングをしている人達は、 さまざまな版の IE に対応するために、 かなり努力をしているのだが、そんなことを一般人は知らない。

「見る」という人間の行為は、「認識する」という行為と密接に結びついている。 「見えない物」は、認識が困難である。例えば、放射性核種は目に見えないので、 存在していても知覚できないのと同様だ。 その結果、 多くの IE のユーザにとって、 IE で見えないサイトは、存在しないのと同様となる。

第2のステップとして、「このアイコン(IEのアイコン)をクリック」 という行為は、慣習化される。「ネットを見る時は、このアイコンをクリック」 という規則が絶対化されてしまう。いったんこのような慣習化が行われると、 「人間は、社会行動上、保守的である」という傾向により、 ルーティーン化されたループから抜け出すことは困難になる。 たとえ Firefox とか、Chrom のようなブラウザが無料で入手できても、である。

いったん成立した慣習を抜け出して、新しいシステムに移行するためには、 大きなモティベーションが必要となる。 A ではなくて、B を選ぶ理由は、ことブラウザに関する限り、 現在の経済とスピードを最優先する社会では 「無料である」「処理速度が速い」 の2つが必須である。さらに、この危険に満ちた世の中、「安全性」 も重要だ。

しかし、IE ではなく、例えば Firefox に乗り換えてもらうために、 「無料で」、「処理速度が速く」、「安全」 という特徴だけでは(特に日本では)足りない気がする。 まず、ディスクトップ、あるいは、 パネルからIEのアイコンを消せるように(Windows動作上問題ない状態でIEの削除が可能なように)してもらう必要がある。 そうすることで、IEFirefox は、 やっと立場的には近いものになる。

ヨーロッパでは、IE が独占状態と認定され、 その結果「IEがはずされた」状態の Windows 7 が出荷された。(参照: Windows 7 to be shipped in Europe without Internet Explorer) その影響からか、IE の市場シェアは、 2010年12月の時点で、ヨーロッパではついに、Firefox に抜かれたというレポートもある。(参照: Firefox overtakes Internet Explorer in Europe in browser wars)

日本では、「コントロールパネル」- 「ソフトウエアのアンインストール」を見ても、 Windows 7では IE は出てこない。 「コントロール パネル」- 「プログラム」- [プログラムのアンインストール] - 「インストールされた更新プログラムを表示」と移動することで、 初めてインストールされた IE が見えて、アンインストールできるが、 ブラウザ自体が、 「その他のアプリにも埋め込み可能なコンポーネント」となっていて、 「レンダリングエンジン」として Windows のシステムで使用されているので、 新しい IE を削除しても、 古いバックアップされていたIE がかなりの時間をかけて復活するだけだ(例えば、IE 8 をアンインストールすると、IE 7が復活する)。

IEWindows システムから動作上問題なく簡単に削除できるようにならない限り、 日本では、IE のシェアがFirefoxChrom に抜かれることはない、と私は思っている。 さらに、横並び傾向の強い日本なので、いったん「みんなが使っている」という思い込み状況が成立してしまうと、 その中から抜け出すには、結局、第3の力(≒外圧)が必要となるのかもしれない。 やれやれ、いつものパターンですな。 私としては、IE が、ディフォルトでちゃんとヘッダの情報を読んで、 日本語の処理をしてくれれば、それでもいいのだが。

参考
「忍者アクセス解析」や「はてなカウンター」の2011年11月のデータを見ても、 いろいろなバージョンをトータルで見ると、依然としてIE のシェアは高い。
(株)サムライファクトリー【OS・ブラウザー国内シェア調査】11月 では、
IE 7, 8, 9 の合計だけで 54.76%だ (Internet Explorer 8:26.94%, Internet Explorer 9:15.96%, Internet Explorer 7:11.86%)。
一方、Firefox 7, 8 の合計でも 10.09%だ (Firefox 8:5.55%, Firefox 7:4.54%)
Safari:10.23%Chrome:10.07% は、それなりに健闘している。

はてなカウンター(2011年11月) では、
IE 7, 8, 9 の合計だけで 31.88%だ (InternetExplorer 7.0: 16.18%, InternetExplorer 8.0: 14.12%, InternetExplorer 9.0: 1.58%)。
一方、Firefox 7, 8 の合計でも 11.98%だ (Firefox 7.0.1: 6.09%, Firefox 8.0: 5.89%)。
こちらでも、Safari は健闘している。 Safari 534.51.22, 533.19.4, 533.22.3 の合計だけで 14.78%だ (Safari 534.51.22: 6.34%, 533.19.4:4.57%, 533.22.3: 3.87%)。
ChromeChrome 15 の3つのマイナーバージョンの合計だけで、 16.42%と、こちらも健闘している (Chrome 15.0.874.106: 7.77%, 15.0.874.121: 4.71%, 15.0.874.120: 3.94%)。

ただし、これらのデータは、利用者の人数を合計したものではない点には、 注意が必要だ。 あくまでも、アクセスログに残された記録を元に、 若干の制限を設けていても原則的には合計数をカウントしているだけなので、 途中でブラウザのバージョンアップをした利用者の場合は、 複数のブラウザの利用者の合計に反映されてしまっているはずだ。


『独検対策 2級新問題集』について  [11/23/2011]

2011年9月25日に、『独検対策 2級問題集』が発売になった。 もうすでに2ヵ月あまりの月日が経ったが、あまり広告も見かけない。 献本も遅れているので、なんとなく宙ぶらりんな感じで、 本日はドイツ語技能検定試験(独検) の試験日になってしまった。 そこで、区切りをつける意味でも、執筆者の一人として今回の問題集に対して一言感想を書いておくことにした。

今の独検2級が新設されたのは、2008年秋からで、今日(2011年11月23日)行われる試験を入れれば、合計7回行われたことになる。 準1級(旧2級)と3級の間に新設されたこの「2級」(以下、「新2級」と略)は、これまでになかった中級レベルということになっている。 今回出版された(2011年9月)『独検対策 2級新問題集』は、 2010年秋の試験までの5回の分を過去問題として取り入れて解説し、 独自の問題を加えたものだ。2011年春の問題も入手していたが、 これは、まだ郁文堂からの正式解説本が出る前には引用解説をしてはいけないことになっているので、使えなかった。

Heuschrecke

『独検対策 2級新問題集』は、2011年4月〜5月にかけて、 早朝の1時間をさき、基本的部分を集中的に執筆した。この時期は、 東日本大震災と福島原発事故の余波が日々押し寄せている最中で、 例文に地震とか原発が自然に入り込んでしまった(苦笑)。 一度は、出版社側から問題にされかけたが、 内容的には全く「特定の信条を押しつけるものではない」ので、 そのままとなった。たかが例文といっても後で変更するのは大変なので、ほっとした(全体でも、ごくわずかな数ですが)。

中級レベルの入り口、という雰囲気が新2級にはあるが、 当初予想していたように、なかなか問題を作るのが難しい。 過去問とにらめっこしながら、なるほど、このレベルか、と納得したものの、 実際に同種の問題を作るとなると、これが大変。 何しろ、現実に使われているドイツ語をそのまま持ってきてしまうと、 準1級や1級の問題になってしまう。もちろん、子供向けの本を使うと、 内容的にあまりにも幼稚なものになってしまう。 単文での問題は、なんとかなるが、なんといっても長文となると大変だった。

適当な素材を探し、難しいと思える表現をやさしくしてみたり、 部分的に難しい箇所を削除してみたりして設問を作ることになるが、 読み直してみると本文の中では、それほどきちんと説明がなされていなかったりして、 結局、さんざんいじくりまわした挙句にボツになったものもある。 聞き取りの問題などは、もうあきらめて、最初から自分で創作することになった。 新2級のレベルを考えて、表現を限定して書くのは難しい。

最終的には、実際の試験のレベルよりも、若干上を意識して問題を作成した。 これは、当然の成り行きだと思う。逆に「ちょっと下」を意識して作ってしまうと、 「こんなに簡単なんだ」という印象を与えてしまい、 実際に現実の問題と直面した時に困るのは目に見えている。 むしろ、「少し上」を意識していれば、実際の問題と直面した時に 「おっ、今回はやさしいぞ」と思えるはずで、それの方が好ましい。 作成した聞き取り問題などは、実際には、ちょっと長すぎるし、 難しすぎるかもしれない。繰り返し聞くことを意識して、 ネイティブと相談しながら、敢えてドイツ語のレベルを落とすことはしなかった。

独検問題集と関わり始めたのは、1997年の「旧2級」問題集からだが、 考えてみると随分と「労多くして損」なものに手を染めてしまったものだ、 と思う。一旦始めてしまうと、何年か経つと改訂をせざるを得ないし、 問題集につきものの誤植訂正や質問に対しての応対などがあり、 もうずーっと付き合わざるをえないからだ。 「もうやめます」とは簡単に言えないので、 新しい問題はかならずチェックして日頃から備えておかないと、改訂作業ができない。 これって、かなりの負担です。

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今回の「新2級」問題集は、「動詞+前置詞」の用例を112個付録(?)としてつけた。 それなりに厳選したつもりだが、まだまだ抜けているものもあるかもしれない(当初、合計数は109だった)。 ただ、形式的に「動詞+前置詞」の形を説明して和訳をあげるのではなく、 1つ1つの「動詞+前置詞」に例文をつけ、例文の和訳をつけた。 実は辞書に載っている例文でも、へんてこりんなものがあるので、極力、 自然に状況が分かるような単文を収集し、場合によっては修正し、 最終的にはネイティブからの意見を聞いて作成した。 最後に、CDにこれらの例文も発音してもらって収録したが、その段階でもボツになった例文もあり、 急遽差し替えたものもある。まだまだ、完全なものとは言い難いが、 その時点ではベストと思える選択をしたつもりだ。

なお、今回の新2級問題集のレイアウトは、シリーズの他の問題集と同じようにする、 ということで、こちらからは一切注文をつけていない。レイアウトは、 挿絵も含めて、すべて「おまかせ」だった。出版社の方や、 挿絵を描いて下さった方、印刷屋さんには改めて感謝したい。 毎回、本の出版に際して考えることだが、 1冊の本を作るというのは、さまざまな人間が関わった共同作業なので、 とにかく出版にまでこぎつけたというのは、すばらしいことだ。

今回の新2級問題集も、 これをきっかけに自分のドイツ語力のレベルアップをしてくれる人が1人でも増えてくれればいい、 と思って書いたものだ。 単なる「挨拶程度」の外国語力ではなく、 もっと踏み込んで中級レベルまで実力を上げてこそ、外国語学習の意味があるというものだ。 会話だけでなく、読解力もつけて欲しい、語彙力も上げて欲しい、 と教える側は願ってやまないのだが、こればかりは、 最終的には学習者の努力の問題だから、こちらからは素材を提供することしかできない。 基本は、もちろん「継続」にある。 「諦めることなく、こつこつと続ける」ことが、最終的には、その人の実力になる。


節電と『電力不足説』  [08/01/2011]

0. イントロ:「消費は美徳」な社会での「節電」
1. なぜ「消費は美徳」な社会で「節電」を呼びかけるのか?
1.1. 「電力不足説」とその反論
1.2. さらなる「電力不足説」
1.2.1. 第2回「エネルギー・環境会議」
1.2.2. 電力不足試算の前提条件
1.3. 「節電」しても儲かる電力会社?
2. どうしたらよいか?

0.  イントロ:「消費は美徳」な社会での「節電」
「福島第一原発大爆発」以来、東京電力管内では「原発が停止しているから電力不足だ」(=電力不足説)、だから、 「節電しないと、今年の夏は乗り切れない」という認識が広まり、あちこちで大規模に節電が実行されている。 電気使用制限等規則電気事業法第27条による電気の使用制限の発動 に基づき15%の節電を義務づけられている大企業だけでなく、 一般家庭でも節電をしようと呼びかけられ、実際にかなり実行されているように思う。

照明が減らされた東京都内のターミナル駅、ふだんから明るすぎると思っていたので、けっこういい感じになった。 駅のエスカレーターが間引き運転中で、それに伴ってあのうるさいエンドレステープも止められたのは、大変結構だ。 研究室の蛍光灯も、強制的に2本抜かれてしまったが、特に困る明るさではない。節電は、「無駄な電気を使わないようにする」 という観点からは、大賛成だ。ただし、私の場合は「原発が停止しているから」電力を節約しているのではない。ここが重要だ。

そもそも、資本主義社会では、「消費は美徳」という考え方が支配的だ。簡単に言ってしまえば、 消費者は、どんどん商品を購入し、生産者は、どんどん商品を生産する。それで、資本主義経済が回る。 消費者が商品を購入しなくなると、「消費が落ち込んだ」、「消費が冷え込んでいる」と言って、深刻な事態に陥っていると大騒ぎをする。 商品とここで呼んだものには、さまざまなものがあるが、「電気」も実は商品で、電力会社は「電気」という商品を売って儲けているはずだ。 そうすると、「節電」して、「電気が売れなくなる」と電力会社は困るはず。それにもかかわらず、 電力会社も政府もしきりに節約を呼びかけている。変ですねぇ。

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1.  なぜ「消費は美徳」な社会で「節電」を呼びかけるのか?

1.1.  「電力不足説」とその反論
1つは、「電力不足は、原発が止まっているから」、というキャンペーンをはることによって、 「やはり原発は必要だ」と思わせる必要があるから、という説明だ。その根拠として、一般的に通用しているのが、 「発電電力量の比率」で、原子力発電が、総発電電力量の29%にのぼる、という推計だ(例えば、環境エネルギー政策研究所 で公表されている各種データを参照)。

およそ30%電力量が減ったら大変だ、と思うのは直感的にアピールする。しかし、全発電設備の年間設備利用率を見ると、 2008年度では、48%にしかなっていない、という指摘がある(小出裕章 (2011) 『原発はいらない』幻冬舎ルネッサンス新書 044. pp.192-3)。 もう少し詳しくみると、水力の設備利用率は19%、火力の設備利用率は50%、原子力の設備利用率は61%、自家発電の設備利用率は50%、 となっている。原発はすぐに止められないので、利用率は比較的高めだが、ようするに稼働していない発電所がこんなにある、 ということだ。だから、原発を止めても、電力不足にはならない、という反論が出てくる。

「電力が足りなくなったら大変だ」、「大停電が起こったら大変だ」という発言も、どちらかというと、 一般化しすぎた感情に訴える言い方だ。そりゃあ、電力が足りなくなって停電になれば大変に決まっている。 じゃあどれだけ足りなくなるのか、といわれれば、供給量と需要量を比較することになる。 過去のデータでは、最大電力需要が発生するのは、真夏の数日間の午後、 数時間であると言われている。1990年代初頭には、火力発電と水力発電の発電量を上回る需要が、短期間あった(つまり、原発の発電が必要だった時期があった) とされている(小出裕章 (2011) 『原発はいらない』幻冬舎ルネッサンス新書 044. pp.194)。

以下に引用する長谷川 (2011:74)は、電力需要に関して、原発なしでも困らないという主張を、 電気事業連合会の資料をもとに展開している。

日本の過去最高の電力需要は、01年7月24日午後3時の1億8269万キロワットで、電力会社の団体の電気事業連合会(電事連)によると、 猛暑続きだった昨年夏でもこの記録は破られていない。
しかも、この電事連の統計を子細に眺めると、意外にも日本の電力需給は、今度の巨大地震で火力も被害を受けた東電管内を別とすれば、 原子力を除く既存の火力と水力発電だけで、電力消費の前出の過去最高を賄ってなお、若干ではあるがお釣りがくる数字となっている=右のチャート。 これに一般メーカーなどの自家発電を加えると、過去最高の需要を相当に上回る潤沢さだ(同)。原子力がないと電力需給はもたないという「通念」 は誤りである。
長谷川 熙「統計数字が告げる真実:原発全廃でも困らない」In 『原発と日本人:100人の証言』アエラ臨時増刊 No.22. 2011.5.15号, P.74.

1.2.  さらなる「電力不足説」登場

1.2.1.   第2回「エネルギー・環境会議」

では、今後はどうなるのか。2011年7月29日に開かれた第2回「エネルギー・環境会議」(議長・玄葉国家戦略相)では、 次のような予想が飛び出した。

 政府は29日の「エネルギー・環境会議」(議長・玄葉国家戦略相)で、東京電力福島第一原子力発電所事故を踏まえた「当面のエネルギー需給安定策」をまとめた。
 定期検査などで停止した原発の再稼働がなければ、今年冬、来年夏の電力不足が今夏以上に深刻になるとの試算を明らかにした。
 電力需給の試算によると、原発の再稼働がない場合、もともと原発のない沖縄を除く全国集計で、今年冬は電力需要のピークに対して0・7%(113万キロ・ワット)の供給力不足が生じる。 来年夏には9・2%(1656万キロ・ワット)に拡大する。 不足幅は関西電力(19・3%)、東電(13・4%)など4社で2ケタに達する。 火力発電をフル稼働させるための燃料費の増加幅は3兆円に上り、電力料金は平均2割上昇するとしている。
(2011年7月30日01時23分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110730-OYT1T00105.htm

このようなニュースは、これまでたびたび流れているが、その試算基準がマスコミではほとんど報道されない。 ここでは、「エネルギー・環境会議」が「当面のエネルギー需給安定策」をまとめた、となっているだけだ。 で、当の「エネルギー・環境会議」とは、 国家戦略室-政策-革新的エネルギー・環境戦略-エネルギー・環境会議 のことで、平成23年7月29日(金)12:15〜12:45 官邸2階小ホールで開かれたもの。 第2回 エネルギー・環境会議 に議事次第と資料がアップロードされている。 電力需給の試算は、この会議の資料として提出されており、来年夏、原発の再稼動がなければ、9.2%の供給力が不足するという試算は、 資料1-1に載っていることが分かる。

注目すべきは、資料1-1(39P.)、資料1-3(14P.)、資料1-3(1P.)、資料2-1(33P.)、資料2-2(25P.)、資料2-3(4P.)、資料3(1P.)の 7種類117ページの資料が出され、30分で終了している会議であるという点だ。 117ページの資料を30分で読む、そして、その内容を検討し審議した、ということらしい。 これは、1分間に3.9ページを処理する人間の能力を前提とする。目を通してみると分かるが、1分もかからずに読めるページもあるが、 きちんと理解して読むのには5分、10分かかるページもある。常識的に考えて、ありえない能力を前提としていることが分かる。

はたして、どのようなメンバーの人達が、この会議のメンバーなのか。 そもそも、「エネルギー・環境会議」のメンバーは、どのように決定されたのだろうか。 エネルギー・環境会議の開催について (平成23年6月7日、新成長戦略実現会議決定)となっているので、新成長戦略実現会議が決定したらしい。 メンバーは、この文書によると、9名(議長 国家戦略担当大臣、副議長 経済産業大臣、環境大臣、構成員 外務大臣、文部科学大臣、農林水産大臣、 国土交通大臣及び内閣府特命担当大臣(経済財政政策)、議長の指名する内閣官房副長官、事務局長 内閣府副大臣(国家戦略担当)) のようだ。

1.2.2.   電力不足試算の前提条件
試算の前提となる部分は、第2回 エネルギー・環境会議 資料1-1のP.16に、 以下のような註として記載されている。

※1:安定した電力供給のために最低限必要な供給予備率は3%(通常は8%以上)とされている。
※2:東北電力・東京電力管内の最大電力需要は、平成22年度夏ピーク(1日最大値)をベースに計上。 他の電力管内は平成22年度夏ピーク実績又は各社の平成23年度夏ピーク見通しのいずれか高い方で想定。 今年冬、来年夏の需給動向も同じ。 なお、今後の需要合理化のための対策については本文3.(1)[7~8ページ]参照。
※3:供給力については、平成23年7月27日時点の供給力見通しを計上。 なお、今後の供給のレビューについては、本文5.(2)[13ページ]参照。
※4:原子力については、定期検査後の原子力発電所が再起動しないものとして計上。
※5:自家発については、今夏は電力会社と契約済のものを計上。 なお、今後追加供給可能な自家発の扱いについては、本文3.(2)[10ページ、別添5]参照。
※6:緊急設置電源については、平成27年7月27日時点の見通しを計上。 なお、今後の扱いについては、本文3.(2)[9ページ]参照。
※7:揚水については、夜間電力によって水を汲み上げられる能力等を踏まえて計上。 なお、揚水の活用についての今後の扱いは、本文3.(2)[10ページ]参照。
※8:融通にはPPS(Power Producer & Supplier,大口需要家に小売を行う電気事業者)への供給が含まれるため、マイナスとなっている。

まず、(1) 供給予備率を3%とすること、(2) 東北電力・東京電力管内の需要は、平成22年度夏(1日最大値)をベースにしているが、 他の電力管内は、平成22年度夏ピーク実績又は各社の平成23年度夏ピーク見通しのいずれか高い方を想定、(3)供給力は、平成23年7月27日時点の供給力見通しを用い、 (4) 原発は定期検査後再起動しないものと仮定。(5)から(8)はここではとりあえず無視しておく。

(1) は常識的な線として想定できるとして、 (2) は、平成22年度夏(1日最大値)を東京電力管内の需要のベースとしているというのは、偏った結果を導く恐れがあるだろう。 平成22年度夏(2010年度夏)は、異常な暑さを記録した年であり、その夏の1日最大値を元にする、というのは、極端に多い時を基準にした、 ということで、現実的な試算をするなら少なくとも過去数年間の需要の最大値の平均を取るべきだと思う。 最悪の事態に備えるという姿勢は必要だが、 極端に悪い数値だけを用いるのではなく、いくつかの考えうるケースを想定し、並列して比較できる数値を出すべきだ。 また2011年の夏、つまり、今年の夏の電力需要は、「節電を法律を使ってまで実行した夏」であり、どのような結果になるかは、「見もの」である。 今年の夏の需要が、次年度にも影響を与える可能性があるかもしれない(「節電」に慣れてしまった人達や企業が現れる可能性も否定できない)。

供給面で、原発が動かないという想定をしたらどうなるか、というのが一番大きな争点なのだが、基準となっているのは、 「平成23年7月27日時点の供給力見通し」、つまり、今年の7月27日時点の供給力だという。この部分、ちょっと聞いただけだと納得してしまいそうだが、 上で述べたように、各発電の設備利用率を明示して予想すべきだろう。 つまり、実質的に、火力発電所、水力発電所、自家発電も、さまざまな状況で稼働していたり、 稼働していなかったりするわけで、来年(2012年)の夏の電力供給量を算定するなら、現状を踏まえて、どことどこが稼働可能なのか、ある程度は分かるはずだ。 上記のように2008年度では、「水力の設備利用率は19%、火力の設備利用率は50%、自家発電の設備利用率は50%」となっていたのを思い出して欲しい。 ここでも、2012年夏に、稼働率をどれだけ高めることができるかいくつかのケースに分けて算定すべきだ。

前提条件を冒頭に明確に説明して、いくつかのケースに分けて検討する、というのは、科学的な試算をする時の鉄則である。 どうも、各種委員会から出てくる報告が、試算の結論だけに的を絞っているように見えて(「最初に結論ありき」のような印象を与えて)、 はなはだ不満だ。

1.3.   「節電」しても儲かる電力会社?
きっかけは、2011年7月21日に放映された、テレビ朝日「モーニングバード」内の、[そもそも総研;電気料金のカラクリ](玉川徹氏担当)だった。 電気料金を算定する際に用いられている「総括原価方式」が、需給のバランスとは関係ないところで電力会社に利益をもたらしている、 という解説だった。さらに、原子力発電所をかかえる電力会社は、原価の中に、「原保守管理費、運転費用、従業員への給料」だけでなく、 「原子力発電所という固定資産、核燃料そのもの、使用済み核燃料×約3%(レートベース)」をも含めることができる。ということは、電力会社は、 原発を作れば作るだけ、固定資産は増えるので原価は上がり、運転するために核燃料を購入すれば、それも原価に入り、 運転してできた結果の使用済み核燃料も増えれば増えるほど、原価が増える。このように、原発を建設し、運転すれば自動的に原価がどんどん増えていく。 そして、さらに、 利益を上乗せして販売価格(この場合には、電気料金)を決定できる。

総括原価方式に関しては、よくわかる原子力 - 電力のコスト計算方式 にも分かりやすい説明がある。また、上記の番組は、2011年8月1日現在、YouTube の 「電気料金ボッタクリ方式」のカラクリ(前編)「電気料金ボッタクリ方式」のカラクリ(後編) で見ることができる。

需要と供給の関係で電力料金が決まらない(実は、ガス料金もそう)、ということは、 最初の問い<なぜ「消費は美徳」な社会で「節電」を呼びかけるのか?>に戻って考えると、 需要が減っても、ちゃんと利益が確保できるから、ということになる。「節電」を呼びかけて、電力需要が減っても、 (原発をやっていれば特に)利益はちゃんと得られる仕組みがあるのだ。

このような総括原価方式は、公共性の高いエネルギー供給会社の特殊性を考慮したものだが、原発の場合、 特に有利に働く。それは、長い間、国の政策として、原子力エネルギーを全面的にバックアップする、という姿勢から生まれたもので、 ここには、国と電力会社、さらには、原子力エネルギー研究者の三位一体となった体制が形作られ、推進されてきたという背景があるのは、 もうよく知られたことだ。

電力会社における総括原価方式を可能にしているのは、 電気事業法の、 第十九条二項一「料金が能率的な経営の下における適正な原価に適正な利潤を加えたものであること。」に加え、 一般電気事業供給約款料金算定規則 における電気料金の決定方式の中にある。こんなに多くのものを「原価」に加えることができるなんて、 にわかには信じ難い。

2.   どうしたらよいか?
「節電」しても(電力の需要が減っても)、減収とならない電力会社の構図が分かり、原発が止まっても、電力不足にはならない可能性が見えてくると、 当然、「節電なんかする必要があるのか?」という疑問が生じる。当然のことだ。 やけっぱちになって、「節電なんかするもんんか!」と叫びたくなる気持ちも分かる。

電力政策としては、1. 電力会社に適用されている総括原価方式の撤廃、 2. 発電と送電の分離、3. 電力供給側の独占体制を廃止する(電力の消費者が電力の供給会社を選べるようにする) という3点が緊急の課題となるだろう。同時に、総括原価方式ではない形で、エネルギーの公共性を担保する政策も必要になる。 これらの政策を早速検討し、実行してくれる政府ができあがることを期待している(なんとか大改革を実行して欲しい)。

電力は、現代社会を支える貴重なエネルギーであることは言うまでもない。 無尽蔵に存在するエネルギーではなく、エネルギー変換等の技術を使うことで作り出すことが必要なものだ。

つい最近まで(2011年3月11日以前)、電力会社はしきりに「オール電化の家」を売り込み、 「IH(induction heating)クッキング・ヒーター」(Induction cooker; Induktionskochfeld)という名の元に、「火」という危険なものを台所から排除するのに一生懸命だった。 「火」は、確かに扱い方を間違えると危険だが、IHクッキング・ヒーターなら100%安全か、といわれると、もちろんそんなことはない。 むしろ、今回の災害から明らかになったのは、1つのエネルギー(資源)だけにたよらない、という姿勢であるように思う。

そして、節電は、電力というエネルギーを無駄に使わない、という「生活の仕方」であり、歓迎すべきものだ。 ガスだろうと、石炭だろうと、エネルギー資源は有限であり、不必要だ(無駄だ)と判断できる場合には、積極的に使わない という姿勢が重要だ。もちろん、必要だと判断できる場合に使うのは当然だ。

原発とは関係なく、「資本主義経済における≪消費は美徳≫という原則」 とも関係なく、無駄は省くという人間らしい合理性に立脚して、節電をすべきだと思うのだが、いかが?


「ただちに安全上問題が生じるわけではない」なんてダメ!  [05/02,03/2011]

2011年3月11日14時46分頃、宮城県牡鹿半島東方130km、深さ24kmを震源とするマグニチュード9.0の「東日本大震災」が起こり、 地震、津波、そして福島第一原子力発電所の事故が日本列島を今日まで震撼させ続けている。この3月11日をもって、 どうやら日本は見えないところで大きく変わってしまったように思う。今日は、もう一方で変わらない一面に関して一言。

私の場合は、地震で甚大な被害を受けたわけではないが、それでも、震度5弱、あるいは、震度5強の地域だったため、多少の被災をした。 家の中のものは、本など棚にあるものはほとんど落下し、ガラスもかなり飛び散り、冷蔵庫の中のものは飛びだし、 デジタルテレビはひっくりかえった。実感的には、2分程度の大きな横揺れだったので、 重い本棚は10cm近く横ずれし、そのままでは元に戻すことができなかった。 近所では、瓦が落ちていたり、石塀が崩れているところもあった。

震災直後は、電気、水、ガソリンの確保が大きな問題だった。 ネット接続は、携帯を除いて2系統あったのだが、その内の1系統が不通になり、 ほぼ5年前に自作した Desktop computer は、原因不明の故障で動かなくなった。

ど田舎ではあるものの、停電は短時間ですみ、水は地下水利用だったため、 数日濁った程度で問題なく使えたのは不幸中の幸いだった。 ガソリンの調達には、10日程度苦労した。家の中の片付けに着手する気持ちはしばらくおこらなかったが、 テレビを見ながら、被災地の恐るべき状況とAC ジャパンのCMを呆然と2日間見続けてしまった。

被災地の映像、その後、福島第一原子力発電所の情報を見たいために、 テレビを見続けていたが、気がつくとAC ジャパン(旧:公共広告機構) の CM を「繰り返し」見させられ、 金子みすゞ原作の「こだまでしょうか」などには、かなりやられてしまった。 「絶え間ない繰り返し構造」によって、次第に思考停止状態に追い込まれていった。 枝野官房長官の会見を見ながら、原発の状況に関する情報の少なさには悲鳴をあげざるをえなかった。 そんな時、「こだまでしょうか」をもじった以下の作品は、なかなか心に響いた。

「大丈夫?」っていうと、「大丈夫」っていう。
「漏れてない?」っていうと、「漏れてない」っていう。
「安全?」っていうと、「安全」っていう。
そうして、あとでこわくなって、「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと、
「ちょっと漏れてる」っていう。
こだまでしょうか? いいえ、枝野です。
ACのCM「こだまでしょうか?」のパロディツイートまとめ」 seintoman, 2011-03-18 10:50:45 より。

十分な情報が得られない、というのは、このような災害の場合、恐怖心をあおる。 「恐ろしいデータを公表すると、一般人の心を乱す」とでも考えているのだろうが、 具体的データがない方が、より大きな恐怖心を引き起こすことをどうやら認識していないようだ。 例えば、2011年3月11日の放射線の未公開データを早く公にして欲しい。

仕事の合間に、以下の(1)から(3)までの本を読んだ。(4)は、注文したのだが、まだ手元に届いていない。

(1) 田中三彦 (1990/2011) 『原発はなぜ危険か ─ 元設計技師の証言 ─』岩波新書 102.
(2) 桜井 淳 (2011) 『新版 原発のどこが危険か:世界の事故と福島原発』朝日選書 876.
(3) 網渕輝幸 (2007) 『超臨界 爆発4秒前:ハイテク社会への警鐘』工学社
(4) 高木 仁三郎 (2000) 『原発事故はなぜくりかえすのか』 岩波新書 岩波新書 703.

(1)から(3)の本を読んだ限りにおいて、 どう考えても原子力発電所の安全性確保は技術的にあまりにも多くの現実的困難を抱えているだけでなく、 非常に多くの政治的・制度的・倫理的問題が背後にあることが分かる。なぜ、「原発は安全です」とか、 「原発はクリーンエネルギーです」と言い切れたのか、信じられない。 deus ex machina(究極解決の神) など実は存在しない。

1988年の「変流翼取り付けボルトひび割れ事件」における政府の会見では、以下のような説明がされたそうだ。

当該ボルトの損傷については、ただちに安全上問題が生じるわけではないが、念のため予防保全の観点から、 早期かつ計画的に当該ボルトの点検および取り替えを実施していくこととする。
田中三彦 (1990/2011), P.153

「ただちに安全上問題が生じるわけではない」という言葉は、2011年3月11日にも、 原子力安全・保安院が会見で 「福島第二原発の3基の原発は、いずれも外部に放射性物質が漏れるといった影響はなく、直ちに安全上の問題はない」 のように使われ、また、放射線量の発表の時にも再三にわたって「直ちに健康に影響が出る値ではない」という類似表現が使われた。

「ただちに…ではない」というのは、もちろん、「一定時間が経過すれば…する可能性がある」ということ。

「安全です!」と100回連呼したら、一時的な洗脳ができるかもしれない。 しかし「何かわけの分からない事態」が進行していることが明らかな時には、不安を取り除くことはできない。 福島第一原発の事故は、「わけの分からない状況」にあるので、「安全だ」と連呼するのではなく、 毎日、関係者は、正確な状況説明を行う義務があり、それをきちんとマスコミは報道する義務がある。 例えば、「今日の福島原発」のようなコーナーを作ってその日の情報を伝えるような努力をして欲しい。 福島原発のニュースのないニュースは、人々を不安におとしいれる。

御用学者ではない専門家のきちんとした説明も聞きたい。 例えば、YouTube に上がっている日本未発表 福島原発3号機はただの水素爆発ではない!ガンダーセン博士4/26 のようなものだ。(2011/05/03 追記)

「自分が住んでいる地域の放射線量が分からない」という状況にある人達は多い。 このような状況の元では、計測されている各地の詳細な放射線量を、関係機関は毎日発表すべきだろう。

と、2011年5月2日に書いたら、「緊急時迅速放射能影響予測システム」(SPEEDI) の未公開データが公開されるというニュースが2011年5月3日に流れた。 このデータは、予測される状況をシュミレーションしたものだが、ちゃんと公開されれば、一歩前進である。(2011/05/03 追記)

東日本大震災:福島第1原発事故 「放射能予測」を公表へ
細野豪志首相補佐官は2日の記者会見で、福島第1原発の格納容器を守るために実施した「ベント」で放出する際の放射性物質の拡散状況など、 今回の事故に関連した約5000枚のシミュレーション結果を公開する方針を明らかにした。 細野氏は先月25日の会見ですべて公開すると述べたが、今月1日夜、文部科学省から細野氏に大量の未公表の結果があると報告されたという。
ベントは、格納容器の爆発を防ぐため、弁を開放して圧力を下げる作業。 シミュレーションは、文科省が開発した「緊急時迅速放射能影響予測システム」(SPEEDI)で実施。 未公表分にはベント以外にも、原子炉内の放射性物質が全量放出された場合の結果などが含まれる。【河内敏康】
毎日新聞 2011年5月3日 東京朝刊

「安全だ」と<ただ繰り返す体質>から早く脱却してもらいたいと思う今日この頃だ。 ということで、私もまねしてへたなパロディーを1つ作ってみた。

「こんにちは」っていうと
 「こんにちは」っていう。
「どうも」っていうと
 「どうも」っていう。
「日本はひとつ?」ってきくと
 「日本はひとつ」っていう。
そうして、あとで不思議になって、
「日本はいくつ?」ってきくと
 「日本はいくつ」っていう。
こだまでしょうか、
 いいえ、思考停止です。


「頼むから、繰り返さないで!」 [03/07/2011]

0. イントロ:「繰り返し」
1. アナウンスの「繰り返し」
2. 中島義道氏の闘争
3. 言葉の軽視、空気の重視
4. 外国語が不得意な日本人
5. では、どうしたらよいか?

0.  イントロ:「繰り返し」
「日本のニュースは、なんでいつも同じニュースを繰り返しているんだ?」と、在日暦の長いドイツ人の友人に尋ねられたことがある。 その時は、さして気にしてもいなかったのだが、その後よく観察してみると、本当にその通りだということにしばらく前に気がついた。 気がついてみると、気になってしようがない。 NHK のニュースなどは、本当に繰り返しが多い。最初にヘッドラインを紹介し、そのニュースの場面では さっき言ったばかりのことを、また繰り返し、さらに最後に今日のニュースのまとめ、とか言って、また繰り返す。 私の知っている限りにおいて、アメリカ、イギリス、ドイツのテレビニュースでこんなに繰り返すのは見たことがない。

世の中、絶えず新しい出来事が起こっている。その「新しいこと」を知らせてくれるはずのニュースの中身が、 同じことの繰り返し、というのはいったい何なんだろう、と不思議に思っていた。それだけの時間があれば、 もっと多くのニュースを伝えられるのに、なぜそうしないのだろうか。民放のニュースも繰り返しという点では、 大差はないし、そもそも、ニュースの中身が表面的であまりにも薄い。気がつくと、はるかに多くの時間を芸能ニュースに使っている局もある。 もうテレビでニュースなんか見るな、という声もあるが、ニュース以外にテレビを見ようという動機はほとんどないので、どうしようもない。

うがった見方をすれば、日本のテレビ局は、そもそも、多くのニュースを報道しようという姿勢がない、 ということなのかもしれない(ニュース専門チャンネルとかいうのも、某民放で始まっているらしいが、未確認)。 ここには、視聴者が興味を持つだろうと一方的に考えたニュースをよりすぐって、それだけをリピートする、という構造があるように思える。

buddhist monk

一方、こんなに繰り返しをしているニュースに苛立ちを感じている人があまりいない、というのも驚きだ。 聞いていても聞いていないのかもしれない。繰り返し耳から入ってきている情報は、無視しているということだ。 そう考えると、実は根は深く、「繰り返し注意する」ようなやり方は、日本ではポピュラーな手法だが、 「繰り返すことは聞いてもらえられない」のかもしれない。

そこで、今回は、少し一般化して、
(1)「日本では、あらゆることを繰り返し訴えるという手法が一般的である。」
(2)「繰り返して言うことは聞いてもらえない。」
(3) 「従って、繰り返しの手法は無意味である。」
という主張に沿って「なぜ日本人学生は授業中に質問しないのか」という問題を中島義道氏の主張を交えて考えたい。

1.  アナウンスの「繰り返し」
私が利用する駅では、エスカレーター周辺で、次のようなアナウンスが流れている。 エンドレステープなので、最初から最後までアナウンスが流れると、 また最初に戻り、延々と繰り返す。以下では、文に番号をふって、その内容を示すことにする。

1. お子様づれの方は、手をつなぎ、ステップの中央にお乗せ下さい。
2. 雨の日は、足元がすべりやすいので、手摺につかまり、お足元に注意してお乗り下さい。
3. 乗り降りの際は、お足元にご注意下さい。
4. ベビー・カーをご利用のお客様は、危険ですので、エスカレーターにはお乗せにならないようにお願いします。
5. よい子の皆さん、手摺の外へ顔や手を出すと危険ですよ。
6. エスカレーターの近くでは遊ばないようにしましょう。
7. エスカレーターでのおタバコはご遠慮下さい。
8. エスカレーターをご利用の際は、手摺につかまり、黄色の線の内側にお乗り下さい。

毎日毎日、朝早く誰もいないころから、夜遅く誰もいないころまで、延々とこのメッセージは流されている。 「お子様づれ」でないエスカレーター利用者も、「良い子」でないエスカレーター利用者も、 毎日毎日これを聞かされる。そのうち、エスカレーター利用者は、この繰り返しにすっかり慣らされてしまい、 このアナウンスは物理的に聞こえているはずでも、意識にはのぼらずに聞こえなくなっていく。

このような場面では、 「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食せどもその味を知らず」(礼記)という認知的原理が働いてしまう。 「聴けども聞こえず」という状態が作り出されるのだ。

それにもかかわらず、このアナウンスを流し続ける意味はどこにあるかといえば、 アメリカ等で広く見られる訴訟対策である、と言えるかもしれない。 万が一、エスカレーターで子供の事故が起きた時、エスカレーターを運用する側では、 「ちゃんと危険性を喚起する努力をしていた」と言えるように備えている、ということだ。 あらゆる訴訟に備えてこのような防衛線をはるというのは、しょせん無理な話である。 おもちゃ1つを売るのに、子供がやりそうな無謀な行為を思いつくだけすべて列挙し、 「〜させないように注意しましょう」と呼びかけても、子供の想像力(?)にはかなわない。 「食べるな」、「飲むな」、「なめるな」、「蹴るな」、「叩くな」…、いくらでも禁止用語が飛び出してくる。

エスカレーターのこのようなアナウンスが、その内容にそった効果をあげているか、と問われれば、 はなはだ疑わしい。上記のアナウンスが流れていても、どれくらいの親子連れが自分の子供と「手をつなぎ」 子供を「ステップの中央に乗せ」ているだろうか? エスカレーターを利用する時に、どれくらいの人が 「黄色の線の内側に乗」っているだろうか? 子供たちに対して、「よい子の皆さん」と呼びかけるのは、 あまりにも偽善的だが、子供たちがこのメッセージを聞いて、果たして「手摺の外へ顔や手を出す」ことをやめるだろうか?

アナウンスだけの話ではないのだが、声やポスターの標語の指示というのは、 その背後にいる人間を隠している。つまり、「誰が(責任をもって)そのように言っているのか」が分からない。 そうすると、その分、「無視できる存在」に格下げされてしまう。 面と向かって、駅長が出てきて、エスカレーターに乗りながらタバコをすっている人に向かって、 「エスカレーターでのおタバコはご遠慮下さい。」と言えば、それなりの効果はあるが、 エンドレステープで繰り返されたら、それは、効果を著しく失うのだ。やがて「空気」のような存在になり、 完全に無意味になっていく。

2.  中島義道氏の闘争
私は、無意味なエンドレステープに頭にきながらも、そのようなアナウンスに遭遇すると、 ひたすら意識をずらし、聞こえない状態に持っていくようにして自己防衛をしてきた。 しかし、中島義道 (2000)『うるさい日本の私』新潮文庫(な-33-1)を読んで、世の中には「日本のアナウンス公害」 と戦う人がいたことを知り、感心した。中島義道を「戦う大学教授」と紹介するまではまだしも、 同書を「怪書」としている同書の裏面の紹介の仕方には疑問を感じる。 数多くの実例と抗議記録を含む同書は、良書であり、以下に述べるように、 中学校の国語の教科書に採用する価値すらあると私は思っている。

公共交通機関やデパートや一般商店にいたるまで、日本はまさに「音の洪水」の中にある。 ドイツやオーストリアなどで暮らしたことがある多くの人は、街の静かさを実感し、 日本に帰ってきてから音の洪水にさらされ、ノイローゼになってしまう人もいる。 中島義道氏は、このような暴力的な音の発信に断固として戦いを挑んでいる。私のように、自分の殼に閉じこもることで、 音を遮断するのではなく、抗議に出向き、音を出すのを止めさせようと日夜奮闘しているのだ(もっとも、この本が書かれたのはだいぶ前なので、 現在でも奮闘されているのかどうかは知らない)。

中島義道氏は、『うるさい日本の私』の中で、鈴木孝夫『ことばの人間学』を引用しながら、次のように述べている。

この国では「実効を直接期待しない」言葉がいたるところでカラ回りしており、みな「口が酸っぱくなるほど」 言われても、なんの被害者意識もない。紋切型の言葉が機械的に放出されつづけ、それがいかなる効果をもつか、 だれも真剣に考えないのだ。
引用:中島義道 (2000)『うるさい日本の私』P.19.

「紋切型の言葉」を繰り返し聞かされ続けると、すでに述べたように、人間は言葉の意味を理解しなくなっていく。 これは、公害である。言葉の意味が分からなくなって、聞き流すようになるということは、 聞いている言葉の意味を理解しない、ということであり、言葉を軽視してかまわない、という態度と直結していく。

3.  言葉の軽視、空気の重視
人はなぜ、特定の言葉を繰り返すのか? 1つには、自分の言いたいことが伝わらないと困るから、 また1つには、強調したいからかも知れない。最近では、「それ以外の言葉を知らないから」という理由もあるかもしれない。

ここで問題にしたいのは、「紋切型の言葉」の繰り返しによる言葉の麻痺状態である。 これは、日本の場合、公共交通機関を初め、多くの店で流されているエンドレステープによって、加速されている。 それだけではない。ついつい、何も考えずに同じ言葉だけでコミュニケーションできていると錯覚する言語習慣も背後にある。

言葉の軽視は、現代のマルチメディア技術のめざましい発展と共に、残念ながら加速されているように思える。 「おい、おまえ少しは空気読めよ」などと発言しているのを聞くと、愕然とする。 他人に空気を読むことを強要する前に、自分で主張したいことをきちんと言語化して相手に伝える、 ということが基本のはずなのに、これができない人達がいる。

言葉の軽視は、さらに「言葉にして伝えていることを率直に理解しようとしない」人達を生む。 「あんなことを言っていても、どうせ本心は違うんだ」という考え方で、言語不信が根底に出来上がってしまう。

中島義道氏は、『うるさい日本の私』の中で「子どもに『語らせない』先生たち」を話題にしているが(P.226ff.)、 そこには「先生たち」の言葉の軽視と、子ども達の言葉の不信が隠されている。

まずは「先生」の側から話そう。中島義道氏によれば、日本では「何でも質問しなさい」と言っておきながら、 対話(Dialog)とは何かを知らないがために、結局のところ質問させない「先生」が多い。そうすると、子ども達は、 本当に、「何でも質問していいですよ」と本心から対話を促進しようとしている「先生」がいても、信じられずに黙ってしまう。 これは、言葉の意味を理解できず、言語行為ができない人間を作り出してしまう。

まずは、中島義道氏は、「われわれは小学校入学以来、いやもっと前から真の意味で『語る』ということを完全に剥奪されている」(P.226) と主張する。その際、「語る」とはおおよそ「対話」のことであり、この原則を(多くの日本人は)押しつぶそうとしている、 と説明している。少し長くなるが、以下に該当箇所を引用する。

[...]私が「語る」というとき、それは言葉を発するという意味より狭い意味で使っている。 西洋哲学において「対話」(ディアローグ)という言葉が指し示すものに近い。 つまり、どこまでも一対一の関係であり、個人がそのつど特定の相手に「語る」というかたちを意味している。 そこにいかに大勢人がいても、このかたちは基本的に維持される。 場合によっては A はそこにいる100人すべてに話しかける場面があるかもしれない。 しかし、それを受けて、BはまさにA個人に対して「それはおかしい」と発言できなくてはならない。
  だが、こうした「対話」の原則をこの国ではよってたかって押しつぶそうとする。 その暴力はいくら強調してもしすぎることはない。 たとえば、「何でも質問しなさい」と言いながら、 おおかたの先生は発せられる 特定の子 A の質問であることを認めようとしない。 そこに自分とAとの一対一の場が開かれるこを認めようとしないのである。
引用:中島義道 (2000)『うるさい日本の私』P.226f.(原文傍点箇所は、下線に変換。)

質問をしたら、「そんなこと、さっき説明したじゃないか。聞いていなかったのか!」とどなられた経験がある人が日本には多くいるのではないだろうか。 「…の説明がわからなかったんですけれど、○×△というのは、結局、◇×○ということなんでしょうか?」 なんていう質問をすると、「さっき説明した通りなんだけど、個人的な質問は後にして。」なんて言われたことはないだろうか。 私にも、そんなことを言われた経験がある。

そもそも、先生がこのような態度をとっていたら、一対一の関係としての対話は成立しない。「何でも質問していいですよ」とい言ったら、 どんな質問にも、大勢の前で正々堂々と一対一で答える義務がある。一対一の質疑応答が大勢の前で行われることは、 ごく普通の光景であり、排除してはならない。これは、いわゆる欧米社会での常識である。 でも、日本の「先生」達の中には、このような質疑応答を徹底的に避ける人達が残念ながら存在し、 それが、身にしみこんでしまった人達が多くいるのではないだろうか。 そのあたりの説明を再度、中島義道 (2000)から引用しておく。

  教室における質問とは、質問してよいとき、質問してよい内容、質問してよい方法……などかずかずの基準をクリアしたものでなければならない。 だから、多くの子どもはそれを考えると質問できなくなるのである。 いや、さらに強力な口ふさぎがある。質問は「みんなのことを配慮した」質問でなければならない。 自分勝手な「質問」はご法度(はっと)なのである。 いや、さらにまだある。 はじめのうちはニコニコ聞いている先生も、ある子が「でも、先生……」「まだわからない、先生……」としつこくすがりつくことを嫌う。 教室という場でだれも質問を独り占めにしてはいけない。それは「わがまま」なのである。
  とすると、「何でも質問しなさい」という言葉がじつは大ウソであることを子どもたちは次第に全身で見抜いてゆく。 そして、子どもたちは知らず知らずのうちに、むしろ「語らないほうが得」であることを学んでゆくのである。
引用:中島義道 (2000)『うるさい日本の私』P.227.(原文傍点箇所は、下線に変換。)

かくして、「語らない日本人」、「空気を読むことに集中する日本人」、「授業中に質問をしない学生」が生産される。

4.  外国語が不得意な日本人
「語らない日本人」は、外国語を学んでも、話せない。自分から、自分で思ったことを発信しようとしても、 「空気を読むこと」から始めてしまうからである。「間違えたら恥ずかしい」という意識も、 「他人から見られる」という2次的な側面に意識が向かう結果である。 「言いたいことがあったら、発言する」という基本的な態度が、日本ではあまりにも強く抑制されてしまうのだ。

当然ながら、「言いたいことがあったら、発言する」ことができない社会では、民主主義は育たない。 「質問とは、質問してよいとき、質問してよい内容、質問してよい方法……などかずかずの基準をクリアしたものでなければならない」 などと考えていたら、質問はできない。「質問」を「発言」に置き換えてみると、 「発言とは、発言してよいとき、発言してよい内容、発言してよい方法……などかずかずの基準をクリアしたものでなければならない」 となり、日本の日常的な状況になる。いやあ、息苦しい社会だ。

このような状況の元で、小学校から英語を教えても、英語を話せる日本人を作り出すことはできない。 いや、英語だけではない。どんな外国語でも、話せるようにはならないだろう。

5.  では、どうしたらよいか?
最初に戻って考えてみると、まずは、「紋切り型」の言葉しか使わない、「紋切り型」の言葉を繰り返すだけ、 という習慣を改める必要がある。公共空間での「紋切り型」のエンドレステープも、その効果は極めて疑わしいので、 止めてもらおう。テレビでの「繰り返しニュース」もやめてもらいたい。途中からニュースを見た人にも分かるように、 というような「おせっかい」発想は不要である。

家庭で、そして、幼稚園から大学院まで、質問を受ける側は、質問をはぐらかさず、たとえ周囲にどれだけの人がいようとも、 一対一の受け答えを誠意をもって行うべきである。くれぐれも、子ども・生徒・学生に「空気を読む」ことを強勢してはならない。 「空気を読む」前に、「自分で考えていることをきちんと人前で表現する」ことを学んでもらうことがまず必要である。

解決策は、かくも簡単に表現できるが、どっぷりとこのような言語習慣に浸かっている現代日本社会。 そう簡単には、直りそうもない。「空気を読めないから」といって馬鹿にされたり、のけ者にされるような社会は不健全である。 正々堂々と意見を言える人を、もっと育てなければならない。意見を言う人を迫害してはならない。

幸いなことに、自分の回りのアカデミックな社会では、このような障害となるような「数々の基準」は無い。 問題は、外から入ってきた人達に、そのような「自由な発言の場がある」ことを理解させるのが大変なことだ。 「質問ありませんか?」と言ったら、文字通り、「質問があったら遠慮なく尋ねて下さい」という意味なのに、 そのあたりまえのことに彼らが慣れるのには、かなりの時間がかかる。 まったく、なんでこんな社会なんだ、と時々真剣に思い悩んでしまう。


謎解きは科学者への第一歩 -- 謎の紙袋 --  [01/10/2011]

昨年の年末、地元の本屋で、遠藤秀紀著『ニワトリ:愛を独り占めにした鳥』(光文社新書 445)を購入した時のこと。 「カバーをかけましょうか?」と問われたので、「あっ、そのままでいいです」と答えた。ドイツだったら、 さしずめ Geht so. というのに相当するなあと思っていると、本屋の店員は、 がさがさとレジの下の方から、再生紙から作ったような紙袋を出し、その中に本をポイと放り込んで、 セロテープでとめて、こちらに手渡してきた。ドイツなら、いったん Geht so. と言ったら、 もう本にレシートを挟んでそのまま差し出してくるのに(東京の一部の駅の本屋でも、最近はこのスタイル)。 紙袋なんていらないよ、と心の中で思いながら、その紙袋を見て唖然としてしまった。そこには、 意味不明な以下のような英文が並んでいた…。

[cited from a paper bag shown in the following picture; Japanese English?]
Empty is run about freely.
Flying, will drink water, it will have a meal,
or a swallow will be made anything in the air.

なにやら鳥が飛んでいる絵がついているのだが、まったく理解不能におちいり、 思わず本屋の主人らしき人に尋ねてしまった。「この英語って変ですよね?」

Empty is run about freely???

「えっ? 売っていたものを買ってきただけなので…。」という気のない返事。 あまり気にしていない様子だ。私が店長だったら、こんなわけのわからないめちゃくちゃ英語が書いてある袋は絶対に買わない。 お店で使う袋を専門に販売している店が実は存在し(以前、偶然入ったことがある)、そこには、 不思議な言葉が書かれた袋が大量に売られているのだ。

しかし、いったん、この謎の「英語もどき」をつきつけられたら、つい謎解きを始めてしまう。 そもそも、謎解きは科学者への第一歩、なんてね。そもそも、この文の書き手は誰なのか、 いったい何を意味して書かれたものなのか、なぜこのような形態になっているのか、謎が謎を呼ぶではないか。 年末の超多忙な時期に、逃避的にいろいろ考え、一応の結論に達したので、紹介することにした。 あくまでも憶測であり、まあ、新年のちょっとした冗談ということで。

直訳してみても、「からっぽが自由に走り回られている」なんて言うのはわけがわからない。禅問答か、 と思い、「空」が「走り回られている」というのは、何かの仏典に依拠する奥深い言葉かもしれない、 と考えた時に、「空(くう)」= empty と考えているのではない、と気がついた。 「空(そら)」= sky なのだ。この文の書き手は、実は、 empty ではなく、 sky について語りたかったのだ。 日本語での「空」という漢字は、中国から輸入された時に、どうやら「そら」(=sky)という言葉とくっつけられ、 「からっぽ」(=empty)という意味と「そら」(=sky)という意味を獲得したらしい。

そうすると、最初の行は、だいたい想像できることになった。つまり、 The sky is --- freely. なのだから、おそらく言いたかったことは、 「空は自由に飛び回れるよね」なのだ。私なら、 In the sky you can fly freely anywhere, とかするだろう。

2行目の解読に関して、私の取った戦略は(おおげさ)、率直に漢字に直してみることだった。 一見、英文として文法的にそれほど間違っていないように見えて(もちろん、最初の will の前に主語がないが)、 英語の論理で読むのをやめて、日本語としてテキトーに訳してみると、例えば: 「飛んで、水を飲んで、食べる」となる。前の文につなげると、 fly, drink water and eat, とすれば、前の文の In the sky you can ... につながる。 (鳥が話題なら、 eat ではなく、 feed だが、ここでは、主語を you として総称的に扱うことで、わざと「人間」が主語にくる解釈にした。)

3行目の or a swallow will be made anything in the air. は、 当初、「あるいは、ツバメは空中で何にでもなるだろう。」と考えてしまったが、 前の2つの文の解釈からすると、 swallow は、「飲み込むこと」と考えられそうだ。 そうすると、anything が浮いてしまうが、おそらく、筆者にとっては、 「空では、何でも飲み込めるだろう」と言いたいのではないか、つまり、なぜか swallow の目的語が、どうやら anything なのだ。ここまでをまとめると、次のようになる。

[English version]
In the sky you can fly freely anywhere,
fly, drink water and eat,
or swallow anything you like.
【日本語版】
空は自由に飛べるんだ。
飛んで、水を飲んで、食べる、
飲み込むのは空中でもできるんだ。

これでおしまい、と思ったが、「やっぱりこの絵、ツバメじゃない?」と言われてしまうと小々困る。 「ツバメにしては太り過ぎているし、これって、ハトじゃない?」と言って逃げることにした。

さて、この文の書き手は誰なのか、いったい何を意味して書かれたものなのか、なぜこのような形態になっているのか。

最初の可能性は、英語を学び始めて1年目の中学生が、鳥の絵を見せられて、何でもいいからこれに合った英文を書け、 と言われて書いたというもの。発想的には、小学生と言ってもいいかもしれない。「空(そら)の自由を謳歌した」作品。

2番目の可能性は、学校時代にろくに英語をやってこなかった中年のおじさん(あるいは、おばさん)が、和英辞書を片手に絵を見て英文をでっちあげた、 というもの。「必要に迫られて、でっちあげた」作品。

3番目の可能性は、(実は私が無知で、)これはある仏教の教えを説いたものを、ある人が無理やり英語に訳した、というもの。 世の中、すべて「空(くう)」 empty であることを述べた教え、とか。 この解釈が成り立つ可能性は一番低いだろうが、実は一番おもしろい。ツバメはいったい何を象徴しているのか、 なんて問われたら哲学者や文学者に登場願うしかない。最初に、この英文を読んだ時のショックは、 この解釈に関係するのかもしれない。

「またまた、ひまな学者が重箱の隅をつっついている」なんて言われそうなので、ひまではない真面目な研究者は、そろそろ退散。


赤ん坊は哲学者? -- Gopnik (2010) を読んで --  [09/27/2010]

突然9月23日になって、夏が終わっていることに気がつかされた2010年。猛暑の中で読んだ本の中で記憶に残るのは、 Gopnik, Alison (2010) The Philosophical Baby: What Children's Minds Tell Us About Truth, Love, and the Meaning of Life. New York: Picador. だ。幼児の言語習得に関する一般書(ポピュラー・サイエンス物)だが、 簡潔で分かりやすく、さらに、問題の本質をそらさない筆者の意気込みが伝わってくる良書だ。

baby

「簡潔で分かりやすい」というと、外山滋比古『読みの整理学』の言葉では 「既知を読む」アルファ読みに分類されてしまうが、簡潔に読みやすく書かれているということが、 すなわち「既知のことが書かれている」ということにはならない。 実際、Gopnik, Alison (2010) は、簡潔な言葉で書かれていても 内容がヘビーなので、しばしば考えさせられ、この手の本では私にとってめずらしく、読破するのに10日もかかってしまった。

この本の主要な論点は、「日経サイエンス」2010年10月号に 「子どもの意外な"能力"」(PP.48-54)というタイトルで日本語で紹介されているが、 こちらはあまり面白くなかった(もちろん、内容を知っていたからでもあるが)。なぜだろう、と考えてみると、 Gopnik, Alison (2010) The Philosophical Baby. の方が情報量が多いし、 私的なエピソードも豊富にちりばめられているということもあるが、書き方の差も大きい。 SCIENTIFIC AMERICAN, July 2010 に掲載された原文 How Babies Think を読んでいないので、 正確なところは分からないが、いわゆる科学論文の体裁に近いのが、SCIENTIFIC AMERICAN のもので、 読者に語りかけることを意識して書かれた The Philosophical Baby とは明らかに違う。

筆者 Alison Gopnik は、University of California, Berkeley の心理学の教授(日経サイエンスでは、哲学の客員教授でもあるとしている)。心理学と哲学の両面から幼児を科学的研究の対象とすると何が見えてくるか、 というのが一番の中心なのだが、誤解を恐れずに本書の一番インパクトのある主張を一言で言ってしまえば、 <これまで未発達な存在としか見られてこなかった幼児が、 実に多くの能力を持っており、その内のいくつかの能力は大人の能力さえ超えており>、 <そこには、「人間とは何か」という問いを、幼児の観察・研究を通じてあらたに問うことができる問題が隠されている>という点だろう。 大人の延長として幼児を見てしまうから、大人よりもはるかに劣った存在として幼児が見えてしまう。 実は、幼児は別の存在なのだ、と言ってしまうと、これまでとは全く違った存在が見えてくる。

baby というと、a very young child who cannot walk and talk という年齢を思い浮かべるが、この本では3歳以下の子に対して、baby を使い、5歳までの子を考察の対象としている(ibid. P.5)。以下では、単に「幼児」という語を使う。】

さわりの部分だけを紹介しておくと、第1章は、なんと「可能世界」(Possible Worlds)から始まる。 いきなり最初の文で、「人間は、現実の世界に生きているのではない。」(Human beings don't live in the real world.) と先制パンチを食らわされてしまう。そもそも、幼児は「今」(now)と「ここ」(here) に限定された部分しか認識できないというのが、フロイトやピアジェ流の考え方だったが、認知科学の発展とともに、 幼児の認識が「今」と「ここ」に限定されていないことが分かってきた。つまり、幼児も「可能世界」に生きているというのだ。

「可能世界」、またの名を「反事実条件文」(counterfactuals)。 Alison Gopnik は、さらに counterfactualswoulda-coulda-shouldas of life とも説明している(「もしこうだったら、ああだったらと考えてしまう人生」)。

【この woulda-coulda-shoulda というのは、woulda (= would have), coulda (= could have), soulda (= sould have) から来ている「視覚方言」。「あの時、〜だったらよかったのに」という時に、 If X would/could/should have Past-Participle という形を使うところから来ている。 実際に、Freeman, Arthur (1990)  Woulda, Coulda, Shoulda: Overcoming Regrets, Mistakes, and Missed Opportunities. Harper Paperbacks. なんていう本も出ているので、それなりに定着している表現らしい。】

「可能世界」を考えるというのは、alternatives を考えること、と言い換えることができる。 過去を対象にすれば、「あの時、××していたなら」となるし、現在や未来を対象にすれば、「もし、××したとすると」 という別の選択肢、すなわち、別の世界を考えることになる。こういった言語能力は、人間固有のものかもしれない。 因果関係の理解にも、「可能世界」の認識が大きく関わっていると考えることができる。

どのような実験をして、例えば 18ヵ月の幼児がこのような「可能世界」にアクセスできる能力を持っていると確信できるかは、 本を読んで頂くということで、ここでは省略。

とにかく 幼児はこれまで一般に考えられてきた以上に高い能力を持つが、大人が持つとされる autobiographical memory , executive control , inner observer (の能力)には欠けているという。 他方では、幼児は、大人よりも明らかに柔軟で大胆な想像力などを持ち合わせている。 そうすると、人間の知的能力の成長は、あたかも(イモムシが蝶に変わるような)変態と同じように、 幼児期と大人では大きくその構造が変っているのではないか、と考えられなくもない。

Alison Gopnik から離れて、想像をたくましくすれば、 言語発達も、幼児期を牽引する原理と、その後、成人期へ近づく段階で作用する原理は異なっているのではないか、 なんて考えてしまう。2段階とは限らないのだが、幾つかの段階で違った原理が働いていて、 時期が変わると、以前とは正反対の原理が働く、なんていう可能性もあるかもしれない。 Alison Gopnik が、本書の中で繰り返し 「幼児であることというのは、どんなものなのだろう」と問うている。 大人である自分が、幼児になってみたら、いったい世界はどんな風に見えるのだろう、 自分自身をどんな風に見なしているのだろう。本書の表紙の赤ん坊の顔を見ると、 その目の表情の裏に「理解可能/不能な知的存在」を感じてしまう。従来の哲学的問題が、 幼児の知的存在と発達を考慮することで、これまでとは違った問題として浮かび上がってくるというのも、 本書の魅力の1つだ。


Die Welle と日本の教育  [08/11/2010]

0. イントロ
1. Die Welle (映画版)とその起源
2. Die Welle (2008)の面白さ
3. 現代社会で独裁は可能か?
4.Die Welle は日本の教育?
5. 感想

0.  イントロ
「08年ドイツ国内映画興行成績第1位!! 本国で240万人が熱狂! サンダンス映画祭で絶賛!」 という売り込み文句の映画 The Wave(2008)のDVDを、先日購入して鑑賞した。 2009年11月14日から、日本でもロードショーになっていたが、そのころ映画館へ足を運ぶ時間はなかった。 DVDジャケットの裏側には、次のような一節がある。

√ あなたも洗脳される!!
洗脳のルール
ルール1 先生には"様"をつける
ルール2 許可なく発言しない
ルール3 仲間は助け合う
ルール4 白シャツを着る
ヒトラーの独裁制は、現代でも簡単に繰り返される。

この「洗脳のルール」を読んで、「おや?」と思う人は多いと思う。 そう、日本ではけっこう普通の光景だからだ。 「白いワイシャツを着て」、「質問する時には手を挙げて、先生にさされたら立ち上がって発言し」、 「先生のことは○○先生」と呼ぶ、というのは、私も中学校、高校の頃に経験した。誰か一人が間違ったことをすると、 「連帯責任だ!」と言われて、全員が怒られる。 おそらく、2010年の時点でも、多くの日本の中学校や高校で似たような光景が見られるのではないか。 これは、果たして「洗脳のルール」なのだろうか、というのが今回のテーマ。

1.  Die Welle (映画版)とその起源
まずはこの映画のベーシックな情報を押さえておく。
Die Welle、 公開:2008年3月、 監督:Dennis Gansel、 脚本:Dennis Gansel, Peter Thorwarth、 制作:Christian Becker、 原作:Morton Rhue、 主演: Jürgen Vogel(Rainer Wenger)、 言語:ドイツ語、107分。
日本における DVD発売元: アットエンタテインメント(株)、3,264円。 日本における DVDのタイトルは、英語で The Wave

Die Welle/The Wave

「制御不能!! たった5日間で高校生を洗脳した心理実験」「実話に基づく驚愕のシチュエーション・ムービー」という触れ込みだ。 では実話はどうだったのか、というと実はあまりはっきりとした記録は残っていないようなのだが、カリフォルニアのPalo Alto にあるCubberley High Schoolで、 1967年4月第一週に、当時歴史の先生だった Ron Jones が行った The Third Wave という実験授業に基づくと言われている(英語のWikipedia "The Third Wave" による)。

1981年10月4日には、Johnny Dawkins によって TV Special 化されたが、 これは、YouTube上で、The Wave を検索語として与えれば、見ることができる。 ぶ厚いテレビにナチスドイツの姿が映し出され、スーツを着たスマートな歴史の先生が登場する。

1981年には、このテレビドラマ(teleplay)を元に、Morton Rhueにより小説化されて出版されている。Morton Rhue は、ペンネームで、Todd Strasserというのが著者の名前。 1981年に、Massachusetts Book Award for Children's/Young Adult literature という賞も取っている。 私が入手したのは、2005年3月のNew Laurel-Leaf Edition で、こちらでは、著者名は、Todd Strasser となっている(ISBN 0-440-99371-7, US $6.50 のペーパーバック)。

2008年のドイツ語の映画の脚本を元に小説化されたのが、Kerstin WinterDie Welle. これは、2008年にRavensburger Buchverlag から出版されている(ISBN 978-3-473-58283-9, €[D] 6,95 のペーパーバック)。

ということで、ややこしいのだが、年代順に並べると:
1967年4月: 実際の実験授業。 Ron Jonesによる。 The Third Wave
1981年:テレビドラマ。 Johnny Dawkinsによる。 The Wave
1981年:テレビドラマの小説化 Morton Rhue(Todd Strasser)による。 The Wave
2008年:映画化。監督:Dennis Gansel、脚本:Dennis Gansel, Peter ThorwarthDie Welle
2008年:映画の小説化 Kerstin Winterによる。Die Welle

2.   Die Welle (2008)の面白さ
テレビドラマは1981年だが、27年後の世界が舞台となる映画版は、舞台は2008年、ネットと携帯が普及した世界だ。 学校(Marie-Curie-Gymnasium)での風景というと、 さまざまな背景を背負った生徒が、教室にいるという現代的なイメージを演出している。 実際に、トルコ系の Sinan、東独出身の Kevin、 落ちこぼれ的なアウトサイダーで次第に die Welle にはまっていく Tim、 スポーツマンだが、スポーツ以外にはあまり興味のない MarcoPartykid Kaschi、何でもぶち壊してしまいそうな破壊屋の Bomber、 そして die Welle の問題点に気づき反対運動に走る KaroMona など。

3つの原則は、「規律による力」 (Macht durch Diszplin)、 「共同体による力」 (Macht durch Gemeinschaft)「行動による力」 (Macht durch Handeln) で、この3つの力を制御することでグループをまとめあげることができることを Rainer Wenger 先生は示すことになるのだが、 この部分は、映画も、英語の小説も変わらない。 映画での Rainer Wenger は、政治とスポーツの先生、 それに対して英語の小説では、歴史の先生。この先生の描き方、また、生徒との関係の持ち方、そして最後にこの「実験」を中止する場面は大きくことなる。 映画版は、ドラマチックなエンディングを用意している部分、本筋とはずれているのではないかという批判もある。 映画では、舞台がドイツでスポーツが水球(Wasserball)だが、英語の小説では、 当然、アメリカンフットボールだ。 die Welle の団結力を見せつける水球の応援シーンとは対照的に、 英語の小説版では、アメリカンフットボールの試合では the wave の力は遠く及ばない。 総じて、ドイツ語版の映画は、コントラストがはっきりしており、現代社会を背景に書き換えられているあたりが、 見る人達に大きなインパクトを与えるのに成功している要因だと思う。

3.   現代社会で独裁は可能か?
Die Welle (2008) の広告でたびたび繰り返されるキーセンテンスは、 「独裁は、今日の私たちの社会ではもはや可能ではないと思うかい?」 (Ihr meint also, eine Diktatur wäre heute bei uns nicht mehr möglich?) だ。普通に考えれば、現在の私たちの住んでいる社会で、突然独裁政権ができあがって、 みんながそれに従うなんて考えられない。しかし、このDie Welle が示すようなお膳立てをすれば、 人々はたやすく危険な方向へとまとまって流れていってしまい、「制御不能」になるかもしれない。そんな危うさを感じさせてくれる。 身近なところでは、ある種のカルト集団が、その実現形かもしれない。

もちろん、「独裁政治」(Autokratie) がそんなに簡単に実現できるわけではないが、 この映画は、集団心理を利用した教育の危険性に警鐘をならしている。 そして、その基本原理は、たった3つの非常に単純なものでよい、というところがミソだ。

ごくわずかな集団行動原理を駆使して、マスメディアを利用し、プロパガンダを流す、しかも、サブリミナル効果を最大限に利用する、 こんな風にして現代的な独裁体制は容易に作れるのかもしれない。誰でも使えるカッコイイ情報メディアを無料で配布、 なんていうやり方を採用すれば効果抜群だろう。あぶないあぶない。

このような体制に対して異議を唱えることができるのは、大部分の人達がやっていることに流されない人達だ。 「これって変よ!」、「これって、どこかおかしいぞ!」と、大きな声を出して言える人が必要なのだ。

4.   Die Welle は日本の教育?
冒頭の「洗脳のルール」は、日本の初等・中等教育の現場では、かなり普通の光景だと思う。 「白いワイシャツを着て」、「質問する時には手をあげて、先生にさされたら立ち上がって発言し」、 「先生のことは○○先生」と呼ぶ。 「それが普通だ」とか、「そのどこが悪いの?」という質問をされると困ってしまう。 なぜなら、それ以外の教育を受けてこなかった人達には、想像できないことで、説明しても分かってもらえないことが多いからだ。 「服装は自由」、「質問は座ったまま手をあげるだけ」、「先生に特別な呼称は使わない」という経験をしていなければ分らないのだ。 さらに、日本的な団体主義を象徴するような「朝礼」や「運動会」を当たり前と思って受け入れてきた人にとっては、なおさら想像できないだろう。

別に、日本の初等・中等教育の現場で「独裁政治」が行われていると言うつもりは毛頭ない。 冒頭の「洗脳のルール」が、実は、日本ではごく普通に教育現場で行われているのではないか、 という指摘をされれば反論できない、ということだ。

映画の中で、「制服」(実際には、白いシャツとジーンズだけ)の導入に関しての議論が行われている時に、 「毎朝着ていくものに悩まなくてすむ」という意見が出てくるのも象徴的だ。つまり、背後にあるのは 「○○をすること」と規則で決まっていると悩まなくてすむ、という考え方だ。

「何を勉強したらいいか分からない」生徒にとっては、 「○○を暗記してきなさい」という指示を与えられる方が(何も考えなくてよいので)楽だ、 というのと発想が似ている。

つきつめていくと、「『自由』を捨てて、『服従する』方を選ぶという方が、実はずっと簡単だ」 という主張につながっていく。どうやら、日本の初等・中等教育では、多くのケースで、 それを実践的に学校生活で教えているように思えてならない。

大学に入って、「さあ、自由に自分で好きなことを学びなさい」、「自由に質問して下さいね」などと言っても、 「服従」に慣れてしまった学生からは、何の声も聞かれない状況になっているのではないか。 「考えない人」を生み出し、「みんなと一緒に行動できない子供たちを異端視する」ような土壌が、 明らかに日本にはあるように思う。

5.   感想
「服従」から逃れ、自分達の力で自由を勝ち取ってきた人々にとっては、自由は意味を持つ。 しかし、生まれた時から、「好きなようにやってもいいのよ!」と言われて育ち、 「知識を前提とせずに自分の感情の向くままに行動し発言するのが個性だ」と勘違いし、 学校では「言われたように勉強する・行動する」のが「良い子」だと言われる、 こんな状況が作り出す人間の姿というのは、明らかに歪んでいる。

ぶっとんでいるように聞こえるかもしれないが、このような教育環境では、 外国語教育はうまく機能しない。小学校から英語を教えるといっても、 紋切り型の挨拶だけをリピートしているだけでは、自分の意見を外国語で組み立てられるようにはならない。 自分で考え、自分の意見を言えるようになるためには、 強制や服従を手段としてはならないと思う。むしろ、 「言われたように勉強しない」(=自分流に勉強する)子供たちや、 「(何も考えずに)言われたように行動することのない」子供たちを育てなければならない。 もちろん、ただ頭がかたい頑固な子供たちではなく、自分で考え自分の意見を述べられる子供たちだ。

とは言ってみたものの、今の日本では難しそうですね。困った困った…。


"bigoted woman" は、なぜ失言なのか?  [05/03/2010]

0. Gordon Brown 氏の失言
1. Gordon Brown 氏の発言
2. "a sort of bigoted woman" の和訳
3. "bigoted" の意味
4. "She's just a sort of bigoted woman [...]" の和訳は適切だったか?
5. おまけ:bigot の語源

0. Gordon Brown 氏の失言

2010年4月28日、イギリスのブラウン(Gordon Brown)首相は、イングランド北西部のロッチデール(Rochdale)で遊説中、 労働党支持者ジリアン・ダフィー(Gillian Duffy)さんと話をした後、ニコニコして "Good to see you, good to see you." と連発しながら車に乗り込んだ。ただし、胸につけた Sky News 社のマイクのことをすっかり忘れていたため、 その後の会話がすべて報道陣に筒抜けになってしまった。総選挙前でマスコミからも注目されていて、テレビカメラも回っていたため、 その様子はあっという間に世界中に配信されてしまった。(見そこなった人は、YouTube で、 http://www.youtube.com/watch?v=TbhPWAMx2y0 ) などでその様子を確認できる。

今回、注目したいのは、ブラウン首相の使った "bigoted woman" は、なぜ失言なのか、 という点だ。日本の新聞がこれらの語をどのように日本語に訳して報道したか、 というところから始め、"bigoted" がどのような意味を持っているのか、 また、その語の歴史を少し調べてみた。


1. Gordon Brown 氏の発言

まずは、ブラウン首相の発言部分を引用しておく。

[approaching towards the car:]
"Good to see you, good to see you. Thanks very much. "
[in the car:]
"That was a disaster - they should never have put me with that woman. Whose idea was that?
[..]
"It's just ridiculous..."
[...]
("What did she say?")
"Ugh everything! She's just a sort of bigoted woman that said she used to be Labour.
I mean it's just ridiculous. I don't know why Sue brought her up towards me."
...
Source:(1) http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/election_2010/8649012.stm
Wednesday, 28 April 2010 14:58 UK
(2) http://www.youtube.com/watch?v=TbhPWAMx2y0


2. "a sort of bigoted woman" の和訳

まず、日本のいくつかの新聞が、 "She's just a sort of bigoted woman ..." をどのように日本語に訳しているかを簡単に比較してみよう。

朝日 「偏見だらけの女性じゃないか」
http://www.asahi.com/international/update/0430/TKY201004300537.html
毎日 「頑迷な女」
http://mainichi.jp/select/world/news/20100501k0000m030093000c.html
読売 「頑迷な女め」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100428-OYT1T01004.htm?from=an
日経 「がんこな女だ」
http://www.nikkei.com/news/article/g=96958A9C9381959FE0EAE2E6988DE0EAE2E6E0E2E3E29494E3E2E2E2?n_cid=DSANY001
産経 「偏屈な女だ」「偏屈女」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/europe/385796/
東京 『あの偏屈女』『偏屈女』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010043002000051.html

"bigoted woman" だけに注目してみると、 「偏見だらけの女性」、「頑迷な女」、「がんこな女」、「偏屈な女」(「偏屈女」)の4種類が使われていることが分かる。
ここでは、「女」という名詞を修飾する部分に注目し、国語辞典(「デジタル大辞泉」小学館)の記述を引用して、それらの意味を比較しておこう。

「偏見」 --- 「かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。」
「頑迷」---「かたくなでもののどうりがわからないこと。考え方に柔軟性がないこと。また、そのさま。」
「がんこ」(頑固)---「(1)かたくなで、なかなか自分の態度や考え方を改めようとしないこと。また、そのさま。」
「偏屈」---「性質がかたくなで、率直でないこと。ひねくれていること。また、そのさま。」

3. "bigoted" の意味

英和辞典に関しては、『ジーニアス英和大辞典』(電子辞書版)、大修館書店と、『プログレッシブ英和辞典』第3版 (2001)、小学館を調べてみた。

『ジーニアス英和大辞典』bigot(宗教・政治・人種に関して)頑迷な人、偏狭な人.
『プログレッシブ英和辞典』bigot[軽蔑](宗教・政治・人種問題などに)強い偏見がある人.

『プログレッシブ英和辞典』には、語源情報も載っている場合が多い。今回も期待通りに次のような説明が載っていた。

bigot
[...]
【中フランス語←古英語 bĪ God (By God). 原義はフランス人がノルマン人に与えた軽べつ的呼び名に端を発したようで、 「By God「断じて」 をしばしば使う教養のない人間」】
『プログレッシブ英和辞典』(2001), P.198

英英辞典は、次の3冊を比較した。

Cambridge International Dictionary of English (1995) 【以下では、CAMBRIDGEと略】
Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English (2000) (6th edition) 【以下では、OXFORD-ADVと略】
Collins COBUILD Advanced Dictionary (2009) 【以下では、COBUILDと略】

CAMBRIDGEbigot disapproving  a person who has strong, unreasonable beliefs and who thinks that anyone who does not have the same beliefs is wrong.
OXFORD-ADVbigot   a person who has very strong, unreasonable beliefs or opinions about race, religion or politics and who will not listen to or accept the opinions of anyone who disagrees:
COBUILDbigot If you describe someone as a bigot, you mean that they are bigoted. [DISAPPROVAL]

bigot は、名詞だが、COBUILD は、bigoted (形容詞) を元に意味を定義しているので、 ついでにbigoted の記載も見ておく。ただし、CAMBRIDGE は、意味の説明は載せておらず、例文だけを示している。

CAMBRIDGEbigoted disapproving  She's so bigoted that she refuses to accept anyone who doesn't think like her.
OXFORD-ADVbigoted   showing strong, unreasonable beliefs or opinions and a refusal to change them
COBUILDbigoted Someone who is bigoted has strong, unreasonable prejudices or opinions and will not change them, even when they are proved to be wrong. [DISAPPROVAL]

CAMBRIDGE が disapproving, COBUILD が [DISAPPROVAL] としているように、基本的には、「不満、非難、反感」を表す言葉である。 (必ずしもよい方法ではないが)これらの記述をまとめて解釈してみると、次の4つの要素に分けられる。
a  a person who has a strong, unreasonable beliefs or opinions
強く、理屈に合わない信念あるいは意見を持っている人)
b  a person who thinks that anyone who does not have the same beliefs is wrong.
同じ信念を持っていない人は間違っていると考える人)
c  a person who will not change opinions, even when they are proved to be wrong.
自分の意見が間違っていると分かっても、それを変えようとしない人)
d  opinions about race, religion or politics
(その意見は、人種、宗教あるいは、政治に関係する)


4. "She's just a sort of bigoted woman [...]" の和訳は適切だったか?

"She's just a sort of bigoted woman ..." の和訳として、上記の各記事の和訳を並べて、 再検討してみよう。今回は、単に"a bigoted woman" を問題にするのではない。文の和訳としての 適切さを考える。

朝日 「偏見だらけの女性じゃないか」
毎日 「頑迷な女」
読売 「頑迷な女め」
日経 「がんこな女だ」
産経 「偏屈な女だ」
東京 『あの偏屈女め』

朝日が一番、説明口調の和訳を載せているが、「偏見」は、prejudices であり、 bigoted が「偏見を持っている」という特徴と必ずしも等しい訳ではない。COBUILD は、 strong, unreasonable prejudices or opinions という説明を使っているが、 ポイントはむしろ strong, unreasonable opinions (強くて理屈に合わないさまざまな意見)にある。 「理屈に合わない意見」(非理性的な意見)の1つとして、「偏見に満ちた意見」があるのであり、 unreasonable opinions の中には、prejudice (偏見)とは関係ないものもある。 さらに、「偏見」の中には、「フェアではない」(unfair)という意味も含まれるし、理性的なものだけでなく、「感情的なもの」も含まれる。

「偏見だらけの女性」というと、「さまざまな多過ぎる偏見を持ち合わせている人」ということになり、 「強く」、「理屈に合わない」意見というよりは、「さまざまな偏見を多く持つ」所に焦点が当たる。最後に、「…じゃないか」 を使うことで、「非難」口調を明確にしているが、途中の「…だらけ」も十分に「非難」を表現しているので、 かなりきつい和訳と言えるだろう。

毎日と読売は、ともに「頑迷な」を使っている。ただし、読売は、接尾辞「…め」を使うことで、「ののしったり、卑しめたり」 する様子を明確に表現している。元の英語の文 "She's just a sort of bigoted woman ..." に「罵り」や「卑しめ」の意味が込められているか、というと、その意味は無くはない。 ただし、 sort of を使っており、イギリス的(?)に「間接的」、あるいは「控えめ」に表現されており、 日本語の接尾辞「…め」を使うことで明確になる「罵り」とはかなり印象が異なる。
「頑迷」は、「かたくなでもののどうりがわからないこと」という説明からすると、 strong, unreasonable opinions を持っているという人にかなり近い【a】の意味を持っている。 ただ、日常的に「あの人、頑迷だから。」のように使われる言葉ではないだろう(日常語、口語とは言い難いのではないか)。 「頑迷」のもう一つの説明、「考え方に柔軟性がないこと」の部分は、【c】の意味と対応する。

日経の使った「がんこな」は、この中ではもっとも日常的な言葉だろう。ただし、bigot の 【c】の「自分の意見が間違っていると分かっても、それを変えようとしない」という意味との対応しかないので、かなり的外れな感じを受ける。

最後に、産経と東京の使った「偏屈」は、「がんこな」に次いで使われる頻度が高いと思われる言葉だ。 「性質がかたくなで、率直でないこと」という意味は、bigot の 【c】の「自分の意見が間違っていると分かっても、それを変えようとしない」という意味と部分的に重なる。 ただし、「率直さ」と bigot は、関係なさそうだ。「偏屈」というと、 「通常の人よりも、片よりが大きい」ところに視点が置かれる。 いわゆる「視野の狭さ」の意味が「偏屈」の意味に含まれるとしたら、 【b】の「同じ信念を持っていない人は間違っていると考える」 という部分は、「偏屈さ」と関係していると解釈できる。

こうやって検討してみると、単語レベルでは、毎日が「頑迷な女」とやったのが最もずれが少なかったと言える。 敢えて、 "She's just a sort of bigoted woman that said she used to be Labour." 全体を文として直訳調に和訳するなら、「彼女は、労働党の支持者だと自称していたある種の頑迷な女にすぎないじゃないか。」となる。

さて、"She's just a sort of bigoted woman [...]" の和訳は適切だったか、という問いに戻ると、 新聞というメディアの1つの特性上、短く要点を捉えた書き方が求められる、というところは理解できる。 しかし、一方では、悪い意味での「ジャ-ナリスティック」という方向に振れてしまう危険性があり、今回の騒ぎも、 日本語で言うところの「失言」という言葉に踊らされて、誇張されて和訳されていたのではないか、 と思う節もある。「x だらけの y じゃないか」と言われれば、「本当に x はひどい!y は、だからひどいヤツだ。」 というパターンだし、「x な y め!」、「あの y め!」と言えば、y を侮蔑していることになる。これは、構文的に発話行為が決まっているのだ。

今回のブラウン首相の発言中の bigoted は、使うだけで[DISAPPROVAL](不満、非難、反感) を喚起できる言葉であった。さらに、何と言ってもあの場面で象徴的なのは、 ついさっきまで、 "Very nice to meet you." と連発していたブラウン首相が、 車に乗り込んだ途端に、"That was a disaster." (「ありゃあ大惨事だった。」) と言ったところから、すでに「悪態」が始まっており、 bigoted が使われる前の段階で、 すでに背景的な部分(「あの女性と会って話をするべきでなかった」という文脈)が完成していた、と言える。

5. おまけ:bigot の語源など

『プログレッシブ英和辞典』の語源に関する記述が気になったので、手元にあった Partridge, Eric. (1983) を調べてみた。すると、God の 6. に以下のような説明があり、 ほぼ、『プログレッシブ英和辞典』の記述と同じ説明を確認できた。ちなみに、perh は、 perhaps, prob は、probable, probably の略語。

6. With bigad perh cf bigot, adopted from OF-F. In C12, bigot was an insult addressed by Frenchmen to Normans; the word then went underground for three centuries. OF bigot prob, but no more than prob, represents OE-ME bi god (or God). The sense `superstitious hypocrite' (hence that of `religious fanatic') perh comes from the violent contrast between rough, uncivilized men's religious invocations and their crude behaviour; cf the C14 F godeon, Englishman, from his addiction to God dumn (it). Derivative late MF-F bigoterie accounts for E bigotry.
Partridge, Eric. (1983) Origins: A Short Etymological Dictionary of Modern English. Greenwich House: New York. P.259

ならば仏和辞典ではどうなっているかと思い、調べてみると、『プログレッシブ仏和辞典』 (1993)P.157 には、 「bigot, ote (形) (名) 信心(迷信)に凝り固まった(人)」、『現代フランス語辞典』 (1993) P.159 には、 「bigot,e (形) (名) 信心で凝り固まった(人)」となっていて、どうやら宗教色が強いようだ。

今回のニュース、ドイツ語圏では、bigot は何と訳されているのか気になって少し調べてみた。 すると、ドイツ語にも bigott という形容詞があるにもかかわらず、AFP電、および、 Die Süddeutsche Zeitung では、 kleinkariert(了見の狭い、狭量な、けちくさい)、 Die ZeitDie Welt では、borniert(視野のせまい、偏狭な)、 Stern では、scheinheilig(信心ぶった、偽善的な) となっていた。 Die Tagesspiegel のみが、„So eine bigotte Frau!“ としていた。ドイツ語の bigott は、形容詞で、 engherzig fromm, von übertriebenem Glaubenseifer geprägt (Duden) となっており、 「あまりにも信心深すぎて、心が狭い」というニュアンス。基本的には、宗教色の濃い言葉だ。その点では、おそらくフランス語の bigot も同様だろう。英語のbigot の方が、宗教色は弱いと感じる。

さて、このように言われたジリアン・ダフィー(Gillian Duffy)さんは、何と言ったか。前出のBBCのニュースでは、以下のようなコメントを伝えている。

"I'm very upset. He's an educated person. Why has he come out with words like that?" "He's supposed to be leading the country and he's calling an ordinary woman who's come up and asked questions that most people would ask him... It's going to be tax, tax, tax for another 20 years to get out of this national debt, and he's calling me a bigot."
Source: http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/election_2010/8649012.stm
Wednesday, 28 April 2010 14:58 UK

「教養のある人なら、あんな言葉は使わない」というのは、何も bigot に限ったことではないだろう。 それなりの立場にある人は、人前でなくとも使うべきでない言葉がある。なにもブラウン首相に限った話でもない。 もっとも、人前でも平気で、(意図的に)暴言を吐く人もいるようだが。


kluge は map hater の所産  [03/27/2010]

友人が最近読んだ本として薦めてくれた Marcus, Gary (2008) Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind Boston: Houghton Mifflin Company. を1月に読んだ。 タイトルからすると、なにやらドイツ語みたいだ、と思ったのだが、筆者 Gary Marcus によると、

ein Kaetzchen, DON

A kluge is a clumsy or inelegant — yet surprisingly effective — solution to a problem.
Marcus, Gary (2008) Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind Boston: Houghton Mifflin Company. p.2

ということで、直訳すれば「kluge とは、不器用あるいはエレガントではないが、驚くほど効率的な問題に対する解決(法)」。もともと、 Marcus (2008: 3) によれば、ドイツ語の Kluge から来たもので(元々は、形容詞の klug(かしこい)) The Hacker's Dictionary of Computer Jargon によれば、 1935年にまで遡れるのだそうだが、ここでは、語源が話題なのではなく、「人間は、ハードウエアも kluge だが、 ソフトウエアも kluge だ」という主張が中心だ。http://klugethebook.com/ に、本の概観と筆者の紹介がある。

さて、kluge の意味だが、電子辞書版「ジーニアス英和大辞典」によると以下のようになっている。

definition of kluge, Genius English-Japanese Dictionary (俗) 名  部品を寄せ集めて作った機械 [コンピュータ] (のシステム);寄せ集め装置; [コンピュータ] (ハードウェア [ソフトウェア]作成の問題に対する)寄せ集め的解決法 [修正].
—動 他 不釣合いなものを組み合わせて…を作る; [コンピュータ] (問題)を寄せ集め的手法で解決する。
kludgy 形

また、Collins COBUILD ADVANCED DICTIONARY (2009) によると、kludge という見出しに次のような記述がある。

definition of kluge, COBUILD Advanced Dictionary (kludges) N-COUNT  You can refer to an unsophisticated but fairly effective solution to a problem as a kludge. Kludge is used especially to talk about solution to computing problems.
Collins COBUILD ADVANCED DICTIONARY (2009), Boston: Heinle Cengage Learning. P.865

少し横道にそれて、この語の発音に関して: Gary Marcus は、P.3で kluge は、 sludge とではなく、huge と韻を踏むので、 スペリングとしては、kludge ではなく、kluge の方がよい、 とし、さらに、stooge と韻を踏む klooge の方がもっとよく発音を捉えることができると述べているのは、 アメリカ英語では、どうやら母音が [ʌ] ではなく、[u:] である、 という観察だ。つまり、アメリカ英語では、「クルージ」に近い発音ということになる。 [r] なら Scrooge がそっくりになるのだが。

Schnappszahl

さて、さまざまな生き物の体が、共通した器官を持ったり、極めて似通った器官をもっていることは早くから知られていた。 その以外な共通点を描いたのは、例えば近年なら Shubin, Neil (2008)Your Inner Fish: A Journey into the 3.5-billion-year History of the Human Body. だ。 古生物学者(paleontologist)であり、解剖学の教授である Neil Shubin は、 お魚と人間の共通点を化石とDNAから巧妙に描いている。遠藤秀紀(2006)『人体 失敗の進化史』(光文社新書 258)は、 様々な動物の遺体を解剖して解剖学的に考察することで、 動物の器官がいかに「度重なる設計変更」によって作られているのかを語っている。言い換えれば、生き物の体は、 進化の過程でパッチワーク的に設計変更を加えながら作られてきたハードウエア、ということになる。 これは、まさに kluge に他ならない。 コンピュータのメタファーで語れば、 人間を含めたすべての生き物は scratch (初期の走り書き)から始まり、 それぞれ綿密な計算に基づき細部を設計したものではない、ということになる。

Ueberall wird gestapelt

そして、Gary Marcus は、人間のソフトウエア(Mind) も kluge だ、 と言ってしまった。言われてみれば、当然という気もする。 取りあげている話題は、記憶、信念、(意図的)選択、言語、快楽などに関する脳機能と、それにまつわる実験や多彩な出来事だ。 ポピュラー・サイエンス本なので、肩がこらずに読めるが、中には(アメリカ的?)社会背景に関する知識がないと解読できないものもある。 読んでいて楽しい本だ。誤解を恐れずに言ってしまうと、「人間のソフトウエアって、実にいいかげんだよね」という話。

言語に関して言えば、「人間の言語は、不完全で、特異(idiosyncratic)で、冗長(redundant) だ」 ということになる。考えてみれば、多くの言語学者は、言語の不完全さは認めつつも、 そこには驚くべき規則性があり、そのいくつかは普遍的ですらある、と主張する。それはそれで、1つの科学的仮説なので良い。

Laubfrosch

問題は、ついつい気がつくと「1つの反例(counter-evidence)で、ある仮説がすべて無に帰す」と考えてしまうところにある。 始めから細部にいたるまで決定されている演繹的体系の場合は、確かにそうなるが、自然言語は、そのような演繹的体系ではない。 逆に、「反例が見つかった時に、説得的な理由もなしに、例外であると決めつける」のもまずい。 自分もこれまでの研究の中で、同じような間違いを犯してきた、と、ふと思うことがある。

私は、そもそも理論に従って鳥瞰的にデータを眺め、分析をするのが好きな人間だ。無秩序のように見えるデータから、 規則性を発見することに意味を見出す。 福岡伸一 (2009) 『世界は分けてもわからない』(講談社新書 2000) で紹介されている「世の中の人間の性向」の分類で言えば、 マップラバー(map lover)ということになる。その部分をちょっと引用しておく。

おおよそ世の中の人間の性向は、マップラバーとマップヘイターに二分類することができる。[…]
 マップラバー(map lover)はその名のとおり、地図が大好き。百貨店に行けばまず売り場案内板(フロアプラン)に直行する。 自分の位置と目的の店の位置を定めないと行動が始まらない。マップラバーは起点、終点、上流、下流、東西南北をこよなく愛する。 だから「現在地」の赤丸表示が消えてなどいようものなら(皆がさわるのでしばしばこういうことがある)、もうそれだけでイライラする。
 対する、マップヘイター(map hater)。自分の行きたいところに行くのに地図や案内板など全くたよりにしない。 むしろ地図など面倒くさいものは見ない。百貨店に入ると勘だけでやみくもに歩き出し、それでいてちゃんと目的場所を見つけられる。 二度目なら確実に最短距離で直行できる。だって、アンティークショップの角を曲がって、メガネ屋さんを過ぎた左側って、前に行ったとおりだもの。[…]
福岡伸一 (2009) 『世界は分けてもわからない』(講談社新書 2000), P.88-89.

福岡伸一氏は、実は、かっこよく見えるマップラバーが方向音痴であり、マップヘイターが採用しているのは、分散的行動原理だと主張している。 マップヘイターは、一箇所の情報を、すぐ隣り合わせた場所の情報と結びつけることしかしない。ちょうどジグゾーパズルで、すぐ隣りのピースの形を探すだけ、 というイメージだ。ジグゾーパズルの場合、マップラバーだと全体像を描いてピースを分類してから仕事にかかるので、中央の制御が必要になり参加者の数が増えれば増えるだけ、 作業の打ち合わせが大変になる。しかし、マップヘイターの場合、中央の制御は不要だ。 複数の参加者は、ただ1つのピースの隣りを探すだけなので、共同作業者の数が増えても特に複雑な手順は必要ない。共同作業者が増えれば、効率は上がる。

人間の場合も、およそ60兆個の細胞が行っている振舞いは、マップヘイターの分散的行動原理であり、「鳥瞰的全体像を知るマップラバーはどこにもいない」(P.93)。 DNAが設計図だというたとえがあるが、福岡伸一氏曰く、「DNAは全体像を示すマップではない。実行命令が書かれたプログラムでもない。せいぜいカタログがいいところだ。」 (P.93)

123456, so what?

もし、このような存在として生き物の統制原理を特徴づけられるとしたら、人間も、その人間の「心」(Mind)も分散的行動原理の所産としての kluge ということにならないだろうか? 小さなステップの操作が大きな全体を形作っている、 と言うと、極小主義(Minimalist) の merge を思い出す人もいるかもしれない。 決定的な違いは、分散的行動原理に従った小さな1つ1つの操作は「なんとか機能する寄せ集め」を作っているのであって、 「(矛盾のない)普遍的な体系」を作っているのではない、ということだ。


翻訳本も、また楽し。 [12/25,30,31 /2009]

本を読む時は、できるだけオリジナルが書かれた言語で読みたい、と考えてきた。 翻訳本に特に敵意を抱いているわけではない。 でも翻訳というのは、半分(?)は翻訳者の作品だと思う。 だったらオリジナルに使われた表現の意味を100%理解できているか、と言われれば、 そんなことはないだろう。 そう考えると、オリジナルにこだわる意味は少し減る。

以前、『世界の測量』(Die Vermessung der Welt)の中の間接話法 でやったように、オリジナルと翻訳を比べてみるのは、実に面白い。 今回は、日本語がオリジナル、という形で日本語、英語、ドイツ語の比較をしてみた。

Hard-boiled Wonderland und das Ende der Welt/Haruki, Murakami

対象としたのは、村上春樹だ。実は、村上春樹を読んだのは今回が初めて。 私は文学研究者ではないので、文学作品を読むのは稀なのだが、 学生に勧められて読むことになった。読んだのは、 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)。かなり古い作品に属する。 新潮文庫の2冊本だ。
英語は、Hard-boiled Wonderland and the End of the World (2001) London: VintageBooks. で、翻訳者は、Alfred Birnbaum
ドイツ語版は、Hard-boiled Wonderland und das Ende der Welt (2007) btb Verlag: München. で、翻訳者は、Annelie Ortmanns
3言語で最後まで通して読んでみたが、詳細な比較は、第1章しかしていない。

翻訳に関する全体的な感想としては、ドイツ語版は、 かなりオリジナルに忠実で、しかも日本語独特の表現を、ドイツ語のこなれた表現にしたり、 ドイツ語圏の常識に移し替えるなどして理解しやすく書き換えてある。 それに対して、英語版は、大胆に英語らしい表現に「意訳」され、 繰り返し的な部分や、冗長に思われる部分(?)はカットしている。その結果、 英語版は、英語の母語話者にも、かなり違和感なく読めると思われるが、 これってオリジナルと違うねえ、と思わせる部分もけっこうある。

まずは、タイトルだ。そう、英語版もドイツ語版も、「ハードボイルド・ワンダーランド」を前に出している。 この本の構成は、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という2つの世界がこの順序で交互に章を構成しているので、 タイトルの方も、その順序に並べたのかもしれない。

「ハードボイルド・ワンダーランド」では、語り手は「私」、「世界の終り」では、「僕」。 さすがにこれは翻訳不可能な部分。しかし、よく気をつけて見てみると、ドイツ語版では、 2つの世界で字体(フォント)を変えている。「ハードボイルド・ワンダーランド」は、serif系で固いイメージを出している (ちょっとピンボケのイメージを参考までに以下に載せる。左が「ハードボイルド・ワンダーランド」、右が「世界の終り」)。

fonts im Hard-boiled Wonderland fonts im Ende der Welt

 
 
 

いろいろ面白い箇所があるが、1つだけ紹介しておく。まずは、原作の日本語、そして英語、その次にドイツ語の順番に引用する。

「ずいぶん長い廊下だね」と私は世間話のつもりで彼女に声をかけてみた。 彼女は歩きながら私の顔を見た。二十か二十一というところだろうと私は見当をつけた。 目鼻立ちがはっきりとして額が広く、肌(はだ)が美しい。
村上春樹 著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第1章からの引用。

"Long corridor, eh?" I tried to break the ice. She glanced at me, but kept walking. I guessed she was twenty or twenty-one. Well-defined features, broad forehead, clear complexion.
Quotation: Haruki Murakami  Hard-boiled Wonderland and the End of the World, Chapter 1

»Ein ziemlich langer Korridor ist das«, sagte ich zu ihr, um ein Gespräch anzuknüpfen. Sie sah mich im Gehen an. Ich schätze sie auf zwanzig, einundzwanzig. Sie hatte ausgeprägte Gesichtszüge, eine hohe Stirn und schöne Haut.
Zitat: Haruki Murakami  Hard-boiled Wonderland und das Ende der Welt, Kapitel 1

翻訳として見ると、確かに内容は伝えているし、話の流れも再現されていると言ってよいと思う。 問題は、翻訳されていないものと、翻訳の結果ずれる部分だ。 この「ずれ」は、どこにあるかというと、「事態の捉え方」の微妙な違いにあるのだと思う。 もちろん、それ以外にも、慣習的な表現が内在する意味の違いもある。 以下、興味のある人のために簡単な解説をしておく。

まずは、≪「ずいぶん長い廊下だね」と私は世間話のつもりで彼女に声をかけてみた。≫ に注目。
英語は、"Long corridor, eh?" I tried to break the ice.
ドイツ語は、»Ein ziemlich langer Korridor ist das«, sagte ich zu ihr, um ein Gespräch anzuknüpfen.
日本語は、典型的な主語なし文で、眼前の廊下を見ての発話だろう。「長い廊下」が焦点となって新情報を担っているとすると、 その部分だけを名詞で訳出すればいいのだが、英語は、「ね」にこだわったのだろうか、eh? を文末に付けている。なんだかアメリカンな雰囲気になる気がするが、確かに確認を求めるようなケースで、 文末にeh?を付けることはよくある。ドイツ語では、「ね」にはこだわらなかったようで、 その代わりに、新情報を文末に出す構文(?)を使っている。通常の語順なら、 »Das ist ein ziemlich langer Korridor.«
となるところだ。

「世間話のつもりで彼女に話しかけた」という部分、英語では、 I tried to break the ice. "break the ice" は、「(パーティーなどで)話しの口火を切る、座を打ち解けさせる」(ジーニアス英和大辞典)なので、 ちょっと違う。ドイツ語では、 ..., sagte ich zu ihr, um ein Gespräch anzuknüpfen. となっているが、目的を表す「um zu-不定詞」を使い、 um ein Gespräch anzuknüpfen(会話の糸口をつけるために)となっている。

いずれにせよ、「世間話のつもりで声をかける」というのは、「口火を切る」とか「話しの糸口をつかむ」 という行為に還元して表現しているわけだ。そもそも「世間話」を直訳して、英語なら gossip, small talk などを使ったら、 この場合話がつながらなくなってしまうだろう。ドイツ語でも同様だ。

次に、≪彼女は歩きながら私の顔を見た。二十か二十一というところだろうと私は見当をつけた。≫ に注目。
英語は、She glanced at me, but kept walking. I guessed she was twenty or twenty-one. なるほどと思うのが、最初の部分、"glance at" でじっと見た感じを表現し、 「でも、歩き続けた」としている。そして、年齢を見積もるのは、"guess を使って補文で表現している。
ドイツ語は、Sie sah mich im Gehen an. Ich schätze sie auf zwanzig, einundzwanzig. まず、「見る」という動詞は、ansehen そして、「歩きながら」の部分を、 im Gehen としている。この形は、「〜しながら」に当たる表現で、 「im+動名詞」だ(実は、動詞によって「〜しながら」の表現は、使う前置詞が異なる)。 年齢を見積もる時に使うドイツ語の動詞は、schätzenjn auf … schätzenで、「〜を…だと見積もる」と言うパターン。

unser Kätzchen Donko

最後に、≪目鼻立ちがはっきりとして額が広く、肌(はだ)が美しい。≫ の部分。
英語は、Well-defined features, broad forehead, clear complexion. 「目鼻立ちがはっきりしている」というのを一言で言うと、"well-defined features" というのは納得。「きちんと定義された特徴」という意味が職業柄すぐに頭に浮かぶが、"features" には、複数形で使い「顔の構成部分」(Your features are your eyes, nose, mouth, and other parts of your face (Collins COBUILD ADVANCED DICTIONARY))という意味がある。
ドイツ語は、Sie hatte ausgeprägte Gesichtszüge, ...ausgeprägt(「はっきりした」)が「顔だち」(Gesichtszüge) の前についている。ドイツ語では特に変哲もない表現だが、ausprägen の過去分詞がausgeprägt で、ドイツ語初心者だった時には、悩まされた動詞だった。もともと「(貨幣などを)鋳造する」という意味の動詞だからだ。 この動詞は、「〜をはっきりと特徴づける」程度の意味で、ドイツ語では盛んに使われる。

そして、「額が広い」の部分。英語では、broad forehead になっている。あれ? forehead という語は、発音も要注意だが、日本語でよく使う「額が広い」に対する表現は、 a high forehead という、と昔から言われてきた。実際、Cambridge International Dictionary of English には、She's got a high forehead. という例文が載っている。 broad forehead が、英語でどの程度通用するのか、少し疑問だ。
ドイツ語では、 eine hohe Stirn が使われているので、英語の a high forehead と同じだ。

そして、「肌が美しい」が英語では、 "clear complexion"となっている。 これには、予想していなかったので、ちょっとびっくり。確かに complexion には、 When you refer to someone's complexion, you are referring to the natural colour or condition of the skin on their face ということで、「顔の肌の(メイク無しの自然な状態での)色や状態」を指す意味がある。 日本語の「肌が美しい」という表現は、顔に限定されないという点で異なるが、ここでは、すぐ前で顔に言及しているので、これでほぼ問題ないだろう。
ドイツ語は、 (eine) schöne Haut で、文字通り「美しい肌」と表現している。

直訳をして、その結果、翻訳後の文章がぎこちないものになってしまうのは困ったものだ。 多かれ少なかれ、翻訳にはそのような危険性はある。その部分をある程度見抜ければ、 比較検討すると思わぬ違い、そして共通点が見えてくる。ひとえに翻訳者の努力の成果が反映されている、と言える。 今回の村上春樹の文章を、英語やドイツ語に翻訳せよ、と言われたら、私など考えすぎて「はまって」しまい、一歩も前へ進めないだろう。 優秀な翻訳者には、本当に頭が下がる。

なお、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の1つの面白いテキスト解釈としては、 石原千秋 著『謎解き 村上春樹』光文社新書 329 (2007)を勧める。

ドイツ語の例文探しを日夜やっている人間は、普通、翻訳書の例文を使うことはない。 翻訳書を読むのは、そのような観点から見ると無駄である。 でも、面白いよ、と勧められてしまうと、ついつい手を出してしまう。

Stieg Larsson もその1つだ。原書は、スウェーデン語。3冊読んでしまってから、 日本語にも訳されていることに気がついた(翻訳者:ヘレンハルメ美穂)。タイトルを見ただけでも、随分と違う。 これは、翻訳者の意向だけでなく出版地での出版社の意向も入っているのだろう。強い女性が主人公になるという最近多いパターンだな、 と思いつつも読みきってしまった。参考までに、スウェーデン語、ドイツ語、日本語、英語のタイトルを並べておく。 (2009/12/30、英語の部分を加筆)

スウェーデン語 ドイツ語 日本語 英語
Män som hatar kvinnor Verblendung ドラゴン・タトゥーの女 The Girl with the Dragon Tattoo
Flickan som lekte med elden Verdammnis 火と戯れる女 The Girl Who Played with Fire
Luftslottet som sprängdes Vergebung 眠れる女と狂卓の騎士 The Girl Who Kicked the Hornets' Nest

オリジナルのスウェーデン語タイトルを訳してみると、 Män som hatar kvinnor は「女を嫌いな男たち」、 Flickan som lekte med elden は「火で遊んだ女の子」、 Luftslottet som sprängdes は「爆破された空中楼閣」という感じ。 ドイツ語は、すべて ver- で始まる動詞の名詞化。名詞化するとわけがわからなくなるので、 動詞で紹介する。 第1巻からのタイトルの元の動詞は verblenden (「目をくらませる、眩惑する」)、 verdammen (「弾劾する、永劫の罰を下す」)、 vergeben (「(罪)を許す」)となる。
なお、この3部作、最初はミステリー小説(Kriminalroman)かと思っていたが、 女性ハッカーが主人公で、極めて現代的な背景のスリリングな話の展開だからか、 スリラー(Thriller)であると評している新聞もあった。 スウェーデンでは、2009年に3作とも映画化されており、ドイツでは、第一部だけがドイツ語化されて公開されている。 生々しいシーンは見たくない気もするが、興味のある人は、YouTube でさわりが見れるのでどうぞ。 (2009/12/30、このパラグラフ加筆)

Stieg Larsson は、本名が Karl Stig-Erland Larsson(1954-2004) 、 2004年に急死したジャーナリストであり、作家だ。この3部作は死後見つかった原稿が出版されたもので、2005年に第1巻が出版されてから、 すでに全世界41カ国語に翻訳され、3巻合計1500万部も売れているそうで、3作ともに映画化されているというのは驚異的なスピードだ。 日本でも、2010年1月16日からロードショーが始まる。 詳細は、映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」オフィシャルサイト へどうぞ。 (2009/12/31、このパラグラフ加筆)


「傷は消毒しない方がいいんです。」「えっ?」 [08/22/2009]

2009年1月のある日の午後、私は階段から足をすべらせて落ちてしまった。 気がついた時は、石の階段の踊り場に顔から落ち、 落ちた衝撃で重くずっしりとした痛みを感じながら立ち上がると、 顔から血がしたたり落ちていた。 急いで近くの水道で顔を洗い、緊急外来をやっている病院に駆け込んだ。 緊急外来といっても、受付でどのような状態かを判断され、 本当の緊急(?)の患者はすぐに診察となるが、 私のような本当の緊急ではない(?)患者は後回しになる。 30分程度待たされたので(その間、水で洗浄した患部にタオルを押し当てていたのだが)、しびれを切らして受付に文句を言いに行った。

cynthia cardui

私:「とり急ぎ消毒くらいしてくれてもいいじゃないですか。」
看護士:「水で洗浄してあるようだし、血も止まってきているので、大丈夫です。 消毒はしない方がいいんです。」
私:「えっ?」

他の急患(?)もかなりいたため、1時間程待たされ、ようやく私の順番が巡ってきた。 最初にしたことは、またもや、病院の水道の所で顔洗い。 汚れが残っているといけないので、ということだったが、 完全にきれいになるわけはない。消毒してくれれば安心なのに、 と心の中で思った。

怪我をした時の状況を説明させられ、頭に衝撃を受けていたので、 ボールペンを使った簡単な脳障害の有無を確かめるためのテストをうけ、 2箇所の傷口を合計7針縫うことになった。 その場での診断から脳障害の可能性は少ないと判断され、 脳のCTはとりあえず不要ということに。 家人が2ヶ月ほど様子を見まもって、 もし「これこれ」の症状が出たら、 すぐに私を病院に連れてくるように言われていた。 その症状の中には、「突然、意味不明なことを言い出す」なんていうものもあり、 普段の言動を慎まないと、 私は病院に連れてこられてしまうことを知り、ドキリ。

「それにしても、今は、傷口を消毒しないのが普通なのか?」 と、当時は半信半疑だった。

2009年6月。夏井睦著『傷はぜったい消毒するな:生態系としての皮膚の科学』光文社新書 411、を購入。 タイトルからして、私の受けた治療法(?)と関係していると思ったからだ。 だが、2ヶ月あまり、読まずに放置(というより、読みたい本の平積みの中に埋没していた)。

ある日、平積みの本の一番上に出てきた『傷はぜったい消毒するな:生態系としての皮膚の科学』 をとうとう読むことになった。

「傷は消毒せず、乾燥させないことが大切」であり、「湿潤治療」により痛まず、早く、きれいに治る、というのである。 最初の数ページは、「湿潤治療」の輪郭。特に面白くもなく半信半疑だったが、 途中から一気に面白くなり、読みふけってしまった。

傷の治療の歴史、いかにして「消毒」という行為が普及していったか、 そしてそれらがいかに、大部分の場合、無意味か、という部分には大いに納得。 広まってしまった常識との戦いの難しさ、 パラダイムの転換の難しさが語られている。 さらに、医学が置かれている立場や、進化論的に皮膚を考察するあたりは、なかなかだ。

で、「湿潤治療」の原則は:

(1) 傷を消毒しない。消毒薬を含む薬剤を治療に使わない。
(2) 創面を乾燥させない。
夏井睦著『傷はぜったい消毒するな:生態系としての皮膚の科学』P.20

これだけだ。実際には、創部を水で洗浄し、血液や汚れを拭き取り、 創部をプラスモイスト、キズパワーパッド、 あるいは、(白色ワセリンを塗った)ラップで覆い、包帯などで留めたら終わり。 一日一回取り換えることがよいということだが、汗をかく時期は、 一日数回、はがして周囲の皮膚をよく洗って貼り替えるのがお薦め。

筆者の夏井睦氏は、自身のサイトで、湿潤治療の説明だけでなく、 湿潤治療を行っている医師や病院名を公開している。 詳しくは、新しい創傷治療 のサイトを参照して欲しい(私の治療を受けた病院は、このリストにはなかったが、 それはすでにこの治療法がかなり広まっている証拠なのかもしれない)。

火傷(やけど)もこの「湿潤治療」でOKだとか。 今度、やけどをしたらやってみよう、と思っている。 でも、もちろんやけどはしたくない;-)

夏井睦氏お薦めのお肌のケア、基本は乾かさないこと。 また、活面活性剤の入っているもの(石鹸やシャンプー、ある種のクリーム)をできるだけ使わないこと。

毎日、シャンプー&リンスの習慣がついてしまったので、手始めに、 これを止めたいと思う。夏井睦氏は、毎日、お湯で髪の毛を洗うそうな。 うーん、いきなりの移行は難しそうだ...。

「細菌との共生」という観点からは、 岸本忠三/中嶋彰著 (2009)『新・現代免疫物語 「抗体医薬」と「自然免疫」の驚異』 ブルーバックス B-1633, 講談社.も お薦め。


「チッコンッカッポカッポジュッジュッブチュ」 [07/31/2009]

目次
0. イントロ
1. 吸着音に関する Watson (2003) の記述の混乱
2. 吸着音(clicks)を想像してみよう
3. Watson 流の吸着音(clicks)の出し方講座
  3.1 "tsk"
  3.2 "pop"
  3.3"clip-clop"
  3.4"gee gee"
  3.5"smack"
  3.6 そして全部つなげると
4. 吸着音(clicks)を聞いてみよう
5. 最後に

0. イントロ
「読めない!」という人には、オリジナルの英語表記をご紹介。

tsk-pop-clip-clop-gee-gee-smack

こちらの方が分節化しているので可読性が高い。 試しに、表題の日本語表記の方も分節化してみると、 「チッ - コンッ - カッポ - カッポ - ジュッ - ジュッ - ブチュ」。

この言葉の正体は、コイサン語(Khoisan) の吸着音(clicks)だ。 正確には、コイ語(Khoi)と、サン語(San) なのだが、語族としてまとめてこのように呼ばれることがある。 コイ語の有力な方言、ナマ語(Nama)が専門家の間ではしばしば話題になるが、 南アフリカ共和国の北部、およびナミビアに分布するのがコイ語だ(ブリタニカ国際大百科事典電子辞書版参照)。
一方のサン語は、サン族(蔑称と見なされる Bushman, Hottentot という呼称しか知らない人達がいまだに多いのは残念なことだ) の言語。アフリカ南部、アンゴラ、ボツワナ、ナミビア、南アフリカの一部にサン族は暮らしている(同上文献参照)。

コイサン語の吸着音に出会ったのは、 ライアル・ワトソン著、福岡伸一/高橋紀子訳 (2009)『エレファントム: 象はなぜ遠い記憶を語るのか』木楽舎。 オリジナルのペーパーバック版も入手したのだが、こちらは、 Watson, Lyall (2003) Elephantoms: Tracking the Elephant. W.W. Norton &Co. Inc.: New York. それぞれの本の引用箇所は、翻訳本がP.59, ペーパーバック版は、P.49. もともと、象のコミュニケーションの様態に興味があって購入したのだが、 象のコミュニケーションの部分は少なく、 むしろ、アフリカ象がいかに大量虐殺されていったか、 という悲しい過去(アメリカン・バイソンの大量虐殺の歴史を思い出してしまった) と象の生態が中心だった。 吸着音との出会いは、まったく予期していなかった。

1. 吸着音に関する Watson (2003) の記述の混乱
click は、『ジーニアス英和大辞典』では、 「【音声】吸着(吸打)音、舌打ち音」と訳されているが、 その実態は、この3種類の訳語によく表れている。 つまり、不正確ながら簡略化して言うと、 「吸い込んで、舌を使って打つように出す」のだ。 昔、音声学の授業でこの音に関する説明を聞いた時には、 その出し方も特性も想像の域を越えていた(同じように想像の域を越えていたのが、ホーミーのdouble articulationだった)。

今回、ワトソンの本を読んだら、その音の出し方の解説が出ていたのにはびっくりした。 残念ながら、ワトソンの解説には、ちょっとした混乱があり、 和訳の方は、音声記号を正しいものとしての解説となっている。

まずは、基本的に5種類の吸着音に関する説明を、和訳の方から引用しておこう。

「チッ」は、「歯吸着音」と呼ばれており、 コイサン語を書くときには右に傾いたスラッシュ(/)で表される。 「コンッ」は「後部歯茎吸着音」と呼ばれ、それにふさわしい記号(!)で表される。 「カッポカッポ」は「コンッ」の変化したものであり、「硬口蓋歯茎吸着音」という名がついている。 これはスラッシュの中央にイコールが重ねられた記号()で表される。そしてキスの音「ブチュッ」 は「両唇吸着音」と呼ばれ、丸の中に点を打った記号 (old bull's eye)で表される。
出典:ライアル・ワトソン著、福岡伸一/高橋紀子訳 (2009)『エレファントム: 象はなぜ遠い記憶を語るのか』木楽舎。P.60

次に英語版からの同じ箇所の引用。

Tsk is now known as the dental click and is represented in written Khoisan as a forward-leaning slash: /
Pop is the palatal click, eloquently written as: !
Clip and clop are modified pops called alveolar clicks and recorded as a slash across an equal sign: ≠
Gee gee is the lateral click, shown as a double slash: //
And the smack of a kiss is the labial click, written simply as a period inside a zero: bull's eye
Source: Watson, Lyall (2003) Elephantoms: Tracking the Elephant. W.W. Norton &Co. Inc.: New York, P.49-50.

原則的に、吸着音を5種類に分けることは、IPA(The International Phonetic Alphabet(revised to 1993, corrected 1996) でも行われている。 ここでの混乱は、英語の原文の表記、それに対応する音声記号、日本語表記の間にある。

  Watson英語版 (本来の訳語) Watson掲載の 翻訳本の用語
      音声記号  
1. dental click (歯吸着音)   / 歯吸着音
2. palatal click (硬口蓋吸着音)   ! 後部歯茎吸着音
3. alveolar click (歯茎吸着音)   ≠ 硬口蓋歯茎吸着音
4. lateral click (側面吸着音)   // 歯茎側面吸着音
5. labial click (唇吸着音)   bull's eye 両唇吸着音

ここで混乱しているのは、硬口蓋音(palatal)と歯茎音(alveolar)だ。 翻訳本では、palatal を「後部歯茎吸着音」としているが、 これは、Postalveolar click のことであり、 音声記号 [!]  にそった和訳となっている。 同様に、alveolar を「硬口蓋歯茎吸着音」としているが、 これは、Palato-alveolar click のことであり、 音声記号 [≠]  にそった和訳である。 lateral を「歯茎側面吸着音」としているが、 これは、alveolar-lateral click の和訳である。
なんでこうなってしまったのか、というと、現在では、 以下のようなIPA音声記号が使われ、翻訳本のような用語が通常用いられているからで、 翻訳者がIPA音声記号に従って専門用語で和訳したからだろう (ただ、それにしては両唇吸着音の音声記号が古いもの(丸の中に点を打った記号)になっているのが気になる)。 現在では、以下のような音声記号とその訳語が使われている。

  clicks(IPAでの英語名称) 日本語の名称 音声記号
1. dental 歯吸着音   Pipe
2. (post)alveolar (後部)歯茎吸着音   Exclamation
3. palato-alveolar 硬口蓋歯茎吸着音   Double-barred Pipe
4. alveolar lateral 歯茎側面吸着音   Double Pipe
5. bilabial 両唇吸着音   [Bulls Eye]

2. 吸着音(clicks)を想像してみよう
Watson (2003) と福岡伸一/高橋紀子訳 (2009)をヒントに、まずは吸着音を想像してみよう。 まずは、象がいなくなった後に突然現れた小さな男が話だした場面。

[...] He reacted with delight and an explosive vocal combination of pops, clicks, whip cracks, and lip smacks, as though a case of Coca-Cola had been caught in a bush fire.
Source: Watson, Lyall (2003) Elephantoms: Tracking the Elephant. W.W. Norton &Co. Inc.: New York, P.42.

ここでは、4つの音の直感的紹介がなされている。 まずは、pops。これは、 pop の複数形で、 Longman Dictionary of Contemporary English (1995) (以下では、単にLongman (1995) と略)によると:

pop
SHORT SOUND
[I.T.] to make a short sound like a small explosion, or to make something make this sound: Champagne corks were popping.

となっており、「短い」「小さな爆発音」で、例文からすると、 「シャンペンのコルクが飛び出す時の音」があげられている。 日本語だと、さしずめ「ポン」か?

次に、clicks。これは、 click の複数形で、 Longman (1995) によると:

click
SHORT SOUND
[I.T.] to make a short hard sound or make something produce this sound: The man opposite kept clicking his ballpoint pen.

コンピュータのマウスのクリックも同様だが、「短い」「硬い」音が、 click だ。上の例では、ボールペンを使って出 せる硬い音なので「カチッ」という感じだろうか。 Longman (1995) には、click your fingers/tongue (= make a short hard sound with your fingers or tongue, especially in order to get someone's attention or to express annoyance) という例も出ている。 指を鳴らすなら、「パチッ」、舌を鳴らすなら「チッ」というのが近いかもしれない。

whip cracks は、 crack a whip とか、the crack of a whip といういい方と基本的には同じで、鞭(むち)の音(make a loud noise with a whip) を表している。
crack は、Longman (1995) によると:

crack
LOUD SOUND
[I.T.] to make a sudden quick sound like the sound of something breaking, or to make something do this:The branch cracked loudly and broke off. He had a habit of cracking his knuckles.

となっているところから、「突然の」「短い」音で、 木の枝が折れる音や関節のなる音(「ポキッ」)が例としてあがっている。 ここでは、鞭の音なので、「パチン」、「パッシッ」、「ピシッ」あたりが想像できる。

最後に、lip smack。これは、 説明の必要もないとは思うが、to make a short loud noise with your lips、唇でキスをする時の音だ。 「チュッ」というのが普通だろう。もちろん、その程度によるが...。
で、ここまでが導入編。

3. Watson 流の吸着音(clicks)の出し方講座

3.1 "tsk"
Watson (2003: 48) に沿って、 まずは、 "tsk" に挑戦しよう。これは、歯吸着音 Pipe なので比較的簡単だ。まずは、説明文から。

He started his first lesson by shaking his head and saying "Tsk, tsk, tsk, " just like someone scolding us for doing badly. The sort of reproof we were used to hearing from teachers and parents. That was easy to do, just by putting the tip of your tongue behind the front upper teeth and pulling it away again.
Source: Watson, Lyall (2003) Elephantoms: Tracking the Elephant. W.W. Norton &Co. Inc.: New York, P.48.

まず、tsk, tsk というのは、 英語の辞書にも載っている舌打ち音であることを確認しておこう。 Watson の説明にあるように、 「(子供が)悪いことをした時に、先生や両親が怒る時に」 使う(人差指を立てて左右に振って出す)あの音に似ているのだ。 英和辞典には、「(怒って)チッチッと言う」という解説が付いているかもしれない。
「舌の先端を上の歯の後ろに当てて、それを再び離す」ことによって出す音だ。 日本語的に言えば、「チッ」という感じだろう。おそらく、そんなに小さい音ではないので、 ある程度の音量を意識して「チッ」とやればOKだろう。

3.2 "pop"
次に、Watson (2003: 48)"pop" の説明。

Then he went "Pop," making another sound we all knew. It is the one we had learned as children to imitate the sound of horses' hoofs on a hard surface. You do it by putting the front of your tongue up tight against the hard palate and pulling it away against the suction.

「硬い地面にあたる時の馬のひずめの音を真似するために子供の頃学んだ音」という説明がある。 日本人的発想だと、馬のひずめの音は、「カッポカッポ」 ということになるようで、どうやらこれがclip-clop に対する翻訳に使われた音のようだ。 しかし、上の Longman (1995)pop の説明で見たように、 pop はむしろ「短い」 「小さな爆発音」という典型的なイメージなので「ポン」あたりか適当だろう。「馬のひずめの音」は、 むしろ次のclip-clop であり、なぜ、pop に「馬のひずめ」の比喩を持ち出したのか、理解に苦しむ。
さて、具体的な出しかたは、「舌の前を硬口蓋に置き、吸引と共にその舌を 引きはなす」となっている。これは、 上で指摘したように、IPA 的には、 palato-alveolar であろうから、 Double-barred Pipe となる。

3.3 "clip-clop"
clip-clop は、 Watson (2003: 42) では、 click という音で説明されていたものだ。 clip-clop こそは、a sound like the sound of a horse's hooves on a hard surface で、「ひずめの音」なのだ。「ジーニアス英和大辞典」では、 「パカパカ」、「コツコツ」を挙げ、「ひづめ」の他に、「靴」、「馬」 の立てる音としている。 さて、"clip-clop" の説明だが、"pop" に引き続いての説明になっていることに注意しておこう。

[...] And from that, by dropping your lower jaw to enlarge the mouth cavity, you can change the pitch of the sound and get a real clip-clop effect which is very impressive for beginners.

「口腔を広げるために下顎を下げることによって、 音のピッチを変えることができ、 初心者にとってとても印象的な本当のclip-clop 効果を得ることができる」と説明している。これは、おそらく (post)alveolar (歯茎吸着音) の方で、Exclamation であろう。日本語的には、舌を歯茎に当てて離す時に、 「ポン」という音に高低差をつけて出すことができる人達がいるが、 おそらくあれに近いものだろう。

3.4 "gee gee"
Watson (2003: 48-49) に登場する gee gee の説明は、 ちょっと想像しにくい。

We practiced that for a while until he moved us on to the next sound, which doesn't involve the tongue at all and had the effect of getting all those noisy horses out of harm's way. You produce this by pulling one cheek sharply away from the back teeth on that side of the mouth, making a wetter sort of click. The kind of sound which riders everywhere still use to get their mounts going. Two little clicks in the cheek that mean "gee-up" - gee gee.

この音は、Watson の説明によれば、 「舌を全く使わず、あの騒々しい馬たちを無害にする効果がある」。 その出し方は、「頬(ほほ)を奥歯からすばやく引き離す」ことで作るもので、 「より湿った感じの吸着音」になる。

「馬乗りが今でも馬を進めるためにあらゆる所で使っている音」であるとコメントしているのは、 この音をgee gee としたことと関連している。
gee-gee とは、 (Cambridge International Dictionary of English 1996)によると Br and Aus (used by or to children) a horse
つまり、イギリスやオーストラリアで使われる「馬」を指す幼児語だ。 子供が使う言葉であるのと同時に、子供に対して「馬」を指す時にも使われる。

そして、gee up とは、Cambridge IDOE (1996) によると Br infml to (encourage to) move or do things more quickly(イギリスのインフォーマルないい方、 もっと速く進む、あるいは、ある事をもっと速くするように働きかける) と言う意味で、乗馬では、「馬をより速く走らせる」という意味で使われる (You say "gee up!" to a horse to make it go faster.)

ここまで説明すると、最後の文の意味が分かる。 「gee-up を意味する<頬での2回の小さな吸着音> -- それが gee geeだ」。 つまり、「急げ!」という意味のコイサン語が、gee gee で、 歯茎側面吸着音Double Pipe を2回連続で出すということだろう。

3.5 "smack"
smack の説明は、一番分かりやすいだろう。

And finally he embarrassed everyone by pursing his lips at us and making the yucky smack sound of an air kiss.

「私達に向かって口をすぼめ、投げキスの不快な<チュッ>という音を立てる」 ことでこの音が出せる。 これは、想像しやすい両唇吸着音[Bulls Eye] だ。

3.5 そして全部つなげると
英語の原文では、全部つなげると tsk-pop-clip-clop-gee-gee-smack となっていた。私流の日本語版は:

「チッ - ポン - パカ - パカ - ジー - ジー - チュ」 となる。

福岡伸一/高橋紀子訳 (2009)では、表題のように(以下のように)なっていた。
「チッ - コンッ - カッポ - カッポ - ジュッ - ジュッ - ブチュ」

この種のカタカナ表記は、日本語の音韻体系に影響され、原音とはかけ離れたものでしかない。 その点では、英語で Watson が示した tsk-pop-clip-clop-gee-gee-smack も、同様だ。ただ、「感覚的に再現する」ことを目指したものなのでその程度のこととして、楽しんで発音してみよう。 この順序で、「チッ - ポン - パカ - ジー - チュ」 と発音する(?)と、国際音声表記では次のような表記に対応するはずだ。

tsk pop clip clop gee gee smack

4 吸着音(clicks) を聞いてみよう
昔は、音声記号(phonetic alphabets)を見ても、 その音の調音の仕方までしか分からなかった。 想像しながら調音する(実際に、音を出してみる)ことはできても、 それが正しい音なのかどうか、確認する術はなかった。

また、実際の音を聞くためには、 訓練を受けた音声学者の発音、あるいは、該当の音を含む言語音を聞くしかなかった。しかし、今では、 音声学(Phonetics)の入門書に CD が付属することも珍しくない。 一時代前までは、カセットテープ付属というのも画期的だったが、 今後は、DVD 付属になるのだろう。

吸着音(clicks)を聞くことができる CD 付属の入門書としては 1975年に初版が出版されて以来、 すでに第5版となった以下に示す Ladefoged が入手しやすい。

Ladefoged, Peter. (2006) A Course in Phonetics. Fifth Edition. Belmont: Thomson Wadsworth.

同書の第6章には、5種類の吸着音(clicks) に関する説明と、 Xhosa, Zulu, Nama, X!óõ 各語の実例が CD に収められている。 Windows, McOSX 対応ということで、 ソフトウエアも含まれているが、 音声は、AIFF (Audio Interchange File Format) で収録されており、ブラウザで章を開き、クリックすることで、音声ファイルを再生できる。

Linux ユーザである私の場合は、 mplayer-plugin で再生可能だった(なぜか一部の音声は聞けなかったが)。

さて、Ladefoged (2006) が入手できないからといって、諦める必要はない。 実は、この本のデータは、そのまま、ネット上に公開されているのだ。 UCLA Center for Digital Humanities, Instructional Technology Resources の中からたどって、 http://hctv.humnet.ucla.edu/departments/linguistics/VowelsandConsonants/course/chapter1/clicks.html を見ると、bilabial, dental, (Post)alveolar, Palatoalveolar, Alveolar lateral の吸着音(clicks)の発音を聞くことができる。 音質は、コンピュータのサウンド・カード、コンピュータに接続されたスピーカーの性能にも依存するが、 まあ、なんとか雰囲気をつかむことはできる。

実際の単語の中の発音に関しては、 Chapter 6 Airstream Mechanisms and Phonation Types から、CD 6.4: Table 6.3 - Xhosa, CD 6.5: Zulu clicks, CD 6.6: Nama Clicks, CD 6.7: !Xóõ(sic!) click places of articulation を聞いて欲しい。

また、いくつかのサイトで IPA Charts を置いていて、音声記号をクリックすることで音が再生される。 例えば、York universityEric Armstrong's voice & speech sourceIPA ChartsNonpulmonic Consonants には flash movie を使ったデータが置いてあり、5種類の吸着音(clicks) も [ɑ] の前、2つの母音の間、母音の後に発音されている。 これらの音は、 IPA Charts を意識して訓練を受けた話者が人工的(?)に発音しているためか、 私の耳には、ほとんど同じような「チャプチャプ」した感じにしか聞こえない。 Ladefoged (2006)CD に収録されているネイティブの発音(上の Chapter 6 と同じ)とはずいぶんと違う感じがする。

5 最後に
手元には、M. シュービゲル著 小泉 保訳の『新版 音声学入門』(大修館書店) がある。新版6版で、1993年発行のものだが、今では随分と古くなってしまった。 原本(Schubiger, Maria Einführung in die Phonetik) が1977年のドイツ語版なので、やはり古い。「音声学の基礎は変わらないから」 となんとなく思っていたのは偏見だったことを最近、痛切に感じている。 反省しきり、というところ。

シュービゲル著、小泉 保訳(1993)では、吸着音 (clicks, Schnalzlaute) は、 「吸着音を正規の言語音声としているのはブッシュマン語、ホッテントット語といくつかのバンツー語(ズールー語)である。」(P.76) と解説しているが、今では使わなくなった差別的名称が使われていたり、 吸着音の音声記号は2つだけ古い形が記されていたり、 IPA の音声字母表 (IPA Charts) に吸着音が載っていなかったりする。 そもそも、肺気流によらない子音(nonpulmonic consonants)という分類そのものが比較的新しいものだから、仕方がないのかもしれない。

ということで、 音声学に関しては、まず Ladefoged (2006) を再読することにした。また、ドイツ語の入門書だったら、 Pompino-Marschall, Bernd (2003) Einführung in die Phonetik. 2., durchgesehene und erweiterte Auflage も読んでおきたい。 この他にも実験音声学関係の本も、 知らない内にたくさん出回っている。一通り読んでおきたいが、時間が...。

今回は、吸着音 (clicks) に知らず知らずの内に吸着(!)されてしまった。 ゾウのコミュニケーションも面白いテーマだが、 Watson (2003) には想像していたよりもアカデミックなデータを指示する部分が少なかったのも、このような帰結につながった1つの理由だ。 ゾウやクジラとのコミュニケーションは、当分の間お預けです。


人間以外の動物も「教える」のか?  [03/31/2009]

3月11日の京都新聞に「母ザル、子に『教育』行動」という記事が掲載された。 まずは、記事のリードの引用から。

人の髪を使って歯磨きする野性のカニクイザルの母親は 子どもが見ていると髪を何度も口から出し入れするなど大げさに道具や使い方をみせる教育のような行動をすることが、 京都大学霊長類研究所の正高信男教授(霊長類行動学)らのグループの研究で分かり、 米科学誌「プロスワン」で十日に発表した。

見出しにあるように「教育」と括弧付きであり、リードの中でも「教育のような行動」 と紹介している。 この行動をするのは、「タイのバンコク北東部に生息するカニクイザル」で、 なんと「女性の肩に乗って髪を抜き、両手にもって歯にはさまった食物の断片を取り除く『歯磨き行動』」をするというのだ。 そして「歯磨き行動」を子ザルに「教えている」ように見えなくもない (京都新聞の記事では、母親ザルが子ザルに「歯磨き」を「教えている」ように見える写真付き)。 この新聞記事の最後の方で、正高教授の以下の言葉が引用されている。

「人以外の動物で、教えるという行為が初めて見つかった例ではないか。 見せるという行動が本当に教育につながっているかを検証し、 動物における教育の起源を解明したい」

ということで、今回は「人間と教育」についてちょっと考えてみたい。

ちなみに、アメリカの科学誌「プロスワン」とは、 PLoS ONE (http://www.plosone.org/) のことで、 論文は、進化生物学(Evolutionary Biology)分野に2009年3月10日発表されたもの。 論文のタイトルは、"Free-Ranging Macaque Mothers Exaggerate Tool-Using Behavior when Observed by Offspring"、 著者は、Nobuo Masataka, Hiroki Koda, Nontakorn Urasopon, Kunio WatanabeCreative Commons Attribution License の元に Web上で公開されているので、誰でも参照できる。 興味のある方は、是非、論文原典をお読み頂きたい。実は、論文中では、 「教える」(teachとか teaching,instruct) という言葉は使われていない。 論文のタイトルも、よく見れば「放し飼いのマカクの母親は、子供に観察されている時に、道具使用行動を誇張する」 というもので、<母ザルが子ザルに道具使用を教える>とはなっていない。

1. 「教える」の定義
まずは、国語辞典の定義。

おしえる【教える】をしへる
(動ア下一)文 をし・ふ(ハ下二)
(1) 知識・学問・技能などを相手に身につけさせるよう導く。教育する。 教授する。「英語を−・える」「イヌに芸を−・える」「学校では三年生を−・えている」
(2) 知っていることを相手に告げ知らせる。 「道を−・える」「花の名所を−・える」
(3) ものの道理や真理を相手に悟らせて導く。戒める。 教訓を与える。「父の行き方に−・えられた」 「今回の事件が我々に−・えるところは多い」
出典:「デジタル大辞泉」

英語のteach、あるいはinstruct とほぼ共通するのは、(1) の意味だろう。 (2) は英語ならtell で、単に「〜を告げる」という意味、(3) は「悟らせる」の意味なので、enlighten に近いと思われる。

そうすると、「教える」対象は、「知識」、「学問」、「技能」というのが典型的なものということになりそうだ。 人間以外の動物が「学問」をしているとは一般的に考えられないので「学問」は除外するとして、「知識」はどうだろう? knowing whatknowing how の「知識」を区別すると、後者は「技能」にほぼ相当する。 前者の知識は「(言語的な)宣言的知識」なので、 人間以外の動物がこの種の知識を持つと仮定することは、 その動物が「人間の言語」に近い「言葉」を操っていることが前提になるだろう。 今回は、そのような知識ではなく「技能」に関連した知識を問題にする。

まず、英語で簡略に表現した場合、以下の(1) と(2)は、ほぼ等価であることを確認しておこう。 それは、括弧内の日本語の表現でも同様だ。

(1) X teaches Y Z/X teaches Z to Y. (X は、Y に Z を教える。)
(2) Y learns Z from X. (Y は、X から Z を学ぶ。)

(1)と(2)のわずかではあるが大きな違いは、(1)の X と(2)の Y が「動作主」(agent)である点だ。 つまり、(1) では、「教える」ことが X の動作主性(意図を含む)の元で行われる行為であるのに対して、 (2)では、「学ぶ」ことが Y の動作主性の元で行われる。

2. 「誇張して示す」ことは「教える」ことか?
再び、正高教授グループに関する京都新聞の記事に戻ってみよう。 対象となったマカクの母ザルは、1歳の小ザルを育てている50頭。 今回の論文の根拠となる部分を以下に引用する。

子どもが見ていないと、一回の歯磨きで口から髪を出し入れする回数は平均 0.9 回だったが、 子が見ていると1.5 回に増えた。髪をかむ回数も、 見ていないと 3 回だが、見ていると 2 倍の 6 回になった。

これが、タイトルにある「誇張」にあたる部分だ。
さて、まず第一の疑問だが、 「何かのやり方を誰かに教える時、回数を増やしてデモンストレーションするだろうか?」 例えば、人間の親が子どもに歯磨きを教える場面を想像してみよう。 確かに、歯ブラシの持ち方から練り歯磨きのつけ方、歯ブラシを置く位置と動かし方などを教える時には、 多くの動作を繰り返すことになるだろう。 「行動を見せる」こと、「同じ行動をさせる」ことに親は注意をそそぐ。 子どもは、親の行動を見て、模倣行動をとることが期待されている。 模倣行動を誘発させるために親が誇張行動(行動の回数を増やす)をとる、 という論理はおそらく成り立っているだろう。 さらに、 人間の場合に観察される誇張行動の中には「わざとゆっくりやる」(=より多くの時間をかける) というのも含まれるだろう。

ただし、「誇張すること」がすなわち「教える」ことに直結するかと問われれば、 必ずしもそうではないかもしれない。 ある種の威嚇行動も、威嚇対象の個体によって、かかる時間が異なるかもしれず、 これを「誇張」と捉えれば、「教える」ことにならないかもしれない。 また、「誇張しない」でも「教える」ことは可能かもしれない。 例えば、私は<楊枝の使い方>を親から学んだ記憶はないが、 明らかに親が使っていたのを見ていて学習したものと思われる。 繰り返し親のやる動作を見ていて「学ぶ」場合(そしてそこには「誇張」が含まれない場合)、親は子どもに「教えた」と言えるだろうか? 上の説明で使った動作主性(意図を含む)を基準に考えれば、 これは一般的に「教えた」ことにはならない。 しかし、仮りに<楊枝の使い方>を教える意図を親が持っていて行動を繰り返していたとしたら、 「教えていた」という解釈も可能になる。 注意すべきなのは、「繰り返し=誇張」では必ずしもない、 ということだろう。<教える意図を持たずに繰り返していた回数> と<教える意図を持って繰り返していた回数>に有意な違いがなければならない。

マカクの観察の例では、<子ザルに見られている時>と<子ザルに見られていない時> には行動の有意な違いがあるとしている。 ここでのさらなる疑問は、<子ザルに見られている時>の親ザルの一般行動の変化が他にもあるか、 ということだ。

3. 感想
「教える」という行動と、「学ぶ」という行動はコインのうらおもてのようだが、 動作主性の差(どちらが主体的に意図を持って行為をするか)において異なっている。 そうすると、結局、行為者の<心の中>を読まないと(mindreading)、 <教えるという行為が行われているか否か>に関しては結論がでないように思える。

また、 「人以外の動物で、教えるという行為が初めて見つかった例ではないか。」 という言明の仕方には疑問を感じる。このマカクの場合、 ある個体がある種の道具使用を始め、それを子どもに「教えた」かどうかがポイントだろう。 遺伝子的に決定している<教える行為>は、 マカク以外の動物にも広く観察されるのだから(尤もたとえ遺伝子的に決定していても、 環境の影響で必ずしも同じ行動をするとは限らないが)。

では、遺伝子的に決定していない<教える行為>は、人間以外の動物にあるのだろうか? まったくの憶測だが、私は存在するのではないかと想像している。 直観的根拠は、これまでの科学的発見の歴史にある。 「人間とは何か?」という疑問に答えるために、 人類はこれまでさまざまな特徴づけを行ってきた。 「計算ができることこそ人間の固有の考える能力だ」と信じられていた時代もある(コンピュータも計算できる)。 「道具を使えるのは人間だけだ」というのもあったが、 サルだけでなくカラスも道具を使う。 「言葉を使えるのは人間だけだ」 という言明は、まだなんとか持ちこたえているが、 その一つの理由は、「言語」の定義を精密化していないからかもしれない。 一般に、「人間だけが XX できる」という言明には、注意した方がよい。

「マカクのイモ洗い」や東アフリカのチンパンジーの「シロアリ釣り」など、 これまでもサルの道具使用とその学習、あるいは、 その学習の伝搬に関する一連の研究がある。 そこでも、「教える」という行為が行われているのかどうかに関して、 さまざまな議論がある(例えば、Tomasello 1999: 26ff 参照)。
また、サルだけではなく Watson (2002) が示すように、 象にもかなりのコミュニケーション能力があるらしい。 人間だけでなく、さまざまな生物には、まだまだ隠された能力がある、 と想定することは無意味ではないだろう。 ちなみに、Watson (2004) では、 ブタの「心の理論」の存在が主張されているとか。 福岡 (2009: 235ff)で簡単に紹介されているが、福岡伸一氏自身が Watson の2つの本の翻訳を2009年中に木楽舎から出版するらしい(福岡 2009:244)。 すでにかなりの著名人となった福岡氏だが、 この2冊の本の翻訳も2009年のかなりの話題となるに違いない。

話を「教育」に戻そう。 ふだん「教える」立場にある人間としては、 誇張したり、わざとゆっくり話したりするのは日常茶飯事である。 が、それで教育効果が得られているか(教えられる側の人間が学習を推進されているか) かどうか、実はわからない。 丁寧に教えても、理解してもらえないこともあるし、 簡単に要点だけ説明したのに、ちゃんと理解されていることもある。 わかりやすいハンドアウトを配布したり、 パワーポイントのようなプレゼンテーション・ソフトを使いカラフルに、 刺激いっぱいで教えても、 まるで学生の頭にレジスターされないこともある(むしろ、その方が多いのかも)。 そんな時、昔にかえって、 配布物なし、コンピュータなしで、 学生に向かって話ながら黒板に話の要点を書くだけの方が、 教育効果が上がるのではないか、と考えてしまう。 つまり、学ぶ人間が主体的に(=動作主として意図的に)聞いた話を自分の頭で考え直して、 ノートにまとめることの方がはるかに大切なのではないか。 でも現在そのような授業をすれば、学生からの評価は低くなり、 FDを無視した授業だと蔑まれるだろう。 本来の意味での(本質的な)「教育の評価」ができない現代社会の皮肉ですね。

Tomasello, M. (1999) The Cultural Origins of Human Cognition. Cambridge, Mass.: Harvard Univ. Press.
(日本語訳 (2006) 『心とことばの起源を探る:文化と認知』 勁草書房.)
Watson, Lyall (2002) Elephantoms: Tracking the Elephant.
(新版は、2003年 W.W. Norton & Co Inc.)
Watson, Lyall (2004) The Whole Hog: Exploring the Extraordinary Potential of Pigs.
(新版は、2005年 Profile Books Ltd. )
福岡伸一 (2009) 『動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎.


豊島清掃工場見学会  [02/25/2009]

すでに2ヵ月以上経過してしまったが、2008年12月13日(土)に豊島清掃工場を見学した。 池袋駅の近くに立つのっぽの「ビルもどき」(=実は煙突)は、 しばらく前から気になっていた。 気がつくと同様の「のっぽビル」が都内のあちらこちらに見られる。ネットで調べると、 清掃工場の煙突であることはすぐに分かったが、なんとか見学できないものかと思っていた。

そんなに簡単には見つからなかったのだが、 最終的に東京二十三区清掃一部事務組合 のサイトに行き着き、 清掃工場個人見学会 のページにまでたどりついた。 上記の「東京二十三区清掃一部事務組合」(略して『清掃一組(せいそういちくみ)』と言うそうな) のサイトには、21か所の清掃工場がリストされており、
「原則、東京23区在住または在勤・在学の方。ただし、それ以外の方でも見学できます。」 と明記してあった。また、申し込み方法は以下のように記されていた。

◇ 見学ご希望の方は、下記申し込み先に見学日2日前の午後3時までに電話で申し込みください。(先着50名まで)
◇ 見学費用は無料です。
◇ 見学時間は1時間半程度で、見学は現地集合・現地解散となります。

このページにあった「豊島清掃工場」の見学会(2008年12月13日)に行くことを決め、 電話で問い合わせた。すると「豊島区立健康プラザとしま」の4階事務所に集合時間13時30分の10分前に来るように言われた。 当日の予定は、豊島区の清掃工場の様子などを紹介するビデオを15分程度見て、 渡り廊下をつたって清掃工場へ行き、一時間程度工場内を見学し、 「健康プラザとしま」4階の最初の部屋へ戻って質疑応答をして15時に解散、 ということだった。写真撮影は可能かどうか問い合わせたら、 問題ないとのこと。とても丁寧な応対だった。

Toshima incineration plant

途中の歩道橋の上から、例の「ビルもどき」煙突と「健康プラザとしま」 が入るアングルから撮影。煙突塔の高さは、210メートルだそうだ。

学生4人を連れてでかけていったのだが、12階立ての「健康プラザとしま」4階へは問題なく到着。 ビデオを鑑賞する部屋には、3種類のパンフレットがテーブルの上においてあり、 ざっと見渡したところ、80人〜100人程度座れそうな席があった。 私達5人の他に、いったいどれくらいの人数の人が来るのか、 興味津津だったが、なんと、老夫婦一組のみ。 当日の見学会参加者は、7名だった。 これだけの広い部屋があって、見学にくる人が7名というのは寂しい。 このような施設には、常時、もっと多くの見学者が訪れるべきだと思う。

「豊島清掃工場」というと豊島区でやっているのだろうと思っていたが、 実は、「東京二十三区清掃一部事務組合」(『清掃一組(せいそういちくみ)』) の管轄下にある。清掃一組は、23区内に清掃工場20か所、不燃ごみ処理センター2か所、 粗大ごみ破砕処理施設1か所を管理して「ごみの中間処理」を行っているのだが、 その事業の輪郭を説明するビデオを最初に見せられた。 中間処理ということは、最終処理ではない。清掃一組は、「ごみの最終処分を東京都に委託して」おり、 埋め立て処分場に持っていくのは、東京都(の別組織)だ。 中間処理の段階では、ごみ焼却の後の「灰をスラグ」にしたり、 発生した熱を有効利用(余熱の冷暖房や温水プール利用、発電電力の施設内利用や余剰電力の売却)などを行っている。

ビデオを見た後は、いよいよ清掃工場内部の見学。 ただし、「ビルもどき」煙突の中には入れてもらえません。 なんでも、中には2本の煙突とエレベーターがあるそうで、保守用の階段もあるらしい。 210メートルもあるので、夜間の目印としての点滅する灯りが何か所かに付いている。その保守もあるので、 定期的に点検を行っているとのこと。ふーむ、あの上まで登ってみたかった...。

清掃車が入ってきて、ごみを搬入するところ、 搬入したゴミをコンピュータ制御のクレーンがかき混ぜているところ、 焼却炉の仕組の模型、焼却炉へいく途中で詰まってしまった巨大な鉄のチェーンなどの展示、 などを見て清掃工場見学は意外にあっけなく終了してしまった。 すべてガラス越し見学なので、ゴミの臭いを気にすることもなく「ごみ」の実感があまり湧かなかった。 それにしても、燃えるゴミの中に鉄のチェーンを入れるなんで、 信じられない。こんな鉄の塊があると、焼却炉に入る手前の所でゴミのフィルター(?)を塞いでしまい、 一時的な運転停止に追い込まれるそうだ。

当日もらった資料によると、豊島清掃工場は、建設工事費約170億円、 全連続燃焼式流動床焼却炉で、一日の処理能力が200トンの炉が2つある。 発電能力は、7,800kW。気になったので尋ねてみたのは、 清掃工場の耐用年数だ。25年だそうで、すでに9年経過しているから、あと16年はもつらしい。 あと16年というと、2025年だが、その時にはどうやって建て替えるのだろうか? 豊島区だけでやっている訳ではないので、建て替え中は、 他の清掃工場にゴミ処理をまかせることはできるそうだ。 だがしかし、ゴミ処理にかかる金銭的負担(=都民の税金)は膨大だ。

最後の質疑応答のところで分かったのだが、 「ビルもどき」煙突からは 180℃の水蒸気が出ているそうな。 白金の触媒を通して(多分、「脱硝反応塔」)浄化しているので、 そもそも公害の原因になるような煤塵を出してはいないらしい。 排出する水蒸気の温度が低下すると白煙になるが、白い煙が煙突から出ると、すぐに苦情の電話が入るとのこと。 摂氏180度以上にすると、白い煙には見えない、だからこんなに高温にする、というのだ。 それって、地球温暖化に寄与しているのでは、と思ってしまった。 「白い煙が出れば、苦情が来る」というのは、何とも皮肉だ。 苦情がこないようにするために、排出水蒸気の温度を上げる、 なんてばかげていると思うが、実際に説明しても分かってもらえないなら、 結果的にこうなってしまう。

世の中には、家庭でゴミ箱にゴミを入れれば、もうゴミが無くなる、と思っている人もいる。 私は、ゴミ箱のゴミを収集日にあわせて指定場所へ持っていく係。 それで、ゴミとはおさらばなのだが、その先はゴミ収集車が各地の清掃処理工場にゴミを搬入し、 そこで焼却されたり分類されて、さらに先の処理へ回される。 で、最後に残ったものは埋め立て場へ行くのだが、 いったいどれくらいの量のどんな形のゴミたちが埋め立てられているのか? 埋め立てられたゴミたちは、少なくともきれいさっぱりとこの世から消え去るわけではない。 スラグのような形で再利用されるもの以外のゴミは、 地中に残り、後々、有毒ガスなどを発生することもある。 まあ、人間が生きている限り、「ゴミは不滅です!」。 昔のマンガに出てきたような「あらゆる物質を原子に分解してしまうような」銃(あるいは機械)があるといいが、 あと100年たってもできそうもない。


刺激過剰社会とニューラル・ハイパー・リアリズム  [12/24/2008]

もう2008年も終わり。締め切りに追われる生活からもちろん抜け出せるわけもなく、 ひとつひとつ仕事をこなしてはいるが、他方では積み残しの仕事が加速的に山積して行く。 そんな中で、 下條信輔著 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』(ちくま新書 757)を読んだ。 下條信輔氏の一般書としては、『サブリミナル・マインド』(中公新書)、 『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書)に続くものだが、 「あとがき」で書かれているように、「空中分解寸前」なところがこれまでとは違う。 周到に一貫性を持たせた計画された本というよりも、テーマの周辺を追いながら、 脱線を繰り返しながら進んでいく、その<スリル>という観点からは、 これまでになかった<味わい>の本となっている。

現代という社会、つくづく刺激が過剰な社会だと思う。 過剰な刺激が満ちあふれているにもかかわらず、その刺激に馴れさせられてしまい、 気がつくと<もっと強い刺激を求めている>自分がいることを発見する、 あるいは、発見できない(気づいていない)、という状況に陥っているのではないか。

<エピソード--1>
「なぜ、電車の中で音楽を聞かないの?」と、ドイツ人の若者に訊かれた時は、 なんでそんなことを尋ねてくるのか、想像もできなかった。

<エピソード--2>
電車に乗って周囲を見渡すと、10人中7〜8人が、携帯で一心にメールを読み書きしている。 何で、そんなに携帯メールをチェックするのだろう? 理解できないなあ、と思いながら、 隣に立っていた目を細めて見入っているおじさんの携帯を見ると、 マージャンをやっていた。ふうむ、ゲームか

私も音楽は好きである。でも、ウォークマンの時代でも、またiPodや携帯で音楽を聞く人々が溢れている現在でも、 常時、イヤフォンやヘッドホンをつけて音楽を聞きたいとは思わない。 コンサートに行って生の音楽を聞くのが一番、 二番めは自宅で落ち着いた雰囲気の中で聞くこと。 たまに車の中でCDを聞くが、その sequential な再生にじきに飽きてしまう。
メールも毎日チェックするが、そして、最近は携帯メールも使うようになってしまったが、 電車に乗るたびにメールを読み書きすることはない。 緊急用件がメールで来ることもあり、そんな時は特別に頻繁にメールをチェックするが、 そんなにしばしば起こることではない。

<エピソード--1>と<エピソード--2>に関する私の結論は、 「みんな感覚的刺激を求めている」というものだ。 「情動的刺激に飢えている」と言ってもいい。 感覚的刺激に振り回されているから、人々は因果関係すら考えなくなっている、 と私なら結論を出してしまうのだが、ここは下條氏に少し耳を傾けてみよう。

下條氏は、とりあえず「感覚刺激の過剰」を6種類に分けている (「数え上げればきりがない、というのが本音です」(P.140)とのこと)。

(1) 感覚刺激の絶対量、総エネルギーの過剰
(2) 変化や、動きの過剰
(3) 速度の過剰と、上限の突破
(4) 情報量の過剰
(5) 多元化、同時並行チャンネルの過剰
(6) 選択肢の過剰
下條信輔 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』P.112.

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光や音、色があらゆるところに溢れているし、デジタル化した音楽や動画は、 ネットだけでなく日常的に私達の周りに存在するようになった。 新幹線のスピードが上がるだけでなく、電子メールの普及でコミュニケーションの速度は上がり、 都会人は、より速く歩き、より高い声で早口でしゃべる。 テレビやネットは情報で溢れ、しかも同時並行的にさまざまな情報が飛び込んでくる。 ここらへんのことは、下條氏の指摘を待つまでもない。

面白かったのは、情報量過剰の所で登場するMITのある教授の話と、 選択肢の過剰で引合にだされた予備校のCM。

学問の世界でも、専門学術誌や学会の数は増える一方です。 ネット上を含めると公刊される論文の数もスピードも、 二十年前と比べれば数倍になっています。 アクセスできる情報量で言えば数十倍になっているかも知れません。 私はMIT(マサチューセッツ工科大学)のさる高名な学部長が 「忙しすぎて今や誰も論文を読んでいる暇なんてない。 皆他人の講演やレクチャーから主に知識を得ている」 と発言するのを聞いたことがあります。
下條信輔 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』P.133.

文系でも、論文数を求める風潮は高まる一方だ。 論文のタイトルとアブストラクトをチェックするだけでも、 相当な時間を費す。だから、講演やレクチャーから情報を得ようとするのは、 しごく当然な方向だ。まったく、 みんなもっとじっくりと問題と向き合って、 レベルの高い論文を書いてもらいたい、 なんて思っても、実際に、毎年何本論文を書きましたか、 と調査されて、その本数で評価される可能性が高いのだから、 この傾向はますます高くなる。 情報の洪水の中で、学問を続けるのは容易なことではない。

先頃、西日本のある地方に行ってTVを観ていたところ、 予備校のCMで、 「君自身のカリキュラムを選ぼう、四億六千万の組合せから」 というフレーズが目につきました。
下條信輔 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』P.139.

「選択肢が多い=自由度が高い」と考えれば、それは歓迎すべきことだ。 でも、「4臆6000万の組合せの中から選んでください」なんて言われたら、 「もうどれでもいいや」とあきらめてしまう可能性がある。 下條氏の言葉を借りると、選択肢の過剰は、 「現代人のストレス負荷を増やす結果になっている」(P.136)わけで、 「消費者の多様な要求に応じて選択の幅を広げることが、 当然より大きな自由を与え満足を与える。 この市場デモクラシーの大前提そのものが、実ははなはだ怪しいのではないでしょうか」(P.178)、 と思えるようになる。例えば、 一見自由度が高いように見えるが、 実は、選択する側が途方に暮れているところにつけこみ、 逆に、「おすすめはコレです」とやられてしまうと、 ころっと飛びついてしまう危険性が潜んでいる。 そんな経験をしたことのある人も多いはず。 携帯電話を契約する時のオプションなんかも、その1つだろう。

old keroppi

さて、寄り道をしてしまったが、「ニューラル・ハイパー・リアリズム」の話。 「リアリズム」(realism)とは、元来、 「客観的事物をあるがままに、正確に再現しようとする態度」 (ブリタニカ国際大百科事典電子辞書版より抜粋)だ。さらに、1970年代に流行した、 フォト・リアリズム(別名、スーパ−・リアリズム)がある。 絵画なのにまるで写真そっくり、というあれである。 実は、抽象画に対するアンチテーゼとしての側面を持つだけでなく、 写真とは違った特定の<より現実に近く見せる>ための虚構が隠されている。 その虚構(を可能にするテクニック)ゆえに、より現実的に見える、というところが面白い。

振り返って考えると、現代社会のさまざまな刺激は、 顕在的な意識を刺激するだけではなく、むしろ情動的・潜在的意識を刺激している。 そのようにして「リアリティを脳内で増幅する方法」 (P.107)が広く取り入れられているのが現代社会の特徴とも言える、 というのだ。

「世の中は、外界を正確に写し取るという意味での物理的リアリズムではなくて、 脳内の神経活動を最大化するという意味でのリアリズムに向かっているのではないか」 [...]「その神経活動を活性化するものこそが最高の快であり、 テクノロジーとコマーシャリズムもそれを最大化する方向に突き進んでいるのではないか」
下條信輔 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』P. 135.

このような「動き」を下條氏は、「ニューラル・ハイパー・リアリズム」と名づけている。 「動き」(movement)と言っても、芸術運動や社会運動のように、 意識的に行われているものではない。 情動的に潜在意識に働きかける刺激に満ちた現代、 知らない内にみんなその中に飲み込まれている、 そして気がつかない内に、みんなそれに逆らえなくなっている。 政治家、企業、広告代理店などの誰かが、自分達に都合よく潜在意識に働きかけようと努力している。 だが、実は、 それほど簡単に思ったようにコントロールできる訳でもなさそうだ(詳しくは、下條氏の本をお読み下さい)。

「自由で責任ある個人」(P. 236)という概念は「ニューラル・ハイパー・リアリズム」の中で崩壊し、 「自由」よりも、「快適さ」(以下の、下條氏の「快適さ」の定義参照)を求める風潮は、 文化、社会全体を変えていくだろう。そして、 究極的には遺伝子まで。

あなたは、「自由」より「快適さ」を求めますか?

a cat, upsidedown

「ゆだねること。よしなに、取りはからってもらうこと。 いちいちこちらの確認や判断を求めず、あちらでやってくれること。 その上責任もとってくれること。こちらはリラックスして、 導かれるままに振る舞っていればいいこと。」

下條信輔 (2008)『サブリミナル・インパクト:情動と潜在認知の現代』P. 231.


Nichts ist perfekt.  [12/01/2008]

「人間の不完全さ」というとおおげさだが、「最善を尽くした」はずでも、間違いは起こる。 気がついた時には、青くなり、へんこんでしまう。

今回は、先頃出した『独検対策準1級問題集』の誤植・間違いが発見された時のこと。 半分覚悟はできていたのだが、3人の目をくぐり抜け、なんと初歩的な人称変化の語尾が欠けていた。 なさけなくて、涙が出そう。

2008年11月27日のこと。
「どうしてみんな、sollen が出てくると、「べきだ」、「べきだ」って訳すんだろう。 そういう単純な対応づけで、覚えてしまってはダメなんだ。 ここでは、sollte っていう接続法II式になっているのがヒントなんだ。 少なくとも、2種類のsollte の使い方は覚えておいて欲しい。例えば、ここに ...」 (と言いかけて、『独検対策準1級問題集』の60ページの例文を読んだら) ガーーーーン! なんで solltest になってないんだ! 急遽、DK J-1 Errata のページを作った。

校正という作業、退屈で苦しい作業だが、まじめにやらないと、 後で後悔する。いや、まじめにやっても、間違いは残り、後悔することもしばしば。

曰く、「他人の目で見よ!」校正をやる時の戒めだ。 しかし、これができない。 目だけ(あるいは、頭ごと)他人に変わることが一時的にでもできたらいいのに、 と校正の時は考えるが、冷静になって考えると、そんなことをしたら「自分を他人に乗っ取られる」ってことだから、 やってはいけない(やられたら一大事)。

逆に、他人の書いたものにある誤植・間違いは、よく見つかる。 比較的最近だと、Newton の虚数特集(2008年12月号)を読んでいた時。 この虚数特集、実によくまとまっていてお薦めなのだが、 あまりにも目立つところに誤植があった。

「5よりxだけ大きな数」と「5よりxだけ小さな数」の組合せで、 かけて40になる数を探す。二つの数を(5+x), (5-x)と置けば、
(5+x)x(5+x)=40(sic)
Newton (2008年12月号)P. 28

もちろん、ここまで丁寧に説明をしているので、 一般の読者でもすぐに、

(5+x)x(5-x)=40

であることは分かるはずだ。 よりにもよって、大きな文字で最初の式だったので目立ってしまうが、 校正者の目には逆に「こんな所に間違いがあるはずはない」 という思い込みがあったのかもしれない。 同情してしまう。刷りあがった本、雑誌を見て、「あっ!」 と思った瞬間、何ともいえない情けない気持ちが吹き上げてくる。

世の中、完全なものなんてないんだよね、とつぶやきながら、 Nichts ist perfekt.(Nothing is perfect.) と再びつぶやき、そう言えば、 「男性はもっと不完全だ」ったことを思い出した。 「男性は女性に比べて長生きしない」とか「男性は女性に比べてストレスに弱い」 などといった男女の比較は昔からある。
だから、福岡伸一著『できそこないの男たち』光文社新書371(2008)を読んだとき、 やっぱりね、と思ってしまった。しかし、ここまではっきりと言われると、 ショッキングでもあった。以下、P.184からの引用。

本来、すべての生物はまずメスとして発生する。 なにごともなければメスは生物としての基本仕様をまっすぐに進み立派なメスとなる。 このプロセスの中にあって、貧乏くじを引いてカスタマイズを受けた不幸なものが、 基本仕様を逸(そ)れて困難な隘路(あいろ)へと導かれる。それがオスなのだ。
福岡伸一 (2008)『できそこないの男たち』光文社新書、P.184.

生物(いきもの)の基本形は、メスであるという。 そしてメスをちょっとカスタマイズしたのがオスであるそうだ。 で、そのカスタマイズはそれほどうまくいっていないのかもしれない、 なんて思うのだ。

福岡伸一は 「...イブたちが後になってアダムを作り出したのだ、自分たちのために。」(P.185-6) と言っているが、これは見事な生物学的比喩だ。

不完全な人間と、不完全な人間の業(わざ)、さらに不完全なオスとしての存在、 そんな中でも「完全なものへのあこがれ」は失いたくない。 残された時間は、そんなに多くないのかもしれないが...。


『独検対策準1級問題集』について  [11/10/2008]

10月31日に、『独検対策準1級問題集』(白水社)が出版された。 執筆者の一人として、背景を少し書いておくことにする。

まず、基本的には、『独検対策2級問題集』の改訂版として作られたものだ。 初版が1997年で、誤植の訂正や利用者からの間違いの指摘、フィードバックなどを採り入れ、第4刷までいっていたが、 過去問がすべて20世紀の問題のままだったので、さすがになんとかしなければ、と思っていた。 そこで、過去問を2000年以降を中心にすべて差し替え、傾向分析もそれに従って、変えることにした。

昨年になって、ようやくこの改訂版の仕事をスタートさせたのだが、 これまでの2級が準1級と名称を変え、これまでの2級と3級の間に位置する新たな2級を増設する、 というニュースが飛び込んできた(独検パンフレット「2007年秋」)。 しばらく前から噂があったのだが、私は、従来の2級と3級の間に、準2級を増設して欲しかった。 そうすれば、これまでの級と一貫性を維持できるからだ。 結果として、「これまでの2級が準1級と名称を変えた」ので、 『独検2級問題集』を放置しておくと、それは、新2級と間違われてしまう(事実の方が変わって、「嘘」になってしまう、という例)。 そこで、『独検対策準1級問題集』と名称変更することになった。

今月の11月23日には、新体制での独検が行われるが、従来の2級が準1級と変わるにあたって、 従来の2級を取得済みの人には、 本人が申請すれば、 「<取得済みの2級は2008年度以降の準1級と同等のレヴェルである>旨の証明書」 が発行されるとのことだ。 詳しくは、独検公式サイト を参照。

それにしても、タイミング的には、もう少し早く出版されればよかったのに、とは思う。 私の仕事の都合とも関係し、一応の脱稿が2008年5月だったが、予定より数週間遅れてしまった。 さらに、印刷屋さんとのやりとりに予想以上の時間がかかった。

『独検準1級問題集』の利用方法だが、 ぎりぎりに入手して最後の仕上げに使うのもよし、 思い切って、来年にチャレンジすることとし、一年間かけて勉強するのもよし、 というように割り切って使ってもらえれば、と思う。 近年の出題傾向に合わせて、解説も書き換えてあるので、 『2級問題集』の時にあったものがなくなり(例えば、身体に関する熟語)、 『準1級問題集』になって付け加わった部分(語順の説明や、話法の助動詞、心態詞の簡単な説明)もある。 紙面の都合から、なかなか十分な量の説明はできないのだが、 基本的な部分については、なんとか言及できたと思っている(これでも、 ページ数は、209 - 182 = 27 と増えています)。 ただし、値段も(税抜きで)2600 - 2200 = 400円上がってしまった (もともと、受検者数が少ないこともあり、出版社はあまり儲けを期待できないからだろう)。 検定試験というのは、1つの目標とすることができるので、 それをきっかけにドイツ語力を上げて欲しいというのが筆者の願いである。

他の同種類の問題集の研究はしていないので (もともと、教科書とか問題集を作ることに人並以上の情熱を傾けてはいないので) 比較はできないが、 <問題を解く視点> だけは、特に丁寧に解説したつもりだ。 付録的な熟語集などは、ほとんど2級問題集の時のものと変わらない。 練習問題に関しては、およそ半数を差し替えることになった。 聞き取り問題には、Bruno の話を採用した。 日本ではほとんど話題にならなかったこの熊さんの話を、 どこかで使いたいと思っていたのがようやく実現できた。

さて、今回からの新2級の問題は、 旧2級よりどの程度やさしくなっているのだろう? これまでの3級よりも難しく、 これまでの2級よりもやさしい新2級の問題を見るのが楽しみである。 準1級の問題も、本当にこれまでの2級のレベルを維持しているのかどうかも気にはなる。 試験問題を作るのは、大変である。そして、その対策本を作るのはもっと大変(!)である (過去問の解説だけでなく、類似問題も作成しなければならないから)。 校正にはかなり神経を使ったが、誤植、間違いがないようにと祈っている。 100%間違いない、という本や論文を書くこと自体、不可能なので割り切ればよいのだが、 やはり気になるものだ。


崩壊、崩壊また崩壊  [09/20/2008]

0. 「崩壊」を英語で言うと
「〜崩壊」を、英語では何というのが適切かというと、 fall だろう。 大きなものががらがらと音をたてながら落ちてきて壊れる様子が想像できる。「ローマ帝国の滅亡」と言う時に、the fall of the Roman Empire と言うが、「ローマ帝国の崩壊」と訳してもよい。この場合の fall は、「落ちる」という動詞ともちろん関係していて「橋が落ちる」、「壁が落ちる」というのは、「橋が崩壊する」、「壁が崩壊する」と日本語では表現できる。 ドイツ語の fallen もこの点では同じだ(ただし、橋の場合は壊され方によって英語でもドイツ語でも独特な「破壊」に関した表現がみられる)。

1. ジャーナリズム崩壊
今日の話題は、上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』と『官邸崩壊:安倍政権迷走の一年』だ。 同一の著者による2冊の崩壊本、ということになる。 周囲を見回すと、「食の信頼性の崩壊」(牛肉、豚肉、ウナギの産地偽装)、 「食の安全性の崩壊」(汚染米、中国製ミルク)、 「教育委員会の崩壊」、「企業倫理の崩壊」、そして「証券会社の崩壊」(Lehman Brothers)など、ちまたには「崩壊」があふれている。 古くは「学級崩壊」なんていうものもあった。

上杉隆著 『ジャーナリズム崩壊』幻冬舎新書089(本体740円+税)は、 つい10日程前の新聞広告で、 「7万部突破」となっていた。2008年7月30日に第一刷が発行されているので、 かなりの勢いで売れている本らしい。私が手にしたのは、2008年8月10日の第二刷。 私が読んだのも8月の某日だったが、実際にテンポよく読める面白い本だ。 特に、日常的に接している新聞を作っている人たちが何をしているのか、 そこには想像を越える摩可不思議な世界があった。

新聞や雑誌、テレビなどは、メディアと総称され現代社会では絶大な影響力を持っている。 そして漠然とだが「メディア=ジャーナリズム」と考えてしまうことがあるが、 これはもちろん間違いだ。メディアとは、たんなる媒体にすぎない。 まず、上杉隆氏のジャーナリズムの定義をみておく。

[...] 日本でいうジャーナリズム精神とは、 海外でのワイヤーサービスメンタリティに相当する。ワイヤーサービスとは、 日本でいうと共同通信や時事通信のような通信社のことを指し、 速報性をその最優先業務とするメディアのことだ。
いわゆる海外でのジャーナリズムとそれは一線を画す。 単に時事的な事象を報じるだけではなく、 さらにもう一歩進んで解説や批評を加える活動を一般にジャーナリズムと呼んでいる。
とくにその役割をぎりぎりにまで絞った場合は、 公権力に対する監視役としての仕事が期待される。つまり 「第四の権力」とも別称される通り、三権(立法、行政、司法)に対する監視こそがジャーナリズムの役割といえる。
上杉隆 『ジャーナリズム崩壊』(2008: 19)

「通信社」と「ジャーナリズム」の違いは指摘されてみれば、その通りだろう。 この本には、さまざまな日本のいわゆるジャーナリズムの実態 (無署名記事、日本記者クラブ、業界の自主規制など)が書かれている。 その中でも問題にしたいのは、無署名記事と情報源の隠匿だ。 ふだんなにげなく新聞を読み、事実だと信じ込んで引用すると、 聞いた側でも、「そうか、そんな事実があったのか」と納得してしまう場合が多い。 それほどまでに、新聞報道は、暗黙の内に信頼されているのだ。

2. 新聞記事の「問題表現」
上杉隆氏が指摘している新聞の問題表現として、「一部週刊紙」と「〜ことがわかった」 というのがある(P.41〜48)。

「一部週刊紙」というのは、上杉隆氏によれば 「日本には、スクープを連発し、 極めて影響力のある雑誌が存在する。その名を『一部週刊紙』という。」 (P.42)、と皮肉たっぷりに紹介しているが、背景はこうだ。
新聞記事の中に、「〜と一部週刊紙が報じた」 と記されていることがあるそうで、その場合、 もちろん記事を書いた記者は、その週刊紙名、その号を知っている。 では、なぜ、その週刊紙名を書かないのか? 上杉隆氏によれば、それは「ちっぽけな面子(メンツ)だけの問題」であると言う。 メンツの問題とは、想像するに、次のような意識だろう。

<(立派な存在である)新聞が(立派でない or 俗っぽい)週刊紙の記事をネタに記事を書いたなんて (はずかしくって)言えない。>

これでは、最終的に情報源が分からず、まったく信頼できない記事となってしまう。 隠す必要のない情報源を意図的に隠してはいけない。 特定週刊紙の記事が元ネタなら、ちゃんとその週刊紙名と号を明示するべきた。

もう1つの表現は、「〜ことがわかった」というものだ。 当然、「何から」わかったのか を書かなければ、 情報元がわからないのだが、「〜から」がない場合がある、というのだ。

もちろん、記事の内容によっては、情報源を簡単に明らかにできない場合もあるだろう。 取材先との関係で、実名を明さないという条件での証言が関係していれば、 当然である。しかし、その特権を乱用したら、記事の信頼性はなくなる。 同書の例では(P.45)、記事のネタは週刊朝日だったとしている。 これも、メンツを理由に情報源を隠匿したのだろうか? だとしたら、信じられない世界だ。

3. 新聞記事の「クレジット」
「クレジット」(credit) とは、 「新聞・書物・写真などに明記する著作権者・原作者などの名前」 (『デジタル大辞泉』(小学館))のこと。どんな新聞でもよいから、 ぱっと手に取って、記事に著者名が書いてあるか(=クレジットがついているか) を確認してみよう。毎日新聞では、現在、 かなり徹底してクレジットがついているようだが、例えば朝日新聞を見ると、 まだまだクレジットのついていない記事が多くある。 クレジットのついていない記事というのは、すなわち匿名の記事ということ。 その記事の責任は、記事を書いた本人が取るのではなく、 どうやら新聞社が取るらしい。

記者が書いた記事を、上の人がチェックして修正し、それが実際の記事になる、 というプロセスがあるらしい。これだと、書いた記者が責任を取れないので、 新聞社が責任を負うことになるのだろうが、本当の責任は曖昧になる。 本来なら、記者が書いた記事を上の人がチェックして修正提案を出したとしても、 それを元の記者が見て、自分の責任で修正するなりしないなり判断し、 クレジットつきの記事として公表すべきだ。そうすれば、記事を書いた責任者がはっきりする。 新聞社(の上の人たち)が、特定の記事が気に入らないと判断したら、 その記者を解雇すればよい(もちろん、そう簡単にはできないだろうが)。

基本的に、マスコミの世界にも「曖昧さ」を助長するようなシステムがあるようで、信頼性に関しては「?」がつく。 いまさらではあるが、新聞記事を読む際には、 「誰が書いているのか」、「この記事の情報源は何か」に気を配る必要があるなあ、 と改めて感じる(新聞のことだけを書いてきたが、テレビにはもっと問題がある)。

学問の世界なら、著者名なしの論文なんてありえないし、 情報源のない実験報告や、引用先の明示されていない引用は、まったくもって信用されない。 また、引用であることを示さずに、他人の書いた論文を写したりしたら、 剽窃(ひょうせつ)として、厳しく追及される。 同書の中で、「メモ合わせ」として紹介されている一部の記者の習慣も、 カンニングと言われてもしかたがないものだが、 むしろ「日本的横ならび精神の象徴」的なもののような気がする。

4. Wikipedia での「ジャーナリズム」定義
さて、ちょっと気になって Wikipedia (英語のサイト)での journalism の定義を見てみた。 以下は、その冒頭の部分の引用だ。

Journalism is the profession of writing or communicating, formally employed by publications and broadcasters, for the benefit of a particular community of people. The writer or journalist is expected to use facts to describe events, ideas, or issues that are relevant to the public. Journalists (also known as news analysts, reporters, and correspondents) gather information, and broadcast it so we remain informed about local, state, national, and international events. They can also present their points of view on current issues and report on the actions of the government, public officials, corporate executives, interest groups, media houses, and those who hold social power or authority. Journalism is described as The Fourth Estate.
[...]
Journalism(Wikipedia) From Wikipedia, the free encyclopedia, last modified on 16 September 2008, at 19:03.

全体を読んでみて、なかなか考えさせる内容に仕上がっている。 journalismprofession であるとした点、さらに、「特定のコミュニティの人々の利益のために」 (for the benefit of a particular community of people) 書いたり情報伝達したりすると述べているところの割り切り方が説得的である(報道内容の中立性なんて言わずに)。

Journalism から日本語へとぶと、そこには、なぜか 「報道」 の記事がある(最終更新 2008年7月24日 (木) 16:25)。 最後の方に英語版のJournalism の解説(2005年3月8日版)が引用されて和訳されている(2008年9月16日版とは、かなり違う)。

おやおや、「ジャーナリズム」=「報道」ではないですね。 「ジャーナリズム」は、基本的に「伝達や解説、批判を含めた広い活動」であり、 その「活動機関」を示すこともできる言葉。「批判」を含んだ「第4の権力」 (the fourth estate; die vierte Gewalt) は、 ジャーナリズムに対して与えられうるもので、 「報道」に対する言葉ではない。つまり、「報道」とは、 通常伝達する「内容」であり、活動を示す場合でも「伝達活動」 に限定されるはず。 そう思って、電子辞書で調べてみました。 だいたい、同じような見方ですね。

「ジャーナリズム」
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、 時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。『デジタル大辞泉』(小学館)

「報道」
(1) 告げ知らせること。また、その内容。報知。
[...]
(2) 新聞・ラジオ・テレビなどを通して、社会の出来事などを広く知らせること。また、その知らせ。ニュース。
『デジタル大辞泉』(小学館)

Wikipedia の記事(最終更新 2008年7月24日 (木) 16:25)の問題点は、
(1) 「ジャーナリズム」を検索すると、 「報道」の記事にたどりつくが、「ジャーナリズム」は「報道」と等しい概念ではない。
(2) 報道の項目にいきなり「報道(ほうどう英:Report)」と書いてあるが、 英語の記事からのリンクは、journalism である。
(そうすると、journalism とは「報道」のことで、「報道」とは、 英語でreport である、というズレが生じる。)
(3) 英語のjournalism の項目の引用と和訳を載せているが、 内容が古い(2005年3月8日版が引用されているが、私が参照した時点では、2008年9月16日版だった)。

以下に日本語のWikipedia による「報道」の冒頭の部分を引用する。

報道(ほうどう英:Report)は、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、 記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論の一種である。ジャーナリズム。
現在では技術が発達し、様々な手法・メディアが開発されており、 一般にマスメディア(mass media)と言われている。これら報道を行う主体を報道機関という。
報道は社会的に非常に大きな力をもっており、「立法」「行政」「司法」の3つの権力にこの「報道機関」を加え、 時に批判的な意味で4大権力と言われている。
取材は報道対象の事実を確認する行為で、 報道機関は原則として所属する記者の取材に基づく記事を報道するが、国外など遠隔地で発生した出来事は、 通信社などの配信する記事によって報道する場合もある。
[...]
報道(ja.wikipedia.org) (最終更新 2008年7月24日 (木) 16:25)

5. おわりに
上杉隆著『官邸崩壊:安倍政権迷走の一年』新潮社(2007)について書く時間がなくなってしまった。 『ジャーナリズム崩壊』には、この本の成立に関しても書かれているが、 日本の政治家や財界の大物の顔をテレビで見て知っている人には、 テレビにでない姿を実況中継で見るようで、非常に面白い。もちろん、 そこに書かれていることが100%事実だとは思わないが、 ジャーナリストの目から見た現場分析として、 現場を見ずにメディアを通してしか知り得ない立場の人間からすると、 安倍政権の裏に起きていたらしい出来事に、今更ながらに唖然とする。

『官邸崩壊:安倍政権迷走の一年』(P.229)に載っていた、ショッキングな永田町の「格言」で今日は終わり。

「水に落ちた犬はさらに打て」
上杉 隆『官邸崩壊:安倍政権迷走の一年』(P.229)

犬も可愛そうだけれど(犬差別だ!)、永田町ってこわそうです。 『永田町格言集』なんて本を誰か書いて、夏に出版すればベストセラーになりそうですね。


今年のオープンキャンパス模擬講義  [08/08/2008]

気がつくと7月は、ほとんど暇なしの状況で、あっと言う間に8月2日のオープンキャンパスの日がやってきた。 5月中旬に概要を書いたものを肉付けして話すことになったのだが、 その時点では、『ドイツ語における「はやり言葉」』 というテーマと概要だけで、具体的な資料収集は2ヶ月かけて少しづつ進めていた。 そもそも「認知言語学」という専門分野について、 いきなり一般人に45分で話をするのは無理だ。 そこで、近年興味をもっている「言語のダイナミズム」に関連したテーマとして、 言語変化を扱い、その中でも想像しやすいものとして、「はやり言葉」 を選んだ、というのが真相だ。決して、私の専門が「はやり言葉」 そのものにある訳ではない。

話をする限りは、面白い話をしたい、と思う。もちろん、amusing な話ではなく、 interesting な話という意味だ。 たまたま、7月下旬に、川島隆太+安達忠夫著『脳と音読』講談社現代新書、1716、(2004) を読んだ後だったので、音読の効用に興味があり、 これを実際に試してみたいと思うに至った。

文学者で素読・音読を薦める安達氏と脳科学者の川島氏の対談で構成される同書では、 「声に出して読むこと」がいかに脳に影響を与えるのかが議論され、 実際に検証されている。経験的には、「黙読」することと「音読」することは、 脳の活動においても大きくことなる。 たとえ意味が分からない表現でも、 声に出して読むことで運動野を含めて脳は広く活動するらしい。 『脳と音読』P.36では、「音読=脳のウォーミングアップ」仮説が紹介され、 「音読」を「運動」に、「脳」を「筋肉」に、「活性化」を「働かせる」に置き換えることで、 「音読が脳の全身運動」であると川島氏は説明している。

私は十数年脳機能イメージング研究を続けてきましたが、 音読ほどに脳全体を活性化する作業を見たことがありません。
...中略...
私たちも、毎日適切な筋肉を働かせる運動を行なうことで体の健康を保ち、 老化を防ぐことができます。すなわち、 音読は脳の全身運動であり、脳機能を発達させ、脳機能の老化を防ぐことができるのです。
『脳と音読』P.37

ただし、不思議なことに、音読を実践している安達氏の脳を光トポグラフィーで測定すると、 漢文を音読(音読みの場合も訓読の場合も)した場合、 左右の前頭前野の血流が低下(不活性化)したのだ(P. 191)。 これは、音楽を聞いている時に脳がリラックスしている(?)状態と似ているのだ。 世の中では、「脳が活性化している」=「脳に良い」のようなステレオタイプの議論が見られるが、 そう簡単なことではないらしい。

さて、音読を模擬講義の中でやると決めたのだが、音声をどのようにプレゼンの中に嵌め込むかが課題となってしまった。 WindowsMac ユーザなら、 PowerPoint に音声をオブジェクトとして貼り付けることができるので、問題ないだろうが、 Linux では、OpenOffice.org のプレゼンテーションソフトImpress では、音声オブジェクトの貼り付けはまだできない(Version 3あたりで可能になるという噂もあるが)。

そもそも、外部出力が変な状態から脱出しなけらばならなかったが、 これは、Intel 945 で外部出力 で解決した。 結局、この一年余り時々使っていたImpress ではなく、latex-beamer を使ってみることにした。 そのインストールの様子は、latex-beamer を使ってみる にまとめておいた。さらに、 Firefox での音声の再生のために、 mplayerplug-in のインストール、 音声・動画ファイルの変換と切り出し等の作業を行なったが、 音声・動画ファイル関連の作業メモとして記録しておくことにした。

音読素材としては、いろいろ迷った挙げ句、 日本語の「アルバイト」とドイツ語のArbeit、 日本語の「トマト」とドイツ語のTomate、 日本語読みのドイツ系の苗字「シュミット」とドイツ語のSchmidt を単語レベルて連続発音してもらうことと、 「長靴をはいた猫」(Der gestiefelte Kater) の最初の文を発音してもらうことにした。 ポイントは、リズムとイントネーションだから、 個々の発音の仕方にはいっさい触れなかった。 さて、参加者の脳は活性化されただろうか?

「長靴をはいた猫」の最初の文は、Projekt Gutenberg-DE で検索し、以下の部分を引用した。
Es war einmal ein Müller, der hatte drei Söhne, seine Mühle, einen Esel und einen Kater;
ただし、この部分の音声ファイルを、YouTube にアップされているデータを使ったため、一ヶ所、修正せざるを得なくなった。 具体的には、seine Mühle の部分が、 音声ファイルでは、eine Mühle となっていたのだ。 どちらでも、ほぼ同じ意味に解釈できるのだが、 あちこちのテキストを比較してみると、バリエーションがあることに気がついた。 些細なことだが、難しいものだ。

さらに、せっかく使い始めたPraat があったので、 自分の声で日本語とドイツ語の発音を録音したものを、 Praat で解析したものを示し、 pitchintensity を見てもらった。ドイツ語に触れてもらうという目的と、 言葉の面白さを考えてもらう、という本来の私の企画は、一応達成できたかな、と思っている。 模擬講義の後に、「私は、今日、ここに来る途中の電車の中で、 グリム童話の『長靴をはいた猫』を読んでいたんです」 という学生もやって来て、びっくりさせられた。

なぜ、そもそも「長靴をはいた猫」を選んだかというと、 toll という形容詞が「気が狂った」 という意味で登場するからなのだ。以前読んだグリム童話の何かに、 toll が含まれていたことを思い出し、 探し出した結果、「長靴をはかされたオス猫」に行き着いた、 というのが真相だった。ちょっとした講義の背後にも、 随分と準備に時間がかかっている、というお話でした。


「音声解析ソフトPraat入門」に参加して [07/14/2008]

かれこれ3年前に、praat: パソコンで音声解析 [11/05,11/06/2005] という文章を書いたが、 2008年6月28日(土)に、言語科学会 (JSLS: Japanese Society for Language Sciences)麗澤大学言語研究センター共催の 「音声解析ソフトPraat入門」 という講習会があることを知り、参加してきた。 考えてみると、ソフトウエアの講習会に参加したのは初めてである。 ノートパソコン(Praatインストール済み)を持ち込むことが原則となっていたが、 実際には、数台のノートパソコンが用意されていた(参加者が、 Praat のインストールできない、うまく動かない等のトラブルを見越してのことだろう)。 私は、前日に最新版のLinux 用の Praat (praat5026_linux_static.tar.gz) をインストールし、簡単な動作確認をしてから出かけた。


講習会の感想
当日の講師は、北原真冬さん(早稲田大学)。 場所は、麗澤大学生涯教育プラザ。 PukiWikiで作成した資料(プロジェクタ出力もハンドアウトも同じ) を見ながらの進行だったが、3時間30分の時間(休憩時間込み)は、 途中にメモしてあった時間とほぼぴったり対応しており見事だった。 「準備、起動、録音」、「基礎的編集」、「音声分析機能の概観」、 「分節とラベリング」、「ピッチの計測」、「フォルマントの計測」、 「ピッチ曲線を変えて再合成」、「オブジェクトの操作」、「印刷」 というメニューで進行。ただ、ときどき音声学的な基本的質問をされたのだが、 誰も答えてくれなかったのはちょっと残念なことであった。 そういう私も、おもわず黙ってしまったのだが、 言い訳をすると、「ソフトウエア講習会」なるもの、 そもそもコンピュータを目の前にしているため、注意が分散してしまい、 Q & A に持ち込むのは難しい。 学生相手に同じような授業の経験のあるものとしての実感だ。 結局、コンピュータ操作上、問題のある人に手を上げてもらい、 そこに出向いて指導する、という形式になる。

さて、Praat 自体の操作の基本はそれほど難しいものではない。 実験音声学的な知識があれば、だいたいは想像できるが、 そこで、基本的知識の欠ける人たちにどう教えるか、という問題は残る。 しかし、実際の体験(音声の録音、その解析と解釈)を通じて、 およそのことは理解できるような流れだったので、 参加者もある程度、満足して帰ったのではないだろうか。 特に、「ピッチ曲線を変えて再合成」は、一般的にウケるので、満足度は高いだろう。 他方、スクリプト処理の部分は、説明するには時間不足で、 多少でもプログラミングの知識がないとついていけない難解な部分だったはずだ(実際に、参考のスクリプトが実行できなかった参加者が見うけられた)。


Praat on Linux
参加者(40〜50名)の大部分は、Windows ユーザだったようで、 Mac が数名、Linux は私一人だったようだ。 (Windows 版のPraat では、 Ver.5.0.21から日本語ラベルに対応しているそうだが、 Linux 版ではいつ対応するか不明だそうだ)。 Praat 自体は、 オランダの音声学者 Paul BoersmaDavid Weenink らが開発し http://www.fon.hum.uva.nl/praat/ で無償配布しているが、頻繁にバージョンアップが行なわれている(今日は、version 5.0.27だった)。
実は、月刊言語 7月号から、「Praat で音声を可視化する」 というシリーズが、<言語学者の道具箱>というリレー連載で始まったばかり。 そのサポートページは、http://www9.atwiki.jp/praatman だ。連載で使われている環境は、Windows XP(SP2)だが、サポートページでは、 Mac OS, Windows Vista, VineLinux での動作検証をする、と書かれていた。
さて、VineLinux 4.2 の上では、 Dynamic linkバージョンは動作しない。 Static linkバージョンなら動く(ここまでは、 サポートページにも書いてあった)。もう少し問題を掘り下げておくと、 VineLinux 4.2 に入っている openMotif パッケージは、2.2.3 であり、 libXm.so.3 を使っている。それに対して、 praat(5.0.26) は、libXm.so.4 を要求してくる。openMotif から最新の版をダウンロードしてインストールする手もあるが、 実際に、libXm.so.4 は、 libXm.so.3 の完全な上位コンパチには作られていないようだ(Fedora の方々は、バージョンを下げるのに苦労している様子)。そこで、 無理して Dynamic linkバージョンを動かす必要はない、と判断した。 ちなみに、Ubuntu なら、 「システム管理」→「Synaptic パッケージマネージャ」 から、「科学(universe)」 に分類されている Praat をインストールできる。 これは、Debian ゆずりのパッケージで、Praat の版は、5.0.2-1。 私の Ubuntu 機では、lesstif2 のインストールも同時に行なわれた(この中には、libXm.so.2 (OSF/Motif2.1)が入っている)。 そう、VineLinux よりも、Ubuntu/Debian の方が、もっと古い Motif を要求していた。 インストールだけなら、Ubuntu (そしておそらくDebian) がおそらく最も簡単だ(もちろん、 ターミナルから、sudo apt-get install praat でも大丈夫)。起動メニューでは、「教育・教養」の下に praat が入る。


Praat on VineLinux 4.2(ThinkPad T60 1954-G2J)
当日は、audio-technicaAT9642 というマイクを持って出かけた。さて、スタンバイという時になって、 マイクからの録音ができないことに気がついた(gnome-sound-recorderでも、Praat でも不可)。講習会では、 そのような参加者のことをあらかじめ考え、 メモリースティックに当日使うデータを入れたものを用意してくれていたので、 当日はそのデータを使わせてもらった。
愛用のThinkPad T60 は、デュアルブートで、 ドイツ語版のWindows XPも入っているので、そちらで試したところ、 サウンド・レコーダーでは正常に音声入力ができるのだが、 Windows 版の Praat では、やはり録音ができないことが判明。 Intel Corporation 82801G (ICH7 Family) High Definition Audio Controller (rev 02) を一時は疑ったり、BIOSの設定を眺めたりしたが、しばらくは分からなかった。 諦めかけていたその時、音量コントロール(GNOME/GStreamer(2.14.2))であれこれいじっている内に、 「キャプチャ」→「Capture」の下のマイクアイコンに X が付いていることに気がついた。ここをクリックして、 X をはずして、 ボリュームを適当に調節すれば、gnome-sound-recorderでも、 Praat でも録音ができた。

箸(はし)と橋(はし)

「録音再生」→ 「Mic Boost」 のボリュームと、 「キャプチャ」→「Microphone」だけをいじっていたのが敗因だった。 Boost のボリュームは切っておいてかまわない。

ようやく、audio-technicaAT9642ThinkPad T60 1954-G2JVineLinux 4.2Praat (5.0.26) で、「箸(はし)橋(はし)」と発声して録音してみたのが、左のもの。水色のカーブが、ピッチだが、 「箸(はし)」と発音した時のピッチの下がり方が大きいのに対して、 「橋(はし)」では、それほどピッチが上がってないことが分かる。 「し」の子音部分 [ ʃ]long s) は、母音がないのでピッチカーブが欠けている。 私の「橋(はし)」は、最初、結構ピッチが下がっていき、子音の後に、 突然上がって見える。といっても、意識的には、もっとずっと上がっているのだが...。 このあたりのピッチの上がり方を、「ピッチ曲線を変えて再合成」してみると、 どれくらいまで上げるのが自然かが分かる。 合成音声のアナウンスなどで、ピッチのつなぎ方が不自然なことがよくあるが、 Praat でやってみると実感できる。わずかな違いでも、 ピッチの高低には敏感に反応してしまう自分の能力にあきれながらも、 しばし「人工ピッチ」を楽しんでしまった。


昆虫の脳 --- 今、分子生物学がおもしろい  [03/23/2008]

中公新書1860、水波 誠著『昆虫 -- 驚異の微小脳』を読んだ。 著者は、哺乳類の脳を「巨大脳」と呼び、それとある意味では対極にある昆虫の脳を「微小脳」と名づけている。 生き物の中で、陸の王者というと「人間」だと考えてしまいがちだが、 以下の筆者の指摘を待つまでもなく、陸の王者は昆虫である。

[...]これら昆虫の地球上の全種類は、 これまでに記載されているものだけでも約100万種にもおよび、 すべての動物種の三分の二を占める。 さらに熱帯雨林には1000万種を超える未記載の昆虫が生息していると推定されている。 種類の多さからいえば、地球を支配しているのは、昆虫類であるといって過言ではない。 ただし昆虫は陸上生活に深く適応しており、海にはほとんどいない。 昆虫は陸の王者というべきだろう。
水波 誠著『昆虫 -- 驚異の微小脳』P.10よりの引用

この繁栄を支えるのは、 「小型・軽量・低コストの情報処理装置の傑作である昆虫の微小脳」(P.16) だというのだ。昆虫の複眼、単眼の働きを初め、空を飛ぶしくみ、 匂いを感じるしくみ、匂いの学習と記憶とつづきミツバチのダンスなどの話が、 分子生物学(molecular biology)のレベルで語られる。 いや、それだけではない。進化発生生物学(evolutional developmental biology、略してエボ・デボ生物学)も深く関わっている。 最後の第11章では、ピアンカ(Eric R. Pianka) の r-戦略/K-戦略(r/K selection)の紹介がされた後で、 「微小脳と巨大脳」の比較が行われている。

何が面白いかというと、そもそも昆虫と脊椎動物の差は非常に大きく、 共通して語れないと思われていたが、実は共通した遺伝子が次々と発見された、 という点がまずある。同書(P.268)によれば、「ボディープランを決める遺伝子、 眼や心臓、生物時計、中枢神経系の形成に関わる遺伝子」が共通であるという。

昆虫のような陸上の無脊椎動物は、「小型で短命」で、 「短期間に多くの変異を生み出す」ことで環境の変化に対応する r-戦略者(スペシャリスト)だが、陸生脊椎動物は、 「長命」で、「成熟するまでの発育期間が長く」、 「学習によって個体行動を変化させて環境変化に対応する」K-戦略者(ジェネラリスト)ということになる(P.271, P.274)。

しかしである。ここがもう1つの面白い点なのだが、 コオロギやゴキブリには、餌の匂いや色の学習や記憶において、 極めて高い能力を持っていることが分かってきたのだ (第7章「キノコ体は景色の記憶に関わる」、第8章「匂いの学習と記憶」を参照)。 一部の昆虫の微小脳でも、「学習」や「記憶」は可能であり、 これは、ピアンカのK-戦略者の特徴となっていた側面の一部だ。 ということで、筆者は、新たに「微小脳」と「巨大脳」 の特徴づけを行っているのだが、なかなか説得的だ(詳しくは同書を参照して欲しい)。

人間がうるさく飛び回るハエを捕まえようとする時、しばしば感じるいらだち。 あれは、ハエという昆虫のすぐれた身体能力とそれをささえる高度な情報処理システムに原因がある、と考えると確に納得がいく。

言語の研究者にとっては、いまさらながらミツバチの「ダンス言語」(Tanzsprache) によるコミュニケーションが気になるところである。 同書の第9章に、 ミツバチの「8の字ダンス」の発見に関わる研究史の概略が説明されている。 ナチによってミュンヘン大学から追放されたフリッシュ(Karl von Frisch) の研究がいかに再発見されて認められるに至ったか、というあまり知られていない経緯も説明されている。

さて、ミツバチのダンスの特徴を復習するまえに、ダンスを踊るミツバチが、 実は、セイヨウミツバチ、トウヨウミツバチ、ヒメミツバチ、 オオミツバチの4種類に限定されること、さらに、 セイヨウミツバチとトウヨウミツバチは、 「暗闇の中で垂直な巣板の上でダンスを踊る」 ことを頭に入れておく必要がある。 そして、「8の字ダンス」を使うことで、仲間に餌場の方向と距離を伝える。

これらのミツバチのダンスには、「円形ダンス」と「8の字ダンス」の2種類がある。 「円形ダンス」は、巣から近い餌場から戻ったミツバチの踊るダンスで、 時計回りに回った後、反時計回りにぐるっと回るのを交互に繰り返すもので、 餌が近くにあることのみを伝えるとされる。それに対して、「8の字ダンス」 は文字通り8の字に踊る(?)のだが、「8の字」の中央部では、 ミツバチはお尻を振りながら直進する。 「直進する方向と重力の反対方向(真上の方向)がなす角度が、 巣から見たときの餌場と太陽がなす角度に等しい」ことが分かっている。 つまり、「真上の方向を太陽の方向に見立てて、餌場と太陽とがなす方向を表示する」(P.229)のだ。 この変換がすごい。フリッシュは、距離の伝達を 「8の字」を描く速度によって表していると考えていたが、 実は「8の字」の中心部で直進する際に出す翅(つばさ) を振動させて出す音の持続時間が距離を表すそうだ(持続時間1秒あたり、およそ200メートル)。

そして、さっき注意を喚起したように、 「暗闇の中で垂直な巣板の上でダンスを踊る」 ので、「8の字ダンス」を同僚のミツバチ達は見ていないのだ! 情報を受け取る側のミツバチたちは、 触角にある音受容器により、音として読み取る。 そう、「ミツバチの言語」も、実は音を伝達の媒体としていたのだ。 さらに、情報の伝達の内容には「餌の豊富さ」、「水のありか」、「花粉のありか」、 「巣分かれ(分封)の時の新しい巣の候補地」などあるという(P. 231)。 そう考えると、もっと多くの違った内容の情報が伝達されている可能性もある。 ミツバチは「方向」、「距離」、「食糧の量」などを伝えると同時に、 それらの「知識」に対しての宣言的記憶も持っていると言われている。

咽頭と口腔を主に使って音を出し、耳で聞き取るという人間の音の情報処理とはことなり、 ミツバチは、翅(つばさ)の振動で音を出し、触角で聞いていることになる。 「ミツバチ言語」と「人間の言語」を区別できる決定的な違いは何だろう? 生成文法研究者なら、統語的再起性の有無だと即答しそうだが、 果たして本当だろうか。

ここからは、ちょっと speculation
上で示したような内容が伝えられるとすると、文の主語に名辞「餌場」 「水」、「巣の候補地」、「花粉」などが入っていると考えられる。 これらの名辞がどのように記号化されているのか、という興味もあるが、 「8の字ダンス」では「方向と距離を伴う存在」を表す動詞( <direction, distance>) のようなものが想定できる。文の主語が入れ替わるということは、 すでに抽象化されており、変項(variable)が使われていると考えてもよいかもしれない。

「円形ダンス」の場合は、「近くに餌場がある」という動詞が使われ、 S → N, V のような句構造規則があり、 「8の字ダンス」の場合は、動詞以外の項の実現形として単純にすべて名詞(N) を割り振ると、S → N1, V, N2, N3 という句構造規則があるのかもしれない。 さらに、主語に「餌場」がある時は、その「餌の量」が表されるという。 しかし、単純に「量」(amount)が、動詞の項として存在すると考えるべきなのかどうかは分からない。 また、主語に 「巣分かれ(分封)の時の新しい巣の候補地」が入る場合には、 「量」が問題となっているとは考えにくいので、もし項として存在するなら、 別の意味が写像されているはずだ。 疑問は多々あるが、 それぞれの項を尋ねる疑問文が存在すれば面白さが増すだろう(そんな報告は、多分ない)。 もちろん、人間の言語とまったく並行的な規則を想定する必要はないはずだ。

ちなみに、ヒメミツバチは野外の明るい水平の板の上でダンスを踊るために、 ダンスの方向が直接、餌場の方向を示すそうだ。 同じような行動(翅の振動)でも、 若干の種の違いが、異なったダンスの意味づけにつながっているところも面白い。 考えれば考えるだけ、ミツバチの言語のミステリーは深まるばかりだ。 ミツバチは、「カニッツァの図形」を見て、 人間と同じように(?)錯視を示したり、 視覚情報を一般化する認知能力を持つという話を聞くと、 ミツバチと人間の差はますます小さくなっていく。というか、 人間の特殊性がますます薄れていくのを感じる。


Harry Potter 第7巻のドイツ語英語  [02/27/2008]

以前、ハリーポッター最終巻(第7巻)英語オリジナル版にドイツ語の文が2つ登場することを紹介した。 ドイツ語版では、そのドイツ語の文がどのようになっているか、 予想しつつも、その工夫した翻訳を期待していたのだが、 期待はずれに終わった。 英語版オリジナルにあったドイツ語のシーンをよく見直してみると、 別の問題も浮上してきたので、引用してコメントしておくことにした。

まずは、英語の該当箇所。 VoldemortGrengorovitch を探しに行った時に登場する無名の女性が言うせりふが2箇所あった(P.191)。 最初の箇所は、以前予想したようにauf Deutsch をつける、という安易な解決法をとっている。 話の都合上、 番号をつけておく。

(1) a. ‘Er wohnt hier nicht mehr! ’ she cried, shaking her head. (P. 191)

(1) b. »Er wohnt hier nicht mehr! «, schrie sie auf Deutsch und schüttelte den Kopf. (S. 239-240)

次の箇所は、 Grengorovitch がどこにいるのかを、 Voldemortが尋ねた時、 無名のドイツ語を話す女性が続けて答える場面。

(2) a. ‘Das weiß ich nicht!  He move!  I know not, I know not!’ (P.191)

(2) b. »Das weiß ich nicht!  Er weggezogen.  Ich nicht wissen, ich nicht wissen!« (S.240)

ということで、結論から言うと、オリジナルでドイツ語の箇所は、 そのまま手を加えずに出している。最初の例で、 auf Deutsch をつけたので、後は、 文字がイタリック体になっていることを利用して、そのままでも分かる、 と判断したのだろう。

気になったのは、むしろ間に入っている変な語順のドイツ語だ。 (2) の引用中に登場するが、 実は、(1) a.の後にもある。そこで、 再度引用箇所を増やして、(1) c.、 そのドイツ語訳を(1) d. とする。

(1) c. ‘Er wohnt hier nicht mehr! ’ she cried, shaking her head. ‘He no live here! He no live here! I know him not! ’ (P. 191)

(1) d. »Er wohnt hier nicht mehr! «, schrie sie auf Deutsch und schüttelte den Kopf. »Er nicht hier leben! Er nicht hier leben! Ich ihn nicht kennen! « (S. 239-240)

ドイツ語の母語話者で、英語があまり話せない人がいたと仮定する。 target の文が、 He doesn't live here. であり、 その人が、He no live here! と言ったとしたら、 どのようなプロセスが働いているだろうか? たとえば、英語では否定文を作る際に、否定語を定動詞の前に出す、 という規則は知っていても、助動詞 do を使うことを知らなかった場合である。 そして、次にI know him not. と言っているが、これは、 Er kennt ihn nicht. というドイツ語の直訳になっている。 この2つの文を作る背景は、首尾一貫した規則を仮定できないという意味では不満足だが、 十分想像できる。

しかし、ドイツ語の母語話者で、英語があまり話せない人が、 He not here live.( = Er nicht hier leben. ) とか、 I him not know.( = Ich ihn nicht kennen. ) と言うだろうか? 注意しておきたいのは、ドイツ語版でも、「地の文章は英語のつもり」 で書かれているわけで、この2つの文も「英語のつもり」で書かれていることだ。 そうすると、いかに英語を知らないドイツ語母語話者でも、 He not here live.とか、I him not know. とは言わないよな、と思うわけだ。

こういうドイツ語を見ていると、 Redesigndeutschland のドイツ語を思い出してしまう。たまたま、 Sternefeld (2006) Syntax. S.3-4. に、Süddeutsche Zeitung, 12.10.01 のインタビューが再録されており、そこで知ったのだが、 「ドイツをデザインし直してしまおう」という運動をしている人たちがいて、 その対象にドイツ語も含まれている。そこでは、たとえば、 次のようなドイツ語 (Redesigndeutsch ( = rededeutsch)) が使われている。以下、引用。

Da wir leben in Deutschland wir zunaechst wollen veraendern Deutschland. Aber wir nein glauben, dass wir ziels sein praegen von eurozentrisch sicht:[...]

このインタビューで使われているドイツ語の統語規則は、必ずしも首尾一貫したものではないが、 上の文章だけなら、かなり明白だ。これを使うと、たとえば、
Er nein leben hier. とか、 Er nein kennen ihn. と言えそうで、 確に簡単ではある。簡単すぎて、味気なく、人工言語そのもの、という感じがしてしまう。


聴えないけれど聴えている音  [02/04/2008]

もうかれこれ2年以上前(07/01/2005)、大橋 力「音と文明:音の環境学ことはじめ」(2003), 岩波書店、 を読んで感想を書いたことがあった ([ハイパーソニック・エフェクトを体験したいが,…])。 当時は、断片的感想しかかかなかったのだが、それがきっかけとなり、 先日、竹中工務店技術研究所で、実際にハイパーソニック・サウンドを体験する機会を得た (通常、一般公開している研究所ではない)。

まず、ハイパーソニック・サウンドの定義を 大橋 力著「音と文明:音の環境学ことはじめ」から引用しておこう。

私たちは、非定常なゆらぎに満ちた可聴域をこえる高周波を含む音が脳波のα波パワーを増強し、 脳幹や視床を含む脳基幹部を活性化させるこれらの生理的反応の発見を、 これと並行して発見した心理的反応など(図19-d・e) とあわせて<ハイパーソニック・エフェクト>と命名し、 この効果を導く音を<ハイパーソニック・サウンド>と名付ける...
(出典:大橋 力著「音と文明:音の環境学ことはじめ」(2003)P. 463-464.)

この定義を簡単に説明するのは難しいのだが、誤解を恐れずに簡略化して述べると、 「ある種の聞こえない音が脳を活性化させる」というのだ。 この言い方自体が矛盾を含んだ言明で、 普通の状態で聞こえない(と思っている)音が存在し、それが、 実は脳に影響を与える、というのだ。 これだけを聞くと、テレビの某番組が問題を起こしたように、 「風鈴の音が癒(いや)しの効果を持つ」というようなとんでもない短絡、 誤解、非科学的断定につながってしまう可能性があるので要注意だ。

では、もう少し正確に言うとどのような音が「ハイパーソニック・サウンド」 なのか。その背景的な知識をまず簡単に説明しておこう。

まず、人間の可聴域は、通常、20Hz から 20kHz である、と言われている。 CD は、標本化周波数 44.1kHz、 量子化ビット数16-bit でデジタル変換された音源を提供しているが、 上は、22kHzまでの音までしか含んでいない。 しかし、どのように「聞いている」のかは分からないが、 20kHzをはるかに越えるような高周波の音に、人間は明らかに反応しているというのだ。 ただし、単に100kHzとかの高周波を聞く時に反応が出るのではなく、 「非定常なゆらぎ」(一定の変化ではなく、多様な不規則性を含む) を含む音が、その「知覚」に影響している。また、超高周波音だけでも、 「ハイパーソニック・エフェクト」を引き起こすことはできない(同書:P.485)。 <可聴域の音+「非定常なゆらぎ」+超高周波音>の相互作用が、 <ハイパーソニック・エフェクト>を引き起こす<ハイパーソニック・サウンド> と言えるだろう(これでもまだ不正確な記述だが)。

現在では、スーパーオーディオCD(SACD)という規格がすでに存在し、 それに対応した CD や SACD プレーヤーが存在しているが、 それらのSACD プレーヤーなら、CDよりも高い周波数の音をきちんと聞ける (体験できる?)か、というとどうやらそうでもないらしい。それは、 人間の通常の可聴域を越えているため、 一般消費者が聴覚的に知ることができないレベルの音の「質」 が分からないからだ。 つまり、例えば、 20kHz 以上の音も再生してくれるSACD プレーヤーがあったとしても、 20kHz 以上では、ノイズレベルが高い設計になっていたり、あるいは、 その高周波帯での特性が極めて悪かったりするものがあるらしい (専用の測定器がないと分からないので、噂の域をでない話)。 もっとも最新の機器では、立派に再生できる機種があるのかもしれない。

そこで、「音と文明:音の環境学ことはじめ」の著者、大橋 力氏は、 超高周波音に対応したマイク、再生回路、 スピーカーシステム等を設計し直したのだ。そのシステムの1つが、 竹中工務店技術研究所にあった。竹中工務店技術研究所には、 音響部門の研究者もおり、大橋氏との共同研究開発が行われていた(ここから先は、具体的には言えない)。

さて、実際に聞かせてもらったのは、「川のせせらぎの音」や「特別設計で作られたオルゴール」の音などだ。 「川のせせらぎ音」のところでは、「川」の映像を見ながら、「オルゴール」 の音を聴く時は、美しい景色の映像を見ながら音を聴いた。 さて、私には何が聴えたか?

スピーカーから出た音で、これまで聴いたどんなものよりも「良い」音を聴いた、と思う。 「音が深く染み込んでいく感じ」を体験した、と言ったらいいだろうか? ただし、これが「ハイパーソニック・エフェクト」だと断定はできない。 そのためには、実際に、スピーカから出ている音をリアルタイムに解析し、 高周波成分がどれくらい含まれているのかを提示できる機械が必要だ。 また、非定常なゆらぎ音がどの程度含まれているのかを提示できる機械も必要だ。 さらに、聞き手である私の脳波を計測し、α波の変化を見ないといけない。 ということで、貴重な体験は、「ハイパーソニック・サウンド」 を聴いた、という証拠が得られないまま、「多分聴いたのだろう」 と自己満足(?)をするレベルで終わってしまった。

同研究所でうかがった話によると、人によっては、手の中が暖かく感じたり、 頭の中に「何か」を感じたりする人もいるそうだ。これも、 同研究所でうかがった話だが、自然の中にある 「ハイパーソニック・サウンド」を採取する(?) のに筑波山に朝の4時に行ったことがあるそうだ。 そこで明らかになったのは、現代文明はあまりにも人工的な音にあふれている、 ということだ。また、筑波山には、川がないので、せせらぎの音を採取できない。 木の葉がこすれる音、枯葉を踏みしめる時の音に、高周波音が含まれるそうだが、 これは人工的にやれば高周波音を発生できる。 ただ、筑波山ではあまりにもノイズが多すぎたそうだ。

気がつくと、本当に私たちは人工的な雑音の中に生きている。 特定の音を録音しようとすると、そのことにすぐに気づかされる。 無指向性のマイクで音をひろえば、 予想していなかった人工的な音が驚くほど身の回りにあふれていることが分かる。 こういう片寄った人工音ばかりを聴いていると、 大橋 力氏が指摘するように、人間の精神活動にも多大な影響があるのではないか、と思う。 特に、MP3 player で四六時中人工的な音をイヤホンやヘッドホンで直接聴くことは、 脳に多大な影響を与えるだろう。 その影響がどのような形で出てくるかを科学的に証明するには、 多くの時間を要するだろうが、決してよい影響ではないと思う。 時間さえあれば、MP3 player で音楽の世界に入っている人たちがこの先、どうなっていくのか、 個人的な感想でしかないが、私は非常に不安を覚える。

なお、 滋賀県彦根町の四番町スクエアに行くと、「ハイパーソニック・サウンド」 を実体験できるそうだ。そこでは、 録音したSACDを専用のオーディオシステムを介してスピーカーで「ハイパーソニック・サウンド」 を商店街の中に流しているということだ。 もっとも、本当に「その音」を聴いた、という証拠は得られないが。

「聴えないけれど聴えている音」には、さまざまな謎が残されている。 例えば、人間は、いったいこの音をどこで聴いているのだろうか? 大橋氏の2006年の研究では、「皮膚」で聴いている、そうである(又聞き)。 「体で聴くということは、皮膚で聴くことか」 と一方では思いつつも、いや、もっと他の「聴覚媒体」があるのではないか、 などと想像してしまう。そういえば、昔、 Simon & Garfunkel の歌に、 Sound of Silence というのがあったが、 「ハイパーソニック・サウンド」の存在を暗示している作品だったのかもしれない。


ネコはコードをかむ。さて対策は?  [01/12/2008]

気がつくと2匹のネコが同じ屋根の下に住んでいる。 どちらも瀕死の状態にあった子猫の時に救い出したのがきっかけで、 うちの住人、いや、住猫(じゅうびょう)になってしまった。

それまで、家族の生活場所として「家」が存在すると思っていたが、 ネコ達が一緒に暮らすのを眺めていると、 彼らにとっての「家」は、人間にとっての家と別物であることが見えてくる。

まずはネコ達の身体能力。 80cm 以上ある家具の上に助走もつけずにいとも簡単にジャンプして飛び乗ることができる。 さらに、気がつくとあちこちで爪研ぎをしていたり、 椅子の下や物陰に入って昼寝をしている。 生まれつきのハンターでもあるので、 家の中にハエとか蛾が入ってくると追いかけ回り、一撃でしとめることもある。

段ボール箱は、人間にとって物を詰めて、場合によっては発送するためのもの。 我家のネコたちにとって、段ボール箱は、かじって穴を空け、 中に入って身を隠す、あるいは休息するためのもの。

このような行動能力と特性、目的論的認識の違いが空間に別の意味を与えているのだ。 斉一的な時空が最初に存在するのではなく、 認識主体が時空を作り出しているように感じる瞬間である。

eine angeknabberte Kabel

生後およそ7ヶ月オスネコは、まだまだやんちゃ盛りだ。 大好きな行動の1つに、家の中の電気コードを「カミカミ」する、 というのがある。ある一定の太さになると、もう興味がないようで、 大好物は、AC-Adaptor の細い方のコード。 ノートパソコンのコードを2本も喰いちぎられ、 しようがなく対策に乗り出すことになった。

「ネコ コード かむ」 あたりをキーワードにすると、 いやあいっぱい出てきます。みなさん苦労されていますね。 いくつか、その主なものをピックアップして分類してみると:

1. 嫌いな匂いをつける。
  柑橘系(ベルガモットのコロン、きんかん)、ビターアップル、市販のスプレーなど
2. 強烈な味をつける。
   タバスコなど
3. かみにくくする。
   アルミ箔を巻く、ガムテープを反対にして巻く、ケーブルスパイラルチューブを巻く、など

ちなみにドイツ語のサイトでも検索してみると、 ほぼ同様の対策が見つかる。
検索語は、「Katze  anbeißen  Kabel」 あたりで十分だ。「かじる」に相当する動詞として、anknabbern を入れてもよい。

スプレータイプのものには、そのものズバリの Katzenfernhalte-Sprayとか、 犬や馬用として商品化されている knabber-stop があるようだ。
Kabel mit Tabasco Sauce einschmieren (タバスコをケーブルに塗り込む)というのも見つかるが、 緊急の場合として紹介されており、ネコ虐待につながるかも、 と書いてあるのには同感。
そして、あの家具メーカーIKEA のお店で、 「ケーブルに巻き付けるもの」を販売しているそうだ。 これは、おそらく、「ケーブルスパイラルチューブ」 の類だろう。

そこで、我家でもまずは、「ケーブルスパイラルチューブ」 なるものを導入すべく近隣のホームセンターを探索してみた。 すると、ありました。いろいろな太さで、 プラスチック色のものと黒いものが。 切り売りもやっていたが、プラスチック色の適度な太さの10m ものを購入。製品の入っている袋には以下のような記述があった。

スパイラルチューブ KS-10 10m入
Section No #5
JH Code 12601
Qty/Pkg 10M/RL
Description Spiral Wrapping Band
Specification KS-10
735円

eine gerollte Kabel

このチューブ(上での英語名は、 spriral wrapping band) は、元来、複数のコードをひとまとめに束ねるためのものだ。 そういえば、教壇に設置されていた PC のコードがこれで束ねられていた。 735円というのは、ちょっと高い気もするが、1m あたりの単価が 73.5円と考えれば、 まあそんなものか、と納得。

スパイラルチューブをくるくる巻き付けるのにちょっと手間がかかるが、 効果てきめん。表面がつるつるしているので、かみに来ても、 つるっとすべる感じ。しばらくなめてみても味が悪かった(?) のか、すぐにやめてしまった。

それにしても、ネコにとって細い電源コードは何なのか。 ネコは動くものを獲物として見ていると言われているが、 動かない細いコードをはたして何と認識しているのだろう? ネズミの「しっぽ」なのだろうか? ふーむ。


The Sky Crawlers との出会い  [09/24/2007]

8月の最後のあたりに,Harry Potter and the Order of the Phoenix の映画を見た。第5巻というとあの分厚い本の映画化だが,案の定, かなりの部分をカットして話を作りあげている。映像としては十分に楽しめるものだった。
映画本編が始まる前に,別な映画の宣伝とかが流れたが,そこで
  押井 守監督が2008年に贈る映画:The Sky Crawlers
というようなテロップを一瞬見た。「ん?」

調べてみると,すでに The Sky Crawlers というサイトが出来上がっていた。なんでも,同ページによると(以下引用):

原作「スカイクロラ」は、ミステリィ作品を中心に、 総著作発行部数累計900万部という驚異的な出版部数を誇るベストセラー作家・ 森博嗣氏による人気シリーズ! シリーズ累計発行部数は50万部を超え、 主に10代後半から40代までの幅広い世代から、大きな支持を得ている!

そこで,「スカイクロラ」シリーズ5冊を読んでみることにした。 「スカイクロラ」,「ナ・バ・テア」,「ダウン・ツ・ヘヴン」は中公文庫で, 「フラッタ・リンツ・ライフ」は中央公論新社のC★NOVELS で, 最後に「クレィドゥ・ザ・スカイ」は単行本で購入した。

正直に出版された順番で読んだのだが,このシリーズの話としては,「スカイクロラ」 が一番最後にくることが判明し,結局,「クレィドゥ・ザ・スカイ」 を読んだ後に,再び「スカイクロラ」を読み直すはめになった。

「戦闘機に乗るキルドレの話」、というのが一番簡単な要約だが, これでは読んだことがない人には何のことかさっぱり分からないだろう。 このシリーズに登場する「キルドレ」とは,簡単に言えば, 「遺伝子制御剤の開発途中で突然生まれた歳をとらない子供達」のこと。 ここら辺の詳しい解説はないので,読者はただ受け入れるしかない。 「歳をとらない永遠の命を手に入れる」というのは, 古くからの人類の夢だったが,ここでは, その「(疑似的な)永遠の命」(キルドレは,老化しないし,病気にもめったにかからないとされるが, 事故で死ぬことはある) を与えられた子供達が「大人にならず」 に死と直面しながら生きていく様を「歳をとらない子供の視点から」描いている。

戦闘機という機械(この寓話では,プロペラ機)と一体化して生きるキルドレ, 戦争のどの部分に加担しているのかを知らずに, ただ任務として空中戦を繰り広げ, 撃墜するか撃墜されるかという生死をかけた戦いを任務としている。 一人称で語られる戦闘シーンは,飛行機専門用語であふれる短い行の連続だが, 緊迫したスピード感に溢れる描写として面白い。

乗物という機械は,乗りなれれば自分の身体のextention となる。そんな感覚を持ったことがある人間ならば, この話にかなり「はまって」しまうかもしれない。 逆に,乗物の運転・操縦に興味がない人,メカに興味のない人にとっては, 遠い世界だろう。

考えてみると,現代の科学技術社会は, ボタンを押すと「夕食ができる」とか「お金がおろせる」,「商品が買える」 というのと同じように簡単に「人をxxせる」という恐ろしい世界になっている。 このような社会での倫理感,生命感,価値観は, それ以前の社会とは大きくことなってきている。 で,実は,現代人の多くが,この深刻な変化とその精神に与える影響に気づいていない。

「子供の視点からおとなの世界を見る」ことの意味も,以前とは大きく変容している。 「おとなにならない子供達」は,実際に多く存在し,人生観を大きく変えつつあるのだ。 そんな事態を私達に気づかせるような 「どきっとする言葉」, 「ぐさっとくる言葉」, 「重い言葉」が,表面的に「軽い会話」の背後にあふれている。 スピードが常に問われる世界,瞬間的な判断が生死を分ける世界, 機械と一体化した世界,そんな世界が現実に目の前にある。

「スカイクロラ」シリーズで,気になったことはたくさんあるのだが, 3つだけ書いておく。
● タイトルには,英語表現を不思議に切り詰めたカタカナ語が使われている。
 「スカイクロラ」 — The Sky Crawlers
 「ナ・バ・テア」 — None But Air
 「ダウン・ツ・ヘヴン」— Down to Heaven
 「フラッタ・リンツ・ライフ」— Flutter into Life
 「クレィドゥ・ザ・スカイ」— Cradle the Sky
● 一人称の語りで地の文が書かれており, 直説法では「僕」が継続して用いられているにもかかわらず, 巻によって主人公が異なることが,トリッキーなところ。
 「スカイクロラ」 — 函南(カンナミ・ユーヒチ)
 「ナ・バ・テア」 — 草薙水素(クサナギ・スイト)
 「ダウン・ツ・ヘヴン」— 草薙水素(クサナギ・スイト)
 「フラッタ・リンツ・ライフ」— 栗田仁朗(クリタ・ジンロウ)
 「クレィドゥ・ザ・スカイ」— 函南(カンナミ・ユーヒチ)
● 時間軸にそって並べ替えると, 1. 「ナ・バ・テア」, 2. 「ダウン・ツ・ヘヴン」の前の方、3. 「クレィドゥ・ザ・スカイ」, 4. 「ダウン・ツ・ヘヴン」の後の方、5.「フラッタ・リンツ・ライフ」, 6. 「スカイクロラ」となると思う。「フラッタ・リンツ・ライフ」が, 「ナ・バ・テア」の後半の中に入るという解釈もできそうだが,一部矛盾する。 どこから読んでもいいです,と著者は言っているようなので, あまり気にする必要はないのだろうが,読んでいるとやはり気になるものだ。

さてさて,2008年に押井守監督の元でアニメーション化され,ワーナー・ ブラザースが配給することになる映画はどんなものになるのだろう。 「イノセンス」とは違った手法を用いるという噂だ…。おもわず期待してしまう。 戦闘機から見た光景をアニメ化したら,見ている方は, 気持ちが悪くなって,きっと酔ってしまうだろう。 でも,見てみたい気はする。「離脱」


QOLが低下していますね!  [09/03/2007]

「QOLの低下している」という言葉を聞いた。初めは何のことかよく分からずにいたが, QOL (=Quality of Life) であること, 例えば病気にかかった人が「自分のこれまでの生き方を実現できないこと」 を指すらしいことがなんとなく分かってきた。「生活の質」なのか, それとも「人生の質」なのかと問われれば,「(個人の)生活の質」なのだろうが,当然,人生の問題でもある。

過去3ヶ月,そう言えば「QOLの低下」に悩まされてきた。 「自分のこれまでの生き方を実現できない」《はがゆさ》が堆積していたと言える。 そこで, 「QOL」とは何か,どのように定義できるのかが気になり, まずXD-GW7150 で複数アルファベット検索をしてみた。

QOL (quolity of life)
生命の質。生命の「量(=長さ)」ではなく,いかに意義のある生活を送れるかという「質」。 要介護高齢者や死期が迫っている患者への延命治療の是非などは生命の質を考える典型的な問題である。
(出典:『カタカナ語新辞典』旺文社第五版)

おやっ,と思ったのは,Life を「生命」と訳している点。 さらに,想像していた定義とは違い「いかに意義のある生活を送れるか」が生命の質だという。 さらに,XD-GW7150 では,「クオリティー・オブ・ ライフ」という項目があり,そこでは次のような説明が出ている。

クオリティー・オブ・ライフ
(quality of life)
生活の質。資源やエネルギーを消費しない,創意と工夫に満ちた質的に豊かな生活様式。
(出典:『カタカナ語新辞典』旺文社第五版)

おお,同じ辞典でも「QOL」で調べる(略語検索)のと「クオリティー・オブ・ライフ」 で調べる(見出し語検索)のではこんなに違うのか,と驚いてしまった。 この「クオリティー・オブ・ライフ」の説明もまたまた全然予想していたものと違う。 同一の辞書で,同じ見出語に違う訳がつき,違う定義が与えられているというのにはびっくりである。

しようがなく今度は Wikipedia の日本語版とドイツ語版を検索してみたが, またまた違いに驚かされてしまった。

まずは,その定義から。

日本語版:「一般に人の生活の質、 すなわちある人がどれだけ人間らしい望み通りの生活を送ることが出来ているかを計るための尺度として働く概念である。」
(出典:クオリティ・オブ・ライフ(ja.wikipedia.org))

Lebensqualität: „Mit dem Begriff Lebensqualität werden üblicherweise die Faktoren bezeichnet, die die Lebensbedingungen in einer Gesellschaft bzw. für deren Individuen ausmachen. Im allgemeinen Sprachgebrauch wird mit Qualität des Lebens vorwiegend der Grad des Wohlbefindens eines Menschen oder einer Gruppe von Menschen beschrieben.“
(Quelle: Lebensqualität(de.wikipedia.org))

試訳:「Lebensqualität」 という概念で表されているのは,通常,ある社会での生活条件, 場合によっては個人のための生活条件を構成するさまざまな要素のことである。 「生活の質」という言葉で表されるのは,一般的な言葉の使いかたでは, 一人の人間あるいはひとつのグループの[とりわけ]健康の度合である。

一読すると,日本語の定義の方が納得がいく,という人もいるかもしれない。 それは,この「生活の質」という表現の使いかたを説明しているからだが, 逆に言うと,その本来の概念規定をしていないとも言える。

それに対して,ドイツ語版の定義は抽象的で,一言で言えば 「生活条件を構成する要素」である。 用法から見た定義(機能的定義)として示されているのは,「健康の度合」 だが,ここでの「健康」は実はWohlbefinden であり,der Zustand, in dem man sich körperlich und seelisch gut fühlt. (Langenscheidt) のことで, Gesundheit が「病気にかかっていないこと」 という反意語からの意味規定を持つのとは異なり, 「人が肉体的、精神的にここち良いと感じる状態」のことだ。 そうすると,ドイツ語版の機能的定義は, 「人が肉体的、精神的にここち良いと感じる状態」には度合(Grad)があり, それこそが「生活の質」に言及する時に中心となる話題ということになる。

日本語版の説明がこの表現の「(医療現場での)使われ方」に中心を置いており, 情報源(Quellenangabe) が明示されていない点が 一番も気になる点だ。 ドイツ語版では,この概念が哲学,医学,宗教,経済, 政治における根本的話題であるとしながらも,「主観的基準」に基づく評価であることを指摘し, Arthur Cecil Pigouの定義や WHO(=World Health Organization) などの定義を情報源とともに示している。

英語版のWikipedia では, Quality of Life(disambiguation) に 6 つのエントリーを用意して曖昧性を排除しつつ, 経済的,哲学的な説明に限った説明として Quality of Life(en.wikipedia.org) が書かれている。豊富な情報源から書かれているが, いろいろな説明が混ざっているので読み辛い部分もある (実際に,あるセクションには,情報源からのテキスト内の引用(in-text citations) がないことから,「情報源が不明確である」とのコメントが付けられている)。

もちろん,Wikipedia はネット上で「成長」する 百科辞典だから,今後どのように書き換えられて行くのかは予想できない。 ただ,今の時点でのja.wikipedia.orgの「クオリティ・オブ・ライフ」 のような記述は,たとえ内容的に一定のレベルを越えているとはいえども, 「根拠の明示」が不足しており,参照すべきものを参照していないように思える。

『ウェブ進化論』(筑摩書房)を書いた梅田望夫が,『週刊朝日』 (2007.8.31: 119)でウィキペディアの日本語版に対して
「...日本ではアニメなどのサブカルチャーの記述の質が非常に高いことがわかります。ところが, 政治や学問など,いわゆるメインストリームの世界では残念ながら質が高いとは言えない。」 とコメントしている。

日本でも専門家,あるいは,専門家に極めて近い人達が,もっと積極的にウィキペディアにかかわっていかないと, 将来的に日本からの発信が貧弱なまま放置され,それを参照する人達も子供達や学生が中心になってしまうかもしれない。 よけいな危惧であればよいのだが。

世の中,失ってみて初めてその重要性が分かるものが多々ある。 個人のレベルでは,「健康」もそのひとつ。 今年は,相継ぐ体調不良でつくづく「QOL」の低下を実感させられてしまった。 おおかた回復した現在から見ると,悪夢のような日々だった。 周囲にも迷惑をかけてしまったことを反省している今日このごろだ。


Harry Potter 7  [07/28/2007]

7月21日,「時間 8時01分以降 お届け願います。」と書かれたシールが貼られ, amazon から午前中に Harry Potter and the Deathly Hallows が届いた。実は,この2ヶ月,体調不良のため家ではほとんど廃人と化し liegen している身としては,新しい本の到着は何よりのプレゼントである。 第6巻からは,イギリスのAdult Editionが気に入り,購入している。 装丁,特に表紙のデザインが気になっていたが, これは最初に破壊されることになるHorcrux であるロケット(locket) だった。 かなりリアルな仕上げの実物を作って,写真にとった感じだ。 もし,そんな具合に作ったとしたら,「新しく古いものを作る」 というイギリスの技術が活かされているのかもしれない。
ちなみに,タイトルにある Deathly Hallows は3つあるが,いずれも表紙の題材にするのは難しい。

さて, J. K. Rowlingは,この最終巻の結末部分を かなり初期の頃から決めていたという話を聞いたことがあったので, それなりに期待していたのだが, いったいどの部分が最初から決まっていたのだろう?
Nineteen Years Later という最後の章かもしれない。 だとしたら,私の趣味には合わない。
最後の一文あるいは二文だとしたら, これもまたハッピーエンドの紋切型と言わざるを得ない。

「面白かった?」とか,「誰が死んだの?」という質問を家人から受けたが, 前の質問には「まあね。」,後の質問には「さあね。」と答えることにしている。 これから読む人の楽しみを奪ってはいけないから。 アメリカでフライングをした書評が2つ出たというニュースがあったが, 「本を読む前に書評を読む」 という順序逆転のことをする人が世の中にはあいかわらず存在し、 そういう人達をターゲットに書評を書く人もいる,ということだろう。 おそらくそれ以上に「本は読まずに書評だけを読む」という人達も多いはず。 困ったものである。

少しだけ内容について書くと,Snape の扱われ方が, 注目すべき変化である。というか,Harryと, Dumbledore, Snape の関係,HarryVoldemortの関係の変化が面白い(まあ,これは当然か)。 Dumbledoreの予知した(計算した)通りにHarry がならないあたりがどうも読んでいてすっきりしなかった(私の読解力不足か?)。

さて,最終巻である第7巻には,ドイツ語の文が2つ登場する。
VoldemortGrengorovitch を探しに行った時に登場する無名の女性が

Er wohnt hier nicht mehr!’ she cried, shaking her head.
...
Das weiß ich nicht! He move! I know not, I know not!’
と言う。 (P.191)

問題は,ドイツ語翻訳版で,この2つの文をどう扱うか、である。 ドイツ語翻訳版では,地の文はすべてドイツ語になるので, この2つの文は,そのままのドイツ語では「埋もれて」しまう。 考えられる安易な解決方法は,1番目の文なら伝達文(she cried)に, auf Deutsch を付ける,というやり方 (schrie sie auf Deutsch)。 だが2番目の文では,そうはいかない。(ドイツ語訛り?の)かたことの英語も, そのままドイツ語にしたら意味はなくなってしまう。さてさて, ドイツ語への翻訳はどうするだろう?

ドイツ語と言えば,英語化されたドイツ語が1つ目についた。 doppelgängers と英語複数形になっていたが, 確かに英語の辞書に出ている。もちろん,ドイツ語では, Doppelgänger の複数形は, Doppelgängerのままです(語尾はつきません)。


「退化」は「進化」の逆ではない!  [04/22/2007]

「現代人は退化している」とか,つい口走ってしまうことがあるが, 「退化」は「進化」の逆ではない, と言われたら,ちょっと耳を疑うのではないか.

犬塚則久著『「退化」の進化学:ヒトにのこる進化の足跡』 ブルーバックス B-1537,講談社(2006) を読んだ.実は,読み終えるのに2週間もかかってしまったのだが, それには,それなりの理由がある(この点に関しては後で). 読書後にも,ヒトを系統発生から見るという冒険の余韻が残る本だった.

まずは,「退化」についての同書の指摘 (P.18) を引用しておく.

...「退化」はもともと degenerationreduction の訳で退行、形成不全、縮小という意味である。 ところが「進化」の逆が「退化」と誤解されている。 たしかに「退化」は器官が小さくなったり、数が減ったり、 形が単純化したりすることだが、決して進化の逆ではない。 むしろ進化にともなっておこるので、退化は進化の一部だといってもよい。
犬塚則久著『「退化」の進化学:ヒトにのこる進化の足跡』P.18 より

「進化」(evolution)の逆として,英語では, devolution という単語もあり, 「退化」という意味も確かにあるが,生物の進化という文脈ではあまり使われないようだ. 言われてみるとあたりまえなのだが,たとえば馬の進化は,「体が大型化するとともに足の指が減っていった」 (P.17) のであり,足の第二,第四,第五指が短縮・消失していったのは, 「退化」と呼ばれるが,馬の(指の)進化のプロセスの中にあるわけだ.

同書は,4億年前から始まり,ヒトの誕生(250万年前)まで時代を下り, 突然,誕生前の話になる.これは,「個体発生は系統発生を繰り返す」 というヘッケル(Ernst Haeckel) の考え方を継承しているからだ.

興味深い進化の歴史をヒトは,体内のさまざまな部分に残している. 目次から,その一部を拾ってみると,「耳の中にサメの顎」, 「耳の穴はエラの穴」,「魚の心臓のなごり」,「口の中のサメ肌」, 「エラ呼吸のなごり」,「頭のてっぺんにトカゲの眼」などなど.

ヒトの成長を個体発生としてみると,単純に「おとなになる」 まで(18歳とか20歳?)が成長であるように思ってしまうが, 例えば頭の骨(6枚の骨)が完全に癒合(ゆごう)するのは, 40歳すぎなのだそうだ(P.80).
もう少し詳しく言うと,前頭骨×1,後頭骨×1,頭頂骨×2,側頭骨×2があり, 頭の上にある,それらの骨の大きな隙間である大泉門が閉じるのが2歳ごろ. 左右の前頭骨は,8歳ごろに閉じるが,思春期以降もこの境界が閉じない人もいる. 左右の頭頂骨のあいだは22歳頃に閉じ始め,35歳で完全に癒合. 頭頂骨と後頭骨のあいだにいたっては,40歳すぎに癒合するのだそうだ.

なんとまあ長期間かかるのだろう,と感心するとともに, 実は,ヒトの成長というのも, 体の部位によって速度が全然違っていることを今さらながらに, 思い知らされる.睫毛(まつげ)は, 幼児の頃に成長しきってしまうという話を,昔どこかで読んだ記憶がある.

『「退化」の進化学』を読んでいて悩まされたのは, 解剖学上の身体部位の名前だ.そう,漢字のオンパレードで, 振り仮名がふってあるものもあるのだが,振り仮名のないものもかなりある. 敢えて読み方なんか無視して先に進めばよいのだが,気になってしょうがない. 医学部生は,みんな覚えるんだっけ,と思いながら,読みをチェックしてしまい, 時間がかかった.

最後の難関は,第8章「男と女のはざま」だった. もう少しで終わるというところで,電車の中で読んだり, 他の人がいる所で読んだりできないような図解の連続となった. 正々堂々と広げて読めばいいじゃないか,と言われそうだが,言うは易し行なうは難し.
この章の小見出しを並べて見れば,およその見当は付くだろう. 「男の乳首」,「男性の子宮」,「曖昧な男女の境」,「精子の長い旅」, 「失われた発情サイン」. かくして,人に見られないようにして,最後の章を読むはめになった. 別に「いやらしい話」は,微塵もないのだが...


Prolog zur deutschen Grammatik が重版になりました  [04/15/2007]

拙著Prolog zur deutschen Grammatik 2004(郁文堂)が重版になりました. 3年かかって重版というのは,決して売れ行き好調というわけではないのですが, それでも突然,「あの文法書を使っているよ」と思わぬ人から言われたりすると,うれしくなります. 文法の説明が書いてあるから,という理由で,なぜかドイツ語ネィティブの先生方が, 参考書的に学生に購入を勧めていることもあるとか. 文法格の表示順序を,1 4 3 2 にするだけで, いやがる人もいますが,だからこそ勧める人もいます.

重版にあたり,Prolog zur DG, Errata(初版)に挙げてある間違いはすべて修正しました. もちろん,その修正をしたのは,今年の3月あたりの話なので,それ以後, 何らかの間違いが見つかるかもしれず,その分は,引き続き,Prolog zur DG, Errata で公開していきます.

さて問題です. 初版と,今回の重版の違いをどうやったらすぐに見分けることができるでしょうか? 初めの内は,わざわざ奥付を見て,

2004年4月1日 初版発行
2007年4月1日 第4刷

と書いてあるものが新しい,と思っていました.もちろん,これでも見分けられるのですが,
簡単なのは,裏表紙です.右上にバーコードが2つ 付いていて,その左に 13桁の ISBN が付いているのが新版です.

2007年1月1日から,新しい13桁のISBN 規格が正式なものとなり,それまでの,10桁のISBN は,昨年までの移行期間を経て,無効になったんです. 今頃になって知りました.

詳しくは,有限責任中間法人 日本出版インフラセンター,日本図書コード管理センター から出された,2005年5月の文書, ISBN(国際標準図書番号)規格改定等について お知らせ を参照して下さい.

Prolog zur deutschen Grammatik の 13桁の ISBN は, 978-4-261-01197-5 で,以前の10桁のものと比較すると, 先頭の978 が増えているのと,最後のチェックデジットが異なっているだけです. 先頭の978 は,「EAN書籍出版業コード」 と呼ばれています. EANとは, 「ヨーロッパ商品番号」(European Article Number) のこと. その名の通り,ヨーロッパで作られた商品全体にかかわるコードで, 978 が書籍用です.
ついでに,解説しておくと,次につながる数字の「4」は日本, 「261」が出版社記号,「01197」は書名記号です. EAN の次に国名が来る, と考えるのは,ちょっと不正確で, 「0」あるいは,「1」の場合は,英語圏(アメリカ,イギリス,オーストラリア,ニュージーランド,インド等), 「2」がフランス語圏, 「3」がドイツ語圏(ドイツ,オーストリア,スイスの一部など), 「4」が日本,のように割り当てられています.

ついでに「978-4-261-01197」のチェックデジットも計算してみると,

奇数桁合計×1(9+8+2+1+1+9)×1=30 …(1)
偶数桁合計×3(7+4+6+0+1+7)×3=75 …(2)
(1)+(2)30+75=105 …(3)
10−((3)の1桁目の数字) 10−5=5 …(4)

ということで,チェックデジットは 5 であることが分かります. その結果,ISBN は,「978-4-261-01197-5」となります.

今となっては古くなってしまった10桁のISBNを,13桁にするのは簡単です. 上の説明にもとづけば,(1) 古い10桁のISBNの先頭に EAN (978)をつけて,(2) 古い10桁のISBN の最後に付いているチェックデジットを取り, (3) できあがった12桁のISBNをもとに,チェックデジットを再計算して,末尾に加えればいいわけですね.

古いISBN のチェックデジットの計算方法は,上で見た方法とは違い,
(1) 古い10桁のISBN の最後に付いているチェックデジットを取り,
(2) 左側の桁から[10 9 8 ... 2] をそれぞれかけてその和を計算し,
(3) その和を11で割り,
(4) その余りを11から引く
というものです.

古い10桁のISBN の最後に付いているチェックデジットを取ったものが, 「4-261-01197」…(1) の場合,チェックデジットも計算してみると,

[10 9 8 ... 2]をそれぞれの桁にかけて,その和を求める 10×4+9×2+8×6+7×1+6×0+5×1+4×1+3×9+2×7=163 …(2)
(2)÷11163÷11=14 あまり 9 …(3)
11−((3)の余り) 11−9=2 …(4)

古い10桁のISBN の9桁が「4-261-01197」の場合,チェックデジットは「2」 となりました(科学技術電卓を持っているなら, MODを使うと 163 MOD 11 で余りは一発です).

ISBN は, かつてはベルリンにあった任意団体「ISBN 国際センター」が取り仕切っていましたが, 今では,ロンドンに移り International ISBN Agency という法人が管理・運営しています.前掲の ISBN(国際標準図書番号)規格改定等について お知らせ (2005年5月)によると

35年間にわたり、ドイツ連邦共和国国立図書館及びプロイセン財団が負担し、 加盟国に費用の分担を求めてこなかった運営費を、今後3年かけて加盟各国が分担する方法に変更する。

そう,今年は,2007年だから, まだ加盟国が運営費を負担する状態になっていないことになります. うーん,知らなかった.ここで「プロイセン財団」と呼んでいるものは, おそらくStiftung Preußischer Kulturbesitz (プロイセン文化財財団)のことでしょう.
なお,英語圏では,本の商品番号「978」を2007年中にも使い果たすのではないか, と言われているらしく,その場合には,「979」が追加で割り与えられるそうです.
Prolog zur deutschen Grammatik の話が, ISBN の話になってしまいました;-)


StraßburgFlammkuchen  [04/06/2007]

Flammkuchen aus Straßburg

ついにアルザス地方の中心都市,シュトラスブール[Strasbourg](ドイツ語読みでは, シュトラースブルク[Straßburg]) のレストランで撮影した Flammkuchen の写真を送って頂いた.感謝! なんでも2004年の冬に撮影したものだとか. 以下に,送って頂いた方のコメントを引用する:

一番近いのは、 Zwiebelkuchen(生地+生クリーム+たまねぎ+ベーコン)です。 Zwiebelkuchenは持ったときに指が油っぽくなるパイっぽい生地なのだと思いますが、 Flammkuchenはかなり薄いピザ生地なのではないかと思います。もちもちしていないし、 たぶんイースト発酵のパン生地かと。
生地にはサワークリーム( Zwiebelkuchenより酸味があるのはそのためか)が塗られていていました。
その上にベーコンとたまねぎに散らしてあるだけなのですが、 火があまり通っていなかったような印象があります。 たまねぎが「とろーん」とはしていないし、ベーコンもカリカリでもなかった。

なるほど,見かけはピザに良く似ていても,薄っぺらくて,サワークリーム(Crème fraîche) が塗ってある,というあたりがかなり違いそうだ.「火があまり通っていない」 というのは,意外な気もする.

決め手に欠く状態から抜け出すために,さらにネットの中をさまよってみると, http://www.flammkuchen-konzept.de/ というサイトを発見.ここ「炎の師匠」(Maître Flambée) という店では,フラム・クーヘンの生地板 (Teigboden) を 販売している.そこには,フラム・クーヘンの説明と由来が書いてあることを発見した. それほど詳しいものではないが,箇条書きしてみると:

Flammkuchen は,
・フランス語では,la Tarte Flambée と言う.
・かまど(Ofen) で焼く.
・百年以上の歴史がある.
・起源:フランス領(?)アルザスの農家では,自宅のかまどでパンを焼いていた. その際,かまどの温度を調べるために,薄く延ばした生地を,かまどの中に入れていた. そのうち,パンを焼いた後のかまどの温かさを利用しようと, 薄く延ばした生地の上に,クリームを塗り,タマネギ,ベーコンをのせてかまどの火の中に入れたのが始まり.
・かまどから出す時に使う板の上にのせたままで食卓に出し,ナイフとフォークは使わずに, 6〜8等分されたかけらを手で巻いて食べる.
・今日でもアルザスでは,楽しい「人の集まり」に出されるが,普通のフラム・クーヘンを食べた後で, 甘いデザート・フラム・クーヘンを食べる.
などなど.

いつ頃できた料理なのかは,依然として不明だが,百年以上の歴史があるらしい. アルザスと言えば,複雑な歴史を持つ地域だ. アルザスは,かなり昔からバイエルン王家の勢力下にあった地域だが, 1648年のウェストファリア条約によりフランス領となり,1871年普仏戦争の結果, 一部を除きドイツ領となるが,第一次世界大戦後, 1919年ベルサイユ条約でフランス領に戻った.その後,第二次世界大戦中の1940〜44年ドイツ軍が占領, 1945年以降は,フランス領だ.ということは,百年以上前のフラム・クーヘン成立時には, ひょっとしてドイツ領だったのか,と考えてしまうが,問題は国ではない.

1911年に地方自治が認められ,1925年までは自治制がひかれていたが, フランスの同化政策で自治制が廃止され,一時は反仏運動も起きていた. が,しかし,今ではそんな声も聞かれなくなったようだ.

アルザスの人々によって作られたフラム・クーヘンは, 今ではバーデン地方やプファルツ地方でも食べられるようになった. さて,日本に進出するのはいつのことか? できることなら,どこかのファーストフード店のメニューではなく, フラム・クーヘン専門店がお店を開いて欲しいものだ. いやいや,やはりアルザスでしか食べれない,という方がいいのかもしれない.


Freiburg の Flammkuchen  [04/03/2007]

Flammkuchen aus Freiburg

フライブルク(Freiburg)Flammkuchen を食べた,という方から写真を頂いた(感謝!).まるでピザのような趣きである. 食べてみないと分からない,作ってみないと分からない, というのが本当のところだが, 貴重な写真を右側に貼り付けさせてもらった. 木の板の上にのせられて出てきて,焦げ目がついているのが分かる. 手前のフラム・クーヘンには,生クリームがのっているが, このトッピングはクランベリー(?)らしい. もちろん,このスタイルは,意図的にピザ的な雰囲気を出しているこのレストラン特有なものかもしれない. 「どこどこでフラム・クーヘンを食べた」という情報,引き続き募集中です. もちろん,「アルザスで手作りのフラム・クーヘンを食べました」という情報が, 一番ほしいのですが.




Flammkuchen の作り方 [03/19/2007]

EX-WORD (XD-GW7150)の使い心地 で,思わぬ方向にずれて,Flammkuchen の話になってしまったが,作り方が知りたいという要望に答えて, Marions Kochbuch というサイトを紹介しておくことにした.このサイトでは, 2007年3月19日の時点で,2750ものレシピーが紹介されている (ただし,ドイツ語と英語).そこに, Elsässer Flammkuchen の作り方が,写真とともに解説されている. ちなみに,Flamm は,前回の話にもあったように, Flamme (炎)から来ていると考えられるので, さしずめ和訳すると「炎のケーキ」となる(ちょっと驚いてしまう名前だが). Federweißとか, Baujoulais Primeur といった 「発酵し始めのワイン」と一緒に食べるとおいしい,と解説されている. さて,Marions Kochbuch で紹介されている作り方を簡単にまとめると:

上記のサイトから
材料(3人分):小麦粉: 250g,イースト: 20g, ミルク: 大さじ5, 砂糖: 大さじ 1/2, 塩: 小さじ1/2, 卵: 1個,油: 小さじ1,サワークリーム (Crème fraîche): 200g, コショウ: 少々,ナツメグ: 少々,タマネギ: 300g, ベーコン: 70g

(1) ボールに小麦粉を入れる.
(2) イーストを生ぬるく温めたミルクと混ぜ,それに加える.
(3) 砂糖,塩,卵,油を入れ,パン生地に練りあげる. (ボールの縁からはがれなくなった場合には,水を数滴加えても可)
(4) パン生地を取り出し,およそ30分,暖かい所で寝かせる.
(5) 少し打ち粉をして,ロールで長く平たく伸ばす.
(6) サワークリームを上に厚めに塗り,ひきたてのコショウとナツメグをまぶす.
(7) タマネギを細切りにして表面にのせる.
(8) ベーコンを食べやすい大きさに切り,その上にのせる.
(9) ベーキングペーパーを敷いた焼き型に入れ,オーブンの中段で, あらかじめ温めておいたオーブンで,200度で約35分焼くと完成.

サワークリーム(Crème fraîche) が,やや入手困難かもしれない.結構簡単にできそうだが, キッシュとの違いが気になる.そんな方は, Marions Kochbuch に, Quiche Champignon, Quiche Lorraine, Quiche du Payanet も載っているので, 比べてみると面白い. ということで,本日のお料理講座はおしまいです.


ノートパソコンのバッテリーはいつまで製造しているのか? [02/12/2007]

持ち歩いているノートパソコン(IBM ThinkPad X31) のバッテリーがいよいよへばってきた.本来は,バッテリー駆動で 5.2時間 (JEITA 1.0)もつはずだが,拡張用Li-ion バッテリー・パック (02K7046/02K7045) を装着していても, フル充電して 1時間ともたない状態になっていた(そもそも, ノートパソコンのバッテリーの寿命は2年程度なので, 予備を最初から購入しておくのが賢明だ). そこで,2006年11月頃からバッテリーを購入しようと思い,Lenovo のサイトをさまよってみたが,結局もう製造していないことが判明した. 正直言って,あせった. ThinkPad X31 は, 2003年3月12日に発売されたのだが, 2006年11月の時点では,もうバッテリーを製造していなかったことになる.

どこにもノートパソコンのバッテリー製造期限について明記されていないので,以下は想像である. 「ThinkPad X31 は,ThinkPad X32 が2005年4月20日に発売になった時点で製造中止となった. その後,一年間ひょっとしたら,バッテリーも製造していたかもしれない.」
ThinkPad X31ThinkPad X32 のバッテリーは微妙に端子の位置が違っていて互換性がなかったようだ.)

次にやったことは,どこかの店でまだ在庫が無いかどうかをチェックすることだ. すると,Amazon に, ThinkPad X シリーズ用バッテリーというのを発見. X シリーズと言えば,当然, X31 も含まれると考えるのが普通だと思う (並列して,X20 シリーズや,X40 シリーズがあり,製品名としては,X31, X32, X41 があったので). 念のために型番を見ると(その時は)08K8024 となっていて, 今使っている08K8040/08K8049 とは違っていた. ただ,製品番号が変わっても互換性のある部品が作られるということは, よくあることなので注文してみた.結果として,大外れ. さっそく返品し,返金してもらうはめになった.
 後になって分かったのだが,この08K8024 というバッテリーは,ThinkPad X20 シリーズ用のバッテリーだった.

ノートパソコンの Li-ion バッテリー・パックは, 個人で中味を入れ替えられるような構造にはなっていない.しかし, 世の中には,ノートパソコンのバッテリー・パックを引き取って, 中のLi-ion 電池を新しい物と交換する リフレッシュ・サービス をしてくれる店がある. この際,そのようなお店に頼むことにするか,と考えていたが,それでは, バッテリー無しの状態が2〜3週間とか続いてしまいその期間,困ってしまう.途方に暮れていたのだが, 中古バッテリー を探すという手があった. 秋葉原をさまよう時間もないので,ネットで見ると確かにある. 今回は,IBM/Lenovo 製品を中心に扱っている Be-Stock PC Internet ShopThinkPad X3x シリーズ用のバッテリーを発見し, 一応,X31 で使えるかどうかメールで確認し, 注文した.2〜3日の内に,Rank A のお墨付きのバッテリーが届き,再び,バッテリーに余裕のあるマシンに戻った(感激). (すべて込みの値段で,\6,825だった.)

それにしても,ノートパソコンのバッテリーの製造期間を明記する義務はないのかな? 誰も文句を言わないから,製造業者は黙っているのかな? バッテリーの使い回しというのは,環境問題に直結しているのだから, 法的整備をして,製造業者がきちんと責任をとって, 製造・販売・回収をするべきではないか,と思う.

私は,ThinkPad X31 を2003年10月に購入したから,使い始めてからまだ3年4ヶ月だ. ちまたでは,ノートパソコンの寿命を2〜3年だと公言する人達もいる. 「いや,少なくとも5年は使えますよ」と,私は常日頃 主張してきたが, 今回のように, バッテリーの製造中止なんてことが3年以内に起きていたりすると, 5年使えますなんて言えなくなる.今回は,IBM/Lenovo のケースだったが, 他社のノートパソコンでは,こんなことはないのだろうか?

大量消費時代なので,短期間に新製品が開発されて世に送り出され, 新製品の命は短いThinkPad X31 は, それでも2年間位は販売されていたので,長寿の方だったかもしれない. 場合によっては,半年で新製品なんてこともありうる世界だ. では,新製品がみんな素晴らしいかというと,もちろん,そうはならない. 新製品開発の現場は,ハードウエアも, それをコントロールするソフトウエアも開発期間の短さに悲鳴を上げているはずだ. 良心的な技術者達は,決められた期日内で「満足のいくレベルに到達していない」 製品を出荷せざるを得ない状況に苦しんでいないだろうか? 出荷した後から,ソフトウエアのバージョンアップで対応する, というやり方も,新製品が増えれば増えるだけ負担になっていく. 新製品を出さないと業界の中で,淘汰されてしまう. 矛盾に満ちた過酷な世界だと思う. これは消費者の側にとっても,安心して商品を選べない時代を意味する.

【今,一番過酷で「キワドイ」製品は,携帯電話. あんなに,どんどん新しいモデルを出して,本当にきちんと検査しているのだろうか, と考えてしまう. 実際に,製品の不具合に関するニュースも報道されているし, 現場にいた経験者からも話をきいたことがある.】

折しも,Windows Vista が先月発売になった. こんな時は,もちろん,よいパソコンを格安で手に入れられるチャンスだ. Windows XP 搭載の, 安定したパソコンを選べばよい(実は,そんなに簡単ではないのだが...). Windows Vista は, それなりに時間をかけてテストされてきたようだが, 実際にさまざまなメーカのマシンで, 今までと同様のソフトウエアが安定して動作するかは未知数だ. 1つの新しい(版の)OS で,ミッション・クリティカルな仕事をする場合, その動作を検証するには,通常何年もかかるんですよね. 「あっ,そんなにパソコンを信頼した仕事をしていないんですか?」 だったら,最新のパソコンを追っかけても,まったく問題はありません(笑).


ドイツの『犬の生活』 [02/02/2007]

Hundeleben という語がある.直訳すると,「犬の生活」 だが,ein Leben in Armut und Not (Langenscheidt) 「困窮した生活」 のこと.では,ドイツの犬たちは,そんなに悲惨な生活を送っているのか, と言われると,まったくそのようには見えない.悠々と紐(Hundeleine) で引っ張られることもなく人間と一緒に街中を歩き,信号が赤ならちゃんと止まる. 「どうやったらあんなに良くしつけられるのだろう?」と常日頃から思っていた. 「犬と子どもはドイツ人にしつけてもらえ」なんていう言葉もどこかで聞いたことがある.

そんな疑問に答えてくれるのが, 福田直子著『ドイツの犬はなぜ吠えない?』平凡社新書359)だ.2007年1月11日に発売された本だが,筆者は, 『大真面目に休む国ドイツ』の著者でもある.フリーランスのジャーナリストとして, 滞独歴15年,さまざまな知識と体験を持っているだけではなく, 独自の観察眼を持っている人だ.

最初に言っておくが,もちろん,ドイツの犬も吠えます. 筆者が言いたいのは,まったく吠えないということではなく, 人間を困らせるほど,「吠えまくる」ことはない,という点にある. ただそれだけのことなら, ドイツでの犬のしつけの仕方を紹介して終わってしまうかに思われるが, <動物と人間の関わり>という視点で見れば,実に多くの社会背景が見えてくる.

同書によれば,ドイツには,500万匹の犬がいるそうだ. 猫は690万匹で, 数からすると猫の方が多いが,この数字,必ずしも正確ではないようだ. 犬の数に関しては,「犬税」(Hundesteuer) という地方税があるので,その税金を払っている人の数からおよその数字が分かるが, 「猫税」はないので,猫に関してはおおざっぱな推定でしかない.ただし, 「犬税」を払っていない「もぐりの飼い主」もいると考えられるので, 犬の数も実は正確ではない.

『ドイツの犬はなぜ吠えない?』を読んでみて,改めて学んだことは数多いが, その中のいくつかのトピックをピックアップておく (自分で読む人の妨げにはなりたくないので).

・犬を飼うには,税金を払わねばならない.(犬税)
・ドイツには,1993年から「動物保護党」 (Die Tierschutzpartei)がある.
・動物保護団体は,たくさんあり,その活動は日本に比べて非常に活発であり,過激ですらある.
・動物保護運動は,しばしば菜食主義と結びつく.
・シェパードは,意図的に作られた犬種だった (というか,犬は,近代において人間が勝手にかけ合わせて, いろいろな「血統」を作りあげてきたものだった).
・「動物の家」(Tierheim)は, 全国に500〜700もある施設で, 飼い主のいない犬猫などの動物を引き取り,世話をしている.
  ・ドイツの憲法(基本法)には,動物保護の条文がある.

この他にも秋田犬(あきたいぬ)とGreat Japanese Dog (別名:アメリカン・アキタ)の話,200もの単語を覚えて聞き分けるボーダー・ コリーのリコ(Border-Collie Rico)の話(例えば, http://www.wissenschaft.de/Rico hört aufs Wort ,2004年6月11日 参照), 東西の国境警備についていたシェパードの話も紹介されており, いろいろなことを考えさせられた.

ドイツの憲法(基本法)に「動物保護」が含まれているというのは, 知らなかったのでさっそく確認してみた.『ドイツの犬はなぜ吠えない?』 P.188 には, 次のような説明がある(引用).

...ドイツで,「動物の権利を基本法に」という議論が始まって10年。 1998年にドイツで政権についた社会民主党と緑の党の連立政権も, 「動物の権利を基本法(憲法)の20条a に盛り込むこと」を「国家的目標」 の1つとしたが,そこまで到達するには合意ができていなかったため, 幾度か廃案になっていた。
 しかし,2002年5月17日,第14期のドイツ連邦議会第237会期で, 賛成577票,反対19票,棄権15票により,圧倒的多数で「動物保護を基本法に盛り込む」 ことが可決された。20条a には, 「国は次世代のために自然の生活環境を責任を持って保護する」というもとの文面が, 「国は次世代のために自然の生活環境と動物たちを責任を持って保護する」 へと,新に「動物たち」という言葉が加えられた。
(赤字は筆者による)

そこで,現在の基本法を調べてみると,

Artikel 20a
[Umweltschutz]
Der Staat schützt auch in Verantwortung für die künftigen Generationen die natürlichen Lebensgrundlagen und die Tiere im Rahmen der verfassungsmäßigen Ordnung durch die Gesetzgebung und nach Maßgabe von Gesetz und Recht durch die vollziehende Gewalt und die Rechtsprechung.

確かに,「動物たち」(die Tiere) が基本法に入っている. うーん,すごい! 日本の憲法に「国は,動物たちを保護する」なんて, 永久に入りそうもない.日本では,せいぜい動物保護条例がいいところか. 自然環境という視点から見たら,植物だけでなく動物も入るのに, 人間が食べる動物や人間に害になる動物,希少動物は気にしても, 広い意味での日本に住む動物全体の保護を気にする,なんて発想がそもそも欠如している.

そう,この本のおかげで1つ謎が解けた. それは,「なぜ,ドイツの街中では猫が歩いていないの?」という疑問. 実は,「動物の家」(Tierheim) の人達が, 街中をうろついている動物を発見すると,保護して,「動物の家」 へ連れていっているらしい.猫の場合は,そこで避妊手術をして, 引き取り手が現われるまで,保護する仕組みがある. どこぞの国のように,いきなり保健所送りで,引き取り手がいないと安楽死, なんてことはない. 参考までに,ベルリンにある「動物の家」(Tierheim Berlin) のサイトをリンクしておく.保護されている動物達の様子がちょっと分かる.

「ドイツの街中では猫が歩いていない」もう1つの説明は, 猫は家の中で飼われているから.噂では, 家具を傷つけないように猫の爪を抜いてしまう人もいるとか(未確認です). よく街中を歩きながら,道に面した建物の窓を見ていると, 猫が外を見ていたりする(これは経験談).

我が家で,昨年の8月に保護した猫は,今では,体重2.4kgにもなり, 家の外には出ずに,家の中で鉛筆や消しゴム,ピンポン玉などを相手に, 日夜ドリブルの練習をしている(将来は「サッカー猫」としてデビューさせるかも). 自然に返してやりたい気持ちは,今でもあるのだが,母猫と極端に相性が悪いので困っている. 人間関係も難しいが,猫関係もなかなか難しい.


「考えることを思い出させる」方法 [12/23/2006]

世の中,怖い物に満ちている.ポロニウム210,ノロウイルス,トランス脂肪酸. 地球レベルでは地球温暖化,日本を含む一部の地域では少子化も非常に怖い. そして,世界的に広まりつつある国家主義的傾向や, 政治に対する無関心,貧富の差の拡大も深刻だ.ただ, そんな中で物質的な危機的状況よりも私が危惧するのは,人間の精神的な危機だ.

以前から心配していることは, 「思考停止人間」の増加によって,民主主義が破壊され, 一部の指導者が「自由に世界を操れる」社会が到来するということだ. 日本も,そのような方向に進んでいるように思える.怖い怖い.

考えなくなった人間に,再び「考えることを思い出させる」, これが今,教育に求められる最大の課題ではないか, なんて思う今日この頃だ.

いじめ問題にしても,命を軽視する傾向にしても,そもそも「弱肉強食」 論理の動物界から離れて,なぜ人間が「弱者救済」の人間社会を考えるに到ったか, その根本的な考え方を忘れていることと無関係ではない. 弱い者をいじめるのは簡単だし,弱い者が強い者に退けられ, 淘汰されるのは,動物界では自然なことがだ. 人間は,弱者であっても一個人として同じ機会を与えられ, 権利を有する存在でなければならない.そこには, 社会的弱者の立場を考え,理解し,思いやる心 が必要である.しかし,そもそも「思考停止人間」には,それができないのだ.

では,再び「考えることを思い出させる」 にはどうしたらよいだろうか? ここに1つの簡単な方法を紹介をする(ちょっと大げさ).

(1) 準備段階-A:まず,テレビと携帯電話,音楽のスイッチを切る.
  理由:思考するには,静かな自分と向き合う時間が必要なので.

(2) 準備段階-B:短い文章を資料として用意する.
  理由:何もないところで,思考することは「思考停止人間」にとって非常に難しいから.

(3) 課題-1:その短い文章の内容に関する5つの質問を「考え出して」もらう.
  補足説明:5つでなくてもかまわないが,これが第一のチャレンジとなる.

(4) 課題-2:その質問を考えついた背景(想像したこと)を説明してもらう.
  補足説明:第二のチャレンジとして,その質問を思いついた理由を想像力で補って説明することで,考える機会を与える.

具体的に例を示そう.資料となる短い文章には,十分な背景が想像できるような情報が含まれている方がよい (そんなに難しく考える必要もないのだが).二人でやってもよいし,一人でやってもよい(二人の方が,当然,面白い). 以下に,例題とそれに対して考えた質問の例をあげる.ここで注意すべきことは, 知識として間違っていることを責めたり,間違いを恐れてはならない,ということ.

例題-1
鮭という漢字は,「サケ」あるいは「シャケ」のことだが,本来は,「フグ」の意味である.

[1] 魚偏(さかなへん)の漢字はいくつありますか?
[2] なぜ「サケ」と言ったり「シャケ」といったりするのでしょうか?
[3] 「サケ」と「シャケ」のどちらが正しい読み方ですか?
[4] なんで本来「フグ」の意味だったものが,「サケ」あるいは「シャケ」 になったのでしょう?
[5] 「サケ」あるいは「シャケ」と「フグ」は,何か共通点がありますか?

例題-2
コーヒーは,オスマントルコがヨーロッパに持ち込んで広まった.

[1] コーヒーを最初に作って飲んだのは,どこの誰?
[2] オスマントルコの「オスマン」というのは,どんな意味?
[3] ヨーロッパのどこに最初にコーヒーが持ち込まれたのか?
[4] ヨーロッパにコーヒーが持ち込まれた時は,どんな風に飲まれていたのか?
[5] 何がきっかけで,コーヒーが広まったのか?

質問を考える,あるいは,疑問点を洗い出すことは,考えることの第一歩だ. そこから,想像が始まり,議論が始まる. 質問がまったくでない授業,それがいかに思考停止状態にあるか, 小学校の頃に戻って(あるいは大学の授業に戻って(笑))考えてみればわかるだろう. だから,まずは,質問作りから始める. 質問がきっかけで,話が発展する,その楽しさを味わえれば, 先に進めるはずだ.

一人でやると,自分で分からないことを調べることになり, 勉強にはなるが,「思考停止人間」にとっては辛くて続けられなくなる. だから,二人で楽しみながら,いろいろと「あることないこと」 を想像しながらやるのがお薦めだ.

重要なのは,時間をかけてやること. 分からないことでも,想像することは楽しい. 話し相手が想像したことを受けて,さらに,想像の世界を広げることも楽しい.

アカデミックにやりたいのなら,ネットで検索をかけ, 検索データの真偽を問いながら,議論を進めるのも効果的だ.

「好奇心を持つこと」,「知らないことを知ること」は, 素朴に楽しいことである.考えることは,そこから始まる.
えっ,課題の答えを出せって? こっちから,「一つの答え」 を出しちゃったら,もうその話は終わってしまい,面白くなくなる. 答えが簡単に出てこないところが面白い,それを理解することも, 「考える意味」を再認識することにつながる (試験の解答を見て,まるつけをすると,もうその問題に興味がなくなるでしょ.それじゃあ,「考える」 ことはできないわけ).


3冊の本 [12/03/2006]

このところ,「夜討ち朝駆け」的生活が続いているので,書く機会を逸してしまっている. 今日は,前々から書くつもりだった,私が最近読んだ本の中から3冊を紹介する. と言っても,どれもありふれた本ではない.ある程度の知識と若干の覚悟(?)がないと読めないかも知れない.

(1)  石山禎一・牧 幸一訳『シーボルト日記 ─ 再来日時の幕末見聞記』八坂書房, 2005年(ISBN4-89694-855-6, 本体4,800円+税)

(2)  水林 彪 著 『天皇制史論 ─ 本質・起源・展開』岩波書店,2006年, (ISBN4-00-024022-6, 本体3,800円+税)

(3)  野崎昭弘 著 『不完全性定理 ─ 数学的体系のあゆみ』 ちくま学芸文庫4-1,筑摩書房,2006年(ISBN4-480-08988-8, 本体1,100円+税)

(1) 『シーボルト日記 ─ 再来日時の幕末見聞記』
著者は,その名も知られたシーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866). 幕末に来日したドイツ人医師.1823年に27歳の若さで来日した時は, 長崎出島のオランダ商館医として従事したため, シーボルトを蘭学との関係で見ることが日本では多かった.しかし,シーボルトは, ヴュルツブルク(Würzburg)生まれのドイツ人だった.

さて,この本だが,シーボルトの自筆『独文日記』(1861年1月1日から62年1月2日) の全訳を中心に訳出すると同時に,これまで出版されているシーボルト関連の書物や資料をもとに, 詳しい註釈や資料の写真や絵をふんだんに盛り込んだものだ. この点で,この本の著者は,シーボルトだけではなく, これだけの資料を検討し註釈をつけた訳者2人にもある,と言える. 実際に,註釈を読んでいるといろいろな発見があって,楽しいのだ. このような本は,必ずしも最初から読む必要はない. 好きなところをぱっと開いて,読んでみることができる.

シーボルトは,医者であっただけでなく,動植物学にもたけており,また, 江戸幕府との政治的・外交的な関係を持っていたため, 当時の幕府の様子や,関係した人物の描写, さらに当時の人々の生活の様子や変わりゆく人々の生活も書き綴っている. 例えば:

「江戸周辺では都市から十里以内の距離では、火器を使用することが禁じられている。 このため、そこではウサギ、キジ、カモ Ente、ガン Wild Ganse が頻繁に見られ、 極楽の中のようにおとなしい。これに対して、 長崎近郊では年がら年じゅう狩りが行なわれる。シカはいなくなった。 イノシシ Wildschwein、そしてウサギと二種類のキジ Kisi は日増しに減少している。外国人がこれらを使って食卓を満たしているからだ。 キジは笛で、ヤマドリは餌を撒いて誘い出す。キジは三月の終わりに巣作りをし, 若い雄鶏 Hahn のように鳴く。その際、羽をばたつかせる。」 同書 P.73 1861年3月22日の覚書より

この記述から想像すると,今からおよそ150年前には,「江戸周辺では都市から十里以内」 (十里≒39.27km)では,ウサギやキジ,カモやガンがたくさん生息していたようだ. シカもかなり多くそこら辺にいたようだ. 野生のウサギが今の日本で見られる場所というのを,私は知らない. 飼われているウサギが脱走して野生化したものは,見たことがある. 思えば,私が子供のころは,東京にもたくさんコウモリがいた. この話をしても,今の子供たちは信じてくれない.身近にいた動物たちは, 住み家を追われ,奥地へと入っていき,そして絶滅してしまう. もちろん,その責任は人間側にある.

読んでいると,随所に新たな発見のある本だ. 動植物のドイツ語での呼び方もさることながら, さまざまな博物館所蔵の絵画や人物画,地図, 植物の写真や現在の分類,吉原周辺の治安状況まで,驚かされることばかりだ.

ちなみに,現時点で,この本は,すでに第二刷で,訂正や出版後に明らかに なったことは,八坂書房 の書籍ページ「シーボルト日記」で随時発信されている.

(2) 『天皇制史論 ─ 本質・起源・展開』
「天皇制とは何か?」という問いは,日本人だったら一度は考えさせられるものだ. そもそも,いつ天皇制が確立され,なぜ今に至るまで存続しているのか, その制度上の特色は何か,と様々な疑問がわく.残念ながら, 今の日本では,「天皇制」ということ自体を自由に議論できる土壌があるとはいえない (本来,「思想信条の自由」や「表現の自由」が憲法で保障されているはずなのだが). 本書は,ただ単に日本の天皇制を日本史の中で見るというよりは, 普遍的な学問的視野に立ち,世界のさまざまなところでの権力とその統治制度を検証したものだ.

本書の視点は,何よりも法学の一分野である法史学にある.私の専門からは遠く離れたものだが, その論の進め方と背後関係はよく分かる.そして,おそらく, 天皇制の本質の解明を,法史学という立場から検討した著作は, 本書をおいて他には存在しないのではないか,と思わせる.

第一章の基本諸概念では,支配の正当性,ウェーバー(Max Weber)Legitimität という概念に照らして,「法」の特質を考察し, 「天皇制を法的正当性の問題として考察する」ことが宣言される. 国制の類型,経済的基礎,国家に関する考え方をまとめ,定義を明らかにしてから, 第二章以降の議論へと進む.本書が,どれほど広範囲な研究に基づくのかは, 以下の目次構成を見れば明らかだろう(ここでは,小見出しは省いてある).

第一章 基本的諸概念
第二章 中国における律令国家体制の形成と構造
第三章 大化前代の国政
第四章 律令天皇制
第五章 律令天皇制的原型の展開と対抗 ─ (一)奈良〜室町時代
第六章 律令天皇制的原型の展開と対抗 ─ (二)戦国〜幕藩制時代
第七章 西欧中世の権威・権力秩序
第八章 近現代天皇制への展望 ─ 大日本帝国憲法と日本国憲法

ともすると思想・信条の領域に踏み込んで出てこれなくなる天皇制問題を, 法史学の立場から突き放して「七世紀以降の比較的に新しい現象」(P. 320) として学問的に捉え,天皇制は純粋に(一枚岩の)日本的な伝統のように思われているが, 「日本列島におそらくもっと古い時代から存在していた伝統(古層)の上に、中国舶載の文化(新層)が接木された」 ものである,ということをここまで説明した意義は大きい.

個人的には,古墳の構造とその解釈,および7世紀に,いかに天皇が神格化されていったか, というあたりが面白かった.「あとがき」にあるように, この国の国政と法の問題が孕む重要問題,すなわち:

「国家権力に対する非国家的な諸団体(在地首長,在地領主,家,村落,都市など)の自立性ないし自律性がきわめて乏しく, むしろ反対に,これら中間諸団体は国家権力の下請装置として機能する側面が強かった」(P.374)

というのは,残念ながら歴史的解釈上,極めて妥当なものだろう.

(3) 『不完全性定理 ─ 数学的体系のあゆみ』
本書は,1996年に日本評論社より刊行されたものが2006年に文庫版化されたものだが, その間に指摘された問題点や提言が取り入れられている. 一般的な見方をすれば,数学の啓蒙書にあたるもので,「不完全性定理とは何か」 を扱った数多くの本の内の1つであるが,その内容は他の本と比べて一味違う.

その魅力は,おそらく筆者の専門が「情報科学基礎理論」にあり, その視点から(つまり,若干外の世界から) 数学の世界に踏み込んでいるところにあるのではないだろうか. また,所々に地図や写真,さまざまなレベルのコラムがある. 再び,目次の紹介から(下位の目次は省略).

第1章 ギリシャの奇跡
第2章 体系とその進化
第3章 集合論の光と影
第4章 証明の形式化
第5章 超数学の誕生
第6章 ゲーデル登場

数学がいかにして「証明」を積み重ねて「安全地域」を確保してきたか, いかに対象を広げたり狭めたりすることで違った世界が作り上げられてきたのかが分かる. 私は,お恥ずかしながら,ブローエル(L. E. J. Brouwer, 1881-1966) の直感主義がなぜ無限にかかわる排中律を禁止したのか, ヒルベルト(D. Hilbert 1862-1943) の形式主義とはなんだったのか,いままで漠然としか知らなかったことが, 理解できた気がする(そんな気になっただけかもしれないが).

ついでに,本の裏カバーに書いてある紹介の言葉を引用しておく (なかなか,興味をそそる言葉でまとめられている).

「ゲーデルが25歳で出版した『不完全性定理』(1931)は, 当時の数学界の巨匠ヒルベルトが提唱した 『形式主義によって超数学を展開しようという計画』に対して, 原理的な限界を示す衝撃的な証明だった.それは数学のみならず哲学・思想界にも, 『人間の知性のある限界が示された』と大きな波紋をもたらした. ゲーデルはいったい何を明らかにし,どのような新しい道を示したのか. この記念碑的業績にいたる数学の歴史的な歩みをたどりながら, 難解といわれるその結果の意味をていねいに解りやすく解説する. 『ゲーデル,エッシャー,バッハ』の訳者ならではの,ユーモアをまじえたゲーデルへの超入門書.」同書の裏表紙より

ちなみにヒルベルトは,当時の東プロシアの首都, ケーニッヒスベルク(Königsberg) 近郊で生まれた (ケーニッヒスベルクはカントが生まれ育った町でもある). この町は,現在では,ロシア共和国の最強の海軍基地となり, カリーニングラード(Kaliningrad)と呼ばれている(同書P.133参照).

クルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906-1978) は,チェコスロバキア出身の数学者ながら,人種的・文化的にはドイツ人であり, 後にアメリカ国籍を取得した. ゲーデルは,現在のチェコ共和国のブルノ(Brno, ドイツ語では,Brünn) で生まれた.この町は, 遺伝法則で有名なメンデル(Gregor Mendel) や作曲家ヤナーチェク (Leoš Janáček)がいたことでも有名だ(同書 P.234).

最後に,同書の「6.4 おわりに」から野崎昭弘氏の言葉を引用:

[付記]ついでながら,ヒルベルトのロマンチックな標語
「われわれは知らねばならない.われわれは知るであろう」
は,ゲーデルの定理からそれが不可能とわかっているいまでも, 私の好きな言葉である.特に「知る」というのが 「何となくそう思う」とか「暗記する」ということでなく「理解する」 ということであって,
「納得するまで根拠を問う」知性
にもとづいていることに,私は感動を覚える. これこそ現代科学の源を築いた古代ギリシャ人の特性であって, これがいまの日本にもしっかり根付いていたら, 怪しげな新興宗教にだまされて他人を殺傷するような人はでなかったろう ─ などと思うのは私だけだろうか.

私も,その点は同感である.ちなみに,ヒルベルトの言葉のドイツ語版は, 同書の P.093に載っている.

Wir müssen wissen, wir werden wissen.

ドイツ語の専門家としては,後半の文のwerden は,一人称主語なので,「強い意志」の解釈がされるのが普通であり, その意味では,「われわれは知らねばならない.われわれは知りたい」 となるはずだが,「知るであろう」という《予知》的訳語が日本(?) では好まれているのかもしれない.野崎昭弘氏が「ロマンチック」 と評したのは,まさにこの部分が原因だと考えられるが, 「知りたいのだ」という本来の意志的な意味からすると, 実はロマンチックではなく,決意表明である.


ゲドとアレンは,Ged と Arren:あまりにも違う世界 [09/13/2006]

8月のある日,ジブリファンに捕まり,とうとう「ゲド戦記」を鑑賞するはめになった. 映画化される前の本がある場合,基本的には本を読んでから映画を見ることにしているのだが, 今回はそんな基本的方針をすっとばして,最初に映画を見てしまった. 感想といえば:
(1) 相変わらずのジブリの世界,
(2) どこかで見たことがあるようなキャラが登場する,
(3) どこかで聞いたことのあるような声,
(4) それにしても,冒頭の「子供が父親をナイフで刺す場面」は何?
というところ.これはやはり決心して原作を読まねばなるまい, そんなことを考えていた.

8月29日,地元の本屋で,The Earthsea Quartet を発見.これは,Penguin Books(Puffin Books), ISBN 0-14-034803-4 で,なんとシリーズの第1巻から第4巻まで入っていて,1710円だった (£10.99). これは超お得だったので迷わずに購入した. 日本語版だと,一冊1600円位なので,4冊買うと6000円以上の出費となる. そのうち読もうと思っていたのだが,たまたま, 葉山での研究会へでかける際に,電車の中で読み始めてしまった. とぎれとぎれに読んでいたのだが, ついに第4巻は待ちきれずに,周囲の迷惑を顧みず2日で読破.

それにしても,本と映画の違いはあまりにも大きすぎる,というのが第一印象. 名前だけが同じだという見方もできるが,日本語の「ゲド」と英語での Ged だって相当印象が違う.「ゲド」って, 「ゲ」で始まる一連の汚い言葉を連想してしまうが,英語の文章の中だと, God に限りなく近いスペリングだ. 「アレン」というのも,普通,Allen というスペリングを連想するが,原作では Arren となっていて,「おっ,違うな」という印象のスペリング.

それにしても,「ゲド戦記」とは,随分と印象の違ったシリーズ名を勝手に (?)つけたものだ.シリーズ名としては,Earthsea なので,直訳すれば「地球海」,これでは誤解してしまうから,「アースシー」 と訳しているようだが,<戦争もの>の話だと誤解されてしまう. 確かに,Ged は,4巻まで全ての巻で登場するが, 全ての巻で主人公であるかと問われると,ちょっと違う. 第1巻 A Wizard of Earthsea では,確かに 主人公は,Sparrowhawk(Ged)だが, 第2巻 The Tombs of Atuan では, 主人公は,Arha(Tenar), 第3巻 The Farthest Shore では, 主人公は,Arren(Lebannen), 第4巻 Tehanu では, 主人公は,Therru(Tehanu) だろう.

翻訳本のタイトルというのは,翻訳者が100%決められるかというと, そうではない場合が多い.出版社側が,より「売れる」名前を模索して, 翻訳者と原著者に提示し,最終的には出版社(の担当の誰かさんと責任者) が決めてしまうのだ.本のタイトルだけを見ても,その違いは歴然としている. 原題(の直訳)と岩波書店で出ている和訳のタイトルを比べてみると, 次のようになる.

オリジナルのタイトル タイトルの直訳 翻訳本のタイトル
A Wizard of Earthsea    地球海の魔法使い 影との戦い
The Tombs of Atuan アテュアンの霊廟(れいびょう) こわれた腕環
The Farthest Shore 最も遠い海岸 さいはての島へ
Tehanu テハヌー 帰還 ー ゲド戦記最後の書ー

直訳タイトルに関してちょっとコメントすると,第2巻の tomb は,「墓」や「墓石」を意味する名詞だが, ここでは複数形で,しかもさまざまな建物のまとまりを指しているようなので, 「霊廟」(れいびょう=祖先や偉人の霊を祭った建物)としてみた. 第4巻のTehanu は,固有名詞で, Tenar の母語では, 夏の夜に見える白い星につけられた名前だが,Therru の真の名前でもある.

さて,「ゲド戦記」に対してのコメントに戻ろう. ゲド,テナー,アレン,テルーと4巻の主人公と同名の人物が登場するが, 少しずつ全員が違う.影と戦うのは,本では,ゲドだが映画では, アレンが影に追いかけられる. (本では,「影」は暗い側面だが,映画では,「明るい」側面を象徴してい る). テナーは,本では,かつてアテュアンの巫女で, その後結婚して7人の子供をもうけ,子供たちと同居しつつ,テルーを育てているが,映画では, 過去の話はまったく登場せず,テルーと二人暮らし. 本では,アレンは,国王からの命で使者としてゲドのところへやってくるが, 映画では,アレンは,自分の父親である国王を刺して,逃走中に偶然ゲドに出会う. 本の中でのテルーは,顔の右側半分,右手が黒こげになって骨が見える (charred to the bone) ほど重症のやけどを負って, 右目は見えず,右手はほとんど使えず (Therru's right hand had been so eaten by fire that it had healed into a kind of club, ...), 歌が歌えないほどにかすれた声しか出せないのだが, 映画では,顔のあざはかすかな色の違いでしかなく,右手は普通で,歌もうまい.

一人一人の人物の違いをあげればきりがないが,もっとも大きな違いは, 映画で登場するクモの存在だろう.本には現われないキャラクターで, クモをアレンが父親から奪った刀で退治してハッピーエンドというのが映画の話の流れだ. この流れが,話を陳腐にしてしまっている. つまり, 「少年が不思議な強力な刀を使って悪を退治した」 というありきたりの話になっている. 本では,ゲドがアレンとともに「乾いた地」(The Dry Land) へ行き,ゲドが魔法使い Cob が開いてしまった暗黒の世界への穴 black hole を閉じる.ゲドは, その時自分の魔法を使い果たしてしまい,普通の人間になってしまう. これ以上説明はしないが,原作では,影との戦いも,乾いた川 (the Dry River) の中心部としての暗黒の世界への穴を塞ぐのも,ゲドであり, しかもそこでの戦いは単純な「チャンバラ」ではない. 生死の境目に穴をあけてしまった Cob は, すでに不死になっており,アレンが刀で切っても, 再生してしまうのだ.ここでの戦いの山場は,むしろ 「ゲドが言葉を使って説得する」 ところにあると思う.

ファンタジー小説に分類される「ゲド戦記」だが,3巻までがどうやらひとまとまりで, 4巻は,女性テナーから見たより現実的な世界が描かれ,ジェンダー問題が意識されている. それはそれで(子猫のお母さんをしている私としては)面白いのだが,4巻の幕切れはちょっと中途半端な気がした. カレッシン(Kalessin) が来て助けてくれるのはいいけれど,悪役の魔法使いはどこへいったんだ? (私の読み方が甘いのか??)

作家アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin) は,自分のホームページ http://www.ursulakleguin.com で,スタジオ・ジブリの「ゲド戦記」についてかなり批判的に語っている. 関心のある方は,是非, GedoSenkiResponse をお読みいただきたい.

私は, GedoSenkiResponse を非常に納得して読んでしまった. やはり,アレンが父親を刺すという最初のシーンは,話の流れに乗っていない. まるで,日本の最近の三面記事を読んでいるようなこのシーン, 最後まで見ても理解できない人も多いのではないか? それに,原作では,登場人物に,ほとんど白人がいないのだが,映画では, その状況が描かれていたとは思えなかった.

アメリカで2004年にテレビドラマ化されたEarthsea が, この夏から日本でもDVDで発売されているという(「ゲド〜戦いのはじまり〜」日活). ぜひ見てみたいと思っているが,すでに仕事が激増中なので,いつになることか...


やっと夏休み,でもネコが... [08/08/2006]

8月5日のオープンキャンパスが終わり,ようやく夏休みモードに入った. 夏休みというと,バカンスというわけにはいかず,たまっていた読みかけの本や論文を読んだり, 書きかけの論文をなんとかする季節だったりする. 普段,ちらかし放題になっている部屋をなんとか整理するのもこの季節の課題だ. フランスにいるドイツ人の友人からは,もう夏も盛り(Hochsommer) を過ぎたというメールをもらい,うーん,こっちはようやくこれから夏だ, と返事をした矢先に,とんでもない事態が生じた.

庭の物置きの中に,見捨てられた子猫が2匹発見されたのだ. 猫は,子猫を育てる過程で,何度か場所を変える. 特に,人間に見つかってしまうと,必ずその飼育場所を変えると言っていいのだが, 今回の2匹は,一日以上前から放置されていたようだった. 2匹ともかなり衰弱がひどく,親が育児放棄したようだ. 汚れてノミだらけの状態から, 妻がなんとか猫らしく見える状態にまできれいにしたのだが, 元気の良かった黒トラの方が,2日目の朝に死んでしまった. 黒トラの方は,ミルクをろくに飲まなかったので,心配していたのだが, あっけない突然の死だったので,ショックは大きかった.

黒トラの子猫の死は,命の不思議さを改めて考えさせられる出来事だった. さっきまで動いていた子猫が,今はもう生きていない,という現実をつきつけられ, まだぬくもりが残っている子猫を,何もすることもできずに呆然と見つめていた.

白べいの写真, No.1

残されたのは,白猫.名前もないので,仮に「白べい」(「名無しのごんべい」から) と呼んでいるが,目下,189グラム.

白べいの写真, No.2

こんな感じで,家の中に保護されている状態だ.3〜5時間おきにミルクと遊んでもらうこと を要求し,家の中は急遽,猫を中心に回転し始めた. うーん,とにかくかわいい奴だが,ミルクを飲ませて遊んでやるのは大変だ. 「ニャー,ニャー」と目が覚めるとよく鳴く. かくして「白べい」との夏休みが始まってしまった.

しょせん猫の母親の代わりはできない.一旦,人が介入して育ててしまうと, その後,おとなになった後も,自然へ返すことは困難になる. 分かっているのだが,放っておけば死ぬことは目に見えていた. 自然界の掟からすれば,人間が「放っておけない」と考えた瞬間から,人間の身勝手な行動が始まった, ということなのだろう.と考えているうちに,「ギャー、ギャー」 という「白べい」の鳴き声が聞こえてきた.「はいはい,今いくよ.」


「表計算ソフト」との一ヶ月 [07/06/2006]

気がついてみると,ほとんど表計算ソフトを使いまくる一ヶ月だった. 学会の開催校だったり,また研究会関係の事務仕事を引き受けていたり, ある種の公式文書の提出を求められたり,とにかく毎日,表計算. そう,Windows では,Excel, 普段使っているLinux 環境では, OpenOffice.org Calc を使っていた. 基本的に,私は表計算ソフトは嫌いだった,そして,今でも正直言って, あまり好きではない.なぜか?

だって,何でもかんでも表の中に押し込めようとするわけですよね. 窮屈極まりないと思うわけです.確かに,特定の処理(合計や平均を出すとか, 連番を付けたり,グラフを描いたり)は便利ですが.

だって,何でもかんでも表の中に押し込めようとするわけですよね. 窮屈極まりないと思うわけです.確かに,特定の処理(合計や平均を出すとか, 連番を付けたり,グラフを描いたり)は便利ですが.

WindowsExcelLinuxOpenOffice.org Calc を使い比べると, Excel の方がやはり作り込まれている感じがします. 両者でデータのやりとりをして,大きな問題が起きたことはありませんでしたが, 書式は残念ながら崩れます.この崩れた書式を直すのに,「セルの書式設定」 をやり直すのは,大きな時間のロスでした.

そんなWindowsExcel を 使っていて,やはり特に使いづらかった3点を挙げると:

(1) オートコンプリートが煩わしい.
(2) 日本語と半角英数字の使い分けがめんどう.
(3) 印刷画面での確認の際に画面出力されるイメージが実物と異なることがある.

(1) 入力を自動的に補ってくれるのはありがたいようで,結構迷惑. 例えば,1つのセルに,「7/6」と書き込むと「7月6日」としてくれるの だが,自分としては本当に「7/6」と文字列で書き込みたいことがある. もちろん,「セルの書式設定」で「表示形式」- 「分類」から「文字列」 をあらかじめ選んでおけば思ったようになるのだが,うっかり「7月6日」 と自動的に変更されたところの書式を「文字列」に戻そうものなら, 「38904」のような文字になってしまう.これって,プログラミングで言うなら, 変数の型を最初に宣言しておくようなものなので,セルに書き込む前に,自分の思ったような 型を全て宣言しておけば,【おせっかい自動変換】は防げるのだが, 不便だと感じる.後から,【おせっかい自動変換】を止めて, セルの型を後から変更できる方が使いやすいと思う. この点では,ExcelOpenOffice.org Calc もかわらない.

(2) 日本語と半角英数字の使い分けがめんどうなのは,漢字変換プロセッサの 問題でもあるが,もう1つ見逃せないのが,MS 明朝やMS ゴシックの字形にある. 例えば,ディスプレー上で見た所, MS P 明朝やMS P ゴシックの全角カッコと,半角カッコがはっきりと区別 できない.これは,Excel だけでなく, Word の文書でもよく見かけるのだが, いろいろなカッコが混ざっている文書が実に多い.スペースが変わるので, そこで見分けられそうなのだが,MS P 明朝やMS P ゴシックの全角カッコ は,あまり違和感なく半角カッコと同居できてしまう. そしてカッコだけでなく,数字にも同じことが言える. 全角の数字と半角の数字のディスプレー上での見かけが紛らわしい.

これは,フォントのデザインとも関係するが,もう1つ,ディスプレーの 解像度とも関係する. 仕事で使っているディスプレーは, 1280x1024 pixels だが, たった 96 dpi だ.一方, 私が日常的に使っている安物のレーザプリンタの方は, 600 dpi だ.これでも,実に6.25 倍 の解像度である.これじゃあ,プリントアウトしたものと,画面のイメージが 違っていても当然だ.最終的にプリントアウトする性質の文書は, ディスプレー上のイメージだけで作業できない理由がここにある. 一時,wysiwyg(= What you see is what you get) と言って騒がれたグラフィック・ユーザーインターフェースは, はっきりいってウソである.こんなに違うんだから,プリントアウトして 初めてその違いが歴然とする.
(3) 印刷画面での確認の際に画面出力されるイメージが実物と異なることがある, というのがまさにこれだ.Excel の場合には, 画面上で引いた罫線が所々見えないことがある.プリントアウトすると, 罫線はちゃんと存在するのだが.結局,何枚も出力するか,画面のイメージを 何回も拡大してみることで,時間を費やしてしまう.

道具としてのソフトウエア,時間を節約できるソフトウエアのはずだが, Excel を使っていると,時間がどんどん過ぎていくと感じるのは,私だけだろうか? 巨大な液晶ディスプレーテレビや,高速のネットワーク,巨大なハードディスク 容量も結構だが,画面の解像度をプリンタ並みに引き上げる 技術 を早く実現して欲しいものだ.


「本当のことが知りたい!」vs. 「本当のことなんて知りたくない!」 [06/22/2006]

久しぶりに,日曜日の「サンデー・モーニング」の「風をよむ」を見ていたら, 今は「本当のことなんて知りたくない!」という人が多いのではないか, という発言が出ていた.その背後にある考え方は議論されなかったのだが,確かにそうかもしれない,と考えた. つまり,次のような思考回路である.

(1) 現代社会では,本当のことを知るためには,大変な苦労・労力が必要だ.
(2) それだけ苦労して「本当のこと(と思えること)」を発見しても, それが(実生活に)役に立つわけではない
(3) 「本当のこと(と思えること)」は,しばしば大きな矛盾を含んでいて, 絶望するのがオチである.

もちろん,これ以外の回路も存在するだろうが,典型的に私の思い浮かべたものは, このようなものだった.

実は,私は若き頃,「(あなたは)なんのために生きているの?」という質問を 最愛の人から尋ねられたことがある.答えは,「本当のことを知るため」だった. 尋ねた人(=妻)は,「へぇー,そうなの.私とはまったく考え方がちがうわ」 というような返事をして,黙ってしまった.予想もしなかった返事を私も聞き, おおいに戸惑った記憶がある.

今でも「本当のことを知りたい」という欲求を,私は強く持っている. だからこそ,研究者という職業を続けているのだとも思う. もちろん,「本当のこと」(=真実)は,そう簡単に見つかるものではない. また,見つけたと思っても,実は,偽物(にせもの)かもしれない. さらに,「本当のこと」は,たった1つだけしか存在しない,というわけでもない. 見方によって,複数の真実が存在しうるからだ.

現代ほど,偽物(にせもの)が世に溢れている時代はない,と考えることがある. その中でも,視覚を利用したものは,簡単に人をだませる. 先日も, 「ナノ・バブルを使えば 淡水魚も海水魚も1つの水槽で飼うことができる」(=言明(1))と解説をつけて, <淡水魚と海水魚(熱帯魚を含む)が一緒に1つの水槽で泳いでいる>映像を流していた. さらに,「なぜナノ・バブルを使えばこのようなことができるのか, 詳しいことは分かってない」(=言明(2))との解説もついた.

確かに,言明(1)と言明(2)自体が間違っているとは言えない. がしかし,「ナノ・バブル」だけで,「淡水魚と海水魚が同居できる」わけ ではないのだ.2つの言明だけしか聞かなかった人は,きっと 「ナノ・バブルだけで,淡水魚と海水魚が同居できる」と解釈したはずだ.そう考えると, この2つの言明は,罪深い.この解釈を大きく後押ししているのは, <淡水魚と海水魚が一緒に1つの水槽で泳いでいる映像> である.Seeing is believing.ということで, すっかり信じてしまう.「本当かな?」と思って, その先を調べようとする人はどれくらいいるだろうか? そして,「(ある程度)信頼性のある情報」にたどりつける人は, どれくらいいるのだろうか?

「ナノバブルは直径が1μm( 1マイクロメートル:100万分の1メートル) 以下の超微細な気泡であり, 通常はマイクロバブル(直径が50μm以下)水中で縮小する過程において生成するが, 物理的に極めて不安定であるため,短時間で消滅する。」のだそうだ. 「酸素をナノバブルとして含む水には, 魚介類の環境変化に対する適応性を向上させたり,生物に対しての活性効果を認めることがで きる.」らしい. 詳しくは, 2004年3月15日に独立行政法人 産業技術総合研究所(環境管理研究部門)が発表した ■世界で初めてナノバブルの製造・安定化技術を確立 −長期持続型オゾン水の生成や、淡水魚と海水魚の実用化レベルでの共存が可能− をご覧いただきたい(上の引用文もこのサイトからの情報).

この他にも,「マイクロバブル」や「ナノバブル」でネット検索をすると, 多くの応用例がヒットする.いや,なかなかすごい技術だ. まだまだ,応用の範囲が広がっていきそうだ.

上の引用中でにした部分に注目してほしい. あの,淡水魚と海水魚が同居していた水槽には, 酸素をナノバブルとして含む水が使われていたのだ. 「ナノバブル」だけで,淡水魚と海水魚が同居できるわけではない!

現在,テレビや映画,さらにネット配信で流される映像は非常に多い. しかし,それらの映像には,例えば「一人乗りロケットで街の中を飛びまわる」 ものから「ベルリンの壁崩壊の時に, 壁の上でカップヌードルを食べる人」まで,さまざまなものが含まれている. 多くの場合,子供たちは,これらの映像を「本当のこと」だと信じてしまう. 私もそれを打ち消すのに大変な努力を強いられた経験がある.

私:「あれは,本当のことじゃあないんだ」
子供:「なんでテレビはウソを流すの?」
私:「見ている人がおもしろいと思うだろ. そうすると宣伝している商品が売れると思っているんだ」
子供:「本当のこととウソは,どうやって見分けるの?」
私:「それはそのー...まぁ,おとうさんにきいてくれ.」
子供:「なんでテレビはウソのことを放送してもいいの?」
私:「うーん,そうだな... はじめから,ウソをつこうとしているわけではないんだよ,きっと.」 (と言いつつも,多くの宣伝は確信犯だよな,と考えていた. 本当だと信じてしまう子供たちをどうする気なんだ!)

「本当ではないかも知れない情報」が溢れている現代. 「本当のことを見抜く力」はますます必要とされている. 逆に,多くの人が「本当のことを知りたがらなくなった」ら, 一部の人達に操られてしまうような George Orwell の『1984年』 に見られるような管理社会になってしまう.いや, 今年は,2006年. ひょっとしたらすでに,私たちは George Orwell の描いた世 界よりも,12年も先のもっと悲惨な世界に住んでいるのかも知れない.


♨ ああ,悩ましき文字コード ♨ [05/18/2006]

先月書いたページの一部の文字が読めない(「豆腐」になっている),というクレームが来て調べたところ, Internet Explorer 6 では, ISO10646UNICODEと同等) で定義されている音声記号(Phonetic Extensions, Range 1D00-1D7F)が, HTML character entity として参照できないことが判明した. Character entities references in HTML 4 を参照したり,そこからリンクされている ISO10646 関係のサイトをさまよい,ようやく事態が分かってきた. そこで,問題の文字は,Firefox で表示されたものを, グラフィックとして張り込んだのだが, 今度はグラフィックの表示される位置が微妙に上にずれてしまい,表示位置を調 整してもFirefox ではうまくいっても, Internet Explorer  5.5 ではうまくいかないことが分かった. (Internet Explorer 6ならOK. [5/19/2006]) その結果は, エスツェットって何だ?に埋め込まれた特殊文字,音声記号を見ればわかる.
(本当は,システム(OS)としてサポートしている UNICODE の文字をブラウザがどのように表示するか(=フォントの組み合わせ) という問題で,ディフォルトとして選択されるフォントの違いなのではないか, と推測している.それを確かめるべく, エスツェットって何だ?[utf-8版] をテスト用として残してある.)

今,私の所属する大学では,Windows XP がインストールされているパソコンがレンタルで設置されているのだが, 4月からは システム更新に伴い, 初めからFirefox もインストールされていた. そこで,使い慣れたFirefox を使っていたため, 問題の発見に時間をとってしまった.Firefox なら, Windows XP 上でも,音声記号はきちんと表示されるのだ.

いわゆる「特殊文字」をWeb ページ上 で表示する問題なのだが,ブラウザによるサポート状況の差があることが分かった. Firefox が, 必ずしも多くの「特殊文字」をサポートしているという訳でもない. Internet Explorer 6 (日本語ローカライズ版)は, アジアの文字を多くサポートしている(例えば,インド系表音文字).

特殊文字をWeb ページ上で表示するには, 直接,文字コードを&#223;のように書くことができる. ただ,これでは覚えづらいので,文字によっては,より覚えやすい略称が定義されており, 上で表示された ß は, &szlig; と書くこともできる. どのような略称が使えるかは,上ですでに紹介した Character entities references in HTML 4HTML 4の場合が説明されているので,参照するとよい.

一般的には,文字コードを10進数で &#; (セミコロン) の間に挟み込むことで,ブラウザでサポートされている文字をすべて表示できる. (16進数でで書くことは, HTML 4 の規格では認められていないが, 近い将来,この形式も認められる方向にあるので,ほとんどのブラウザでサポートしているはずだ. 10進数の 223 は,16進数では,DF なので, &#xDF; と書いても, ß と表示されるはずだ (ここでエスツェットの文字が表示されないのなら,そのブラウザは,16進数表記をサポートしていないことになる). この形式は,UNICODEを直接指定できるので, &#x6C34; と書いて, と表示できてしまう.

そんなこんなで,文字コードの世界をさまよっている内に,へんてこりんなマークを発見してしまった. それが,&#9832;.これは, The Unicode Standard, V.4.1. Miscellaneous Symbols, Range 2600 -26FF に存在するもので, 説明は,HOT SPRINGS.「温泉マーク」ですな. これが意外なことに, Internet Explorer 6 でも, Firefox でも表示できるんです.
変ですね(なぜ? 温泉関係の産業からの要望でもあったのでしょうか?). ということで,大きく表示してみます:

実は,このレンジに入っている記号はなかなかユニークで, チェスの駒とか,あったかい飲み物とか,リサイクルマークまで, いろいろあります.きちんとブラウザでサポートしてくれると, 表現力が高まる(?)ので嬉しいのですが.

「特殊文字の入力」に関しては,ドイツ語の引用符を知らない人がいます. 最初に下付き(開き引用符)  &#132;(=&bdquo;) で,最後が上付き(閉じ引用符) &#147;(=&ldquo;) です.いくつかのサイトで間違って説明しているのを見かけました.

&#132;Das ist sch&ouml;n.&#147;
あるいは, &bdquo;Das ist sch&ouml;n.&ldquo;
   と入力すると
„Das ist schön.“    と表示されます.お間違えなく.

また,もう1つの引用符の形式は, &raquo;(= &#187;) で始めて, &laquo;(= &#171;) で終えます.つまり:

&raquo;Das ist sch&ouml;n.&laquo;    と入力すると
»Das ist schön.«    と表示されます.
&raquo; がドイツ語では, r = right ではなく,「左」で,
&laquo; がドイツ語では, l = left ではなく,「右」です, ご注意ご注意.


サイボーグ社会の到来 [04/26/2006]

4月24日,普段まともにテレビを見る時間などないのだが,NHK総合テレビで プレミアム10「立花隆が探るサイボーグの衝撃」 (22時 〜 23時30分)を見てしまった.その内容は確かに予想を超えた衝撃であると同時に, 予想通りでもあった.評論家・ジャーナリストとして活躍中の立花 隆氏は, 2005年10月から東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授 だが,そこでは,ゼミ生との共同作業を通じて SCI(サイ)というWeb siteを立ち上げており, そこでNHKの番組で紹介しきれなかった情報などを発信している. 4月24日(月)の番組は,実は,2005年11月5日から始まって全4回のNHKスペシャル 「サイボーグ技術が人類を変える」として放映されたものの番外編(?)だった.

衝撃的だったのは, 脳・コンピュータ・インターフェース (Brain Computer Interface; BCI) の予想をはるかに超えた発展にある.人間の神経を流れる電気信号を機械で受け取ったり, 機械装置からの電気信号を人間の神経へ流したりする「神経インターフェース」 が現実のものとなってきた.番組では, 例えば,機械の手を<脳から指令を出して人間の神経を通じて> コントロールできることを実証していた. その他にも,頭の中で念じてカーソルをコントロールできる人 (脳に電極が刺さっている),ヴィデオカメラの目を使って見る人, コンピュータで制御されて動く生きた ラットなども紹介され,ショックだった.

一方で,この番組に登場した 押井守氏が語っていたように, <もうぼくたちはサイボークなんだ>という認識を改めて考えさせられた. 押井守氏の主張のように「記憶を外部化した時」 から始まったのかどうかは定かではない.しかし,何千年, 何億年というタイムスパンで進化してきた人間が, コンピュータの劇的な発達を, 知らない内に自分自身の(生物としての)進化と置き換えつつあるのだ. 極論すれば,生物としての人間の進化をやめて, コンピュータの進化を自分自身に組み込み始めたと言える. もちろん,「進化とは何か?」という問題は残る. 逆に言えば,「人間はコンピュータを手に入れたことで, 新たな環境適応を始めた」と言えば, それなりの進化を続けることにもなる. その場合,人間は,近い将来,コンピュータの存在を全面的に取り込むこと (「生体としての人間」と「(コンピュータ制御された)機械」 のハイブリッド・タイプとして生き残ること)になるだろう.

[<考えないヒト> vs. <かんがえるカエルくん>][08/29/2005] で書いたように,現代人はだんたんと「思考停止状態」へと向かっているような気がする. それは, 大学生の学力低下:科学技術立国を目指す日本の宿命?[2005/12/12] で述べたように,現代社会において「技術」とは,一般人にとって 「作られたモノを利用する」という意味あいの方が (技術を作り出すという側面よりも)大きく, 技術を利用する側の人間にとっては 「自分の要求に対して自らすべきことはますます少なくなる」状況が存在する, ということでもある.

一口に言ってしまえば,コンピュータは「計算をする機械」に他ならないが, あらゆることをデジタル化し,計算に還元する方向に進めば, あらゆることがコンピュータ任せになる.車を運転していて,危険を察知して急 ブレーキを踏む場面を思い浮かべて欲しい.人間の判断で, 車の急ブレーキをかけなくとも, コンピュータが状況判断をして急ブレーキをかけてくれれば, 人間は急ブレーキをかける必要はなくなる. 人間の判断と行動をコンピュータが肩代わりしてくれる,というわけだ. そしてこの技術は,すでに実用化されている.この状況を指して, <すでに人間はサイボーグ化している>と言えなくもない. もっとはっきりした形で「人間のサイボーグ化」を感じ取るには, 「頭の中であることを念じたら,その通りに動く車」が完成した時だろう. それには,脳の運動系の信号と自動車の制御系を直結すればよい. で,今回のプレミアム10「立花隆が探るサイボーグの衝撃」 は,それが近い将来,十分に可能であることを見せてくれた.

この脳・コンピュータ・インターフェース (Brain Computer Interface; BCI) の実用研究は,アメリカでは軍事利用を目的として巨額の資金を獲得している. 無人のジェット機を飛ばして,そのヴィデオカメラの情報を直接, 人間の脳に流し込み,人間の脳の視覚と連動して標的を狙い, 脳の運動系の直接的な指令でミサイルを発射するのだ. 機械の体をジェット機という形で得た兵士は, いったい何を感じ,どんな行動をとるのだろうか?

一方では,事故や病気で失った体の一部を機械化することで, その部分の機能を回復する道も開ける. また,人間の力を増幅する機械の実験も研究室レベルではすでに成功している (ガンダムのモビルスーツは,意外に早く実現するかもしれない).

もう一歩進んで,携帯電話が情報端末と化している現在, 携帯電話を人体と直結するという日が到来するかもしれない. そうすると,携帯電話の操作は,頭の中で直接指令を出すことで実現してしまう. これで,人間はネットと直接,「身体」でつながることになり, 「攻殻機動隊」の世界が現実のものとなる.

ちなみに, マイクロチップとユビキタス・コンピューティング:本当にこれでいいの? で紹介したマイクロチップは,ロッテルダムのディスコでは, すでに実用化されていた.自分の身体にマイクロチップを挿入した若者が, マイクロチップの挿入された部分を店のカウンターのところで読み取り機 にかざせば,個人情報が認識され,お店の支払いも済んでしまうようだ. 「もっとマイクロチップをパワーアップしたい」 なんて言っている若者まで登場した. 「<JRSuica 機能付き>携帯電話」どころの騒ぎではない便利さである. しかし,個人がそのような形で情報発信することが どれほど危険か,彼らは想像すらしていないだろう. 読み取り機で読まれた情報は,ネット上を流れる.ネット上の情報は, 特定の人しか読み取れないように工夫はするだろうが, いずれはどこかで流出する (第2,第3のWinnyが出現するだろう). そうすると,個人の情報は世界中に筒抜けになる(まあ,今でもかなり,そうだけど).

この番組を見た学生が,「人間の脳と脳を直結するようなお椀のような機械が 完成すれば,言語を使わなくてもテレパシーのように意志疎通ができるのではないか」 と真剣に話していた.脳の中での言語処理の実態が解明される以前に, 脳神経に直接電極を刺して, その情報を適当に解析して他人の脳神経に送り込むことが可能になるかもしれない.
が,しかし,考えてみれば,それは恐ろしい事態になることが予想できる. 言語情報だけをうまく取り出したとしても,それは,混沌としたもので, 直接,他人の脳に入力されてしまうと,その入力を受けた人間の脳が大きなダメージを被る気がする. なぜなら, 頭の中での言語情報は,おそらくそれほど明晰で首尾一貫したものではないからだ. 断片的で飛躍のある脳内の言語情報は,発話したり, 書いたりすることで明確さを獲得するはずだ(言語処理は,運動系の機能と大きくかかわっている). ということで,言語学者の仕事は, 脳・コンピュータ・インターフェース (Brain Computer Interface; BCI) の実用研究が進んでも,根本的な部分は解明されずに残されるはずだ (と自分に言い聞かせている).

最後に,質問を2つ.

(1) 「あなたは,コンピュータを自分の脳と直結させたいと思いますか?」
(2) 「あなたは,義体(ぎたい)が欲しいですか?」

今の時点では,特別な事情がない限り, 両方の質問に"NO!"と答える人が多いはずだ. それは,きっと怖いからだ.しかし,あと20年たったら,"Yes." と答える人が多数派となるかもしれない.そして,「生きた脳」は, 「機械の脳」(=computer)に大きく依存し, (これまでの)人間らしい(?)判断など,すっかり忘れ去れてしまっているかもしれない. 新人類,いや,「サイボーグ人類」による「サイボーグ社会」 は,もうすぐかもしれない. 立花隆氏による番組「サイボーグ技術が人類を変える」 というタイトルは,本当に深い意味であり,このまま技術が進歩(暴走?)すれば, 確実に「人類は変わる」 だろう.心の底から.

: 「義体」とは,「攻殻機動隊」に出てくる言葉で, 「義足」の延長線上にある概念.脳神経と直結した機械の体のこと.


『言語進化とはなにか ことばが生物学と出会うとき』[新刊紹介]  [4/10,4/12/2006]

野村泰幸氏の編集,訳,解説付きの『言語進化とはなにか ことばが生物学と出会うとき』 (本体1890円+税)が大学教育出版から出版された. 原稿段階から通読させてもらった本がこうして日の目を見るのはうれしいものだ.本書は, Christiansen, Morten H. and Kirby, Simon (eds.) (2003) Language Evolution. Oxford: Oxford Univ. Press.の中から,3編を 和訳し,解説を付けたものだ.その3編とは:

Steven Pinker  "Language as an Adaptation to the Cognitive Niche."
James R. Hurford  "The Language Mosaic and its Evolution."
Natalia L. Komarova and Martin A. Nowak  "Language, Learning and Evolution."

原書の17編の論文すべてを和訳したら,相当ぶ厚い本になり,その分, 高価な書物になってしまっただろう.現実的な選択として, この3編を選んだのは妥当な選択だったと思うし, これをきっかけに原書を参照する研究者が増えることが期待できる.

何よりもまして入門者にとってうれしいのが,解説の充実だ. 各論文の本文に関しても,翻訳者による丁寧な註釈がついているだけでなく, 15ページに及ぶ解説があり, 全体像の中で和訳された3編の論文がどのような性格なのかが分かる. 特定の研究をしていると,自分がいったいどこにいるのか, 分からなくなることがあるが,初心者にとって, 「自分の読んでいる論文がどこに位置するのか」を理解するのは難しい. その意味で,最初に解説を読むことをお勧めする.[04/12/2006 加筆]

ChristiansenKirby が原書の「まえがき」で述べているように,「言語進化」(language evolution) に関する近年の研究発達は目覚ましいものがあるのに, 「この分野で推薦できる本がない」というのは極めて残念なことである. 「言語進化」という分野は, 「言語研究が言語を研究する言語学者だけのものではない」ことを如実に物語っている. 特に,本書の副題にもあるように「生物学との出会い」は, 進化の歴史を紐解く上で決定的に重要だし, 仮説とシュミレーションを必要とする場面では,応用数学とコンピュータ・サイエンスの助けが不可欠である. それと同時に,言語学者には, 他分野の研究者の論文に積極的にコミットしていくことが求められている. それは, 言語学者が<言語をプロパーに研究してきた学問的成果を知っている>からであり, その情報を提供し,明らかな誤りを訂正する義務がある,ということだ.

1つ例をあげよう.これは歴史言語学でこれまで扱ってきた分野を, 遺伝子情報を利用してシュミレーションすることで活路を見いだすというアプローチがある. ネットで参照できる著名なものとして, Peter Forster and Alfred Tothによる Toward a phylogenetic chronology of ancient Gaulish, Celtic, and Indo-European.(PDF) があるが,ここで参照されている歴史言語学的データにはさまざまな問題があることを, Eska, J. F. & Ringe, D.は, Language, Vol. 80, No.3 (2004)Discussion Notes で指摘している ("Recent work in computational linguistic phylogeny."). 新たな言語へのアプローチは,時に「あまりにも幼稚な過ち」を犯しているようにも見え, 無謀な憶測とのレッテルを貼られる. が,しかし,仮説として成立すればよいのだから, 根本的な過ちがなければ容認し,その方向を極める研究が盛んになることは望ましい. このような観点から,プロパーな言語研究者が, 新たな言語研究のアプローチに対しても積極的に発言し,議論が起こることを期待したい.

phylogenyというのは「系統発生」のこと. 「ことばの獲得」という意味では,人間が生まれてからどのように 「ことばを獲得」するかというのは「個体発生」(ontogeny) の話. ここまでくると,動物学者 Ernst Haeckel が唱えた反復説が思い出される. 端的に言えば「個体発生は系統発生を繰り返す」 („Ontogenese rekapituliert Phylogenese.“)というテーゼだが, 以前は表面的に批判されていたこの考えも,近年では autopoiesis (オートポイエーシス 「自己創出性」) という概念により新たに見直されている. http://www.nagaitosiya.com/ 「個体発生は系統発生を繰り返すのか」 という議論は,極めて興味深い. 統語論の単純な再帰性を超えた,大きな生物学的・数学的枠組みが見えてくる.

いよいよ,さまざまな学問分野が,よってたかって「言語の謎」に挑戦する時代がやってきた. <いろいろな分野から言語が研究できる時代>が到来した,ということだ. <言語研究は文系学問の対象である>というような捉え方をしていたら, 今後,日本の言語研究は,どんどん遅れをとっていくだろう. 若き研究者よ,挑戦の時代がやってきた! (おまえはもう若くないだろ>私.うぅぅ.)


ネットという非現実,ネットという現実  [03/31/2006]

3月29日にネットの言語データを使った研究発表をした. これに関しては,いろいろな裏話があるのだが,あまりに内容が雑多なので, 雑多情報に押し込めるしかないと思い,その一部をここに書くことにした. 話題としては,
(1) 「ネットは特殊な非現実ではない」
(2) 「OpenOffice.orgImpress を使ってみた」
(3) 「今回の発表内容に関して」
の3つだ.

(1) 「ネットは特殊な非現実ではない」

ネットに広がる言語データの位置づけの話をする時に, うっかり「現実世界のデータではなくサイバースペースのデータである」, とような説明をしてしまったが,考えてみるとこれはまずかった. ネット世界は,仮想空間であっても,これも一種の現実だからだ. 新聞や雑誌の言語データは,確固たる現実世界のデータであるように感じるが, これも考えてみれば逆に仮想空間でしかない.すべての人間がアクセスできるよ うな,確固たる現実が存在するというのは,幻想でしかない.

「そんなこと,今頃分かったの?」と言われそうだが, ともすると「インターネットの世界は特殊である」という烙印を押され, 「ネット社会はね,特別なんだよね」という扱いをされる. 「これって間違ってるのでは?」と,今頃になって再認識した次第. 新聞だって,雑誌だって,ラジオやテレビだって, みんなそれぞれ特殊性と仮想性を持ったメディアで, ネットだけを取り立てて「お前は超特殊だ!」と言われてもおかしい. いや,そいう考え方自体が間違っている,と思った.

どこぞの新聞が,「言葉は時に感情的だ,言葉は時に無力だ,言葉は時に残酷だ」(順不同) とかいったコマーシャルをうっているが,それは「言葉」の話ではなく, 「言葉を使う人間」の話でしょ,と思う.このようなすり替えは, コンピュータやネットに関して話題になる時にも,よく起きる. 「コンピュータが間違った」とか,「ネットは特殊だ」とかも考えてみると, みーんな変.「人間が間違ったプログラミングをした」, 「人間が間違ったデータを入力した」んでしょ.「ネットは人間が創りだした産物」 なのに,あたかも「コンピュータが自主的に作っている世界」のように錯覚し, 別世界と言って隔離しようとする.結局, 「最終責任が別のところにあるように言い逃れる」 人間の愚かさを象徴しているだけだ(気づかない人たち, 理解できない人たちが.どうしようもなく多いことを考えると,絶望的になる).

(2)  「OpenOffice.orgImpress を使ってみた」

研究発表にOpenOffice.org(Version 2.0)の Impress を使ってみた( 以下では長いのでOOo 2.0 Impressと略). これは, PowerPoint に相当するオープンソース・ソフトウエアで,どの程度のものか興味があった. おそらく,発表を見ていた人たちは,誰も気がつかなかっただろう. 考えてみると,きちんと最後に「この発表は, 以下のオープンソース・ソフトウエアにお世話になりました」という 一画面が必要だったと反省している.しかし,考えてみると, Linux本体や OpenOffice.org 2.0だけでなく, Emacsから, FirefoxR に到るまで,いったいいくつのソフトウエアにお世話になっているのか, 簡単にリストアップできない.これは結構深刻な問題かもしれない.

実は,Linux屋さんの私としては, Emacs上で加工して, MagicPoint を使うというのがこれまでのやり方だったのだが, たまには違った世界にチャレンジしてみみようか,と思った.

結論から言うと,「かなり不満」だった.不満は,ハイパーリンクの扱い方にある. 編集場面では,きちんとハイパーリンク先に跳べるのだが, 「再生」という最終的なプレゼンテーションの画面では,ハイパーリンクが効か ないのだ.これにはあせった.OOo 2.0 Impress で発表の準備をしたのは,2日間.しかも,実質的には,7〜8時間だが, ハイパーリンクが発表場面で使えないことが分かるまでに,30分はロスしてしまった. どうやら現状では,「仕様」らしい.結局,ハイパーリンクをやめ, 「Alt」+「Tab」 を数回押して,起動しているアプリケーションを手動で切り替えるという Gnome流(?)手段で切り抜けたが, これは何とかして欲しい.MagicPoint だと,難なく子プロセスで別プログラムの起動ができるので, 途中でOOo 2.0 Impressを選択したことを後悔した.

ISO-8859-1あるいは, ISO-8859-15 の文字を使うことには問題は生じなかったので,その点では合格だった. 日本語の文字を使わなかったが,日本語との混在も問題はないことを, 途中で確かめた.utf-8の文字を geditからコピーして貼り付けると,変換できなかった文字が エスケープ文字として扱われるので,その部分は手作業で削除し,改めて 「挿入」→「記号と特殊文字」から拾ってきて貼り付けた.

文字効果やワイプの方法など,さまざまな指定が可能だが, 文字効果は思ったような動きをしてくれなかったので, 最小限の使い方しかしなかったし,部分的に「同一ページでの後出し(あとだし)」 も,時間が限られていたせいか,どうやるのか分からないままだった(そもそもできないのかもしれない). ワイプの方法が,あんなにたくさん提供されていなくてもいいから, 簡単に「同一ページでの後出し(あとだし)」ができるようにして欲しいものだ.

最近の PowerPoint の発表を見ていると, みんな本当に綺麗にできていて,感心する.「あんなこともできるんだ」 と思う一方で,私は「ハイパーリンク」と「同一ページでの後出し(あとだし)」 さえできればいい,と思ってしまった.次回からは, やはりMagicPointに戻ろうかな.

(3) 「今回の発表内容に関して」
後で気がついたのだが,データ収集日が画面では,3月26日となっていたが, これは,3月22日の誤りだった(こんなところで訂正してどうする!(殴)>私). 以下は,今回の発表で出したドイツ語の話.

ごく簡単に今回の発表の一部を公表すると, ネットから収集した言語データ分析から,

Ich         viel   geschwommen.

という環境で,完了の助動詞seinが選択されているものが, 91%で,habenが選択されているものが, 9%だった.この結果には,正直に言って, 自分でも非常に驚いた.完了の助動詞seinは, ますます力をつけてきているようだ. 日本で出版されている大部分の辞書や教科書では,habenだけ,あるいは, habenを中心に説明されているが, sein が(少なくとも)ネットでは,圧倒的に優勢である. そして,想像するところでは,かなりネットを離れた現実会話の場面でも, この傾向は加速しているのではないか,と思える.

さて,このような「言語変化」をどう捉えるか,というのは大問題である. 「言語の規範意識の変化」という人も入れば,「言語構造の変化」という人もいる. いや,「言語の地域性」から説明すべきだ,という立場もあるだろう. 言語プロパーな分析を好む私としては, 「言語構造の変化」を理論的に説明したいところ. ここから先は,研究上の*ひ*み*つ*です(「小さいねー」>私).


「遍在」と「偏在」,そしてubiqitous  [03/03/2006]

日本語で文章を書く時に,コンピュータを使用すると,漢字変換にお世話になる. ぱぱっと入力して変換,手書きで書くときよりもはるかに速く文章は完成する. いや,完成するように見えるだけかもしれない. 音声として脳の中を駆け巡る言葉を,変換操作によって文字という形に確定する. その際,日本語では表音文字ではなく表意文字が用いられているため, 確定された文字は音声との直接対応を離れ, 「意味を表わす形」(=表意文字)へとジャンプするのだ.あたかも, デリダの脱構築を地で行くかのように, 言語の中心が音声ではなく文字中心に展開する時だ.

何が言いたいかというと,「漢字変換を間違いました」ということと, その背後で起こったこと(お粗末). マイクロチップとユビキタス・コンピューティング:本当にこれでいいの? を書いたとき,うっかり ubiqitous を「偏在」と変換し満足(?)してしまった. おそらく一瞬のことなのだが,変換後に出てきた文字の形を見て, 「多分,これだったな」と思って確定してしまった.正解は,もちろん 「遍在」.文字が小さくて分からないという人のために,拡大版を表示させると:

偏在(へんざい) --- (ものごとが)ある部分だけに集中して存在すること.例)集落が偏在する

遍在(へんざい) --- 広くゆきわたり,どこにでもあること.

(山田俊雄,戸川芳郎,影山輝國 「例解 新漢和辞典」三省堂.1998.)

同じ音読みで,「旁」(つくり)も同じ,しかし,意味はほぼ正反対. 「偏」(へん)が違っているだけなのだ. マイクロチップとユビキタス・コンピューティング:本当にこれでいいの? を読んだ読者から指摘を受けるまで,気がつかなかったが, こういう間違いは,一度犯すと,以後敏感になるので,とても感謝している.

しかし,なんでこんなに微妙な表現があるのか,当然,その理由を探りたくなる. この2つの漢字に関しては, 「旁」(つくり)は,音を表わしているとのことなので, 「人偏(にんべん)」(=人)と「しんにょう」(=歩くこと) の違いに還元されるはずだが,それでも謎は解けない. これらの言葉が日本にきた時代にまでさかのぼらねば分からない. 中国から持ち込まれた文字の当時の意味と, それに当てはめられた大和言葉の関係が問題なのかもしれない.

ちなみに,訓読みだと,「偏」は, <かたよ-る,かたよ-り,ひとえ-に>, 「遍」は<あまね-し,し-たび>だ. これだと違いが明白だ.

以下は,若干の意味論的なコメント.

調べているうちに疑問になってきたのは,果たして「遍在」という言葉が, ubiqitousと同義なのかどうか,という点だ. 北原保雄 編「明鏡国語辞典」大修館書店.(2003)では, 「遍在」を<広くゆきわたって存在すること>とし,例として, 「日本各地に遍在する伝説」を挙げている. ここでは,<伝説が広くゆきわたって存在する>ことを述べている例だが, 「伝説」というのは,同じタイプのトークン(token of the same type) でしかないので,同一物が「あらゆる場所に同時に存在する」という意味ではない. 煎じ詰めれば,「遍在する」という述語が問題なのではなく, 定性,可算性が名詞の性質として義務的に付与されない日本語の問題とも言える. 私は,「遍在する」を「どこにでも存在する」と日本語で言い換えることに,抵抗がある. 「空気はどこにでもある」と言う時,「不可算のカタマリとしての空気」 が対象になっているので,ubiqitous が使われる本来のコンテクスト,<トークンが同時にあらゆる場所に存在する> とは決定的に違っているからだ.もちろん,「どこにでもある」というのは, 厳密に言えば「ありえない」ことであり,「広く存在する」という意味の言い換え, 誇張でしかないこともある.この誇張法の使い方は,英語のubiqitous にも存在する.


NHKトリノ・オリンピック総集編を見て  [02/28/2006]

17日間に及ぶトリノ・オリンピックが終わった. ほとんどオリンピックをテレビで見る機会がなかったので, 「NHKトリノ・オリンピック総集編」を途中から見た (気がつくのがちょっと遅かった). 荒川静香の金メダル獲得の話はニュースでやっていたので, それ以外の競技を見たかったのだが,あまりにも日本人選手中心の編集なので唖然としてしまった. 冬季オリンピックで初めての黒人選手の金メダル獲得の話, インド人のスキー選手の話はあったが,とにかく日本人選手ばかり. 0.04秒差で日本人選手が4位だった,とやっておいていったい誰がメダルを取ったのか,まったく紹介しない. 冬季オリンピックの最後の最後を飾るアイスホッケーの優勝チームを知りたかったのだが, 日本が関係していなかったから(?),まったく触れてくれなかった. 結局,分からないことだらけで番組は終わってしまった.

それにしても,荒川静香の競合相手,コーエンやスルツカヤの滑りの部分は, ほとんど「転倒した場面」だけ!これはひどい. 他の選手が失敗するのを見て喜ぶ, こういうのをドイツ語では,SchadenfreudeSchaden=「損傷」+Freude=「喜び」) と言う(英語では,malicious pleasure)が, こういう「相手の不幸を喜ぶ<ざまあみろ>的感情」 をマスメディアが結果として煽ってしまうのは問題だろう.もっとも, 編集者はそれを意識していないのかもしれないが,そうなるとますます病根は深い.

考えてみるとオリンピックは, 「国」というものを全面的に前に出して戦う場になっている. むき出しの国家主義,場合によっては民族主義.国旗を掲げて, 国歌を歌う.競争相手の「国」と戦う.あたかも,これは「代理戦争」, 「仮想戦争」の場となっている. しかも,争うのは,普通の人間では足元にも及ばないスピードや技(わざ)を持つ選手たちだ. スポーツというのは,このように国を代表する選手達が, 自分の国のために戦う口実ではなかったはずだ.

「武器を手にして戦争を行なうより,スポーツで戦いあう方がよい」 とか,「国民感情のガス抜きになる」という説もある. 「戦う」という原始的感情を現代的に押し込めるには, スポーツしかない,と主張する人たちもいる.そうなのかもしれない (荒川静香がメダルに届かなかったら,日本は沈没していたかも(笑)).

受信料を要求する(ほとんど)国営放送状態の NHK が,日本にかたよった 冬季オリンピック総集編を放映するのは,当然のことかもしれない. しかし,このグローバルな視点が求められる現代社会で, 一国に閉じこもった視点からオリンピックを見るのではなく,せめて 各競技のメダリスト達や話題となった選手を対等に見せて欲しい. これは,おそらくNHKに限ったことではないだろうが, 「日本人は日本の選手にしか興味がない」という偏見 をマスメディアが持っているのなら,即刻,このような姿勢を改めて欲しい. 何度も何度も繰り返して日本人選手の同じシーンを見せられるのは, 短いニュースの中であろうと苦痛でしかない.

何度も何度も繰り返して日本人選手の同じシーンを見せられても, 苦痛でもなんでもない人たちもいるだろう.彼らは知らないうちに, マスメディアによって「自国中心主義」を植え付けられているのかも知れない. 「スポーツマン精神」(Sportsmanship) の中には,戦う相手に対しての「公平さ,尊敬,寛容さ」 (fairness, respect and generosity) がうたわれていたはずだが,報道する側にも, スポーツ選手に対しての「公平さ,尊敬,寛容さ」を発揮してもらいたい.

私が望んでいるのは,スポーツ競技を「国」という視点から離して, 「公平に」扱って欲しい,ということだけだ.そのためには, 例えば,オリンピックでは「国」情報をやめて, 「出身地」,「育った所」,「母語」,「好きな物」 とか複数の尺度を与え,それぞれを表彰の前に1つづつ発表する, というのはどうだろうか? そうすると,国旗掲揚,国歌斉唱の代わりに,こんな風になる.

例えば,優勝したある選手は,名前を呼ばれて表彰台に上がる.そうすると, 次のようなアナウンスがある.

XYさん,出身地 --- スロバキア.(拍手歓声)
育った所---スイスのトリュープバッハ.(拍手歓声)
母語---スロバキア語(拍手歓声),チェコ語(拍手歓声),ドイツ語(拍手歓声)
好きな物---日本のヤキイモ(拍手歓声)
XYさん,一等賞おめでとう!(拍手歓声)

みんな,共感できるところで拍手すればよい. 同郷の人だというところで拍手してもよし,同じ言語を話すというところで拍手してもよい. 好きな物が面白いという理由で拍手してもOK.ね,面白いでしょ. ポイントは,単一の尺度で選手を見ない,というところ. ただ,団体競技の場合はちょっと困る.ボツですかネ?


Google mapsの与えた衝撃  [02/04/2006]

このところ,あちこちでGoogle maps (http://maps.google.co.jp/) が話題となっている. ただ目的地の地図を表示するだけでなく,衛星写真でも同じ場所を見ることができる. しかも,十分,反応も速い.みんなが,まずやってみることは, 自分の住所を入力して, 自分の住んでいる場所が衛星写真でどのように見えるかを確認することのようだ. 結果は衝撃的である.なぜなら,自分の家,あるいは住まいが衛星写真から判別できるからだ.

次の瞬間,多くの人の脳裏をかすめるのは,「見られている」 という不安ではないだろうか.住所さえ分かれば, どんなところに住んでいるのか,「見て確認できる」からだ. もちろん,現在の衛星写真の解像度からすれば,庭にある犬小屋が見えるわけでもなく, 昨日,出し忘れたゴミが庭の片隅にあるのが確認できるわけでもない. しかし,そのような状況が現実となるのは,時間の問題でしかないのではないか,という不安がある. もちろん,そこまでやると,個人情報保護問題が浮上するのは明らかなので, Googleは,そこまではやらないだろう. 解像度を上げたら,「他人の家も上から覗けてしまう」 から,大問題になる.今の状況でも,「上から覗いている」ことに変わりはないのだが.

地図と衛星写真を交互に見ていて疑問に思うこともある. いったいこの地図と衛生写真は,何月何日の時点のものなのか? そして,どれくらいの頻度で更新されるのか? つい,一ヶ月前には存在した店が載っていなかったりすると, ひょっとしてつぶれたのかも知れない,と考えたりするが, 単なる記載もれなのかもしれない.

同僚の一人に,Google mapsを実演して見せたら, 東京の玉川上水を衛星写真でさかのぼり始めた.なんでも,一度, 玉川上水に添って歩いてみたいと思っていたそうだ.下調べには確かに便利だ.

現在のところ, http://maps.google.com/か らアメリカの地図と衛星写真を,同様に表示することができるが, ヨーロッパではまだ本格的に始まってはいないようだ(衛星写真は, ドラッグしていけばヨーロッパ地域でも見れる!イギリスは,地図も衛星写真も完備). これも時間の問題だろう.Googleは, 昨年から出版物のアブストラクトを提供するというサービスの準備を始めている, というニュースもある.片っ端から本をスキャンして,アブストラクト作成ソフトにかけて, アブストラクトをデータベース化するのだとか.当然,著作権協会との衝突が話題となっている.

そもそも一般的な地図というのは,真上からみた視点を提供するという意味で, 普段とは異なった視点から場所を眺めるという楽しみを提供している. しかし,地図は当然のことながら,すべての情報を反映できるわけではなく, すでに作成者によって抽象化されたものだ.衛星写真は,地図とは異なり, このような抽象化がない.解像度からくる制約があるものの,そこには, 地図にはない情報が詰まっている.だから,見れば見るほど面白い. 思わずはまってしまい,「引きこもり」になってしまいそうだ.


既存メディアが伝えない情報  [01/14/2006]

昨年の11月に講談社から クーリエ・ジャポン(COURRiER Japon)という雑誌が発売になった. 月に2冊というペースで出版される雑誌.そのキャッチフレーズを引用すると:

「世界は日本をどう見ているのか」 「日々起こる世界中のニュースを、海外の現地メディアはどう報じているのか」。 クーリエ・ジャポンはこの双方向の視点をコンセプトに、 フランスの週刊誌『クーリエ・アンテルナショナル』と提携。 全世界1000メディア以上の有力メディアから記事を厳選し、 日本の既存メディアが伝えない情報を月2回お届けします。 ワインから戦争までをカバーする「地球サイズのニュースマガジン」。 それが、クーリエ・ジャポンです。

「日本の既存メディアが伝えない情報」 という部分にたいそう魅力を感じて,これまで出た4冊の内,3冊を購入.

さて感想:
(1) 確かに世界のさまざまなメディアから発信されている情報が載っているという点で, アメリカ中心に情報発信している日本の既存メディアとは違う印象を受けた. ただし,フランスの週刊誌『クーリエ・アンテルナショナル』 との提携誌ということもあり,どことなくフランス的な香りがする.
(2) せっかく世界のいろいろなメディアからの記事を集めておきながら, どの記事を見ても,オリジナルのニュース発信日が記載されていない (見落としているのかもしれないが,少なくとも読者に目立つところにはない). 面白いな,元の記事を読んでみよう,と思っても,これでは探しようがない! オリジナルの記事の掲載されたメディア,日付, オリジナルのタイトルくらいは分かりやすいところに載せて欲しい (まさか,分からないなんてことはないでしょう).
(3) 特集記事(SPECIAL FEATURES)は, それなりに面白い.004号の「極秘裏に進められた問題作『ミュンヘン』の舞台裏. スピルバーグが挑む「テロと報復」の世界」は,TIME のインタビューの和訳だが,同時に,イスラエルの日刊紙「ハアレツ」 (HAARETZ)に掲載された(らしい,COURRiER International からの)反論記事 「スピルバーグは『ミュンヘン』を撮るべきではなかった」(P.59) が掲載されている.近年.相反する意見を1つの雑誌で読めることは 稀なので,面白いと思った. 『クーリエ・アンテルナショナル』 からの(フランス語記事からの)和訳ではないと信じたいが,確かめるすべはない.

ちなみに,Steven Spielbergのインタビューは, 2005年12月12日号のTIME誌に掲載された Spielberg Takes on Terror: Munich adroitly blends high-pressure action and humanity in a historical story that's all about our times.というタイトルのもの. Florian Coulmas氏の「晩婚,少子化と問題は山積み: 子供への関心を失った日本女性たち」(P.35)という Süddeutsche Zeitungからの文章は, 2005年10月29日のEine Last und keine Lust: Die Japaner heiraten nicht gern und wünschen sich keine Kinder: Das Land schrumpft. (「(子供は)重荷で,産む気なし: 日本人は結婚したがらずに,子供も欲しがらない.国がぢぢむ」) というタイトルの記事が元になっている(Feuilleton S.14). この2つの記事では,タイトルが変えられていることが分かる.

「世界は日本をどう見ているのか」という視点にこだわることなく, 「日々起こる世界中のニュースを、海外の現地メディアはどう報じているのか」 を中心に記事を組み, それに誰か情報通の人が解説・コメントするような形が私には好ましいと思える. 面白さだけに捕らわれずに, これまで日本のメディアから無視されてきたようなニュースをどんどん取りあげて欲しいものだ. 今後に期待したい.

ちなみに,いま風に, クーリエ・ジャポン編集長のブログサイトもある.


この冬にやって来た果物4種  [12/25/2005]

果物には様々な大きさのものがある.例えば,リンゴ.日本のリンゴは, ヨーロッパで普通目にするリンゴに比べて,大きい.ちょっと大きいという よりは,倍以上大きい.なぜそんなに日本のリンゴは大きいか,というと, それは品種改良の結果であろうと想像している.がしかし,なぜヨーロッパ やアメリカのあの「かわいいサイズ」(ポケットに入れても邪魔にならない サイズ)のリンゴが日本に入ってこないのか? それは,輸入が制限されているからだ.国内リンゴ農家の保護,という理由があ るのだろう.日本から出たことがない人たちは,リンゴは,あの日本のサイ ズが当たり前だと思っている.「井の中の日本人,世界のリンゴを知らず」 ということか.

さて,今回は,この冬に我が家にやって来た4種類の果物を紹介する. 鬼柚子(オニユズ),愛宕梨(アタゴナシ),X-洋梨(ヨウナシ),筑波ミカンなのだが,洋梨だけ は正体が分からなかった(だから,「X-洋梨」と呼ぶことにする). 4種の果物の内、3つは異様に大きい.「大きければ良い」,「甘ければ良い」 というものでもないと思うのだが,これも日本的発想と関係があるのだろうか?

いずれももらい物なのだが,まずは柚子から.巨大なユズで, ネットで探した結果,鬼柚子(オニユズ)であろうと思われる.重さが700g, 高さが 125mm もある. 平塚市の鬼柚子の紹介があり,それによると, 「このオニユズ、実(み)は普通のものに比べてかなり大きく、直径は15センチ、重さは700グラムほど。 色はタンポポ色で、普通のユズに比べると香りは少し弱い。」となっている. 確かに,匂いはほとんどない.鬼ユズ という命名は,このちょっとグロテスクな外見に, かなりマッチしているかもしれない.上記のサイトでは,学芸員の人が, 「ユズと名が付いているがボンタンの仲間で、観賞用に栽培され、 普通は食用にしない。似たものに『獅子柚子』もあるが区別は曖昧」とコメントしている. 獅子柚子(シシユズ)というのもなかなかの命名である.まあ,とにかく大きいが,それほど重くない.

梨(ナシ)の巨大なものはこれまでにも店頭に並んでいるものを見たことがあった. もらった梨は,愛宕梨(アタゴナシ). テレビで紹介された愛宕梨 (http://www.ctv.co.jp/zoom/2003/ura/1124/01.html) の話が, ネット上に残っていたが, そこでは,2.2kg のナシが計量されていた.うちにやって来た 愛宕梨は,そこまで重くなく, 1.1kg で高さが112mm.これでも十分巨大だし,ずっしりと重い.

そのすぐ後にやって来たのが,洋梨(ヨウナシ)で,その種類, 品名はついに分からなかった.色は,薄茶のヨウナシ色(説明になっていない). 日本では,勝手に洋梨と呼んでいるが,海外では,ただの "pear"(ドイツ語では, Birne). 正体不明のX-洋梨の高さは,109mmもあったのだが, 重さの方は,580g であった.

最後が,筑波ミカン.これは,逆に小さい小さい果物. ドイツでは,なぜかSatsumaと呼ばれている小さな ミカンがあるが,日本産なのかどうか分からない.でも,筑波ミカンは, その重さ,わずか13g,高さは 23mm だった.十円玉と比べると, 筑波みかんの大きさが分かる.

本来は,それぞれの果物の半径を測るべきだったと反省しているのだが, すでに2つは,誰かが食べてしまい,1つはおすそ分けで他の家へ行ってしまった. 最後に残ったのは鬼ユズで,依然として台所にいる.

高さと重さのを整理してみよう.

果物名重さ(g)高さ(mm)g/mm (height)
愛宕梨11001129.82
鬼柚子7001255.60
X-洋梨5801095.32
筑波ミカン13230.57

ここでは,参考までに高さ1mmあたりの重さを出してみた.鬼ユズは,大きいわ りに軽いと思っていたので予想通りだが,X-洋梨が単位高さではかなり低かった. この洋梨は,かなりスカスカということなのだ.

ここまでやったのだから,最後に筑波ミカンの重さ,並びに高さを1とした時, 他の果物がどれ位になるのかという比率を出し,単純な棒グラフ化を試みた.

果物名重さ(割合)高さ(割合)
愛宕梨84.64.87
鬼柚子53.85.43
X-洋梨44.64.74
筑波ミカン11

果物名重さの比較
愛宕梨|||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||
鬼柚子|||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| ||||
X-洋梨|||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||||||| |||||
筑波ミカン|

果物名高さの比較
愛宕梨|||||
鬼柚子|||||
X-洋梨|||||
筑波ミカン|

3桁を有効数字として,それ以下で四捨五入しているが, 筑波ミカンを1として1桁で表現したので,高さの比較では差がでない. それに比べて重さでは決定的な差がある. これで,体積と糖分の測定結果でもあると,なお面白いのだが.


引用の引用は引用でない?  [12/19/2005]

12月は師走(しわす).教員はなぜか走り回ることになっている. この季節は,本当に忙しい.その1つの理由に,論文の査読がある. 雑誌投稿論文だけでなく,卒論,修論などなど山のようにたまってしまう. 自分でも締切の論文を抱えつつ,他人の論文を読むのだが,その時に問題になる のが「引用の引用」即ち,「孫引き」(まごびき)である.

 友達の友達も友達だという論理(transitivity) に従えば,「引用の引用もまた引用だ」と言ってもよさそうなのだが, 一般に「孫引き」は学問の世界では,広く禁止されている. なぜか?

それは,
(1) 引用する側が正確に引用していない可能性がある,
からだと思い込んでいる人たちがいるが, もっと本質的なところに問題がある.
(2)「引用」は,繰り返す内に, 元の著者の文脈からますます離れていき, 引用された部分の本来の意味を回復できなくなる,

この可能性が高まるというのが,決定的な理由だ. 1つの文でも,その意味は文章の前後関係に大きく依存している. だから,引用先を直接自分で読んで,その内容を自分で確かめなければ, 確かなことは言えない.「原文にあたる」ことは, 論文を書く上で必須条件だ.そして,正確な引用が求められる

日本では,「伝言ゲーム」,英語では,Telephone と呼ばれるゲームがあるが,情報を人から人へと伝える内に, その内容が変質していくというのももう1つの側面だ. 列の先頭の人に,「たぬきのしっぽ」と言っても, その列の最後の人は,「きつねのおっぽ」と聞かされているかもしれない. 人間の情報伝達には,伝達経路における様々な「雑音」により, 伝達内容が途中で変質する危険性が常にある. したがって, (3) 引用の引用は,途中で中味が変容している可能性が 高くなっている,と言える.

レポートを書く時の注意として,「引用文は,本文と厳密に区別して,引用符な どを使ってはっきりと分かるようにしなければならない」 と言ったら,数人の学生が後からやってきて, 「テーマに関して,ほとんど知識がない時,レポートの内容は,全部引用に なってしまうのではないか?」と尋ねてきた.確かにそうだ. しかし,そこで求められるのは,複数の資料,論文,本におけるそのテーマの扱 い方を調べることだ.そこには,必ずと言っていいほど,「違い」があるはずだ. その違いは何なのか,その理由とは何か,そしてどれが正しいのか, そこにレポートを書く人の判断が求められる.自分の論理を組み立てて, どれが正しくどのように位置づけられるか,それが書ければレポートとしては, 及第点をあげられる.

大学生のレポートとなると,本の一部を丸写ししたり, ネットから拾った説明(Wikiペディアなど)の copy & pasteというお粗末なものが出てくるが, これらのレポートは,その道の専門家が見れば,すぐお里が知れてしまう. もっとも,レポートをそこまできちんと見ない怠慢教員も世の中にはい るのだろうが,普通はお手軽に作成されたレポートは,それだけの評価しか受けない.

ということで,「引用の引用は引用にあらず」です. 例えば,引用符を使って印象的に書けば,

〈 「 『x は y である』 とAは言っている」 というのをBが引用している〉  というのを私は引用する.

というのは,信用できませんよね. それがたとえあまり重要ではない引用であったとしても.


消えた『下流社会』と出現した『ドラゴン桜』  [12/01/2005]

10月のある日,新聞に新刊書として紹介されていた三浦展(みうら・あつし) の 『下流社会:新たな階層集団の出現』を書店で購入した. 翌日の電車の中で読もうと思い,テーブルの上に置いておいたら, 朝になったらなくなっていた(涙). うちの誰かが先に読み始めてしまったらしい. 「ついてないな」と思ったら,数日後には,テーブルの上に 『ドラゴン桜』 なる漫画の単行本が3冊も積み上げられている!なんだこりゃ.

 現代日本社会が,いわゆる「勝ち組と負け組」,「富裕層と非富裕層」 に二極化する傾向にあることは,かなりいろいろな形ですでに語られている. それにもかかわらず,この三浦展氏の『下流社会』が売れたのは, そのタイトルがショッキングであり, <もはや「中流」ではない。「下流」なのだ> という強烈なメッセージとともに,<【あなたの「下流度」チェック】 …半分以上当てはまれば、あなたはかなり「下流的」>まで付いている, 現代的な売り込みに成功した新書本と言えるだろう.

 はっきり言って,わたしには,世の中で話題となっている漫画に関する知識はない. 「ドラゴン桜」はテレビドラマにもなっていたそうだが,知らなかった. 三田紀房氏によるこの作品は,講談社のサイトからの宣伝文句を借りれば 「弁護士・桜木による落ちこぼれ高校の再建計画、その内容は東大合格者100人!! 日本のルールは東大を出たやつが作っているだから……東大に入れ!!」というもの. このコピーを読んでも,わたしは読まない.「なんだ,受験モノね.」 という反応で終わりだ.しかし,桜木の言葉は過激だ(以下の引用を参照). この桜木の言葉,「その通りだ」と納得する大人も多いだろう(わたしも, 納得してしまう).

「社会のルールってやつはすべて頭のいいやつが作っている. そのルールは頭のいいやつに都合のいいように作られているんだ. 逆に都合の悪いところはわからないように隠してある. つまりお前らみたいに頭使わずに面倒くさがっていると…… 一生だまされて高い金払わされるんだ. だまされたくなかったら,損して負けたくなかったら,お前ら,勉強しろ」

『下流社会』が明確にしたこと,それは,いくつかあるが, 偏見的読後感でまとめると:
(1) 日本も上下の差のはっきりした階級社会になりつつある, (2) 上層の富裕層は,ほうっておいても上層にいて, 働き者で,非個性的(!)な生き方をしている, (3) 以前の中流階級は崩壊しつつあり, どんどん下流階級が増えている, (4) 下流階級の増加には,「自分らしさを求める若者」がかなりいて,彼らは, そんなにあくせく働かないし,向上心もない.

『下流社会』は,さまざまなアンケート結果の集計に基づいている. 物を売り込む人間にとっては,消費者購買層の分析は欠かせないので必読書だろう. 本書の後半になるにつれて,著者の意見が全面に出てくる. 「働く上流」と「踊る下流」とはうまく表現したものだ. 「自分らしさ」を求め,社会的成功など求めずに生きる, そのこと自体に異を唱えるつもりはない. しかし,社会にはさまざまな不平等があり, 個性を求めると言いながら,実は「出る杭は打たれる」. さまざまな欺瞞が社会には満ちているのだ. そんな中で,純粋に自己実現(Selbstverwirklichung) だけを求めて現実社会で生きていくのは無謀であり,社会に対してあまりにも無知である. 「自分はこれでいいんだ」とか, 「自分は無理はしない」とか,「毎日がそれなりに充実していればいい」 なんて言う若者で日本が満たされてくると,本当に,彼らはやがて「下層階級」 を作ってしまうかもしれない.
「若者よ,もっと上を見て生きてくれ!」と,おじんは叫んでしまうのだった.

 最後に,『下流社会』(P.176-177)から印象に残った箇所を引用しておく.

 上流の子供は,あらかじめ下流の人間とは異なるように育てられる. 生活態度,言葉づかい,勉強のしかた,すべてが相互に関連して, 上流らしさが作られる.
 しかし,中流や下流の若者は,学校や家庭を通じて, 誰もが平等だといって育てられる.ところが中学,高校,大学,就職と進むに連れて, 社会には上も下もあることに気づかされ,ショックを受ける. そして社会から離脱していくのである.
 『ドラゴン桜』の面白さは,社会にある不平等を,自由,個性, オンリーワンなどという言葉で隠している大人の欺瞞を暴き, 子供たちに社会の真実を知らしめ,だからこそあきらめずに努力しろと主張するところにある.

 「社会の真実」を知ったからと言って,本当にその若者が社会の中で「得をする上流」 へ向かって生きるかどうかは分からない. 東大合格請負漫画『ドラゴン桜』に学ぶ受験テクとして講談社は, たくましくシリーズ化して商売をしている.これも金儲けという「社会の真実」 の姿かな.もちろん,誰もが東大を目指す必要はないし, 「日本のルールは東大を出たやつが作っている」というのも半分はウソ. ただ,一日中自分自身の将来に直結する積極的な投資(自己の能力開発など) をまったくせずに,受動的に音楽を聞いたり,テレビを見たり, DVDを見たりして,社会に何の関心を持たない「下流」(?) 人間が増えているのは大問題だ. 本当に<一握りの大人が勝手に政治をし, 好きなように社会を作り替えてしまう>.そんな社会にしてはいけない.


「日経バイト」休刊  [11/27/2005]

「日経バイト」が, 2006年1月号(12月22日発行号)で休刊になる. 編集後記を読んで気がついたが,先日,購読料返金に関するお知らせが届いた. 実は,「日経バイト」の購読をやめようと思っていた矢先だった. コンピュータ関係の雑誌が休刊になるのは珍しくない(ちょっと思い出してみても, CURSOR, Micro, PC ワールド,PC-WAVE, SuperASCII, Linux Magazine, それに bit などなど).「日経バイト」 に情報としての魅力を感じなくなったのは,いったいなぜなのだろう?

簡単に言ってしまえば,私にとって,面白いとか,役立つ,と思える記事が減った,ということなのだ. 「日経xx」というシリーズは山のようにある.もともと,byte というアメリカの雑誌とタイアップしていて,当初はアメリカからの情報も多かった. ちょっと進んだ技術系のつっこんだ記事,さらに,実用をある意味で度外視した 先端的コンピュータ技術の夢,それがあった.

byteが休刊になり,いつのまにか, 明らかに企業の技術者をターゲットとしたような広告が目立つようになっていった. 初めから,そのような色彩はあったのだが, 広告と記事の区別のつかないような広告特集ページが増加し, 面白そうな特集も減った気がする. 特に,直接的な利益と結びつけるような情報とは無縁な個人にとっては, 近年の「日経バイト」は魅力が乏しくなっていた.せいぜい「混沌の館にて」 を読んで,苦笑いするくらい.かつては, 「さすが,日経バイト」という記事も多くあったが, 今では他の技術系雑誌の突っ込みや特集も十分競争力があるので, 「日経バイト」がかすんでしまったのかもしれない.

例えば,12月号の「自動車のIT化:感性の領域へ」は,面白い特集だった. 自動運転への夢,それがいかに困難か,ということと同時に,実は, もうここまで新たな技術が開発されていることを紹介したものだ. この特集記事のタイトルを読んで,最初に期待したのは, まず現実の車にどれだけのコンピュータが使われているか, そのコンピュータを制御するシステムは何か, それがどのように進んでいくのか,という点だった.しかし,内容的には, 3番目の部分が中心で期待は2/3裏切られたかっこうになった. もちろん,企業秘密があり,取材は困難だろうと予想できる. でも,そこを何とか工夫して克服し,読者を納得させる必要があるのではないか.

「例えば,X社のYという売れ筋のワゴン車では,46個のCPUが搭載されており, その内の5個がエンジン周りで,なんとリアルタイムOSとして知られる zz が使われている.この車では,実は複数の種類のOSが採用されているが,その理 由は...」なんて書かれていたら,目を皿のようにして読んだかもしれない. もちろん,企業秘密だから,誰もこんなことは書けないのかも知れない. ゲームセンターのゲーム機のOSの主流は何か,とか,携帯電話の日本語FEP のシェアの動向とその新たな技術なんてほとんど話題に上らないが, だからこそ情報として面白い.でも,書けない事情があるのかもしれない.

コンピュータ技術の真髄を問うというコンセプトは よかったのだが,中途半端ではなく「真髄を問い続け,商売をする」というのは, やはり難しかったのだろう.


パリンプセストと遺伝子情報  [11/26/2005]

パリンプセスト(palimpsest)って知ってますか? 羊皮紙(parchment,Pergament) は,ハリーポッターにも登場して一躍有名になりましたが,パピルスから作った 紙が普及する前には,羊皮紙が文字を書きしるす媒体でした.「ペルガモンから来 た紙」である羊皮紙は,それでも高級品だったので,リサイクルしていたのです ね.軽石(pumice)で表面をこすり取って再利用されて いたのです.その再利用されていた羊皮紙がパリンプセストと呼ばれています. しかし,きれいにけずりとられずに,元の文字が少し残っていたりします. また,紫外線をあてることで<けずり取られそこなった>文字を読むこ とができることもあるそうです.

このように過去の記憶が羊皮紙に残っている状態を, ジョン・リレスフォード(John H. Relethford) は,遺伝子情報にたとえています.何回もけずり取られたはずの情報が, パリンプセストのように遺伝子情報として,現在に至っても保存されている, というのですね.大昔の人類の歴史が,現在の人間の遺伝子情報にも蓄えられている, というのは驚異としかいいようがありません.

『遺伝子で探る人類史:DNAが語る私たちの祖先』(ブルーバックス B1491)を読んだのですが,その大胆な章のタイトルとは裏腹に, かなり慎重な書き方をしています.それでも十分,面白い内容です.

言語学者としては, 当然ながら人類遺伝学が言語変化に関して何を語ってくれるか に興味を持ちます. この点で,人類遺伝学と歴史言語学,考古学が共同のフィールドで研究を進め始めている, というのは驚きでした.詳しくは,同書のP.213-217 を読んで頂くとして,誤解を恐れずに簡単に紹介すると:

インドヨーロッパ語族の初期段階が, ロシア南部のクルガン人あたりであるという仮説がある. 彼らは,3回に渡って西へ移動したという. これを遺伝子レベルでどのように捉えるかというと, 対立遺伝子の分布パターンを「主成分分析」で比較するのだ.その結果, その第三主成分の分布パターンがクルガン人の拡散を示すようなパターン とかなり一致していることが分かった.現在の言語の分布パターン(言語学的距離) と遺伝子の分布パターン(遺伝的距離)を比べることで, 言語の拡散に関しての新たな光を当てることができる. もちろん,言語拡散に関する仮説をこれだけで十分に説明することはできないが, 民族の移動が,遺伝子情報に記憶されているので, そこから大きなヒントを得られることになる.

残念なことに,このブルーバックスの和訳では,第9章,第10章は「著者の許可を得 て,若干簡略化」されてしまっています.「日本の読者には比較的関心が薄い」と思われる から,と翻訳者がその理由を述べていますが,第9章は,「アイルランドにまつわる3 つの物語」,第10章は「遺伝的混合と文化的同一性」で,いずれも極めて面白 い章なので残念です.ユダヤ人集団の遺伝的共通性に関する研究結果もあり, ある意味で予想通り,「ユダヤ人のアイデンティティは文化的に決められている」 ことを間接的に支持する結果となっています.このあたりは,原著を読む必要が あります.

余談:私の購入したこの本の表紙カバーの裏(筆者と翻訳者の紹介が ある折り返しの部分)には,筆者のファーストネームがJhon と印刷されています.もちろん,John が正解です.パリンプセストのように削り取るわけにもいかないな.


山の手線の事故:なぜあんな風に謝るのか?  [11/08/2005]

 2005年11月7日朝.山の手線内回り電車が止まっていた.迷ったあげく, 私は,山の手線の外回り電車でぐるっと1周する方法を選択した.しかし, 運悪く,途中で外回り電車もストップ.山の手線外回りも, あと一時間は止まるとのアナウンスが流れ,しようがなく埼京線に乗り継ぎ, その後は歩くことにした.駅では,駅員が乗客からの質問攻めにあい, 繰り返し「申し訳ございません.」と謝っている姿が見られた. もちろん,私も頭にきた.予定がすっかり狂ってしまったからだ.しかし, 今では, こういう事故にあったら,その時は腹をくくって別な仕事をすることにしている. たまたま,原稿を抱えていたので,それを読むのに最適な時間となった.

 帰宅時に,JR各線は,車掌のアナウンスを放送していた. 「本日は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした.」 同じように,改札にも張り紙があった.そして,一晩あけた今朝も, 繰り返し山の手線では陳謝のアナウンスが流れていた. 「...深くお詫び申し上げます.」と.

 しかし,前日の怒りとは別に,違和感を感じた. 今年の夏,ドイツでも突然の列車の故障で立ち往生させられた時の記憶がよみがえった.

Neumarkt駅

違いは何か,というと,
(1) アナウンスでは,一応謝っているような言葉が流れた. (正確に言うとWir bitten um Ihr Verständnis(「ご理解をお願いします.」)であり, 「悪かった」と詫びているわけではなかった.)
(2) 途中で止まって乗客を誘導する時には,その駅(Neumarkt)の駅員は, 誰も謝らなかった.
(3) 乗り継ぎ電車がやって来たが,かなり多くの乗客が乗っていたために, 駅で待っていた乗客はほとんど乗せてもらえなかった( 「乗客をこれ以上乗せるな」という指示がでていたらしい). その駅の駅員は,乗客をやってきた電車に乗せないようにした (駅で待たされていた乗客の利益に反する行動をした).

 根本的な違いは,「ドイツでは, 本当に責任のある人しか謝らない」 という態度だ.だから,そこらにいる駅員は,責任がないから, 謝らない.それに対して,「日本では,(連帯責任の意識からか) 特定の組織の中の事件・事故に対しては, その組織の人間の誰もが謝って当然だという意識がある」

 他方,戦争責任問題では,アジアの国々から「日本は謝っていない」 と非難されるのだが,日本国内でのこの「陳謝の嵐」はいったい何なんだろう. そういえば,何かにつけて"I'm sorry."と 言ってはいけない, と英語の授業でネイティブスピーカーに注意されたことを思い出す.

irritierte Fahrgaeste am Bahnhof

 いったい違いはなんなのだろうか. 「みんなで謝ると責任の追求を受けなくて済む」ということなのだろうか? それとも,「みんなで謝って,とりあえず感情的わだかまりを取り除く」 という知恵なのだろうか? しばし考え込んでしまった.
 ちなみに,ドイツのNeumarkt 駅に一時間以上取り残された乗客たちは,怒り心頭に達していた (私もその中の一人).中には, 「もう二度とブンデスバーン (Bundesbahn)には乗らない」と宣言したり, 「ブンデスバーンは, サービスという概念を知らない」 と憤慨していた乗客もいた.

 こんな時に, 日本的に謝りまくったら問題の解決になるか,と問われれば, 「もちろんならない」. ただ,日本で「謝り漬」になっているのに慣れてしまうと, 事故・事件で, いっこうに事態が改善しないのに平然としているドイツ人を見ると, 腹を立てる日本人は多い. 私は,この頃,このような光景をドイツで見ても, あまり腹を立てなくなった.むしろ,何の責任もないのに,上司の命令に従って, 乗客に謝りまくっている若い駅員がかわいそうだと思う. 彼らは責任者ではないから.


praat: パソコンで音声解析  [11/05,11/06/2005]

 新着の音声学のテキスト(ドイツ語版)を見ていたら,パソコンで音声解析 ができるソフトウエアの解説があった.その手のものは,市販の高価なもの だろうと思って読んでみると,なんと,Freeware らしい.PRAAT のオフィシャルサイトから,Macintosh, Windows, Linux, FreeBSD, SGI, Solaris, HPUXで動くバイナリーを 入手できる.もちろん,ソースファイルからビルドしたい人向けに, ソースファイルも公開されている.アムステルダム大学音声学科の Paul Boersma氏とDavid Weenink氏によるものだ.

 さっそく,Linux用のバイナリ (praat4324_linux_dynamic.tar.gz)をダウンロードして解凍すると, 1つの実行可能ファイルpraat (3,903,296 bytes) が出てきた(ちなみに,オランダ語でpraatとは, 「おしゃべり」のこと).音声解析だけでなく,音声合成,フィルタリング, グラフィックス,統計解析など,広範囲にサポートする驚くべきプロのツールだった.

Japanese vowel: [a] onset

 音声の録音ももちろんできるので,さっそく,パソコンにマイクをつないでみて気がついた. そう,まともなマイクがないのだ.パソコン接続用のマイクは,本当にお粗末なものが多い. しようがなく,あれこれ家の押し入れの中を物色したところ, デジタルレコーダ用の小形指向性マイクを発見. つないで実験をしてみると,やはりかなり雑音が乗っている.それでも, 最初に試したものよりましなので, ちょっと私の「ア」の母音の立ち上がりの部分を波形で表示し, epsにし,jpgに変換してみた. マイクさえよければ,十分,プロの道具として使えそうだ (右の図は,半分の大きさに縮小したので,若干見にくい. 実際には,下にフォルマント,ピッチカーブをカラーで表示できる).

  Windowsでしか使えない,という有料ソフトとは違い, さまざまなプラットフォームで基本的に同じソフトが動く, というのは,非常にありがたい.Macユーザも, Windowsユーザも, その他のUnix系のユーザも同じように使えるのだから.

 専門のメーリングリストもあるし, FAQもドキュメント類も揃っているので,後は,このソフトを使いこなせるように, 基礎的な音声学の勉強をするだけ! しかーし, このソフトを使いこなせるようにするための専門教育には時間がかかりそうだ. とりあえずは,パソコンに接続できる高性能なマイクを探さなければ...

 ただし,高性能な指向性マイクだけでは,問題が解決しない. パソコンは,雑音の宝庫(笑)なので, パソコンからできるだけ離れて操作することが望ましい(そうなると, 一人ではできなくなる). さらに,周囲には普通雑音が満ちているので, 「無響室」(周囲の音を完全にカットし,反響ゼロの部屋)が必要になる. そこで気づいてしまった.お手軽にパソコンで音声解析,なんていっても, 実は,最後の関門は「無響室」で,これは, とてもとても個人では持てないしろものなのだ,と. これだけの周囲の雑音をカットして,言語音だけを聞き取り, その意味を一瞬にして理解するという人間の脳力のすごさには, 改めて感心せざるをえない.

ところで, どこかで格安な「無響室キット」とか作って販売しているところはないのかな? (「無かったら,自分で作れ!」という鉄則もあるが...)[2005/10/06追加]


科学者の夢:全核兵器消滅計画  [10/23,10/24/2005]

読書の秋とばかりに机の上には,読破する予定の本が積み上げられている. が,一向にその高さは減らない.「そんなに読めるの?」と周囲からは, あざけり笑うような質問.実際に,読み終えた本は,取り除いているのだが, 気がつくと新たな本が仲間入りしている.今日は,物理学者のN先生から 紹介して頂いた本について.

その名も, 中嶋 彰著『全核兵器消滅計画』(講談社, \1,470-. ISBN: 4-06-212949-3[リンク先変更10/24]). 核兵器を作ってしまった人間.そして,その核兵器の脅威にさらされている地球. 政治的武器になり,幻想としか思えない「核の傘」や「核抑止力」,そして, ICBMと,それを迎え撃つミサイル. 実際に,核ミサイルが発射されれば, 最先端技術をもってしても,おそらく「誤差の範囲」から, 思わぬ方向に発展し,あっと言う間に,特定地域が消滅し,全世界に死の灰が降る危険性は常にある. そんな「核の脅威」を完全に消滅させてやろう,という壮大な構想があるのだ. 以下に,物理学者 N先生からのメールをそのまま引用する.

元高エネ研所長であり,素粒子物理の権威者,菅原 寛孝の立案によるニュートリノで, 全世界の核兵器二万発を無力化する核消滅構想が出された. (「全核兵器消滅計画」(中嶋 彰著 \1,470.-)が講談社から発刊された.) 人類を核の脅威から救う壮大なプランです.簡単に主旨を要約しよう.

1944年の夏,アメリカの原発開発プロジェクト「マンハッタン計画」 は暗礁に乗り上げていた.新設されたロス・ アラモス研究所に集まった研究者達は濃縮ウランを使った砲弾式の広島型原爆は首尾よく開発したけれど, 長崎型のプルトニューム原爆は難物だった. スタート時に起こるフライングのように早期に小規模な爆発を起こし, プルトニュームがバラバラに飛び散り連鎖反応による大爆発が起こせなくなる 「未熟爆発」と言う現象が発生していた.プルトニューム原爆は根本から設計変更を余儀なくされた.

球状の爆弾容器の周囲に点火栓を配置し, 火薬爆発で生じた衝撃波を内のプルトニュームに焦点させる爆縮式への変更である. 衝撃波を中心部にフォーカスさせると,プルトニュームが核分裂を始める. この仕組みを「爆縮レンズ」と呼び,爆縮式は砲弾式より格段に格段に難しい. 多くの試みが為されたが,解決したのはフォン・ノイマンだった. 彼はチューリングだと言っているが「プログラム内蔵型コンヒュータ」 を創始し,又「ゲーム理論」の創始者として有名である. 彼の計算結果では正五角形と正六角形からなる32面体の各面に爆縮レンズを配置する.これにより未熟爆発は避けられた.

それから六十年を経て,菅原 寛孝はマンハッタン計画のボトル・ ネックとなった未熟爆発に着目した. 地球の諸所の基地に設置されている核兵器二万発に巨大な粒子加速器から超高エネルギーのニュートリノ放射し, 未熟爆発により無力化出来ると彼は考えた.これが実現するとなれば, 人類の恐怖の「核の冬」が未然に防がれる. 世界史を大きくハンドルする快哉事である.上記の図書を是非一読されることを薦める.

全世界の核兵器二万発を,あっと言う間に無力化できたら,実に爽快だろう. 科学者の壮大な夢.これはやはり読まずにはいられない. (ただし,その実現性に関しては,かなり問題が残されているようだ. しかし,現在実用化されているさまざまな科学技術も,振り返って見れば, そんなこと夢物語だ,と思えた時代があったのも事実である.無理だとか, 夢だとか言われ続けて,あきらめずに続けることで breakthroughが生まれていくのだと思う.) 本当に壮大な構想だが,もし実現したとして,世界中の政治家達が, 自国の核兵器が無力になったことを知ったら,いったい何と言うだろう. 「核兵器を返せ!」なんて言う政治家も出てきそうだ;-). 「力でねじ伏せる政治」から脱却できない人間なんて, あまりにも下等な気がするのだが.


A Ghost in the Machine  [10/08,10/09/2005]

秋の夜長に読書,とばかり,読まずに置いてあった Steven Pinker (2002) の THE BLANK SLATE: The Modern Denial of Human Nature. New York: Penguin. (ISBN 0 14 20 0334 4)(Paperback)を読み始めた. The Language Instinct.で, 一般人にもかなり有名になったPinker だが, 言語心理学者が言語について主に書いたというものではなく, もっとずっと広い視野から「人間が生まれながらに持つもの」を扱っている. 基本は,生得説.しかし, 「人間が生まれながらに持つ特徴」を非科学的に決めつけて信じ込んでしまうと, さまざまな差別や人種的偏見が生じる.その意味で,非科学的な生得説は罪深い側面を持っていた. 逆に, 「生まれながらにして人は平等である」という考え方の背後には, 「生まれてきた時は,人間の頭の中は,何も書かれていない板」 (blank slate)であり, その後の環境や教育によって人間が作られる,という思想があった. この考え方は, 現代の人間の平等感を裏打ちするという意味では, 好ましい結果と結びついている面もある. そんなNature vs. Nurture論争 (人間が「生まれつき持っているもの」対「教育によって獲得するもの」) を冷静に切り分け,現代科学の目で見るとどうなるか,というのが本書のテーマのようだ.
表紙にあるのは,Salvador DaliTête Raphaelesque Eclatee (Exploding Raphaelesque Head)という1951年の作品. ダリの作品をここで見てみると,次のような文が引用されているのが分かる.

"If intelligence does not exist at birth, it will not exist at all." - Salvador Dali

確かに,生得説を直接唱えている言葉だ. Pinker の主張するように,今でも,「人間が生まれつき持つ能力」を否定し続けている 人たちがいる.考えてみると,コネクショニズムだって, ニューラルネットだって,PDPだって, 究極的には刺激と反応から学習されるメカニズムにすぎない(違っていたらすいません). しかし,特定の遺伝子情報が発現し, それに従って人間の学習もコントロールされると考えると,もっと違った人間観が生まれるのではないだろうか?
それにしても,一方では非常に著名な哲学者,心理学者,社会学者,文化人類学者,言語学者などが, どれほど偏見に満ちた人間観を持っていたのかを知ると (=引用によって読まされると),呆れてしまう. でも,これがなかなか面白いところでもある.行動主義者に関するジョーク(P.19)は, 思わず一瞬考え込んでしまったが,観察可能な「刺激と反応」が外にあることを思い出せば, すぐに解けるものだ.さてさて,A Ghost in the Machine という考え方は,現代科学によってどのように否定されるのだろうか? (A Ghost in the Shellではありません.) 秋の夜長に読む本としては,最適でもあるが,寝不足の日々が続きそうな気配である.


ABC・DEトリック:日本とドイツの戦争責任 (2)  [09/24/2005]

「荒れ野の40年:ウァイツゼッカー大統領演説全文 1985年5月8日」の後に, 同じく岩波ブックレットで,『<<荒れ野の40年>>以後』(宮田光雄著) (No.652) が出ている.この本は,演説以後の 論争をまとめてはいるが,基本的にウァイツゼッカー大統領の評価を下げるもの ではない.また,この演説の裏を読むほどの調査を行なったわけではない. しかし, 木佐 芳男著『<戦争責任>とは何か: 清算されなかったドイツの過去』 中公新書 1597, (2001)は,著者が地道な取材を積み重ねた成果であり, ウァイツゼッカー大統領の演説が,実はそんなに 手放しで賞賛できるものではないことを示唆している.
木佐 芳男氏は,読売新聞社の特派員としてベルリンに滞在していた経験もあり, その後,フリーとなって独自の取材のもとに,『<戦争責任>とは何か: 清算されなかったドイツの過去』 を書き上げた.サブタイトルにあるように,実は, ドイツも清算しきれていない過去を背負っている.しかし,なぜ 「ドイツはちゃんと過去を清算した」国だと国際的に高く評価され, 日本は「未だに過去を清算していない」国に分類されてしまうのか. この問題に見事に答えを出しているのが,この本だと思う.
ごく簡単に論点を2つにまとめると,
(1) 「ナチス」(Nazis は,Nazi の複数形, NaziNationalsozialist の短縮形)= 「戦争責任を負うべき主体」という考え方は間違っている. 実は「ナチス」の定義は曖昧で,非ナチ化 (Denazification, Entnazifizierung) することで,多くのドイツ人が戦争責任をのがれてきた(DEトリック).
(2) 戦争責任とは, (A)平和に対する罪(侵略戦争を共謀,遂行した罪), (B) 通例の戦争犯罪(民間人や捕虜の虐待・殺害,略奪,軍事上不必要な都市破戒など), (C) 人道に対する罪(政治的または宗教的,人種的理由にもとづく迫害行為など) に分かれ(ニュルンベルク裁判),日本人にとっての戦争責任に対するイメージは, この(A),(B)に, ドイツ人にとっての戦争責任のイメージは(C)になっていることを指摘している.(P.117, P.140)
ドイツでは,(A),(B)に関しての戦争責任が,それほど問われないままに推移した. さらに,1970年ヴィリー・ブラント(当時西ドイツ)首相による 「ゲットー記念碑前でのひざまずいての祈り」(ポーランドのワルシャワにて) の効果や,1985年のウァイツゼッカー大統領演説によって, (C)があまりにも強調され,評価されてしまった.しかし,その実,人道に対す る罪ですら,この2人の政治家の対象となったのは,「ホロコースト」であり, 「ユダヤ人への迫害」でしかなかった,としている.これで,木佐 芳男氏の言う, 「ABC・DEトリック」の完成である.このトリックにより,ドイツの戦争 の責任が,広く評価されているのは,ある意味で皮肉である.
もちろん,日本は戦争責任というレベルで,(A),(B)レベルを認識し, 誠実に対処してきたわけではない.また,(C)を理解している政治家は, おそらく皆無であろう.結果として,ドイツも日本も, まだまだ戦争責任を本来の意味で認識してはいないし,償いは終わっていない.

ちなみに,木佐 芳男氏は,2001年頃は, http://www.RAB-TIMELY.netを運営し, ウエブマガジンを刊行していたが,今では残念ながらネット上に見当たらない.
木佐 芳男氏の指摘するように,本当の意味での「ドイツ人の犯したすべての罪 を明確に(ポーランドに対して)認め謝罪した」(P.229)演説は, 1994年8月1日にローマン・ヘルツォーク(Roman Herzog)大統領がワルシャワ訪問を記念して行なったものだろう.  

ドイツ歴代大統領のスピーチは, http://www.bundespraesident.de/ から検索できるが, ここでは,ベルリンの ドイツ歴史博物館 (Deutsches Historisches Museum, Berlin) のサイトにある ヘルツォーク大統領の演説(1994年8月1日)にリンクしておく. ローマン・ヘルツォーク大統領の演説は,1985年のウァイツゼッカー大統領の演説と比べて, はるかに短く,感動を誘うような美辞麗句もない. しかし,そこにはナチスだけを悪者にするような姿勢も, ドイツ人も被害者だったという意識の発言も含まれていない.簡素な言葉の中に, 謝罪の本質がある.原文をお読み頂きたい.
戦争責任の話になると,「戦勝国だって悪いことをした」という声が聞こえてくる.もちろん,その通り. 戦争は,基本的に「悪」であり,最悪の「解決手段」である点は変わらない. しかし,ひとたび加害者となって謝る時に,「本当はあの人が一番悪いんだ」とか, 「私も被害者なのよ」とか,「あなたも悪かったでしょ」と言ったら,謝罪にはならない.


「考えないヒト」になるもう1つの方法  [09/14,09/16/2005]

古くは,R. Stallman Guy L. SteeleThe Hacker's Dictionary. (1984)にも登場するコンピュータ端末上の絵文字. その名も,emoticons. 感情表現を文字で行なうのを補う機能があるとの認識から, このような名前がつけられたものと考えられる. そのなかでも比較的よく知れれたものが, Cornelsen という出版社からもらったマウスパッドに印刷されていた. emoticons とその日常言語への翻訳(英語と ドイツ語)を以下にあげておく.
こうして見てみると,ほとんどが人間の顔の表情を模写したもので, 横向きになっているのがその特徴と言えそうだ.以前に紹介した, 正高信夫氏(京大霊長類研究所)の 『考えないヒト:ケータイ依存で退化した日本人』(中公新書 1805) では,これらのemoticons の日本での発達と, 独自の「顔文字」に対して,興味深い解釈をしている.

     :-)          - happy               (glücklich)
     :-D          - laughing outloud    (laut auflachend)
     :-@          - screeming           (schreiend)
     :-o          - shocked             (schockiert)
     :-~)         - caught a cold       (erkältet)
     :-x          - little kiss         (Küsschen)
     .-ll         - angry               (wütend)
     :'-(         - crying              (weinend)
     :'''(        - floods of tears     (Tänenflut)
     :-/          - sceptical           (skeptisch)
     :-{}         - wears lipstick      (trägt Lippenstift)
     8-)          - wears glasses       (Brillenträger)
     *-)          - stoned              (stoned)
     '@___        - snail mail          (Schneckenpost)
     @,-'-,--     - rose                (Rose)
    

正高氏は,現代人の「語用論的能力が衰退している」 という主張をしていたが,それと同時にこれらのemoticons(顔マーク)が, 日本のケータイ文化の中で独自に発達し,多用されていることを指摘している. これも現代日本人がサル化している1つの兆候と見ている. 正高氏自身の説明を引用する.

 それに対し,顔マークがユニークなのは, もう言語という抽象的表記スタイルを捨て去ったという点にあるだろう. 人間の表情を直接に具現化して用いている.アイコンと呼ばれるのは, シンボルと異なり,指示対象と記号との対応が恣意的でないからに他ならない. スマイルマークは無条件に好意の表れであって, これを悪意の表明と関係づけることは絶対にできない. シンボルより,一段レベルの低い次元で認知情報処理される代物に他ならない.

 そして現代日本において,人間はシンボル使用に踏みとどまって, メッセージのやり取りを交わすのを放棄し, 一レベル水準を下げたやり方へと移行を始めたのである.くり返すが, メールというコミュニケーションツールが最初に開発されたのは, 欧米においてである.ケータイメールが普及しているのは日本ばかりでなく, むしろ世界でもっとも普及しているのは北欧である.それなのに, アイコンは日本人のみが多用している.そこには漢字文化の影響もあるだろう. しかし,コミュニケーションは確実にサル化の方向へ向かいはじめた気が私にはする.
(正高信夫『考えないヒト:ケータイ依存で退化した日本人』(中公新書 180, P.52)

正高氏は,このすぐ後で,日本語が表意文字を使っていることとの関連から, 顔マークが日本で流行することを「コミュニケーションの低次元化と一概に呼ぶのは暴論」 であると認めているのだが,1つの思い切った論理ではある.

言語学的立場から見ると,ソシュールによってクローズアップされた 「言語記号の恣意性(arbitrariness)」という概念が, 近年,認知言語学的観点から,図像性(iconicity) という概念で補完されている.実は,言語記号(さらには言語構造にも?)には, アイコン的な性格もかなり広範囲に存在するのではないか, というのが1つの重要な認知言語学的観点になっている.ここでは, 恣意性 vs. 図像性(アイコン性)という図式があるのだが,正高氏は, アイコンを「一レベル水準を下げた」言語形式と捉えたところが面白い.

もちろん,一対一対応のある記号形式が, 必ずしもレベルの低いものと断言できるわけではない.言語は, (擬音語・擬態語のように昔からアイコン性が高いものが存在することが知られているが) 恣意的な記号だけでできているわけではない.しかし,一方では, アイコンは,その使われ方から考えると, 確かに記号とその指示物の一対一対応を原理にしているわけだから, 抽象性が低いとも言える. 恣意的な記号を抽象的文法規則で操るのをやめ, アイコンにたよる言語形式を多用する傾向が本当にあるとしたら,それは, もちろんゆゆしき問題だろう.そして,突然思い出す.「改革」,「郵政民営化」. これらの言葉も,実は,もうリピートすることで有権者にとっては, あたかもアイコンと同じようになってしまったのではないか? 抽象的な意味内容を失い, レッテルだけが一人歩きする.残されているのは,[kaikaku], [yuuseimin'eika] という音とそれに対応する「投票行動」だけ. 単純なアイコンと化した音声は,確実に人々の脳に刷り込まれ (imprint) て行ったのかもしれない. これらの言葉は,コンピュータの画面上のアイコンと同じく, クリックする対象でしかなかったのでは,と思えるのだが…. そう,[「考えないヒト」になるもう1つの方法]とは, 「恣意的な記号を抽象的文法規則で操るのをやめ, アイコンにたよる言語形式を多用する」ということ. 「(考えないで)アイコンをクリックするだけ!」というのは, 人間をとてつもなく退化させているのかもしれない :- @


日本とドイツの戦争責任 (1)  [09/06/2005]

例年繰り返される,8月15日に向けてのマスコミの<戦争に対する報道特集>が終わり, いわゆる「戦争責任」のお話は,来年までマスコミにはほとんど登場しない状況に戻ったようだ. それにしても,日本の戦争責任問題は,ドイツの問題と比較対照されて報道されることが多い. そしてその論調は,ほとんど常に, 「ドイツは謝って,周囲の国からそれが評価されているが, 日本は謝っているのに周囲の国から評価されていない」という一点に集約される. 果たして本当にそうなのだろうか?そんな疑問を常日頃から持っていたのだが, 今回,仲正昌樹著 『日本とドイツ:二つの戦後思想』(光文社新書213)を読み,その疑問が一部,晴れたような気がする.
ナチスドイツとホロコーストという過去を背負って戦争責任を追求された(西)ドイツと, 加害者でありながら,被爆国としての被害者意識が強く, 天皇制が完全には消滅しなかった日本とでは,当然,戦争責任に対しての意識は異なる.  仲正氏は,戦後(西)ドイツで起きたさまざまな論争を時代を追って説明していて, そのあたりの知識が不足していた私にとっては,とても参考になった. 「無いものねだり」ではあるが,(西)ドイツでは,哲学者のカール・ヤスパース (Karl Jaspers) が1946年に 「罪の有無の問題」 (Die Schuldfrage: Von der politischen Haftung Deutschlands. (Erstausgabe Heidelberg 1946), München 1987) を発表している. そこでヤスパースは, 「各人が負っている可能性のある『罪』の内容をはっきりさせるために」, (1) 刑法上の罪,(2) 政治上の罪,(3) 道徳上の罪,(4) 形而上学的な罪, という4つの罪概念を区別している. これらの説明は,同書の37ページ以降,あるいは, Geschichte im Netz - Geschichte aus dem Netz のドイツ語の簡単な解説を参照して欲しい. このような議論の出発点となる「罪」概念の区別は, その後の(西)ドイツでの戦争責任問題に対して,多大な影響を与えている.残念ながら,日本では, このような議論の出発点は提示されてこなかった. また,1985年のヴァイツゼッカー大統領の 「荒れ野の40年: ウァイツゼッカー大統領演説全文 1985年5月8日」 (この「荒れ野の40年」というタイトルは,和訳した時につけられたもので, 講演のタイトルではない. 税込みでたった504円なのでぜひ読みましょう!)に対応するような,日本の政治家の演説はない. オリジナルのドイツ語版の原稿は, Zum 40. Jahrestag der Beendigung des Krieges in Europa und der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft. と呼ばれており,例えば ここのサイト で今すぐ読めてしまう. (ドイツ語で読める人は,言葉の重みを直に感じることができる.なお, 仲正氏は,5月20日の演説と説明しているが(P.42),5月8日の誤りだろう.) 社会風土的な違いはあるにせよ, 政治家が真剣に,アジアに対して日本が戦争加害者である「罪」を背負っていることを自覚し, その「罪」の種類と原因を1つひとつ解明し, その原因を積極的に除去するという意思と計画を表明して実行に移すことは, 日本では考えられないことなのかもしれない.
折しも,連日マスコミは,衆議院選挙関連のニュースを流しているが, <原因・理由の説明のないままに「郵政改革」,あるいは 「郵政改革に反対する」ことを訴えたりする>政治家の態度は改まっていない(公務員削減とか, 特殊法人の廃止とかを理由として述べるのなら,具体的な数字を出して, どのような実情なのかを分かりやすく説明する義務が常に あるが, そのような議論をする候補者はほとんどいないし,有権者もきっと聞こうとしないのが, 日本という国なのかもしれない.イメージがほとんどすべてで,イメージだけが先行する).
第2次世界大戦以後の日本とドイツの社会思想の流れは, 表面的なトレンドが同じように見えても,その中味は大きく異なる. また,戦争責任に関する対外的な圧力も全く違う. だから,単純に,「ドイツは謝って,周囲の国からそれが評価されている」 などとは言えないのも事実なのだ(未だにドイツの罪が, 全面的に赦されているわけではない). そんな中で, (西)ドイツのさまざまな知識人たちの論争は実に深い議論を含み,興味がつきない. また,同書が試みている日本の戦後の社会思想史に関する解説も, これまで類似のものを読んだことがなかったので,面白く読んだ(細部に関しては異論のあるところもあるが). 日本の左翼的思想と右翼的思想の背後にあるもの, その根は思っていたよりもずっと深く,ねじれたもののようである.
● 「(東)ドイツ」の戦争責任というのも,これまで日本ではほとんど紹介されてこなかったテーマである.
●● 木佐 芳男著『<戦争責任>とは何か: 清算されなかったドイツの過去』  中公新書 1597, (2001)が,ドイツ戦争責任問題をもっと徹底して扱っている とか.次は,これを読みましょう.


<考えないヒト> vs. <かんがえるカエルくん>  [08/29/2005]

正高信夫氏(京大霊長類研究所)の 『ケータイを持ったサル』はかなり話題になったが, 先月発売になった同氏の 『考えないヒト:ケータイ依存で退化した日本人』(中公新書 1805) の方が,私にははるかに面白かった. 社会のIT化が進むにつれて,ますます現代人は「考える」 ことをしない方向に進んでいると日頃から身をもって感じていたせいかもしれない. この手の本としては,ジェーン・ハリー著『滅びゆく思考力: 子どもたちの脳が変わる』(大修館書店:1992)があるが, 和訳の際にかなりカットされているのか,実証性の乏しい印象を受けた. それでも,内容的にはかなり納得のいく論旨だった. 『考えないヒト』をどう証明し, どのように説明するつもりなのかにまず興味があったのだが, 意外なことに言語(ことば)の使い方から切り込んでいる.
簡単にいってしまうと,現代人は「語用論的能力が衰退している」 というのだ.意外な人から,意外な所で言語学の概念を持ち出されて, たまげてしまった.以下,肝心な部分を引用する:

つまり言語理解というのは,意外なほど記号的でなくて, 反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する) 過程であることがわかる. むしろサルの方がよっぽど厳密に記号類別に依拠して情報伝達を行っているのだ.
(正高信夫『考えないヒト:ケータイ依存で退化した日本人』 P.46)

背景として,サルもメッセージを記号として把握することはできる, という事実観察があり,人間の言語理解が,実は「過去の経験にもとづいて, ことばの意味理解を変えていく」ところに特徴がある,と正高氏は考えている. このことを具体的に立証するためにさまざまな例が本書には登場するので, 詳しくは自分で読んでみてもらうしかないのだが,結構,私は説得されてしまった.

<言語を記号として捉える> というソシュールの考えからスタートした現代言語学だが, こと言語理解を考えると, まさにここで述べられている語用論的能力が言語を通してのコミュニケーションの基盤にあるように思える. そしてそれこそ,人間を人間たらしめている大きな部分に他ならない.

同書に紹介されているカエルくんは,逆にちゃんと考えている, というコントラストも面白い. いわむら かずお著『かんがえるカエルくん』(福音館書店: ISBN 4-8340-1394-4)という絵本に登場するカエルくんとネズミくん(?)は, 「他者との関係で自己が規定される」という問題をみごとに解いている, というのだ.実は,1996年にこの絵本が出たときに,私はすでに購入していた. みんなに薦める絵本,なんていっても大人は見向きもしてくれないか, と思い,自宅の本棚に眠っていた.あらためて読み返してみると, なんか「かんがえる」の連発で, 昨日紹介したドイツ語の早口言葉を思い出してしまった(苦笑).


奇怪なデンマーク語の数詞  [08/24/2005]

フランス語の数字の読み方に文句をつけた人が裁判で訴えられていますが, 数字の読み方なんてものは,慣れの問題です.普段, 無意識に口をついて出てくるもので, 意識して母語の表現構造なんて言語学者でもなければ考えないもの. でも,世の中にはすごい表現があるもので, 噂のデンマーク語の数詞の構造を調べてみました.なにしろ,90を, 「<半分5>かける20」と表現し,<半分5>が 4と1/2 を 表わすというのです.これは,放っておけません.続きはこちら


Harry Potter 第6巻  [08/20/2005]

帰国する直前の空港で, Harry Potter and the Half-Blood Prince(第6巻, 2005年7月16日発売,イギリス版) を購入した.この巻からは,大人用 (?)の装丁を出版社である Bloomsbury が用意した(アメリカの出版社もアダルト版!を用意したらしい). そこで今回は,この装丁の本を購入してみた. どう違うかというと,表紙に派手な Harry の絵がない. 第6巻の大人用(?)の表紙は,Libatius Borage 著のAdvanced Potion-Making という(仮想の)本. この本は,魔法薬の授業の教科書なのだが,This Book is the Property of the Half-Blood Prince と書かれていた古い本のイメージなのだ.あたかも実物のぼろぼろの古い本を写真でとったような感じで, なかなかよい (アンティーク製品を新しく作り出すという商売をしている人達がイギリスにはたくさんいるらしいので, 実物を作って,写真に取った可能性が高いような気もする). 裏面は,著者の J.K. Rowling が本棚の前でラフな姿で微笑んでいる写真.
帰りの飛行機の中から読み始めて,ようやく読みきった.第5巻(イギリス版,総ページ数:766)に比べると, 厚さもそれほどではなく(総ページ数:607), 第6巻の方が読みやすいと感じた.魔法ですべてが解決する訳ではないし, 全能全知の魔法使いもいないことを強く意識して書かれていることを感じた. 全体としては,果てしなく暗い世界で,一方でいじめられながら,一方で英雄的に悪と戦う姿, これが Harry Potter なのだろう.
今回のタイトルに登場する the Half-Blood Prince の正体は,本の最後の方まで読み進まないと分からない. Dumbledore の◯◯で終わる第6巻では, Lord Voldemort の新たな正体(実体)が明かされるが, それと同時に R.A.B. というサインのある置き手紙が新たな謎を呼ぶ.さて,この R.A.B. とは誰なのだろう?

気になること:
* 日本語版のタイトルは「ハリーポッターと混血のプリンス」に決定.さていつ出版されるのか?
* ドイツ語版のタイトルは,Harry Potter und der Halbblutprinz で,2005年10月1日発売予定. (Carlsen Verlagのサイトでは, 例によってカウントダウンをしていて,ドイツ語版の表紙が見れる.)
* Harry Potter シリーズのイギリス英語の語彙(例えば,blimey, rubbish, snog とか)が, アメリカ英語を母語とする子供達の英語に影響を与えないだろうか??